彼女が、何かを言った。それはわかっても、声は聞こえてこない。だから、止まれない。彼女の唇を無理矢理奪い、頬に伝う涙の跡を追うように舌を這わせる。
 声が聞こえたら、聞こえるのはどんな声か。
 剥ぎ取った彼女の服を放り出して、首筋にキスをした。強く吸うと、跡が残る。それがなんだか嬉しくて、何度も何度も吸い上げた。首筋だけじゃない、胸、背中、腹部、腕、足、下腹部、それから――。
 全身に跡をつけた。動物がするマーキングと同じだ。誰のものでもない彼女を、無理矢理自分のものに貶めてしまおうとする行為。その行為は、ひどく甘美だった。飽きることなく繰り返す。彼女の四肢が硬直し、弛緩する。その繰り返し。何度も、何度も。
「カシス」
 彼女は答えない。ただ大きな瞳を涙で濡らして、見返してくる。それは行為を拒絶しているようであり、けれど、その先を待ち望んでいるようでもあった。
 彼女に顔を近づけて、唇を押し付ける。上の唇をそっと甘噛みし、下の唇を舌でなぞる。そうやって、少しずつ閉じた彼女の口を侵食していく。
 彼女の口が僅かに開く。その隙間に、迷わず舌を滑りこませた。びくん、と彼女の体が震える。そんなことはお構いなしに、滑りこませた下で彼女の口内を嬲っていく。歯列をなぞり、頬の内側を撫でまわし、逃げるように縮こまっている彼女の舌を捕らえる。その舌に自分の舌を絡める。
 既に、彼女の口は開かれている。――まるで、その行為を受け入れるかのように。
 唾液を送りこむと、彼女はこくんと喉を鳴らした。舌を舌で絡め取る。長いキスに、脳が酸欠を訴える。それを無視してキスを続ける。視界が眩んで、世界が回りだす。けれど、麻薬に犯されたように痺れた頭はそれすらも快楽に変換した。
 口を離すと、大きな吐息が同時に漏れた。二人の口を銀色の線が繋いでいて、それは重力に引かれて彼女の方に落ちた。
 真っ赤な顔で、目を閉じている彼女は、弛緩した体を横たえて喘ぐように空気を求めている。その吐息を求める口が、何かの言葉を紡いでいる。

 ―ト

 その口が。

 ――ウ

 どんな言葉を紡いでいるのか。

 ―――ヤ

 知らなければよかった、と思った。




『knockin' on your door』




 その日は、ずいぶん日が昇ってから目が覚めた。

 笑顔が減った。それはトウヤやカシスに限ったことではなくて、フラットの全員に言えることだった。誰もが肌で感じている。
 最後の戦いが近いことを。
 浅い睡眠から覚めて、トウヤは上半身を起こすと嘆息した。今日も、大して眠ることができなかった。はらり、と落ちてきた前髪をうっとおしそうにかきあげる。断続的な浅い眠り。なんども悪い夢に叩き起こされて、横になって目をつぶってみるものの、安らかな眠りはやってこない。
 いつもなら誰かが必ず起こしにくるのに、このところ遅く起きても何も言われないのは、きっと気を使われているからなのだろう。そんな風に気を使われるのは情けない、と感じる自分がいるのをトウヤは自覚した。
「……はは」
 我知らず、笑いが漏れた。自嘲にも似た、虚ろな笑い。笑い飛ばしてしまいたかった。そうでなければ、思いっきり泣いてしまいたかった。情けなくて、申し訳無くて。
「……最低だな、僕は」
 そう、最低だ。そのことを改めて確認すると、トウヤはのろのろと体を起こした。最後に見た夢の名残がまだ体の芯で燻っている。トウヤは泣きそうな顔になって、上半身を起こすと、自分の体を見下ろした。
 いや、違う。
 夢のせいだ。
 ――確かに、悪い夢だ。
 くしゃり、と髪をかきまわす。あまりの情けなさに涙すらこぼしてしまいそうだった。
 戦いの終わりが近づいていることを、誰もが知っている。この後に起こる戦いがこれまでとは比べ物にならないほど厳しいものになることもわかっている。みんながそれを感じ取っている。そして、それは紛れも無くトウヤを中心として動いているのだ。
 ――それなのに。
「最悪、だ」
 世界と、サイジェントの人達の運命を掛けた戦い。
 否。どんな状況かなんてことは関係無い。
「……あんな、夢を」
 口にするのは憚られるような、夢。
 何一つその身に纏わぬカシスを欲望のままに蹂躙する夢。
 喘ぐその小さな唇を貪る感触が。
 可愛らしい胸を、その先端を思いのままに弄ぶその触感が。
 思うが侭に嬌声を上げさせる、その愉悦が。
 成熟しきらないその体に無理矢理押し入る快楽が。
 夢は何より雄弁だ。
 改めて、気付かされる。気付かないわけにはいかない。それこそが、望みであったのだと。
 自分の中で、声がする。認めろ、認めろ。おまえはずっと願っていた。ずっと、こうしたいと思っていた。
 いつから、なんてことに意味は無いけれど。
 でも、いつからか。
 カシスを、そういう対象としてみていたのだ―――と。


