Livin' On The Edge


 ネスティは、ドアの前で立ち止まった。ノックしようと手を持ち上げて――迷いが、彼の手を止める。
 サイジェント。元は孤児院であったというこの建物には、今はキャパシティを越えた数の人間が寝泊りしている。誓約者――再びリィンバウムに現れたエルゴの王が住んでいる建物。ネスティの妹弟子のトリスが二重誓約で呼び出してしまったモナティのつてで彼を頼り、その凄まじい力を目の当たりにし、ともにメルギトスを封印した。ネスティは今、そのエルゴの王たる彼の部屋の前に立っている。明日、ネスティ達はサイジェントを発つだろう。その前に彼に聞いておきたいことがあった。彼と、彼と共にいる元無色の派閥の召還師に。
 けれど、いざこうやって部屋の前まで来ても、躊躇っている自分がいる。
 建物の中はしんと静まりかえっている。昨夜のような、戦いを前に控えた不安と高揚が入り混じった静けさではない。静かに静かにヴェールを下ろし、戦士達を包み込むような、そんな静けさ。
 もう夜も遅い。
 それは、ネスティが見つけたこの場から立ち去るための砂の城のような脆い理由だった。だいたい、一体何を聞くというのだ。何か話したいことがあったはずなのに、いざこうやってドアの前に立ってみると何も言葉が浮かばない。馬鹿馬鹿しい、と彼は思った。寄せる波がその砂の城を崩してしまう前に、ネスティはその場を立ち去ろうとした。
 けれど。
 波はやってきた。
 ノブを捻る音がして、ネスティは慌ててその場から一歩引いた。ネスティが身を引いたその空間を、開くドアがかすめる。開いたそのドアの隙間から顔を出したのは、明るい茶色の髪をショートカットにした少女だった。
「あ、ホントにいた」少女はそんなことを言って、部屋の奥を見る。「トウヤぁ、どうする? 中に入ってもらったらいい?」
 ああ、と部屋の中から声が聞こえた。少女――カシスは、聞こえたでしょ? とネスティを見上げる。どうすることもできなくて、ネスティは仕方なく頷いた。カシスは上品な猫みたいに、微笑う。
「どおぞ。散らかってて汚い、野郎の部屋で申し訳無いけど」
 僕の部屋だよ、と苦笑じみた声で部屋にいる彼は反論した。
 ただの衝動だった。けれど、今更もう後には引けない。ゼラムに帰ってしまえばもう二度と、とまでは言わないけれど、当分逢うことなどないのだ。
 ドアは開かれた。そう、もう後には引けない。
 ネスティはカシスに招かれるままに、ドアの内側へと歩を進める。


