買い物にでも行こうとして家を出た。ドアを開けた瞬間、白いものが視界を横切っていたのが見える。
 雪、だ。
 もうそんな時期なんだ。ふと、ささやかな感傷を持って、外に出る。
 そこには、見知らぬ男が立っていた。
「どちら様?」
 身なりは悪くない。むしろいい。スラムにいるような人間ではない。
 けれど、何か悪いことをしに来たようには見えない。気配はまるっきり普通の人間のものだ。
 警戒三割、好奇心七割で小首を傾げて聞くと、その男は言った。
「あなたが、ナツミさんですか?」
「そうですけど」ナツミがそう答えると、その男は(というよりは、少年と言ってもいいのかもしれない)ナツミに近づくと、いきなり手を握ってきた。そのまま過剰なくらい上下にぶんぶんと振る。「……ええと」
「サイジェントの英雄にお会いできるなんて、光栄です!」
「はい?」





『big bad bingo』





 彼がナツミに渡したものは、手紙だった。散々おだてられて苦笑いしながら、ナツミは家の中に戻る。――まあ、悪い気はしないけれど。
 台所の椅子に座って、手紙をひっくり返す。彼は騎士団に所属している新米の騎士だといっていた。わざわざ騎士団が持ってくるような手紙。いったいどんな内容の手紙なのだろうか。
「……これ」
 差出人は、聖王都、青の派閥。議長であるグラムス・バーネットの署名がある。ナツミはペーパーナイフで手紙を開封すると、紙面に目を通した。十秒間それをじっと睨みつけて――がっくりと肩を落とした。
「……む、むずかしいぢゃないの」
 古語的な表現や難解な言い回しで綴られた文章は、まるで異世界の文字のように見える。通常の読み書きはなんとかこなせるようになったナツミも、さすがにこれは荷が重い。それでも、何か大事なことが書かれてあるのはわかるので、分かる単語を拾い読みする。「えっと……このたび……総帥……ルヴァイド……の、身柄を……青の派閥……迎えの人員……」
「ナツミ?」
 頭上から降ってきた声に、ナツミは天の助けとばかりに振り向いて、手紙をその声の持ち主に押し付けた。いきなり手紙を押し付けられた当の彼女――クラレットは目を丸くしている。
「クラレット、それ読んで!」
「自分で読まないと勉強には――」クラレットはそう言いかけて、紙面に目を落とすと、それ以上の言葉を発しなかった。クラレットの目が手紙の上を滑る。
「内容は?」
 クラレットは唇を引き結んで、手紙をナツミの手に戻した。「ルヴァイドさんとイオスさん、二人の処遇が決定したそうです」
「なんて?」
「当分は、青の派閥の監視の元で。派閥の私兵のような任務を持たされるようです。そこでの勤務態度により今後の処遇を決める、と」
「つまり、極刑はなしだ、ってことね?」
「そうなります」
 ナツミはため息を吐いた。フクザツだ。けれど、まあ、これでも良い方だろう。問答無用で極刑になってもおかしくはないのだ。なにしろ、デグレア無き現在、責任というものの持っていける場所はあの二人だけなのだから。
 加害者であり――被害者でもある。
「……騎士ってさ」
「はい」
「不器用だよね。ウチの騎士様も、ルヴァイドも。シャムロックって言ったっけ? あのおにーさんも」
「楽なんですよ」
「え?」
「何かに所属して、ただ流されているのは。自分で何が正しいかを考え、道を模索して、誰の足跡もない道を歩いていくのに比べたら」
 私だって同じです。クラレットは言った。
「誰も彼も、ナツミ、あなたのように強くは在れません」
「……あたしは、突っ走ってただけだよ」
「それができないから、みんな迷うんですよ」
 ふわり、と。蕾が綻ぶように、クラレットは笑う。
「あたしが強いっていうなら」ナツミも笑い返して、椅子から立ち上がった。「クラレットやみんながいてくれるからだよ。あたし一人じゃ何にもできないもん。――ルヴァイドたち、どこにいるかな?」
「部屋か、そうでなければ外でいつものように訓練しているのではないですか?」
 ナツミは軽く肩を竦めた。「ルヴァイドもまだ怪我治り切ってないのにねぇ。無茶するよ」
「……ナツミほどじゃないでしょうけど」
「なんか言った?」
「いいえ」
 ぷうっ、と頬を膨らませて、ナツミは台所を出て行く。どうしようか少しだけ悩んで、――悩むふりをして、クラレットもその後に続いて台所を出た。
「あたしが変わってるんじゃないと思う」
 彼らにあてがわれた部屋は無人だった。たぶん外、スラムのどこか人気のない場所にいるのだと思う。彼らを探して歩きながら、ナツミはぽつりと言った。
「立場とか、そんなものに惑わされて分からなくなっちゃうんだ。本当に大切なものは、いつだってすぐ傍にあるってこと」
 あるいは、自分の中に。
 クラレットはただ、頷いた。