 最悪だ、と。
 トウヤはもう一度繰り返し呟いた。


 ことり、と目の前にカップが置かれた。その音にカシスが顔を上げると、そこにはいつもと変わらない笑顔を浮かべた三つ編みの少女――リプレがいる。
「カシス、調子はどう?」
 リプレが穏やかに微笑んで、言う。本当に心配してくれているのが伝わってきて、カシスは先日トウヤをかばって怪我をした左肩を叩いて、「大丈夫」とリプレに笑い返した。
「よかった」とリプレは嬉しそうに言う。
 カシスはリプレがくれたカップに口をつけた。暖めたミルク。じわりと暖かさが全身に広がって、何か安心できるような気持ちになる。それは、リプレが持っている存在感に少し似ている気がした。
「心配事、あるの?」そう言った後で、リプレは苦笑いすると、ぺろりと舌を出した。「ないわけ、ないよね。今日にも準備を整えて、明日には禁忌の森へ乗りこもうって、そんな時だもんね」
 リプレの笑顔が、曇る。
「……怖いよ」カシスが言った。リプレが顔を上げて、カシスを見る。「あそこには行かない方が良いんじゃないかって、そう思う。トウヤをあそこに連れて行っちゃいけないんじゃないか、そんな気がしてる。取り返しのつかないことが起こっちゃうんじゃないか、そんな――」
 そこまで言って、カシスはリプレの視線に気付くと、誤魔化すように笑った。「――なんて、あたしがそんな不吉なこと言ってちゃダメだよね。そもそも、原因があたしなんだから、自分できっちりカタつけてこないと、ね」
「誰も、カシスが悪いだなんて思ってないよ」
 カシスはリプレの言葉に小さく首を振る。「……それにね、ホントに心配してるのは、トウヤのことなんだ」
「トウヤの?」
「トウヤ、笑わなくなった」
 いつからだろう、と考えてみる。けれど、もういつからなのか思い出せない。初めて会った頃のトウヤは、よく笑っていた。そして、トウヤの笑顔は自分のためじゃなくて、それを見る人――他人のための笑顔だった。誰かを安心させるために、笑う。
 それじゃあ、トウヤ自身の笑顔は?
「今更言うことじゃないとわかってるんだ。でも、やっぱり、トウヤは戦いに行くような人じゃないんだよ。ここに召還されるまでは剣なんて持ったことなくて、命をかけて戦うなんてこととはまったく無縁の世界にいて」
 でも。
 でもね。
 泣き顔で。でも、涙を流さないで、カシスは続ける。
「もう、トウヤがいないと戦いは成り立たない。誓約者に選ばれて、トウヤが世界を一人で背負いこまされて……あたしは、なにもしてあげられない」
 リプレは小さく、カシスに気付かれないように嘆息した。
 まったく、気付いているんだろうか。本当に笑わなくなったのは誰なのか。トウヤが笑わなくなったのと同じ位、いや、それ以上に笑わなくなった女の子がいることに。ひょっとしたらトウヤが笑わなくなったのはそのせいかもしれないのに――。
「落ちこんでるカシスって、ちょっと新鮮」
 くすくす、と悪戯っぽく笑いながらリプレは言う。
「……それって、アタシがいつも能天気だって言ってるように聞こえるんだけど?」
「そんな積もりはなかったけどぉ」リプレが可愛らしく小首を傾げる。「心当たりでもあるのかなぁ?」
 にっこりと笑いながらそんなことを言うリプレに、カシスはテーブルに突っ伏すことで答えた。ノーコメント。この場合のそれは負けを認めたと同義だ。どこか心地良い敗北感。穏やかに微笑うリプレの気配を感じながらそれに浸っていると、かたん、と物音が聞こえた。顔を上げる。
 そこには。
 ――トウヤがいた。

 顔を上げる。
 目が合う。
 信じられないものを見た、とカシスは思った。
 恐怖。
 それがほんの刹那の間、トウヤの顔に浮かんでいた感情だった。

「――ゴメン、ちょっと出掛けてくるよ」
 少しだけ――ほんの少しだけ上擦ったトウヤのその声に、カシスは現実に立ち返る。さっき見たと思ったものは、もうトウヤの表情にはない。少し痩せた、精悍な顔つきがそこにあるだけ。
「どこまで? あんまり遠くには行かないほうがいいよ?」
「わかってる」
 リプレとトウヤが会話を交わしている。二人の声は何かフィルターのようなものを通したみたいに歪んで聞こえた。違和感、そんな言葉で表させるものがカシスの周りを隙間無く覆い尽くして浮かんでいる。その違和感の正体をカシスは考えていた。
「それじゃあ」
 ふっ、と。トウヤの視線がカシスを通り過ぎる。
 その瞬間、カシスは違和感の正体に気付いた。
「あ……」
 言葉にもならない吐息がカシスの口から漏れる。それはトウヤに届くことなく目の前で拡散して、すぐに消えた。トウヤがくるりと踵を返して、台所を出て行く。カシスはその背中をじっと見ていた。背中が見えなくなって、足音が遠ざかって行って、そこにトウヤがいたという痕跡がすべて消えてしまっても、カシスはつい今しがたまでトウヤがいた場所に視線を送っていた。
 気付いてしまった。
 違和感の正体。
 このところずっと感じていた不安。
 足元が全て崩れて、懐かしい暗闇の中に何処までも落ちて行く、そんな恐怖。
「トウヤ……」

 もう、あたしを見てはくれないの?

