「三匹目、と」
 ハヤトは釣り上げた魚を手元に引き寄せ、針から魚を外して一緒に持ってきた入れ物に放りこんだ。先ほど釣り上げたニ匹目と合わせて三匹目。滑り出しとしては上々だ。にっ、と彼は笑った。針にエサを付け直して、もう一度目の前を流れる川に放りこむ。
 アルク川。この城塞都市サイジェントの傍を流れる、この街になくてはならない水源となっている川。その川のほとりで、暖かな日の光を受けながらハヤトは釣り竿を傾けている。
「……いいのかなぁ、こんなに平和で」
 最近平和じゃない暮らしが続き気味だったからこういうのもいいだろ、そう自分に言い聞かせて、釣り竿を固定したままにしてごろりと横になる。ふわぁ、と大きな欠伸。猫のようだ、と人がそんな様子を見ていたら評するかもれない。
 たいした時間もかからずに、ハヤトは睡魔に引き摺りこまれるように、眠りの泥の中に落ちていった。




“しなやかな腕の祈り”




 いつも、悲しい夢で目が覚める。
 激しく鼓動をうって自己主張する心臓のあたりを押えたままで、クラレットはベッドから上半身だけを起こした。喘ぐように息を吐き、吸う。呼吸がまともにできない。胸を押えている手とは逆の手で喉を押え、ゆっくりと、深く呼吸をする。
 視界が歪んだ。泣いている。汗とも涙ともつかない雫が頬を滑り落ちた。それを拭いもせずに、彼女は記憶を過去へ走らせた。それが何も生み出さない行為だと聡明な彼女はわかってはいるけれど。
 ひとつの笑顔が浮かぶ。手を伸ばしても決して届く事はない、そんな高みにそれはあり、ゆっくりと、夢の残滓が朝に融けて消えていくように遠ざかっていく。きつく目を閉じて、クラレットはそれを自分の中に閉じ込めようとした。閉じた目蓋から、涙が押し出されるようにして流れ落ちる。
 
『俺は、泣かない。泣くくらいなら、無理矢理にでも笑ってやる。悲しみは足を止めさせる。怒りは自分を見えなくする。だから』

(泣いてなんて、いられませんよね)
 ハヤトの言葉を思い出して、クラレットは涙を押し留めた。
 誓ったのだ。必ず彼を取り戻すと。あの優しかった、誰よりも純粋な彼を。許される筈のない自分をその笑顔で笑い飛ばし、手を差し伸べてくれた人。一人ぼっちだった自分に、色々な事を教えてくれた人。
「……ハヤトさん」
 ハヤト。それが彼の名。異世界からこの《リィンバウム》に召喚された、誓約の戦士。再びこの世界に現れた、四人のエルゴに認められしエルゴの王。
 そして、魔王の依白をなってしまった、彼を。

(……ハヤトさんハヤトさんハヤトさん―――)
 散り散りになりそうな心を支えているのは、ただひとつの微かな希望。そう、希望とさえも呼べないような、微かな。




 冷たい、冷たい夜。重く横たわる暗闇と、潤いすらも奪っていく乾いた風。街から外れた荒野の中、大きなクレーターのできている場所にクラレットはいた。クレーターの周囲には魔方陣のようなものの残骸がある。ここがが歯車の回り始めた最初の場所。初めてハヤトを見た場所。彼と言葉を交わした場所。
(……そう、私が、彼をこの世界に呼びこんだ)
 彼は、声を聞いたという。助けて、と。今ならわかる、それは自分自身の声だ。サプレスの魔王をこの地に呼び寄せ、我が身を依り白として降臨させる為の魔方陣。消えてしまう自分を誰かに助けて欲しいと、ココロの奥で自分でも気付かぬ間に。
 その言葉を聞いてくれた彼が、魔王の依り白になってしまうとは、なんという皮肉だろう。
(……ハヤトさん)
 ぎゅっ、と手を握り締める。吹きぬけた風に髪が揺れた。いつもは解いている髪を後ろでひとつにまとめて。
 服は完全な戦闘用。腰に提げられた袋の中に入っている知りうる限り最強の召喚獣との契約を済ませたサモナイト石。
 腰の後ろにくくりつけた、扱いに長けてはいないけれど、それでも長い戦いを共にした短剣。
(ハヤトさん)
 魔王に支配され、姿を消してしまった彼。
 見つけてみせる、と誓った。
 助け出してみせる、と誓った。
 手段も何も、わからないままで。それでも。
(ハヤトさん!)
 あの時、声を聞いたと彼は言った。口に出さない、ココロの奥底だけで叫ばれる声を。自分でも気付かない、救いを求める声を。ならば。
「―――ハヤトさん!」
 あの時と同じように。否、あの時よりももっと強く、ただ一人のひとに向かって呼びかけるこの声を。全てを振り絞って彼を呼ぶこの声が。

 ―――この声が、あの人にとどかないはずがない!