 でもね、ナツミ。
 それを分かっていて、迷わずそれを求められるあなたは。
 やっぱり、変わってる。

 口には出さずに、クラレットはそう思った。それを考えたら、知らず知らず、唇の両端が上がってしまう。ナツミがそんなクラレットを見て「何?」と訊いた。クラレットは「何でもないです」と答えた。
 口にしなくてもいい。
 ちゃんと心に留めておけば、それだけでいいことなのだから。
「それと」
「何?」
「彼らを連行するのに、派閥からトリスさんとネスティさんが派遣されるそうです」
「わぉ。久しぶりに会えるねー」
 ナツミは嬉しそうに、ぱちんと指を鳴らした。


 スラムの誰もいない区画に、三人はいた。イオスが槍を振っていて、ルヴァイドがその型を見ているようだった。少し離れた場所に、ゼルフィルド。彼が一番最初にナツミたちに気付いた。顔を向けるゼルフィルドに、ナツミは人差し指を立てて唇に当てる。言わないで、のサイン。
 そのままで、ナツミは足音を立てないようにゼルフィルドの傍に行く。クラレットはまたなにかやらかすのではないか、という不審を隠そうともしないでついている。
「や、ゼルフィ君」
「……ナニカ?」
「んにゃ、別に。雪も降り出してるのにがんばってるなーって」
 ナツミはゼルフィルドの隣りに座って、訓練を続ける二人を眺めている。イオスの手にしている槍が、まるで魔法でもかけられたような滑らかさで、回転し、突く、薙ぐ、を繰り返す。そのうちに、ルヴァイドが立ち上がった。剣を抜き放つルヴァイドに、イオスが打ちかかっていく。二人の周りで雪が不規則に舞っていた。
「……面白そう」
「ナツミ?」
「ちょっと行ってくる」
「誓約者ドノ?」
 二人が止める間もなく、ナツミはひょこひょこと気楽そうに二人に近づいていく。打ち込みをしている二人がナツミの接近に気付いて動きを止めた。
「……何だ?」
 親しみなど一ミリグラムもこもっていない声でイオスが言う。ナツミはそれを気にした風も無く二人に近づくと、イオスを、正確にはイオスの手にしている槍をまじまじと見た。
「ねえ」
「だから何だと言っている」
「ちょっと、やらせて?」
「はぁ?」
「くるくる回ってるのがかっこいいなー、って。どうやんの? ちょっと教えてよ?」
「……ふざけてるのか?」
「とんでもない。マジよマジ。大マジ」
 憮然としているイオスに、それまで黙って二人の会話を聞いていたルヴァイドが吹き出すと、笑いながら言った。「イオス。やってみてもらったらどうだ?」
「ルヴァイド様……!」
 イオスが抗議の意をこめてルヴァイドの名前を呼ぶが、ルヴァイドは気にした風もない。やらせてみろ、と。その態度が言っている。イオスはしばらく逡巡した後、恐ろしく嫌そうにナツミの方に槍を放って寄越した。ナツミはそれを両手で受けとめたが、その重さによろけてしまう。
「うわ! 重っ!」
「……穂先は潰してあるが、その他は重さも、重さのバランスも戦闘で使っているものと同じだ」
 嫌そうな口調のまま解説をするイオスに、ナツミは頷く。くるんと槍を回して、構えの姿勢をとった。
「槍を使ったことがあるのか?」
「今初めて持った」
 ほう、とルヴァイドが吐息を漏らす。イオスはよりいっそう渋い顔になった。「イオスの構えにそっくりだな」
「さっきから見てた」
 ルヴァイドが剣を持って立ち上がった。打って来い、という意思表示。ナツミは槍を突き出した。穂先がルヴァイドの剣に弾かれる。弾かれた勢いを殺さずに半回転して、槍の柄をうちつける。