 トウヤの目に自分が映っていない。自分がしてきたことを考えると、そうされるのは仕方が無いと言えるものなのだけれど。そうされても仕方が無いと、それなりに覚悟していた積もりではあるけれど。
 いざ、そうなってみると。
 まるで、世界が全部壊れてしまったみたいな気がしているのは、何故だろう――?

 テーブルの上に、雫が落ちていた。




 キモチワルイ。
 トウヤは吐き気を堪えながら、少し足早に、サイジェントの街を人が少ない方に向かって歩いていた。
 どうしてキモチワルイのか。
 自分にだ。
 フカザキトウヤという人間に、吐き気がする。
 この感情はなんだろう。
 愛情?
 そんな生温い感情ではないとトウヤは思う。
 癖なのだろうか、カシスは少し見上げるようにトウヤを見る。その目が、トウヤを壊していく。幼い頃から長い時間をかけて一つずつかけてきたドアの鍵を、あの眼の光が外して行く。一番見たくないものを押し込めて閉めたドア。カシスはそこをこじ開けようとする。
 どうして彼女なのだろう?
 今まで、そこに近い場所ですら、触れた人間など一人もいなかったのに。彼女はするりと中に入りこんできて、勝手知ったる家のように、そのドアの前まで辿り着いてしまう。彼女の前で、鍵は意味なさない。触れられただけで鍵は勝手に開いていく。

 見ていられない。
 彼女の顔を見れない。
 そこに、何かが透けて見えてしまうから。

「トウヤ君」
 不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
「……セシルさん」
「どうかしたの?」
 凛とした空気を引き連れて、いつのまにかトウヤの前に立っていた彼女は、目が合って、にこりと微笑んだ。
「どしゃぶりにあって困ってます、みたいな顔してるわよ?」

「遠慮しないで注文していいのよ?」
 セシルはメニューを見て眉間に皺を作っているトウヤに向けて言う。
 繁華街の一角にあるカフェテラス。二人は今そこで向かい合わせに座っていた。普段は人で溢れかえっているであろうそこも、今は数えるほどしか人を見かけることは無い。城が悪魔兵に占拠されるという前代未聞の出来事があったのはつい先日のことなのだ。誰もが不安を感じて、外を出歩くことを躊躇っている。
「……それじゃあ、コーヒーをお願いします」
「ケーキも、ここ美味しいんだけど」
「あまり食欲が無いので」
「そう」
 そのまま、会話も無く時間が過ぎる。トウヤの頼んだコーヒーと、セシルの頼んだ紅茶を運んできた店長らしき人が二人に訝しげな視線を向けて奥に戻っていく。
「キミが、一人で重圧を感じることなんて、ないのよ」
 紅茶のカップを口につけて、唇を湿らせてから、セシルが言った。
 少し痩せたな、と思う。目の前の少年――フカザキトウヤという少年のこと。
 同時に、無理も無いな、と思う。
 誰もが、この少年に理想を重ねている。この子は――まだたったの十七の少年なのに。この街の、反召還師としての旗頭。無色の派閥と戦う小さな集まりのリーダー。
 世界と世界を繋ぐもの。ただひとりの誓約者。
 一人の少年が背負うには重すぎるものだ。
「私達も協力するし……何より、アナタには仲間がいるじゃない。信頼できる仲間が」
「……ええ」
 否定の言葉は返ってこない。むしろ、表情は曇っていく。
 それほどまでに――とセシルは思った。それほどまでに思いつめているのか。短い付き合いながら、トウヤについて分かっていることがある。この少年は、本当に苦しい時には決して苦しいとは言わない人間なのだ。些細な予兆すら気付かせず、笑顔の中に隠してしまう。
 セシルは困惑していた。こんなトウヤを見るのは初めてだったから。
 わかっていた。トウヤがまだたったの十七歳の少年だということはわかっていた。けれど、今こうやってその事実を突きつけられると、困惑するしかない。そして、驚くしかない。普段の彼が、いかに彼自身の『少年らしさ』のようなものを、見事に押し殺していることを。
 トウヤの唇が歪んだ。
「僕は、みんなが思ってるような人間じゃないんですよ」
 それは、見紛う事無き自嘲の笑みで。
「トウヤ……?」
「もっと醜くて汚い……最低の人間なんです」
「何、言って――」
 トウヤは服のポケットから何かを取り出す。セシルは目を凝らした。それは、煙草とライター。目の前の人間にあまりにもそぐわないアイテムに、セシルは目を丸くする。そんな彼女を気にした風も無く、トウヤはなれた手つきで煙草を咥えると、火をつけた。
 ゆらり、と紫煙が舞い上がった。
「……あなた」
「ちゃんと止めた積もりだったんですけどね」ふうっ、とトウヤの口が煙を吐き出す。「時々、どうしても吸いたくなる時があるんです」
「健康に悪いわ」
「わかってます」
 毒にも薬にもならない一般論を述べながら、けれどセシルは自分の中で何かが警鐘を鳴らしているのを感じていた。おかしい。何かがおかしい。自分の知っているトウヤという人間は、こうやって誰かの前で弱音を吐いたりしなかった。否、弱っている姿を見せることすら厭う、そんな人間だった。
 ――そこまで、追い詰められている?
 何に?
 誓約者、エルゴの王としての重圧に?
 違う、と思った。その事実を受け止めた時の彼の様子は、普段と全く変わらなかった。今更そのことでナーバスになるとは思えない。
 戦いのこと?
 最後の戦いは、これまでのものよりもはるかに厳しいものになるだろう。けれど、仲間の前でトウヤが戦うことに怯えた様子を見せることなど、ないと断言してもいい。
 ……わからない。
 一体何が、これほどまでに彼の心を乱すのか――?
 トウヤは冷めたコーヒーを一息で飲み干すと、テーブルに代金を置き立ち上がった。
「……トウヤ?」
「煙草のことは、見なかったことにしてください」そう言うと、小さく笑顔を見せる。「普段はほとんど吸いませんから」
 失礼します。そういうと、トウヤは店から出て行った。それを見えなくなるまで見送って、彼の姿が視界の何処にも見えなくなっても、セシルはその場所から立ち上がることができなかった。

