あたしは、約束をした。きっと、他の人が聞いても別にどうとも思わないような、些細な約束。まんまるの月が蒼く照らす夜の中で、頼りなく絡まった小指。
 忘れない。
 忘れるわけがない。
 でも。
 あたしは、誓った。誰に宣言したわけでもない、自分の胸の中での誓い。だからこそとても堅く、そして価値のある誓い。
 けれど。
 あたしはなにも守れなかった。
 いつもの夢。
 そう、これは夢だ。

 真っ暗な闇の向こうに一人で歩いていく彼女を、あたしはただ見送ることしかできない。
 決意。
 出会った時はあんなに頼りなかった彼女は、とても強く。
 泣くこともできない。泣いていいわけがない。ただ見ていることしかできない。
 それでも、あたしは手を伸ばして―――。







“遥か。”








 目蓋の裏をちくちくと刺すような光。その光は、あたしがしっかりと抱きしめて満喫していたまどろみをどこかに連れていってしまった。まだ頭の芯に鉛の塊でも押し込められてしまっているみたいな感じがしたけれど、これ以上寝ていられそうもなかったので、あたしはしぶしぶ目を開けた。
「起きました?」
 窓際の椅子に座っていた女の子が、手の中の本をパタンと閉じてあたしを見た。夢の中の女の子と同じ顔。あたしの指の先をすりぬけて、ひとりで闇の中へ降りていった、白い羽を持った天使――。
「……アメル?」
「はい」
 あたしの声に、返事が返ってくる。アメルがこっちを見ていた。あたしは泣きそうになって、慌ててそっぽを向いた。
 これは夢の続き?
 ――ううん、夢なんかじゃない。
 あたしは恐る恐る、アメルを見た。さっきとかわらず、アメルはそこで微笑っている。
 夢じゃない。
 夢じゃないよ。
「……アメル」
 あたしは、そのままの姿勢で手をのばす。アメルは小さく首を傾げた後で、とことことこっちに歩いて来て、あたしの手を取ってくれた。あたしはその手を引っ張って、自分の頬に押し当てた。
「トリス?」
「アメル、なんだよね?」
「ええ」
 もう二度と会えないと思ってた。
 もう一度会いたいと思ってた。
「ご飯、できてますよ。その寝癖なおしてから来てくださいね」
 そんなことを言われて、あたしは思わず頭に手をやった。たしかに髪の毛が跳ねている。そんなあたしを見てくすくす笑うと、アメルはあたしの着替えを置いて、部屋を出て行った。
 パタン、とドアが閉まってから、あたしはアメルに触れていた手を見た。
 アメルはここにいる。夢なんかじゃない。
 とくん、とくんと心臓の音が聞こえた。あたしは生きている。アメルも生きている。
 少しだけ泣いた後、あたしは着替えを始めた。

「遅い」
「う……」
 あたしの顔をみるなりそう言ったネスの前には、コーヒーのカップが置かれてあった。その中身も空。つまりは、とっくのとうに食事を終えてしまった、ということだろう。まあまあ、といってアメルがネスのカップにコーヒーのおかわりを注ぐ。
「ネスが早過ぎんのよ」
「君が遅いんだ。もう昼になるぞ」
「ウソ?」
「こんなことで君に嘘なんかついてどうする」
 あたしは窓から外を見た。太陽の高さはもうすぐ天辺に届きそうなくらい。ネスは確かに嘘は言ってはいないみたいだった。
「アメルが寝かせておいてやってくれなんていうから放っておいたが、いったいいつになったら起きて来るんだ君は。アメル。君もあんまりこいつを甘やかすな」
「ネスぅ。ちょっと言いすぎだな、なんて思ったりしない?」
「いいや。これっぽっちも思わないが」
 アメルがテーブルについたあたしの前にご飯を並べながら、くすくすと笑っている。
「まったく。ゼラムに戻るんだろう? 今からでるとファナンに着く頃には日が暮れているぞ」
「いいじゃないですか、ネスティさん。のんびりしていたって」
 アメルが自分のぶんのカップを手に持ちながら、椅子に座る。そんなアメルを、ネスは渋い顔で見返した。
「アメル。あまりトリスを甘やかすな。図にのらすと際限ないんだ、こいつは」
「ネスぅ?」
「事実だろう」
「どーこがどう際限ないってのよ!」
「見たまんまじゃないか」
「だからどこが!」
「二人とも、それくらいにしてくださいね。トリスは早くご飯を食べないと」
 そう言われて、あたしは慌ててスープに口をつけた。確かに、あんまりぐずぐずしている時間はない。
 久しぶりの味。あらゆる料理に使ってあるおイモも懐かしい。
「荷物は準備してあるんですか、トリス?」
「あ、それはもうできてるよ」
「食べながらしゃべるな」
「んぐ……うっさいなぁ、ネスは」
「今のうちに言えるだけ言っておくさ」
「ん……」
 ネスは穏やかに笑っている。あたしはそれを見て嬉しくなったけれど、同時に少し寂しくなった。
 ゼラム――聖王都に戻ってから、あたしとアメルは旅に出ることにしていた。目的はひとつ。アメルと交わした約束を果たすこと。あたしの生まれた場所を見てみたい。そう言ったアメルとの。
 そう言った時、ネスは「そうか」と言った。「僕は聖王都に残る」と。