 月は大きく、いつか見た時と変わっているようには見えない。つい先日、二人で見上げたばかりの月だ。
 クレーターの中心に下りて、クラレットはハヤトの名を呼ぶ。
 どれほど悔やもうと、過ぎ去った時間は取り戻す事ができない。わかっている。そんなこと―――わかっている。だからこそ、大切なのはいつでも、これからなのだと。そう教えてくれたのは、ハヤトだった。
 風が止んだ。辺りを染める月の死んだ光は、辺りの起伏に富む岩石に歪められ、歪な影を形作る。時間すら忘れるような静寂。星が瞬くごとに、月が冴えていくほどに、世界は温もりを失っていく。
 湧きあがる感情に目も眩み、クラレットは瞳を閉じた。目頭が痺れるように熱い。
 始めて彼を見た。
 初めて彼と言葉を交わした。
 この、召喚儀式跡で。
 過ぎ去った時間もう取り戻せないけれど。
 ―――けれど、あなただけは。
「ハヤト、さん……!」
 瞳を閉じたままで。けれども、じわり、と染みこんでくるような悪寒に肌が泡立つ。背筋を滑り落ちる冷たい汗。
 一息に季節を飛び越したように、空気が冷たさを増した。
 夜の闇が、更に深さを増した。
 辺りを覆い尽くす重圧は、それこそが圧倒的な力の差。
 けれど、引くことなどできない。
 彼を、魔王から取り返すこと。それだけを願って、今の自分は生きているのだから。
 悲壮な決意を瞳に秘めて、クラレットは正面にわだかまる闇を凝視した。
「……一人できたのか?」
 聞きなれない声。嘲りの色を隠そうともせずに舐めまわすような無遠慮な視線で、魔王は――ハヤトの姿をした魔王は――、クラレットの体を舐めまわす。
「……ハヤトさん」
 名を呼ぶ。なによりも力を与えてくれる名前。呼べば、いつでもココロが暖かくなった。なのに、今は口から漏れた彼の名前は、こんなにも悲痛な響きを帯びている。
「確かに呼んだのは俺だけど、まさか本当に一人で来るとは思わなかったな」
 夜を彩る闇すらも悠然と従え、ついの今しがたまでその闇しかなかった空間に、魔王はさも当然のように立つ。その傲慢さを、月すらも遠慮げに照らし出す。その魔王を、そしてハヤトを、クラレットは睨みつけた。
「返して、もらいます」
 大した興味もなさそうに、ふぅん、と魔王は気のない返事を返す。突き刺さるような視線の持つ力など、髪の毛の先ほども気にしたそぶりを示さない。
「返す? ……ああ、《コイツ》をね」
 とんとん、と自らの指で自分を指し示して見せる。堪え切れなくなったように、哄笑が漏れる。それを見て不快げにクラレットは眉を寄せた。熱いものが込みあがってくる。外見は自分の知っている彼のものでありながら、その体を操るのはもはやその少年のものではない。その事実に打ちのめされそうになりながら、それでも意識を奮い起こすものがある。
 その声で、その顔で。
 彼の姿で。
「―――そんな風に、笑わないでください!!」
 ハヤトの体を得たサプレスの魔王は哄笑を収めると、そう言うクラレットに向けて嘲るような視線を向けた。その視線に射られ、クラレットの体が強張る。
 できうる限りの準備をしてきたつもりだった。知りうる限りの魔法の道具と、自分が行使できる最高の召喚獣と誓約を済ませたサモナイト石。それにもかかわらず、それがいかに無駄な努力か、クラレットは一瞬で悟った。一戦を交えることすら無しに。ただ眼前に立っているだけで、力の差は明白だった。たかがニンゲンにどうこうできるようなものではないのだ。
 辺りは、既に魔王の支配化に置かれている。現の世でありながらも、既に異界の空気が立ちこめている。呼吸すらクラレットには不自由なものに感じられた。そんな彼女を見下ろす魔王は、傅かれる事を当然と思って疑わない傲慢で不遜な笑みを浮かべている。少年の姿をしながら、ただ立っているだけで無条件に他者を屈服させるような圧倒的な威圧感。彼女を見る目は、獲物の品定めをするような、それでしかない。野獣のような獰猛な笑みが口元に浮かぶ。
「……どうした?」
 呑まれてしまって動けないクラレットを見て、魔王はくっくっく、と喉の奥で笑う。
 本能的、とも言える恐怖の中で、砕けてしまいそうな意思を支えるのは、その姿。少年の姿を穢すものへの怒り。
「……ハヤトさんを」その言葉を口にするだけでも、多大な精神力を必要とした。「―――返してもらいます」