 目的も無く、街を歩く。今は誰にも会いたくない。だから、人目につかなそうな道を選んで歩いた。うっかり北側のスラムに踏みこんでしまって、怯えの色を顔に出したチンピラ数人に囲まれたりしたが、トウヤは表情を変えることなく彼らを打ち倒す。
 街の中を歩きまわって、最後に着いたのはアルク川のほとりだった。樹の根元に腰を下ろし、川の流れをただ眺める。
 変質してしまったんだな、と思った。リィンバウムに来る前の自分はもうどこか遠いところに行ってしまった。
 それは、成長ではない。変質だ。
 戦うことに疑問を感じなくなっている自分。
 命を奪うことに躊躇いを感じなくなっている自分。
 生きるか死ぬかの戦いの中で、高揚を感じている自分。

 ああ、とトウヤは思った。
 ――これこそが、フカザキトウヤという人間の本質なのだと。

 他人に無関心で。
 一度取りこんだものには病的なまでに執着して。
 それを自分から遠ざけないようにするためには、どれだけだって冷酷になれる。
 レイドに、常に身に帯びておくように、と言われ、その通りに腰に釣っている剣の柄に触れた。ウィゼルから託されたサモナイトソード。
 果たして、今の自分はこれを持つに相応しい人間だろうか。
 トウヤは頭を振った。
 泣いてしまえたら、と思った。
 自分は、最悪の裏切りをしている。それをはっきりと自覚した。彼を信じてくれている全ての人への裏切り。
 結局。
「……どうでも、いいんだ」
 トウヤは一人言ちた。
「世界なんて、どうでもいい。リィンバウムがどうなったって、いい」
 口に出してみると、その意味が綺麗に自分の中に落ちてきた。爽快感すらあった。心が軽くなったような気がした。
「それでも、戦うのは、戦おうと思ったのは……」
 ――それでも。
「……ここが、皆の住む世界だから――」
 
 それでも、最後の一線でまだ自分を偽っていることに気付かないままで。
 トウヤは目を閉じ、しばしのまどろみに身を委ねた。



 夜鳴鳥の囀りが静かな廊下に響く。カシスはその囀りを聞きながら、目の前のドアをノックしようと右手を持ち上げて、しばらく逡巡した後、下ろした。その右手でまだ湿っている髪をくしゃくしゃと掻き回す。
 ――なんて、なんて意気地がないんだろう。
 この共同生活を始めてから、戦いについては確かに上達したかもしれない。けれど、それとはまったく違う部分で、自分が弱くなっていることをカシスは自覚した。
 誰かを頼りにするなんて。
 誰かの行動にいちいち神経を使うなんて。
 ――そして、人間関係にこんなに怯えているなんて。
 無色の派閥似いた頃は、孤独が当たり前だった。誰も彼もが、敵だった。腹違いの兄弟ですら、互いが互いを排除する対象だった。事実、カシスもそうしてきた。父に認められたい一身で、姉と慕っていたクラレットとも戦った。そうして勝ち取ったものは――魔王召還の器という事実的な死。そして、それで満足していたのだ、あの頃は。トウヤに出会う前までは。
 頭を振る。
 自分はこんなに弱くて、ちっぽけだ。
 声をかけるのも、話しかけるのも。
 もしも拒絶されたら?
 そんな想像をしただけで、恐怖で動けなくなる。
 もう一度、ノックしようと手を持ち上げる。けれど、その手はドアに十センチの所で何かに阻まれてしまったかのように動かない。
 また、夜鳴鳥の声。この声は嫌いだ、とカシスは思った。
 あの鳥は訴えている。
 私はここにいると。
 私を見て、と。
 光の射さない夜の中、ただ一つの光源である月に向かって訴えている。
 今なら、あの鳥が嫌いになれそうだ、と思う。あんな風に声を出せたら。私を見て、と月に向かって叫べたら。その勇気が持てたなら、きっとその結果が拒絶であっても前に進めるのに。進めるかもしれないのに。
「……カシス?」
 心臓が口から飛び出してきそうなほど驚いて、カシスは声の聞こえてきた真後ろを振り返った。
 まだ湿った髪の水気を取りながら、トウヤがそこに立っていた。