「――どうして?」
「どうしてだと思う?」
 からかうように、ネスはそう訊き返してくる。あたしはぷう、と頬を膨らませてネスを睨んだ。こっちは真剣に訊いているのに、茶化されているような気がしたからだ。
「しばらくゆっくりしたいからね。君のお守も――」ネスはあたしをみて、何かを懐かしむように微笑った。「もう、必要ないだろうし」
「ネス……」
「まあ、正直言って不安の種は尽きないけどな」
「……む」
「トリス。君は、何が大事なことなのかを知っている。こんなことを言うのは僕の柄じゃあないけれど……君の事を、信じているから。アメルを、ちゃんと守るんだ」
「わかってる」
「うん。君はわかってる。僕はしばらく聖王都にいるよ」
 ネスは眼鏡を押し上げると、あたしから目を反らして照れくさそうに笑った。
「親孝行というものを、少ししてみようと思ってね」
「あ……」
 ネスティ・バスク。あたしの――あたし達の師、ラウル師範の正式な後継者として、ネスは師範の養子になり、家名を受け継いだ。
 あたしとネスをずっと見守ってくれた人。――お義父さん。
「そんな顔をするな」
「へ?」
「どうせ君のことだから聖王都に残らなくちゃいけない、とかそんなことを考えたんだろう」
「う」
 ネスは、眼鏡をとってあたしの目をじっと見た。
「君は、君らしくいればいい。簡単なことだろう? あの戦いの中でさえ、君はそれを貫き通したんだ。これからも、そう在ればいい」
「うん、でも……」
 ネスは苦笑した。
「まったく、君ってヤツは……普段は疎ましがるくせに、いなくなると文句を言うんだな」
「あたしはネスの事疎ましがってなんてないよ!」
「わかってる。言葉の綾だ。……まあ、一度離れてみるのもいい経験だと僕は思うよ」
「そう、かな」
「寂しがってる暇なんてないぞ。なにせ天使様のエスコートなんだからな」
 冗談めかして、ネスは言った。その言葉に、やっと、あたしは笑った。
 笑えた、と思う。
「うん」


「準備はいいか?」
 頭の上からネスの声が聞こえて、あたしは慌てて現実に戻った。
 目の前には、天まで届くかというような大きな大きな樹。禁忌の森と呼ばれた場所の中心。あたしとネスの、過去の罪が眠る場所。赦されざる技術、機界ロレイラルの技術と霊界サプレスの天使と悪魔を合成した合成召喚獣【ゲイル】の納められた遺跡のあった場所。
 調律者。
 あたしの中に流れるクレスメントの一族の血。

 ――わかってるよ。もう迷ったりしない。そして、同じ過ちを繰り返すなんてこともしない。

 アメルを見た。アメルはあたしをみて、笑い返してくれた。
 天使アルミネの生まれ変わりであるということも、あたしの中に流れるクレスメントの一族の血も。機界ロレイラルからやってきた融機人、ライルの一族であるネスの事も、クレスメントとライルの一族が人間を守ろうと戦ってくれた天使アルミネに対して行った過ちも。
 忘れてはいけない。けれど、それに囚われてしまってはいけないのだと。
 そう、アメルが教えてくれた。
「――うん。行こう」
 どこまでも蒼い空。新しい一歩には最適の日。あたしは息を思いきり吸い込んだ。
「行ってきます!」
 後ろで、アメルが大樹に向けてそう言った。アメルはくるりと振り向くと、嬉しくてたまらないといった様子であたしの腕にしがみついた。あたしも嬉しくなって、アメルに肩をくっつけた。そんなあたし達に、ネスが一歩後ろで苦笑しているのが見えた。
 ずっと、こうしたかった。
 そんなアメルの声が聞こえた気がした。それは、あたしの声だったのかもしれない。アメルがいて、ネスがいて、一緒に戦ってきたみんながいて、そして世界は確かに姿を変える。あたしたちの望む姿へ。
「トリス! 約束、忘れてないですよね!」
「もちろん!」
 アメルがあたしの手を引いて駆け出した。引き摺られるようにしてあたしも走り出す。揺れるアメルの髪から、懐かしい花の匂いがした。いつか、どこかで知っている花の香り。ずっと、ずっと昔に知っているような。
 あたしは、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
 ――どこまで走るの?
 ――――どこまでも!
 後ろを振り返ると、随分小さくなったネスが、押しつけられた荷物を持ちながら大きくため息をついているのが見えた。あたしは心の中で「ごめん」と呟いた。ちょっと悪い気がする。
 気がするけど――止まれないの!
 あたしたちを包んだ景色が流れていく。それはきっと、昨日から――明日へ。
 どこまでも行けそうな気がした。このまま、空だって飛べそうに思えた。
 誓いは胸の中にある。
 この手は、ちゃんとアメルを掴んでいる。
 どこへでもいける。
 どこまでだっていける。


 遠い、遠い、遥かな場所へ。
 あたしたちの、光の都へ――――。