「どうやって?」あざけるような調子を隠さずに魔王は言う。―――おまえに何ができる、と。「オレは嫌だぞ。この体が結構気に入ってるからな。……力ずくでなんとかしてくれるのか?」
 なあ、と。これ見よがしの嘲笑をクラレットに送る。
「それに、おまえはコイツを欲しがっているが、オレを止めるにはコイツの体を攻撃しなければいけない。おまえにそれができるのか?」
 寧ろ楽しそうに、芝居がかった仕草で魔王は己を指し示してみせる。クラレットは強く口唇をかんだ。血が滲むほどに―――強く。
「……ハヤトさんは」
 極力何気ない風を装ってそう言葉を紡ぎながら、クラレットは手持ちのサモナイト石に手を伸ばす。
「そこに、いるんですか?」
「さぁな?」
「……約束、したんです」
 必ず、元の世界に返してみせる、と。
 必ず、守ってみせる、と。
 その約束を果たさないままで、自分がのうのうと生きているなど。
「それでしか、ハヤトさんを取り戻せないというのなら――」
 例え、ココロから永遠に流れつづける血液が、川となって私を縛りつけ、苛んでも。もう二度と、彼と笑いあうことができなくなっても。それで、彼が帰ってきてくれるのなら。おぞましい魔王の手の中から開放されるというなら。
 魔王の嘲るような笑みはそのままに。
 意識が弾けた。熱い塊が通り過ぎる。
 白熱。
 握り締めた、淡い緑の輝きを放つサモナイト石。一息の呼吸をする時間さえも要さぬ間に、躊躇う事無しにありったけの魔力を凝縮させる。自分がもっとも得意とするサプレスの召還術は、サプレスの魔王である彼には通用しない。ならば。
「誓約の元、護界召喚師クラレットが命じる――」
 無謀と言ってもいいほどの捨て身で。
 意識すらも白濁させたまま。
「来れ、灼熱の龍王よ―――!」
 空間が割れた。魔力によって歪められた空間に縦に亀裂が走り、そこに異界とのゲートを形成する。破壊の振動が辺りを覆い、ゲートからは強大な龍が姿を現す。
 クラレットがもっとも得意とするサプレスの召還術は、魔王である彼にはまったく効果がないであることは予測できた。だから、クラレットはメイトルパの術を魔王への攻撃手段として使った。
 剣龍ゲルニカが現れ、炎が吹き荒れる。夜の闇すらをも切り裂き、辺りを染める灼熱。全てのものを舐めまわすように吹き荒れ、やがて、召喚獣をこの世界に固定、具現化させておくための魔力も尽きて、唐突にそれは消える。
 乱れた呼吸を整える事もできずに、クラレットは膝をついた。それだけでは体を支えられず、拝むように両手を大地につく。これだけで終わったなどとは思っていない。立ちあがらなくてはいけない。追撃の為の、もう一撃の準備をしなければいけない。けれども、想いとは裏腹に体は言うことを聞いてはくれない。行使できる最高クラスの召還術の、さらに上のランクを行使したのだ。余力など残っていようはずもない。それでも、必死の思いで立ちあがる。
 爆発の際に生じた煙は今だ晴れない。ゆっくりと煙が流れて、視界が開けた時、そこに少年の姿はなかった。
 嫌な汗が吹き出る。
(――どこに!?)
「守る、ねえ。この程度の力で何を守れるというんだ?」
 衝撃が心臓を突き上げた。背後から声は聞こえた。
 振り返る事すらできない。声は余りに近すぎ、そしてあまりに恐ろしい。
 恐慌のままに――何かを叫んだかもしれない――振り返った、振り返ろうとした。反射的に召喚術でも放とうとしたのかもしれない。
 けれども、横殴りに吹き飛ばされた。二度、三度転がり、背中を打ち付ける。必死に立ちあがろうとしたその矢先、腹部を蹴り上げられ、息が詰まる。
「――っ!」
「……口ほどにもないな」
 悶絶し、ぜいぜいと息を吐くクラレットを見下ろして、魔王は面白くもなさそうに言った。
「おまえの《覚悟》とやらはその程度のモンだったのか?」
 ココロを染めるのは、粘ついた絶望。
 最大最強の召喚術であったというのに、爪の先ほどの傷すらつけることができない。それでも、クラレットは霞む意識の中で反射的にサモナイト石に手を伸ばした。それを見て、魔王は不快げに眉をひそめる。そして、足を持ち上げ、影を踏むような気楽さで下に下ろした。――サモナイト石に向かって伸ばした、クラレットの右の手に。
 声にならない悲鳴がクラレットの喉を焼いた。魔王はそれを意に介した風もなく踏みにじり続ける。
「……弱えな。退屈しのぎにもなりゃしねえ」
 踏みにじる力はまったく衰えない。クラレットはただもがき続ける。