 頭を拭いていたタオルをトウヤは投げた。空中でゆらり、と揺れて、それはベッドの上にふわりと降りる。落ちていた前髪を手でかきあげると、椅子に座って俯いているカシスに目を遣る。
 カシスが恐る恐る顔を上げて、目が合って、彼女が慌てて逸らす。さっきからずっとその繰り返し。
 でも、とトウヤは思う。カシスはきっと気付いていないだろう。普段と変わらない自分を装うことに、トウヤがどれだけ苦心しているか。そう思って、トウヤは小さく笑った、少しだけ自嘲を込めて。自分のしていることが、抱えている感情が、とても滑稽なものに思えたから。
「……トウヤ?」
 意識の深淵から戻ってくると、カシスが自分を見ていた。慌てて口元に手をやる。
 ――見られた?
 見上げるような上目遣いのカシスの眼には、見覚えのある光が宿っている。最近はあまりなくなったものの、ここに着たばかりで距離の取り方のわからないカシスが、よくそんな眼をしていたことを思い出す。
「なんでも、ないよ」
 なんでもなくは、全然ないのだけれど。
「ところで」トウヤは言った。「どうかしたの? ……明日のために、今日はもう休んだ方がいいと思うけど」
「あ、えと……うん、わかってる、よ」
 何か言いたげに口を開いて、けれどカシスは何も言わずに口を閉じた。
 そのまま、彼女の部屋に帰してしまえば良かったのに。
 言わずにおれなかったのは、何故か。
「明日」
 その言葉に反応して、カシスが顔を上げる。
「僕は――」
 この言葉で。
 トウヤは思う。
 カシスが、離れていってくれたら。カシスがフカザキトウヤという人間に愛想を尽かしてくれたら。
 そうあって欲しい、と思って。
 でも、彼女を手放したくないと、自分の中の一番動物的な自分が叫んで。
 二律背反を抱えたままで、けれど言葉は止まらない。

「殺すよ。君の父親を。――この手で」

 殺す。とトウヤは言った。戦うということはそういうことで、オルドレイクを止めるということは、当然その選択肢も視野に入っているわけではあったのに。
 その言葉を聞いて、カシスは心臓を直接鷲掴みにされたような苦しさを感じた。
 けれど、それも一瞬。
 次の瞬間にトウヤの腕の中に収まってしまっていたカシスは、状況を認識できずに、ただぽかんと口を開いていた。
 息が吸えない。肺の中の空気を吐き出せないから、呼吸をすることができない。横隔膜は何度も肺を押し上げるが、何かに邪魔をされて肺は空気を押し出せない。
「――これから、たぶん、つまらない話をするよ。聞きたくなかったらすぐに僕の手を跳ね除けて出ていっていい。途中で聞くに耐えなくなったら、同じようにしていい」
 声は、遠いような、近いような、不思議な響きで聞こえた。知らず知らず、下ろしたままの両手をカシスは握りこんだ。
「オルドレイクのような人間を僕は知っている。一見知性があるように見えて、けれど人間的な部分が決定的に壊れている奴。――たとえ子供でも、自分の欲望を満たす道具としか見ない、見れない人間」
「……それって……トウヤの」
「内心反発しながら、僕は逆らえなかった。言いなりになって、望むままに優等生をやってきた。鍵をかけたんだ。感情に、僕の中の一番激しい部分に。そうしないと、壊れてしまうと思った。諦めてたんだ。住むところと、食べ物と、学費を出してくれるから、それ以上を望まないように」
 上辺だけの付き合いに終始して。
 鍵をかけたドアの向こうを誰にも見せないように、笑顔を繕って。
「本当に嫌なのはね……間違い無く、僕もそういう人間だってこと。だから、これは近親憎悪ってヤツなのかもしれない。人のことは言えない。僕だって、あいつと何も変わらない――」
「違うよ! トウヤは、違う!」
「違わないんだ。僕は、ワガママで、ずるい。そして、それを自分で知っている。それが一番――卑怯なところだ」
「トウヤ――」
「僕は一つのものしか掴めない。二つ手があっても、その二つの手で掴めるのは一つのものだけなんだ。どうでもよかったんだ、これまでは。リィンバウムに来た事だって、オプテュスと戦う事だって、誓約者になった事だって、――フラットの事だって!」
 どうでもよかったから、優しくできた。
 どうでもよかったから、戦えた。
 どうでもよかったから……一緒にいられた。