 部屋に足を踏み入れた瞬間に、まず彼の視線に射ぬかれた。先ほど僅かに聞こえた声の温度とはうってかわって、今ネスティを突き刺した視線は冷え切っていた。内に生まれた動揺を表に出さないように押し殺して、エルゴの王にして誓約者である彼――トウヤを見る。ネスティが彼を見た時には、今ネスティが感じた冷たさはどこにも無かった。世界の終わりのような不純物の全く無い漆黒の瞳。
 彼は、穏やかに笑ってネスティを見ている。
 とても。
 ネスティは思った。一秒にも満たない僅かな時間の間隙に浮き上がってきた、純粋なインスピレィション。
 とても、アンバランスだ。
 トウヤは、椅子に座って足を組んでいる。今にも眠ろうかというラフな服装。嫌なことを思いついてしまって、ネスティはカシスを見た。彼女も、夜着の上に一枚、男物の、おそらくは目の前にいる彼の、服を羽織った姿。
 ひょっとして、とてつもなく無粋なことをしてしまったのではないかという考えが頭をよぎる。それを、ネスティはあえて考えない努力をした。そうと決まったわけではない。ただの邪推に過ぎない可能性の方が高いではないか――。
「で」ネスティの思考を遮ったのは、トウヤの声だった。「何か、用事でも?」
「あなたと」ネスティは言った。「話がしたい」
 トウヤはネスティの顔をしばらく見ていた。そして「へえ……」と吐息のような声を漏らす。「君が、そんな言い方をするとは思わなかったよ、ネスティ」
「どういう意味ですか?」
「積極的に他人と話したがるタイプには見えない、ってことさ」
 図星ではあったが、それはネスティにとってあまり快い物言いではなかった。ネスティがそれについて反論しようとしたが、トウヤは手でそれを制する。
「カシス」
「何?」
「悪いけど、ちょっと外してくれないかな?」
「えー! なんで!」
「あんまり」トウヤはネスティをちらりと見る。さりげなく、だけど確信を込めた目で。「おおっぴらに話したくないことらしいから」
 カシスの目を見つめて、穏やかにトウヤは微笑う。
「騙されないもん」
「嫌だなぁ、僕が君を騙すわけないじゃないか」
「今喋ってるのは何枚目の舌?」
「もちろん、一枚目さ。僕の舌は一枚しかないよ」
 不満たらたらの顔をしながらも、カシスは不承不承頷いた。トウヤを恨めしげに一度見遣ってから、部屋を出ていった。トウヤひとつ息をつく。それから、ネスティに向かって言った。「で、話っていうのは何?」
 無いならとっとと帰れ、というニュアンスが言外に漏れまくっている声。ネスティは一瞬呆気にとられた。短い間ではあったけれども、これまでにネスティは知った彼の行動の中に、これだけ他人を突き放したものはなかった。
「悪いね」悪いとは欠片も思って無さそうな口調でトウヤは言う。「疲れてるのと邪魔されたのとで、君に気を使う余裕はないんだ」
 これが彼の地なのか。
 ネスティは驚きが表面に出ないようにするだけで精一杯だった。それでも、顔に出さなかっただけでも僥倖かもしれなかった。それほどまでに、ネスティの受けた衝撃は大きかった。最初見たときからどうにもこのトウヤという男が生理的に受けつけないとは思っていたが――なんのことはない。
「……ただの」
「ただの?」茶化すようなトウヤの口調。
「ただの、同族嫌悪、か」
 トウヤが笑った。はっきりと、目で見て分かるくらいに明らかに。
「同族嫌悪?」
 それは、嘲笑と呼ばれる類の――。
「冗談じゃない。君と並べられるなんて不愉快だ。ネスティ・ライル」
「――っ!」
「話がある?」ちらり、とトウヤはドアの方に目を遣る。「構わないよ。君の訊きたいことなんてだいたい分かっている。そういう気分だ。僕に答えることができる範囲でなら、なんでも答えてあげるよ」
 我知らず、ネスティは脇に下ろした手を硬く握りこんでいた。それに気付いて、力を緩める。落ちつけ。安っぽい挑発にのるな。――呑まれるな!
「……何故、冷静でいられる」
 押し潰したような声で、ネスティは言う。トウヤはその言葉に僅かに首の角度を変えた。
「何故、あなたは冷静でいられるんだ。無色の派閥の召還師――カシスを傍に置いて、何故あんな風に――」
「あんま風に?」
「……あんな風に、笑えるんだ」