「ホンッとに、その程度の力でよく来たよ。せっかく来たんだから――」下卑た笑みを魔王は浮かべる。「――歓迎するぜ。なにしろ、本来はオレの肉体になる筈のヤツだったんだからな」
 クラレットにとって、それは自分の罪状を読み上げられるようなものだった。そう、自分こそが本来その場所にいるはずだったのに。まったく関係のないハヤトを巻き込んでしまい、あまつさえ――。
 自責の念は、どこまでも深い。けれど、今ここにいるのはそれだけじゃない。
「……好きに、したらいい……」
 倒れたままで、苦痛に苛まれたままで。それでも瞳の光だけは失わずにクラレットは魔王を見上げた。その瞳に、わずかに魔王が感情を動かす。
「……殺したければ、殺せばいい! 私の体を使えばいい。私の意識を食らい尽くせばいい! ……だから」
 だから、彼を解放して欲しい。
 あの優しい少年に、世界を返して欲しい。
 彼の帰りを待っている仲間達に。
 なんの罪もない彼を。自分の境遇も恨みもせず、いつも周囲のみんなを気遣って、まったく関係ない筈の世界の為に命をかけて戦って。
 温かさを教えてくれた。
 誰かを求める事を赦してくれた。
 応える事で満たされる気持ちをくれた。
 かけがえのない少年。
「私が……私が全ての元凶なんです。私はどうなってもかまわない。だから、彼だけは、ハヤトさんだけは――」
「――そうだな。おまえが元凶だ」
 その声に、クラレットはなにか、不吉なものを感じた。本能が警告を発した、とでもいうのか。
 苦痛で霞む視界。魔王の表情は見えない。しかし、どんな顔をしていようとも関係ない。今の、この体勢こそが、絶対的な二人の力の差を表しているのだから。
 ふっ、と。
 右手にかかった重圧が消えた。
 痛みで霞んでいた視界がわずかに返ってくる。魔王がクラレットの傍らに膝を突いた。呆然と、クラレットはそれを見上げる。魔王は覆い被さるように覗きこみ、薄く笑ってみせる。表情こそ知らないものだが、その顔は紛れもなくハヤトのものだ。その顔が、クラレットのココロをかき乱す。
(こんなときなのに――!)
 そう口唇を噛み締めてみても、胸中に灯った疼きは消えてくれない。
 魔王は手を伸ばして頬に触れ、髪を撫でた。
 首筋に口付けし、胸に触れる。吐息がクラレットをかすめた。間近に見えたその顔は、紛れもなく獲物を捕らえた狩人のそれで、クラレットの胸郭に絶望を刻み込む。
「……どうなってもいい、と言ったな」
 低い声。染みこむような恐怖。
「……本来はおまえがオレの贄だったんだろう? なら、この身体」
 撫でまわす手は、声と同じように冷たい。今なら攻撃できると思いながらも、クラレットは動けなかった。抗う事ができなかった。己が俎板の上の鯉に過ぎない事を魔王の視線で思い知らされる。頭のどこかが、酷く冷めた声で囁く。――抵抗するだけ無駄だ、と。
「おまえはオレのものだ。言われなくとも好きにさせてもらうさ――」
 サディスティックな笑みで、魔王は手に暴虐と蹂躙の意思を込めた。
「望み通り、オマエを――コロしてやるよ」