 三合ほど打ち合うと、ナツミの動きが急速に鈍った。バックステップして距離を取ると、どん、と槍の柄を地面についた。
「……重い。よくこんなので戦えるよね」
「おまえが非力なだけだ」
 槍をイオスに手渡すと、ナツミは両腕を振った。何回か手を握ったり開いたりする。
「そうだね」
 ナツミはあっさり頷くと、ルヴァイドに向き直った。クラレットとゼルフィルドが歩いてくる。ナツミはポケットから手紙を出してルヴァイドに渡した。ルヴァイドは手紙を手に取ると、ゆっくりとそれに目を通した。読み終わると、イオスに渡す。イオスは眉間に皺を寄せて、それを読んだ。
「そんなわけで、近いうちにトリスとネスティ君が来るんだって。その手紙はそっちで持ってて」
「……ああ」
「頑張って、お勤め果たしてらっしゃい。せめて……自分で自分を赦せるように」
「赦しなど、必要ない」ルヴァイドが言う。能面のような無表情で。
 ナツミはそれを聞いて、顔を顰める。「なぁに、人生終わったー、みたいな顔してんのよ。いい? 人生ってのは終わらないの。どんなにもう『自分は終わりだ』って思うようなことがあっても、終わらないの。あんたが人生終わったと思ってても、そう思い込んだままで、続いていくの。わかる?」
 クラレットが口元を手で覆った。
 イオスが槍の穂先のように鋭い目でナツミを睨んでいた。
 ルヴァイドが一度目を閉じて、開いた。
「それはある意味死ぬより辛いことだけど、逃げ出したって同じ。どこまでだって続いてく」
 何回ルーレットを回しても出てくる、最悪の当たり目。
 けれど、そこで全てが終わってしまうほど、世界は優しくなんてないから。
「……怒っても、いいよ」
「何故だ?」
「あたし、酷いこといってるもん」
「正論だ。……正しい」ルヴァイドは言った。「俺が怒る理由など、ない」
 クラレットが、傍にいる。ナツミはクラレットの肩を抱いた。
「ナツミ」ルヴァイドが言う。「おまえは……自分を赦せているのか?」
 ルヴァイドが知っているはずはない。ひょっとしたら誰かに聞いたのかもしれないという可能性はあるが、たぶん、話してしまう人物などフラットにはいないだろう。それでも、ルヴァイドは気付いたのだろうか。
 ナツミはバノッサのことを思った。
 彼の命を奪ったあの瞬間のこと。手にしたサモナイトソードが肉を割って彼の体に滑りこみ、熱を奪い去ってしまったあの瞬間のことを。
 もう終わったのだと思った。
 彼の命と世界は、ナツミの中でイコールで結ばれているのだと、ずっと思っていた。自分のとっての世界はもう終わってしまったんだと思った。
 でも。
 少しだけ色褪せてしまった世界は、変わらずに続いている。
「わかんない。今はその途中……かな? クラレットと二人で、頑張ってるよ。頑張っていくよ」
「……そうか」
「じゃあ」ナツミは言った。「あたしたち、先に戻るね」
「ああ」
「ゼルフィ君、こんどお昼寝付き合ってね」
「……アア」
「イオス、槍、ありがと」
「別に、僕は何もしていない」
 ナツミとクラレットは手を繋いで、その場を後にした。歩いていく。何処に辿り着くのか――二人にはまだ見えない。

 ルヴァイドはそんな二人を見送ってから、空を見上げた。自分に向かって降ってくるような雪。徐々に視界を埋めるそれが、増えていく。
「イオス」
「はい」
「おまえは俺に、終わりを与えてくれるか?」
「それをお望みなら」
 ルヴァイドはイオスの答えに苦笑いをすると、ゆっくりと歩き出した。
 雪がとけて。
 いつか春が来る。
 そんな当たり前のことを、信じてみてもいいのかもしれない。そうルヴァイドは思っていた。