季節は秋。
 夏の熱気が過ぎ去り、風に涼しげなものが含まれ始めている、そんな時期。
 聖王都ゼラム。その商店街の一角にある服飾店。
 そこから、四人組の女性が連れ立って出てくるところだった。



『Colour field/青春はいちどだけ』



「うーん、パーフェクトねぇ」
 そう言ってミモザは自分のセンスに満足したようにうんうん、と頷く。その視線には心持ち体を縮めている彼女の後輩にあたるトリスがいる。そして、当のトリスはというと、着慣れない服装にひたすら戸惑っていた。落ち着いたブラウンの配色のシャツに、膝上のスカート。足元は少しヒールのあるブーツ。そして、柔らかい色のジャケット。
 同姓とはいえ、女の子が可愛らしくなる瞬間というのは見ていて楽しい。それが普段から可愛がっている後輩ならなおさら。そんなことを考えながら、スカートの裾を気にしてずっと引っ張っているトリスに微笑みかける。――何故か、その笑顔にトリスはちょっとだけ怯えた様子を見せたりもしたが。
「ナツミももうちょっと可愛いの選べばよかったのにー」
 ミモザ同様、満足げな顔をしたミニスが言う。それを聞いて、ナツミは肩を竦めた。二人におもちゃにされているトリスをギセイにするような格好で一応自分の安全だけは守り通した。トリスが恨みがましそうな目をしているが、ナツミはあえてそれに気付かない振りをする。
「いやいや、じゅーぶんよ。ありがとね、ミニス」
 ナツミは来ていた黒のブルゾン(リィンバウムでそう呼ぶのかどうかはわからないが)を脱ぐとそれを片手に持ち、ばさりと肩にかけた。その下には真っ白なシャツに、ジャケットと合わせた黒のスラックス。首元にはシンプルなシルバーのアクセサリーが揺れている。一見少年のようであり、けれど雰囲気や体のラインは少年のものではない。
 スポンサーとしてはもう少し可愛い格好をさせてみたかったミニスは少しだけ不満そうに、でもこういうのの方がナツミには似合っているのかもしれない、とも思って笑った。
「……うう〜……」
 トリスは三人を順番に見て散々迷った挙句、ナツミの背中に隠れるように移動した。ミモザとミニスにはお店の中で散々おもちゃにされた恐怖が残っているのだろう。
「なにしてんの、トリス?」
「だって……こんな格好、恥ずかしいよぉ……」
「可愛いって」
「嘘だぁ」
「可愛い」
「嘘」
「かあいいってば」
「うーそー」
 堂々巡りになっている会話にミモザとミニスが笑い出す。
 ナツミはそんなトリスを見て、笑いかけた。その笑顔に、トリスはナツミのシャツの裾を握ったまま体を引く。そんなトリスの腕を掴まえで、ナツミは歩き出した。
「わわわ、ちょ、ナツミ!?」
「ちょっとその辺歩いてみようかー?」
「ヤダヤダ、ヤダってば!」
「はいはい、行こうね、トリス。新しい世界が待ってるよー」
「そんな世界、いらないよぉー!」

 ナツミにずるずると引き摺られていくトリスを見ながら、ミモザとミニスは顔を見合わせる。
「ちょっとは」
「女の子らしくなってくれるといいんだけど」
 そう言って、共犯者の顔で笑い合った。