 目が覚めた時、なんだか暖かいものに包まれているような感覚があった。ゆっくりと瞳を開いてみると自分を見下ろしている瞳が二つ。
「目が覚めました?」
 額に置かれている、繊手と呼ぶに相応しい小さな手。自分がどんな格好でいるのか気付いた時に、ハヤトの意識は一気に覚醒した。
「ク、クククク、クラレット!?」
「はい」
 膝枕された格好から、ハヤトは一息で飛び起きる。
「リプレさんに聞いたら、ここにいるだろうと」
「な、なんか用?」
 まだ普段の五割増して活動している心臓の辺りを押えながら、ハヤトは聞き返した。
「……特に用は、ないですけど。話がしたくなった、ではいけませんか?」
「いいけど……なんの話?」
 くるり、とクラレットは辺りに視線をめぐらせた。川の水面が太陽の照り返しできらきら光っている。彼女は、糸を川の中に投げこんだままのつり竿に目を止めた。
「ハヤトさんて、釣りがお上手なんですね」
 釣り竿と、入れ物の中に入っている魚を見比べながら、クラレットは言う。ハヤトは照れ隠しに頭をかいた。
「ホントは、海釣りの方が好きなんだけどね」
「……ウミ?」



 千切れる衣服の音を、闇の中に舞うその切れ端を、クラレットは別の世界の出来事でも見るかのように眺めていた。
 ふわり、と繊維の切れ端が辺りに散らばっていく。逆さまの視界の中で、現実感のないその光景。
 体を引き裂かれるような痛みも、もはや感じなくなりつつあった。どれだけの時間、その行為が自分に繰り返され続けたのだろう。魔王はまるで玩具でも扱うように、クラレットを壊れる可能性にも頓着せずに、思うが侭に貪り尽くす。
 悲鳴だけは漏らすまい、と思ってはいたが、そんな決意など風前の灯などよりもなお儚いものだった。繰り返し漏れる悲鳴は、しかし、魔王には蹂躙の喜悦を深める為のものでしかない。一方的な虐待。それにもかかわらず、クラレットは抵抗らしい抵抗を見せなかった。諦めた、というのとも違う。
「……以外に素直だな」
 興ざめした、といった風情で魔王は呟いた。
 クラレットは何も答えず、さっきまでと同じように光の消えない瞳で魔王を睨み付ける。
 苦痛はある。嫌悪を感じる。――けれど、決して屈服などしない!
「……ふん」
「――っあ……あ!」
「どこまで我慢できるかな?」
 先ほどまでの一方的なものとは違う。ゆっくりと、そして快楽を引き出すようにクラレットの中で動き出した熱に、体を仰け反らせ、爪など突き立たない大地に爪を突き立てる。
 涙が滲み、酸素を求めるように何度も口を開閉させる。意識が白く濁っていく。大きく広げさせた足を抱え込み、魔王は喜悦に顔を歪める。
「あっ……くあ……!」
 焼けるような熱さ。にじむ涙に視界も陰る。だから、クラレットには見えない。魔王の表情が喜悦を超えて歪んでいる事に。――当の魔王ですら。
「……いいことを教えてやろうか」
 不意に動きがやんで、クラレットは一時的とはいえ呼吸を整える。魔王が顔を寄せた。クラレットの耳元に口を寄せて、囁く。
「オレの中には、あのハヤトとかいう小僧がいる」
「……っ!!」
「不本意な話だがな、オレはあいつと同化している。どういうことかわかるか?」
 聞こえない。聞きたくない。キイテハイケナイ。
「今のオレには『ハヤト』が混じってる、てことさ」
「な……っ!!」
「つまりは、だ」顔を歪めて魔王は言う。「こうしたいと、おまえを犯したい、と。こいつだってそう思っていたのさ! どうだ? それでもおまえはこいつの為に命を賭けられるか?」
 哄笑。
 夜の闇の中に体を起こし、禍禍しき笑い声を辺りに振り撒く。
「……うそ……」
 呆然と、クラレットは呟く。
 自分がハヤトから与えられたものは、そんなものではない。誰隔てなく手を差し伸べる彼の大きさ。それこそ嫉妬を抱くほどの。
 そんな感情を抱いているとしたら、それは自分の方なのに!
 過ぎた望みだとわかってはいる。それでも、傍にさえいられたらそれでいいと。
 嘘。そう叫ぼうと灼けてまともに息をする事すら痛みを伴う肺にありったけの空気を吸い込む。しかし、その吸い込んだ空気はあっさりと霧散した。
 魔王の表情を見て、クラレットは凍りつく。
 歓喜?
 悲嘆?
 憤怒?
 絶望?
 激昂?
 哀切?
 どれかであり、どれでもない。その酷く苦しげな顔に、クラレットは意識を奪われる。
「……ハヤト……さん……?」
 見えているの?
 そこにいるの?
 そうだとしたら――こんなに残酷な事はない。
「ハヤトさん!!」
 胸の中に浮かびあがった激情のままに、クラレットは喉を震わせた。その激情が、あらゆる感情を凌駕していく。これほどまでに刹那的な感情。こんな感情に身を任せた事など一度もなかった。
 けれど―――今は。
 クラレットは腕を魔王の首に回して、頬を寄せて、囁くように言った。
「魔王の言葉なんて信じない。ハヤトさん、そこにいるんでしょう? ……戻ってきてください。私は、まだ貴方に何も伝えていない」
 すっ、と魔王の目が細まる。そこにはもはやさっきまでの歪んだ表情はない。
 吐き捨てるように、魔王は言う。「まぁだ足掻きやがるか」
 魔王はクラレットを自らの体から引き剥がし、傍らに膝をつくと、その白く細い首に手をかけた。
「――不愉快だ。本当におまえ程度にどうにかなるとでも思っていたのか? そう思っていたとしたら、それこそ救いようのない馬鹿だな」
 クラレットの首に手をかけたまま、何故か力を込めずに魔王がそう囁く。
「オレは嘘など何も言ってはいない。これまでは」と魔王は自分の胸のあたりを指す。「コイツの意思を尊重してやっただけだ」
 魔王の手に力が篭る。悲鳴すらも、声にならない。そのまま、また熱い塊が己の中を蹂躙する感覚に、意識も正常な思考力も白濁していく。虚ろな瞳で、クラレットは魔王を見上げた。その向こうには大きく丸い月。今の今まで気がつかなかった、今日が満月などとは。
「ここからは、オレの意思だ」
 耳朶に口唇を寄せ、魔王は言う。
「オレをこの世界に呼びつけた召喚師。――もともと無事に帰れるなんて思っちゃいねえだろう?」
 ぐい、と。それこそ、魔王は自分の為にクラレットの身体を動かした。
「っあ、あ、あぐっ……!」
 切れ切れの悲鳴がクラレットの口から漏れる。ぶれる視界。混濁していく理性。
「これで最後だ。……ちゃんと、味わえよ」
 声は冷たく。けれども、吐息は熱く。その落差にクラレットは涙を落とした。
 受け入れる相手の苦痛も何も全く省みない一方的な暴行。しかし、それがただの暴行だけならまだ救いもあった。恐ろしいのは、苦痛と紙一重の所に潜んでいるおぞましい快楽。魔王はそれを突き破ろうとする。
(嫌……)
 相手がハヤトであることが嫌だった。体を動かしているのがハヤトでないとしても、ハヤトに抱かれているという安堵に身をゆだねてしまいそうな自分が嫌だった。これはハヤトではないというのに。
「嫌……っ!!」
 身を捩るクラレットを見て、魔王は白刃に映る照り返しの光のような冷たい笑みを張り付ける。
「嫌……いやあっ!!」
 電流を流されているような感覚。自分がなにを言っているのかもわかならない。
 何度も何度も。四肢を硬直させて、儚い抵抗を試みて。
 クラレットは、泣いた。