 ――どうでもよかったんだ。

 そうトウヤは繰り返して、ため息をついた。その吐息がカシスの耳をくすぐっていく。顔を上げて、トウヤを見た。そこにあるのは見たことのないトウヤの顔だった。今までつけていた仮面を全て取り去ってしまったトウヤの顔。きっと、トウヤはこんな顔で、いろんなモノを切り捨ててきたのだとカシスは思った。
 気付かないのだろうか?
 その顔は、
「……トウヤ」
 泣いているようにしか、見えないのに。
 全てがどうでもいいのだと、トウヤは言った。けれど、それは本心ではないとカシスは思う。トウヤは自分でそう思い込みたがっているだけなのだ。本当は、誰よりも周囲の人間が傷つくのを恐れているくせに。
 それこそ、思い込みなのかもしれない。けれど、カシスはその思い込みを違っているとは思わなかった。理由なんてない。理由があるとしたら――リィンバウムに来てからのトウヤを一番よく知っているのは自分だから。
 そう思ったら、不思議と笑えた。
「……あたしのことも、どうでもいい?」
 笑ったままで、カシスは言う。答えなんてわかっていた。けれど、カシスはそれを聞いた。わかっているから、で済ませたくなかった。口にしなければ何も始まらない。伝えようと行動しなければ、なにも伝わらない。
「ああ」
 搾り出すような声で、トウヤは言った。それは、カシスが想像していた通りの答えだった。カシスの想像通り――嘘だった。トウヤの声が、刹那の間だけ逸らされた視線が、ほんの僅かな間だけ強張って、それを悟られないようにすぐに元に戻ったトウヤの腕の感触が。目の前にいる「トウヤ」という人間の存在そのものが、その言葉を嘘だと語っていた。
「――嘘吐き」
 カシスが背伸びしてトウヤの耳に顔を寄せて、囁く。離れようとするトウヤに、カシスは今度は自分から腕を回して抱きついた。――抱き寄せた。
「どうでもいいなら」
 さっき見たトウヤの顔が、離れない。
 誰にも見せなかったトウヤの顔。
 カシスだけに見せた、トウヤの顔。

「あたしを抱いてみせて、トウヤ」

「な……っ!」トウヤはカシスから体を離そうとした。けれど、カシスの腕は緩まない。「何を、馬鹿なことを……!」
「どうでもいいんでしょ? だったら、いいじゃない。あたしも同じ。どうでもいいの。父さまも、魔王も、リィンバウムも、『どうでもいい』。トウヤ以外は、あたしにとっては『どうでもいい』の」
「……本気で言ってるのかい、カシス」
「冗談に聞こえた?」
「冗談だった方が100倍増しだよ」
 そう言うと、トウヤはカシスを抱き上げた。驚いた声を上げようとしたカシスは、けれど出かかった声を飲みこんだ。そんな彼女を見下ろすと、トウヤはそのまま歩いて、カシスをベッドに下ろした。
「……証明してあげるよ」
「してみてよ」
 カシスの服に手をかけ、脱がしていく。まるで、昨日の夢をそのままなぞっているかのように。夢と違うのは――震え出してしまいそうになる手を、精神力で必死に押さえ込んでいることだろうか。
 顔を上げると、カシスと目が合った。カシスは視線をどこにも逸らさずにトウヤを見ていた。目が合って、カシスの瞳が揺れた。

 ――ずっと、こうしたかったんだろう?

 その通りだ、とトウヤは自答した。ずっとこうしたかった。カシスを、この愛らしい少女を、きっと、誰よりも近いところにあるこの小さな魂を、汚してしまいたかった。滅茶苦茶にしてしまいたかった。触れるのが怖いから、遠ざけてしまいたかった。それでもカシスが欲しかったから、ブチ壊して変質させてしまいたかった。それでも。
 それでも、手放したくはなかった。
「トウヤだけ」不意に、カシスが言った。「トウヤ以外は何もいらない。トウヤに傍にいて欲しい。もし父様を殺して、魔王を倒して、それで平和が来たとしても、そこにトウヤがいなかったら、あたしにとっては何の意味も無いの」
 カシスの言葉は止まらなかった。
 シーツをきつく握り締めて。
 少し震える声で。
 ゆらゆら揺れる、瞳で。

 世界よりもあなたを選ぶ、と

「……僕は」平坦な声で、トウヤは言う。「元の世界に帰りたいだけだ。それだけだ。他のことなんてどうでもいい。元の世界に帰るために情報を持っている君を利用した。それだけだよ」
「最初はそうだったよね。なんとなく、わかった。トウヤはみんなが思ってるよりもずっと冷酷で計算高いって」
「わかったようなことを言うね」
「わかるもん」
「そう思うのは、君の自由だ」
「――今も、そう思ってる?」
「当然」
「また嘘」
「嘘じゃない」
「嘘でしょ?}
「……嘘、さ」
 そう、嘘。
 たったひとつ欲しかったもの。
 たったひとつ護りたかったもの。
 他の何を犠牲にしても、手に入れたかったもの。
 ただ傍に置いておきたかった、浅ましい独占欲。
 カシスはベッドに横たわったままで、胸を大きく上下させている。トウヤはその隣りに寝転がって、カシスの頭を抱き寄せた。キスをした。何回も、何回も。
 ずっとこうしたかった。囁くように、カシスが言った。
 僕もだよ。その小さな囁きはカシスに浸透して、彼女は夢を見るように目を閉じた。