 八つ当たりだと、理解している。自らの内に長い間蓄えられた憎悪は決して彼一人に向かって行くものではないはずだ。なのに、ネスティには止めようが無かった。不条理だとは分かっていても、完璧を通り越して既に嫌味にしか見えないトウヤの笑顔を見ていると、言わずにはいられなかった。
「嫌いなんだろう?」
「……何が」
「人間が」
「ああ! 憎いさ!」ひび割れた声が、知らぬ間にトーンを上げる。「僕等を利用したメルギトス。事実を隠蔽し、薬で僕を拘束していた蒼の派閥。総帥のエクス。フリップ。いや、青の派閥に所属するもの全員だ! それから……」
 一瞬、言葉が止まる。思い出されるのは、妹弟子の顔。どれだけ邪険に接しても怯むことなどまったくなかったトリスの顔。記憶の中にいろんな彼女がいて、いろんな表情を見せている。
「それから――」
「それから?」
「友人面してライルの一族を利用した、クレスメント……」
 トウヤが唇を歪めた。
 見透かされているような気分になった。憎しみはある。けれど、その憎しみは中途半端なものだとネスティは自分でもわかっていた。中途半端なもの。――中途半端になってしまったもの。
 トリス。
 クレスメントの一族最後の一人。
 そして――。
「何故だ」
「ネスティ。君の質問は抽象的過ぎる」
「どうして、あなたは憎まずにいられるんだ……。あなただって、まったく関係無いところから召還されて、なし崩し的に誓約者にされて……一時は魔王の寄り代として殺されかけながらも、どうして、赦せたんだ」
「赦す? ――誰を」
「あなたを幽閉しようとした蒼の派閥を。魔王を召還しようとしてあなたを呼んだ無色の派閥を。いや……そもそもの発端、無色の派閥を率いるもの、オルドレイク=セルボルトの娘、カシス=セルボルトを!」
「黙れ」
 強くは無かった。大きな声というわけでもなかった。感情すらも抜け落ちた、平坦な声。なのに、トウヤのその一言にはその場の空気を凍りつかせるような力があった。
「彼女その名で呼ぶな」淡々と、トウヤが告げる。「彼女の名前はただのカシスだ。僕がそう呼ぶから、カシスなんだ」
 気圧されて、ネスティは僅かに身じろぎした。視線を逸らさないことが、とてつもなく精神力を削られる。メルギトスの真正面に一人で立ったとしても、これほどまでに呑まれてしまうことなどなかったのに。
「僕は……」うめくように、ネスティは言った。「わからない。何を憎めばいいのか。何を信じていいのか。教えて欲しいんだ、誓約者。全てを憎むことで生きてきたのに、その憎しみの対象が消えてしまったら、どうしたらいい? あなたは、カシスの前で笑っていた。誰の前に立った時よりも、穏やかに。どうしたら、憎んでいたはずの人間の前で、あんな風に笑える……?」
「好きにしたらいいだろう?」
 トウヤの言い放った言葉に、ネスティは目を丸くした。
「本人を目の前にして、憎みたかった憎めばいい。笑いたかったら笑えばいい。それだけのことだ。シンプルだろう?」
「なっ……」
「憎しみなんてものはさ、溜め込んで行けば溜めこんで行くほど、対象があやふやになるんだ。見も蓋もない言い方をするなら、誰だっていいんだ。ああ、憎しみが生まれる背景には理由があるんだろうね。でも、それを向ける先は誰だっていいんだよ。僕は確かにオルドレイクを憎んでいたよ……ちょうど、憎しみをぶつけるのに都合がよかったからだ」
「そこに、偶然オルドレイクがいたから……?」
「そう言っている」
 トウヤはふっと小さく息を吐いた。その仕草は、まるでネスティを馬鹿にしているように見えた。それも――今更か。ネスティは内心苦笑いした。初めから、この男は自分を馬鹿にしている。
「それでは」ネスティは言った。「それでは、まるで――」
 対象は誰でもよかった。そう言い切る彼の憎悪。天啓のように降りてきたひとつの疑問。そして、ネスティはその疑問の答えを知っていた。そして、理屈も何も無く、その答えが正鵠を射ていることも、確信していた。
「誓約者。あなたが本当に、憎んでいたのは……」
 彼が憎んでいたものは。
 オルドレイクではなく。
 無色の派閥でもなく。
 不特定多数の誰かなどでももちろんなくて。
 ましてや、カシスである訳がなく――。
 ネスティがそれを確かめる言葉を口に出そうとしたその瞬間、トウヤが椅子から立ち上がった。何を、と問いかける間もなく彼は部屋を横切り、ドアを開け放つ。