 ふう、と魔王は息をつく。
「いい声だよ」
 ずるり、と魔王が自分の中から立ち去っていく感覚に、クラレットは背筋を泡立たせた。ようやくのことで視界が戻ってくる。見下ろす魔王の向こうに月が見えた。まったくそ知らぬ顔で見下ろす月。何もかもが遠く見える。
「まったく、いい声で鳴いてくれたよ。ああ、本当に――」思いがけないほど優しく、魔王の手が涙で濡れた頬を撫で、首筋にかかる。「――もう聞けなくなるなんて、少しだけ残念だな」
 魔王の声に殺意はない。それこそ、いらなくなった玩具を壊すかのような気安さ。玩具に殺意などいだく筈もない。ただ、その時の気分で壊したりするくらいだ。
 あまりにも大き過ぎる力の差。象が蟻を踏み潰すよりも尚酷い。ありとあらゆる蹂躙の限りを尽くされて、クラレットはただ月を見上げていた。月と、その手前に立つハヤトの姿をした魔王とを。
 絶望を突き抜けたら、それは虚無へと辿りつくのか。後は死の鎌が振り下ろされるだけだというのに、クラレットに感情の動きはない。形ばかりの抵抗も、何も。
 逃れられない。ハヤトを救うこともできない。
 羽根を毟り取られた小鳥のような無力さ。
「……おまえが全ての元凶だ」
 冷ややかな声がクラレットの耳朶を打った。
「おまえが中途半端に躊躇わなければ、オレもコイツもここにはいなかった」
 その通りだ、と思った。スベテは、己の弱さが原因だったのだから。
「コイツの手で、殺してやるよ。これは正当な復讐だ。なあ、そうだろう? ――『ハヤト』?」
 見上げる視界に、自分の首に手をかけたハヤト。
 ――そう、ずっとこうなる時を待っていた気がする。
「貴方になら……ずっと、殺されてもいいと思っていました……」
 罰して欲しかった。憎み、なじって、それこそこうされる事を望んでいたのかもしれない。事実、彼にはそうする権利と正当な理由がある。そうしなかったのは、彼の優しさ。その優しさに救われながら、けれど、その裏にはいつも拭い切れない罪悪感があった。
 それが今、清算されるのだろうか?
「……ごめんなさい……」
 力が篭る。喉が軋む。それでも、言い続けよう。この声が届いていると、そう信じて。
 この自我を手放す最後の一瞬まで。
 全ては自分が招いた事。だから、こうなるのは当然で。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
 たったひとつの気がかりは、この命が貴方の重荷になってしまうんじゃないかということ。こんなニンゲンを一人殺してしまったことくらい、すぐに彼が忘れてくれたらいいのだけど。
「……約束、守れなくて、ごめん、なさ……」
 いつか見た悪夢の中に、沈んでいく。もう冷める事のない永遠の悪夢の中に。永遠に彼に殺され続ける悪夢の中に。
 もう、魔王の声も聞こえない。それは、きっと幸福なことなのだろう。
 死の鎖に巻き取られた腕を、のろのろとクラレットはハヤトに向かって伸ばした。そっと、その手がハヤトの頬を撫でて。
 ぱたり、と落ちた。