「むぅ〜……」
「ナニむくれてんの?」
「だって……こんな格好……」
「可愛いって言ってるのに」
 ようやくにして、ナツミの服の裾を掴まずに歩けるようになったトリスは、それでもぷちぷちと文句を言っている。
「すーすーして、落ち着かない」
「慣れだよ、慣れ」
「……他人事だと思って……」
「他人事だもの」
 恨みがましく言うトリスを、さらりとかわす。にっ、と笑うと、トリスもそれ以上の反論を無くして黙り込んでしまう。
 通りには人が溢れている。あちこちで損傷した壁などが見えるが、行き交う人の顔は概ね明るかった。誰もが、空気で分かっている。デグレアの侵攻は止まったし、その影にあった悪魔ももういない。
 よかった、とナツミは思った。
 平和のために、で戦うことはできないけれど、大切な人のために戦うことがこういうものを守ることにも繋がるのなら、悪くはない。
 歩いていると、すれ違う人達がちらちらと視線を向けてくる。たぶん、トリスが可愛いからだろうとナツミは思う。思うことにした。すれ違った、着飾ったご婦人から「あら、可愛いカップルね」なんて言葉が聞こえたような気がするが、それは気のせいだろう。たぶん。きっと。気のせいだと思いたい。というか思わせて。
「さあて、まずは誰から会いに行こうか? トリスは『この人には見せたいぞ』ていう人いる?」
「は?」
 トリスが足を止める。ナツミの今言った言葉が理解できない、という風に目を丸くしている。三秒間そうやって固まっていた後、やっと理解できたのか顔を真っ赤にしてくるりと踵を返した。
「帰る」
「お待ち」
 間髪入れずに、ナツミはトリスの腕を掴まえた。その手を引き剥がして逃げようとするトリスを必死に捕まえる。
「こんな格好ネスに見られるくらいならゲート開いてサプレスまで逃げるー!」
 無茶なことを大真面目に言いきるトリス。けれど、その言葉を聞いて、ナツミは笑った。大層楽しげに。
「ネス、ね」
 しまった、とでも言いたげにトリスは口を押さえた。けれど、時既に遅し。ナツミはにやにや笑いながらトリスに詰め寄る。
「んんん? なんでそこでネスティ君が出てくるのかなぁ〜?」
「な、ナツミだって、そういうオトコみたいなカッコしてればクラレットさんとお似合いじゃない!」
「ちょ、あたしとクラレットは別にそんな――!」
「そんな?」
 意地悪くトリスは揚げ足を取るように訊きかえす。
「よう、二人とも見慣れない格好してるな?」
 聞き慣れた声が聞こえて、ぎょっ、とトリスは振りかえる。トリスよりは余裕のあるナツミはゆっくりと振り返る。そこには、長身でロングコートを羽織った咥え煙草の仲間がいた。
「レナードさん」
 ナツミが名前を呼ぶと、「おう」と彼は応じる。トリスはもう半分逃げ腰。そんな彼女を見て、レナードは煙草を口から離し、ふっと紫煙を吐くと、唇の端を持ち上げて笑った。
「どうしたトリス、そんな格好して?」
「あうう〜」
「隠れんでもいいだろう」
「だって、だって〜」
 レナードの視線から逃れようと、トリスはナツミの影に回る。ナツミは苦笑して肩を竦めた。
「なんでそんなに恥ずかしがるんだ?」
「さぁ?」ナツミは小首を傾げる。なんとなくわかるけど。
「ケーキ屋のアルバイトしてるときは似たような格好してるくせにな」
「そうなの?」とナツミはトリスに尋ねる。そうだけど、とトリスは答えた。
「似合ってると思うがな」レナードが言うと、トリスはおずおずと彼を見上げた。
「……ホント?」
「そんなことで嘘ついてどうするんだ」
「……ありがと」
 少し頬を染めて、トリスは俯いた。さすが、とナツミは思う。年季の入った男はオンナノコの扱い方も手馴れてる。というよりは娘に対するお父さん、という気がしなくもない。
「すまんがトリス」
「何?」
「ちょっと、ナツミと話がしたいんだ」
 そう言って、レナードは真剣な顔でナツミを見た。