 誰よりも近い魂が触れてしまったドアの向こう。溢れ出てきたものは、今まで築いてきた「フカザキトウヤ」をどこか遠い場所まで押し流してしまった。押さえつけていた激しい感情の波。それだけなら、まだ良かったのかもしれない。カシスが欲しい。ずっと手元に置いておきたい。それだけなら。
 けれど、その激しい感情の波が揺り起こしてしまった。
 トウヤの中に、魔王はいた。
 魔王はトウヤの感情を食らい、目を覚まそうとしている。
 トンデモナイ皮肉。初めて心の底から欲しいと思えるものが出来て、なのにそれが一番最悪なものを目覚めさせる鍵になってしまうなんて。
 君のことが好きで、それを認めたから魔王が目覚めてしまった。そんなこと、言えるわけが無い。
「……言えるわけ、ないじゃないか」
 だから。
 行こう。
 トウヤはカシスを起こさないようにそっとベッドをでると、着替えを始めた。軽鎧を身につけ、腰に剣を帯びる。サモナイト石の数を数え、持って行く道具を調べる。それから外套を身に着けた。
 夜はまだ、深い。
 仲間たちはきっと怒るだろう、とトウヤは思った。けれど、今更彼らに告げる必要はないとも思った。この戦争はもう、フカザキトウヤの戦争なのだから。全てが自身から始まった。ならば、終わらせるのは自身の義務だ。
 告げる必要があるのはきっと、たった一人だけ。
 その一人はトウヤのベッドで小さな寝息を立てている。
 トウヤは彼女に近寄ると、膝を折り、頬に触れ、髪を撫でた。
 与えるか、奪うか。手に取るか、切り捨てるか。
 トウヤは選択した。
 そのままくるりと踵を返し、立ち去ろうとしたところで、トウヤは気がついた。小さな手がトウヤのコートの裾を掴んでいる。トウヤはもう一度ベッドの傍に戻り、膝をついた。小さなカシスの手を、宝石でも扱うかのような手つきで包み込み、ゆっくりと開いていく。
「……行かないで」
 そんな声が、聞こえた気がした。空耳かもしれない。
 トウヤはカシスの手を返すと、膝をついたまま、その手の甲にキスをした。プリンセスに傅く、ナイトのように。世界がすべて凝縮されたような涙がカシスの目尻に溜まり、その一滴が頬を伝って枕に小さな染みを作った。
 カシスの手を毛布の中にそっと戻すと、今度こそトウヤは振り返らずに部屋を出た。部屋を出る前に何か言おうとして、その言葉がどれも陳腐でくだらないことに気づくと、トウヤは軽く頭を振って、住みなれた彼の『家』を後にした。
 ――ありがとう。
 そんな陳腐な言葉でも、カシスの元において来るべきだったろうか。
 けれど、とトウヤは思った。
 嘘になってしまうくらいなら、心に留めておく方がいい。言葉はいつも嘘になるから。口から出した瞬間に、まったく別のものに変わってしまうから。だから、本当に大切なことはいつも、胸に秘めておく。新しく鍵をかけたドアの向こうに。きっと、もう誰もノックをしない、ドアの向こうに。
「……僕は、嘘吐きだから」
 銀砂のような星が瞬く空。その中で、一際大きな月が浮かんでいる。
 蒼い夜。
 風は冷たく、空気は重い。
 トウヤは月を見上げた。今見上げている月。カシスと一緒に眺めた月。どちらも、変わりはない。変わりがないことが、トウヤには不思議だった。
 カシスのことを、想った。
 言えなかった言葉を、想った。
 伝えるべきだったのだ、と考える。
 伝えないで正解だったのだ、と考える。
 それは、とても我侭な言葉だから。
 目の前を塗りつぶしてしまう夜の闇。トウヤはそれに怯むことなく、迷いのない足取りで進んで行く。今更迷う必要も無い。――もう、恐れるものも無い。今ならたぶん、どんな事だってできる。奇蹟だって起こせる。世界を救う事だってできる。無抵抗の人間を手にかけることもできる。顔見知りだって、躊躇い無く戦える。
 もしも――この世界に存在しているのならば、神様だって殺してみせる。