 棒読み口調でクラレットがその単語だけを復唱する。
「そう、海。……ひょっとして、知らないの?」
 こくん、とクラレットは頷いた。ハヤトはそんなクラレットを見て、話始めた。海っていうのはね―――
「この」とクラレットは目の前のアルク川を指して、「川と比べて、どのくらい違うんですか?」
 ぷっ、とハヤトは吹き出した。我慢できずに笑いが零れる。きょとん、とした顔でクラレットはそれを眺めていた。
「……私、何か可笑しいこと言いましたか?」
「言いましたとも。川なんて比べられないよ。海はね、俺達が住んでいる大地の面積よりもずっと広いんだ。……こっちじゃどうかは知らないけど、きっと変わらないと思う」
「……そんなに広いんですか」
「そう、地平線みたいなんだ。どこまでもどこまでも続く水の大地。とっても蒼くって、そして冷たくて、水はしょっぱいんだ。川なんかと違って、中に入ると体が浮くような感じがする」
 はあ、とクラレットが話を聞きながら感嘆のため息を漏らした。
「夕方になるとね、蒼かった海の色が紅く染まるんだ。それが凄くキレイなんだ」
「……私は、本でしかそれを知りません」
 そして、知識だけで得たものが、実際に目で見て得たものに決して敵わない事も、これまでの彼と、そして仲間達との暮らしの中で知った。
「行こうよ」
「え?」
「いつかさ、一緒に行こうよ。きっと……楽しいと思う」