 潮風が髪を揺らしていく。波がいくつもいくつも打ち寄せては、白い泡になって消えていった。その白い泡が、人魚姫を連想させる。彼の王子を助けようと、最後には正体を明かしてしまい、泡となって消えていった人魚姫。
「ほら」
 そんな空想を飛ばしていると、ナツミの前にカップが差し出された。それを受けとって、口をつける。
「……苦」
 一口飲んで、思いっきり顔をしかめた。まったくどこにも、ひとかけらの遠慮さえないブラックコーヒーだった。隣りに座ったレナードはそんなナツミを見て面白そうに笑うと、同じブラックコーヒーをとても美味しそうに飲み下す。
「そうしてると」レナードが不意に言った。「トリスと同じ、どこにでもいる子供なんだがな」
 トリスはレナードを見た。彼はナツミに目を向けずに、真っ直ぐに前を見ている。ゆっくりと、桟橋に船が入ってくる。ぎりぎりまで寄せて、タラップを取りつけると、そこから人がぞろぞろと降りてくる。
「最初見たときは、無理して明るくしてるように見えた。戦ってる時は、なんだか死にたがってるようにも見えたな」
「……正解」
 ナツミは苦笑いした。今手元にあるコーヒーよりも、ちょっとだけ苦い。
「戦って、ね」
「ああ」
「死ぬんなら、それも仕方ないって思ってた」カップを揺らすと、波紋が出来る。その渦巻きみたいな波紋を眺めながら、ナツミは言った。「だって、そうでしょ? 戦うってことは、どっちかが死ぬってことだもの。自分が死にたくなければ、相手を殺すってことだもの。当然、相手だってそう思って戦うんだもの」
「……そうだな」
 しゅっ、と音がした。オイルの匂い。ジジ、とレナードの口元で煙草の先端が燃える。煙草に火をつけてから、彼は「いいか?」と訊いた。ナツミはただ黙って頷いた。
「刑事の仕事ってのは」ふうっ、と紫煙が吐き出されて、消えて行く。匂いだけが残った。それは、どこか父親の匂いに似ている。「犯人を捕まえることだ。けどなぁ、掴まえるって気で挑んだんじゃ、逆に殺されちまうことだって少なくない。オレの最初のパートナーもそれで殉職してる」
「……レナードさん、刑事だったんだよね」
「ああ、ロスでな」
 ナツミは一度目を閉じて、開いた。
「聞かせてくれ、ジャパニーズ」ジャパニーズという言葉を、あえてレナードは使った。共通の事項を持つものとして。「――オレが帰る手は、あるのか?」
 ナツミはしばらく俯いて考えたあと、顔を上げてレナードを見た。真正面から、真っ直ぐに。
「ゲートはたぶん、開けると思う。でも、通り抜けられるかどうかは別。あたしもクラレットも一回は通ったけど、不確定要素が多すぎて、もう一回できるかって訊かれたら、わからない、としか答えられない」それに、とナツミは続けた。「世界を越えるためには、たぶん強い魔力が必要だと思う。レナードさんには――」
「魔力が、ないんだな」
「ないわけじゃないと思う。でも、あたしやクラレットはある意味『トクベツ』だから」「……そうか」
 レナードはフィルター近くまで燃えていた煙草を足もとに落として、靴で踏んだ。
「正直なトコ言うと、あたしとクラレットが一緒なら、通れるかもしれない。可能性はあると思う。でも、絶対じゃない。それに……今のあたしは、もう世界を越えられないかもしれない」
「どうしてだ?」
「あたしは、召還されたわけじゃなくて、自分の意思でリィンバウムに帰って来たから。向こうに戻ろうって、もう強く願うことはできないと思うから」
「捨てられたのか? 親を、友人を」レナードは言う。
 ナツミは笑った。苦笑いだろうがなんだろうが、笑った。笑うしかなかった。
「捨てた、ことになっちゃうんだろうね」
「……すまん。言い方が悪かったな」
「いいよ。レナードさんの気持ち、わかるもん。娘さんいるんでしょ?」
「ああ。レイチェルの方がおまえさんより年上だな」
「レイチェルって言うんだ。いくつ?」
「十八」
「それじゃあ、あたしとひとつしか違わないじゃない」
 レナードは意外そうに目を丸くした。ナツミはそれが気に食わなくて、唇を尖らせる。
「……まあ、ジャパニーズは若く見えるからな」と、フォローになってないことをレナードは言う。ますますナツミは不機嫌そうに頬を膨らませた。そんな仕草が子供っぽく見せているのだと、ナツミ本人は気付かない。
「時間とらせて悪かったな」そう言って、レナードは立ち上がった。けれど、ナツミはそれを遮るように彼のコートを掴んだ。
「おい?」
「……ゴメン、もうちょっと、だけ」
 レナードは抵抗しなかった。ナツミは縋り付くように、レナードに体を寄せた。
「オレは」低くて深い声だ、とナツミは思った。「おまえさんの父親じゃあない」
「あたしも」ナツミは言った。「レナードさんの娘じゃない、よ」
「……そうだな」
「そうだよ」
 煙草の匂いと、落ちついた声。今だけ、今だけだから。ナツミは自分にそう言い聞かせた。
 風の音が遠くなった。
 波の音が歪んで聞こえた。
 喧騒が、ゆっくりと遠ざかっていった。
 逃げた先にある現実だとしても。
 戦って手に入れた現実だとしても。
 ある日突然誰かに押し付けられた現実だとしても。
 それを受け入れるためには、いろいろな抵抗が心の中で生まれて、きっと、ずっと、それと戦っていかなければならないのだろう。
 何にも正しくはない。
 何にも間違ってはいない。
「ごめん」ナツミはレナードから離れると、少しだけはにかんで、言った。
「いいさ」レナードは少し不器用に笑うと、言った。「悪くは、ない」
「そうだね」
 レナードは煙草を取り出すと、ライターで火をつける。最初の一息を深く吸いこみ、上を向いて、空に向かって紫煙を吐いた。ナツミもそれに習って、空を見上げた。
「悪く、ないよ」ナツミは言った。
「ああ。悪くはないさ」
 二人の視線の先で、煙草から煙が生まれては、空に届かずに消えていった。


「ナツミ〜、レナードさ〜ん!」
 ナツミとレナードが同時に声のした方を向くと、そこには先ほど分かれたときと同じ格好をしたトリスが走ってこちらに向かってくるところだった。ミニスやミモザはあんな格好で走ってはいけないと教えなかったのだろうか、と少し思ったが、すぐに忘れた。トリスが走ってくるその少し後ろを、彼の兄弟子が肩を竦めつつ眼鏡を押し上げるという器用なことをしていたからだ。
 上手くいったのかな、とナツミは思った。たぶん、そうなのだろう。
 トリスに向かって手を振って、ナツミは歩き出した。
 彼女のところに着く前に、あるいは彼女がこっちに辿り着く前に。
 ふと、クラレットの顔が見たいな、とナツミは思った。