 赤い花がいくつか咲いて、散って行く。トウヤは手に抜き身のサモナイトソードを下げたまま、辺りを見渡した。いくつかの悪魔の死体と、いくつかの人間の死体。トウヤはそれらを一瞥すると、先へ進む。無色の派閥が選んだこの森は、いるだけで気持ち悪くなるような不快な場所だった。不快なのに、何故か高揚している自分がいることに気付く。サプレスのマナが強いんだろうとトウヤは考えた。人間としての自分は不快さを感じるけれども、魔王の化身としての自分は喜んでいる、そういうことだろう。
 森の奥、開けた場所に辿り着く。大きな祭壇がそこにあった。
 トウヤは足を進める。バノッサとカノンが行く手を遮るように前を塞ぐ。
「……一人で来るとはイイ度胸じゃねぇか? はぐれ野郎」
「お兄さん……」
 トウヤは二人を見る。そして、穏やかに微笑んだ。
「バノッサ、カノン。今すぐ僕の目の前から消えてくれ。死にたくないならね」
「ンだと……!」
 怒りにバノッサは瞳をギラつかせて、トウヤに向かって斬りかかってくる。「忠告は」トウヤは小さく呟くと、小さな動きでバノッサの剣を避けつつ、彼の脇をすり抜けた。同時に、右手のサモナイトソードを一閃。一瞬遅れてバノッサの首から上がごとりと音を立てて地面に落下した。「……したよ」
 頭を失ったバノッサの体が、地面に倒れた。トウヤは振り向かない。
「……お兄、さん。あなたは――」
「カノン。退いて欲しい、って言ってももう無駄なんだろうね」
「どうして、笑ってるんですか! バノッサさんを殺して、人を殺して、どうしてそんなに楽しそうに笑っていられるんですかっ!」カノンの頬に涙が落ちる。「どうして……」
「……さぁ、ね」無造作に間合いを詰めたトウヤの剣が翻る。カノンの胸から鮮血が上がった。返しの刃は必要無い、全てを奪う致命の斬撃。「僕にも、わからないよ」
「お兄、さん……」カノンの体がゆっくりと地面に沈んで行く。うつ伏せに倒れた彼の体を中心にして、赤い水溜りがゆっくりと広がって行く。カノンが顔を上げた。その視線の先で、首だけのバノッサが二人を見ていた。「……バノッサ、さん」
 吹き出した鮮血がトウヤの顔を濡らしていた。
 月明かりの中、血溜まりに映ったトウヤの顔は、確かに笑っていた。
 息絶えた二人をそのままに、トウヤは祭壇に向かう。召還術が何度か飛んでは来たが、全てはトウヤにダメージを与える前に消えて行った。
「馬鹿だな」トウヤは小さく呟く。「サプレスの召還術なんて効かないのに」
 祭壇を登り、向かってくるものを一人ずつ殺していく。向かってこないものも、追い詰めて、殺す。
 祭壇の一番上まで登った時には、その場で生きているのはトウヤと、オルドレイクだけだった。オルドレイクは哀れなほどに表情を歪めている。ささやかな虚勢さえ張り損ねた、そんな顔。
 オルドレイクが何かを言いかける。その口が言葉を紡ぎ出す前に、トウヤはサモナイトソードを離して右手を彼の顔に叩きつけた。返しの左拳は、手を離したサモナイトソードが地面に落ちる音と同時だった。骨が砕ける感触が返ってくる。それが、自分の拳が砕けた感触なのか、オルドレイクの顎を砕いた感触なのか、トウヤには分からなかった。
 壁にたたきつけられたオルドレイクを、トウヤは殴りつづけた。両手の感覚が無くなっても、まだ殴りつづけた。腕が上げられなくなったら、今度は足を叩き込んだ。いつのまにか、オルドレイクはうめき声を上げなくなっていた。手を止めると、彼はもう動かなかった。荒い息を吐きながら、トウヤはその場に座りこむ。
 空を見上げると、月が綺麗だった。泣き出してしまいたくなるくらいに綺麗だった。
(よう。だいぶらしくなったじゃないか)
 どこからか、声が聞こえる。表情ひとつ変えることなく、トウヤはその声に応じた。
「……おかげさまで」
(もう少しだぜ。体の支配権がオレに移るまで。オレがオマエを侵食し尽くすまで)
「みたいだね」
(余裕こいてるな)
「さぁ?」トウヤは薄く微笑う。「魔王、訊かせてもらえないか?」
(まあ、いいぜ?)
「壊したくないものって、あるかい?」
(ねぇな)
「だと思ってたよ」
(オマエにもないだろう?)
 トウヤは答えずに、ゆっくりと立ち上がった。サモナイトソードを拾い上げようとして、自分の手が真っ赤に染まっていることに気付く。気にせずに剣の柄を握る。指を骨折しているのか、上手く握れなかった。それでも、右手の上に左手を重ねて、無理やり逆手でサモナイトソードを持ち上げる。
「リィンバウムを、破壊するのかい?」
(そうだな)魔王は答える。(だがまあ、その前に少し遊ぶのも悪くはない。オマエの仲間達は遊び甲斐がありそうだ。特に、カシスと言ったな、あの女……オマエの姿で抱いたらどんな顔をするかな?)
 下卑た笑いの気配が伝わってくる。
 トウヤは微笑んだ。
「よかったよ」
(……何がだ?)
「キサマがクソ野郎で」
 トウヤは逆手に持った剣を振り上げた。切っ先を自らの腹部に押し当てる。
(やめ――!)
「遅い」
 トウヤが何をしようとしているのか悟った魔王は体の支配権を奪おうとする。けれど、もう間に合わない。トウヤの体を出ることも出来ない。もう、何もかもが遅い。
「僕も」トウヤは言った。「世界よりも、君がいい」

 ものすごく勝手なことを言ってもいいかい?
 ――君のことが、好きなんだ。

「さよなら、カシス」