 乾いた風が吹きぬけていく。
 荒涼たる大地は、どこまでもそのままで。例えいくつ砂時計をひっくり返したとしても天地が逆になることなどないように、どれだけ時間が過ぎても荒野はそのままそこにある。
 夜を照らしていた月がやがて来る朝日の中に霞んで消えていってしまっても。
 荒野の一角、そのにかって穿たれた大きな穴。
 ひゅう、と。その大きな穴の一番深い所で、クラレットはそんな息を漏らした。それが自分の呼吸の音だと理解するのに数回その呼吸を繰り返した。呆然と、クラレットは瞳を開いた。慌てて体を起こそうとし、それもままならず横転する。息を吸いこもうとしてむせ、何度も咳き込む。それだけで全身に電極でも仕込まれているかのように苦痛を伴う電流が走る。
 血の混じった唾液を吐き、咳き込む辛さに体を折り曲げる。胃が痙攣を起こし、嘔吐感が急速に駆け上がってくる。
 何度も何度も、吐いた。
 意識が戻るということは死に迫るほどの苦しみを体に思い出させる。とった行為のひとつひとつが耐えがたい苦痛と苦悶のうめき声をもたらす。骨が軋み、筋肉は痙攣し、呼吸をするだけで痛みが走る。
 けれど、それも、生きているからこそだ。
 全身を覆う疲労。クラレットは先ほどの吐瀉物を避けて、また大地に身を投げ出した。受けとめる大地の固さに、自分に宛がわれていたあの家でのベッドのことを思い出した。どんなベッドだって、ここに比べたらましだ。
 遠のきかけた意識を繋ぎとめるのは、痛みではない。
 ふ、と息を漏らす。
 大声で笑い出したい気分だった。
 生きている。
 死ななかった。
 殺されなかった。
 ――殺せなかったのだ!
 喉の痛み。あの時確かに魔王は本気だった。たかがニンゲンひとり殺すのに魔王ともあろうものが躊躇うことなどあるはずがない。
 あの時贈られた嘲笑を、そのままそっくり魔王に返してやりたかった。
 たかが私ひとりの命も奪えない。
 たかがニンゲンの体すら思うように操れない。
 負けなかった。この思いは、自分とハヤトの思いは、魔王に負けてなんかいなかったのだ。
「……ハヤトさん」
 さながら空に向かって、まるでそこにハヤトがいるかのように呼びかける。
 生きている。
 あの状況で自分が生き延びる事ができるなど、そんな可能性は皆無だった。にもかかわらず、今現在自分は生きている。抵抗などしていない。できなかった。蟻を踏み潰すよりもなお簡単にクラレットの命を奪える立場にありながら、そうしていないということは。
 クラレットは目を閉じた。
(……貴方が止めたんですね、ハヤトさん)
 誰が見ているわけもないが、クラレットは両手で顔を覆った。とめどなく涙が溢れる。



「……はい」
「じゃあ、約束だ」
 そう言うと、ハヤトは右手を上げて、小指を立てた。クラレットはその意味がわからずに、首を傾げてハヤトと、その手を眺めている。あまりに子供っぽい行為だったか、とハヤトは顔を赤らめて、少し早口で説明を始めた。
「えっと、これは指切りって言って、俺の世界での、約束をする時にするんだ。指きりゲンマン嘘ついたら針千本のーます、ってね」
「まあ」とクラレットは目を丸くする。「針を千本……ハヤトさんの世界の人はそんなことができるんですか」
「できない、できないって! できないから、絶対に破らない。そんな大切な約束のこと」
「そうなんですか……」
 真面目な顔で、クラレットは頷く。ハヤトはそんなクラレットが可笑しくて、でも、不思議と穏やかな気持ちになって、小さく微笑った。
「えっと、こう、ですか?」
 そう言って、恐る恐る、といった感じで。
 クラレットはハヤトの小指に、自分の小指を絡めた。



(そうだ、私達は魔王の思い通りになんかならない!)
 涙を振り切ると、クラレットは痛みに顔をしかめながら体を起こした。そう、泣いている暇なんてない。自分の姿を見下ろして、酷い有様だと嘆息する。散らばった荷物の中に羽織れそうなものを見つけて、それを羽織る。まだ使えそうなものを拾い集めて、その中にあった傷薬で軽く手当てをした。
 下りてきた時の何十倍の時間をかけて、岩棚を登る。体が借り物でもあるかのように、重い。息を切らせながら、両の腕を突いて、ようやくのことでクレーターから体を引き上げる。
 空は白々と、次の一日を始める為に朝を生み出そうとしている。尽きることなどない日常を生み出そうと。純白の矢に、クラレットは目を細めた。
 朝は来る。夜がどれほどの絶望と喪失に彩られていようとも。
 朝は、来るのだ。
 必ず。
 取り戻す、と誓う。彼に助けられた命なのだから。
 死んでもいいと思っていた。殺されてもいいと思っていた。
(……違うんですね)
 魔王に乗っ取られても、それでもなお、ハヤトが貫き通した意志なのなら。
(私だけは、貴方に殺されてはいけない)
 果たす事のできなかった約束を果たす為に。生きて、探しつづけよう。求めつづけよう。そして、必ず辿り着く。いつかかならず、彼の人の元へ。

 この目は、世界のどこにいたって、例え別の世界だろうと、貴方の姿を見つけるために。
 この足は、例え世界を隔てていようと、貴方の元まで歩いて行くために。
 そしてこの手で、今度こそ貴方を掴まえて二度と離さないように。

 痛む体を引き摺りながら、それでも力強く。
 祈りにも似た折れることのない意思を、その両腕に抱きながら。

「……嘘ついたら、はりせんぼん―――」

 小指の約束。
 口ずさみながらこぼれた涙。
 それすらも、明日を繋ぐ約束だと。



『のーま、すっ!』



 そう、信じたくて。