 ごん、と音がした。

「……なにやってるんだい、カシス?」
 いっそ朗らかとも聞こえる声で、トウヤがそう言った。そして、ドアの影に手を出して、そこにいた人物を部屋の中に引っ張り込む。それは、彼が言ったとおりカシスだった。
「トウヤ、酷いっ! たんこぶできちゃったじゃないっ。ああ、膨らんでる……膨らんでるよぉ」
 額をさすりながら言うカシスに、トウヤは呆れたようなため息を吐いてみせた。その仕草は、まるで二つの人格を使い分けているではないかと疑いたくなるほど、ネスティと接していた時とは違う。カシスの額を見て、たいしたことないよ、と穏やかに微笑う。
 トウヤが、ネスティを見た。その目は、話は終わりだ、とネスティに告げている。その目を見た瞬間に、ようやくネスティは気付いた。
 初めから、トウヤはネスティなど眼中になかったのだ。彼には最初から分かっていたのだ。部屋を出されたカシスがドアの前で聞き耳を立てているであろうこと。
「まさか君があんなところにいるなんて思わなくてね」
 何故、彼が渋々ながらも話す気になったのか。それをネスティは理解した。彼の言葉の先にいたのは、ネスティではなくカシスだった。ただ、カシスに聞かせるためだけに、彼は語ったのだ。ネスティは自分のことなど意に介せずに恋人のように戯れる二人を見遣った。
 先ほどまで話していたトウヤの顔。
 そして、今目の前でカシスと接しているトウヤの顔。
 どちらが本当のあなたの顔なのか。そう問いかけようとして、止めた。
 問うまでもない。どちらも本当の彼の顔なのだ。
 完全に虚仮にされた形になって、けれどネスティの中に怒りは芽生えはしなかった。ただ、笑い出したくなる。自らの内で膨れ上がる笑いの衝動が口から吐き出される前に、ネスティは彼の――彼等の部屋を後にした。ドアを後ろ手に閉じる前に、彼と彼女の視線を感じた。僅かな間だけ動きを止めて、それでもネスティは振りかえろうとはしなかった。彼も、何も言わなかった。だからネスティも何も言わないままにドアを閉じた。
 宛がわれた部屋に帰ろう、とネスティは思った。日中の疲労もあるだろうが、あの短い時間の会話で随分と神経をすり減らされたような気がした。
 ネスティは足を踏み出す。
 それは、彼に宛がわれた部屋のある方とは正反対の方向だった。


「ねえ」
 ネスティが部屋を去って行ってしまってからの、しばらくの沈黙。それを破ったのはカシスだった。
「トウヤが憎んでるって、それって、トウヤ――」
 カシスの台詞は、最後まで紡がれることは無かった。カシスの口が言葉を紡ぎ終わるその前に、トウヤはカシスを抱き寄せて、その頬にキスを落とす。カシスの抗議も、その体がトウヤの腕の中に納まってしまっていては、素手で石の壁を殴り壊そうとするかのような儚い抵抗でしかなかった。
「憎んでないよ。今は」
「……今は?」
「ネスティにだってわかる。憎しみなんてすぐに消えるよ」
「……消えるの?」
 トウヤは頷いた。憎しみなんて、すぐに消える。ちっぽけなものだ。

 誰かを。
 カシスを。
 愛しく想う、この感情にくらべたら。

「名前を呼んで、カシス」
「トウヤ?」
「うん。僕はトウヤだ。君がそう呼んでくれる限り、僕は僕でいられる」
「……わかんない」カシスは言った。
 トウヤは窓を見た。カシスもその視線を追う。窓枠に切り取られた月の下三分の一がそこに見える。
「ねえ」トウヤはカシスの顔を覗きこんだ。
「何?」カシスは、トウヤの顔を見上げて答える。
「久しぶりに」
「月でも?」カシスは微笑う。
 苦笑して、トウヤは言った。「――見に行こうか?」