正面からの突きを弾き、横からの斬撃を剣を立てて受ける。
(次は上!)
考えるよりも先に体が動く。バックステップして頭の上から降ってくるバノッサの剣を避けて、地面と足が接触すると同時に、撃ち終わりの瞬間を狙って、慣性を無理矢理捻じ伏せて右足を踏み込む。
踏み込んだその場所で、バノッサと目が合う。
バノッサの目が嘲笑う。
(――読まれてた!)
詰め将棋にも似た攻防。ナツミは自分が致命的な一手を差し間違えたことを悟った。バノッサの手を読んで行動する、その行動の結果さえもがバノッサの予測から外れなかった。
辛うじて傾けた剣でバノッサの剣を受けとめる。けれど、受け止め切れずに体勢が崩れた。手が痺れてしまって、次の攻撃は受けとめられない。バノッサの左手の剣で押さえられてしまっているので、距離を取ることもできない。
思考は刹那だった。
決断に要する時間は、刹那よりも更に短かった。
押しこまれるままに、その場所に尻餅をつく。バノッサがたたらを踏んだ。
(――間に合えっ!)
突き上げるように右腕を伸ばす。燃えるような灼熱感が心臓を通過して、手のひらに集まる。広げた手のひらを中心に世界が歪み始めて、白い光が溢れる。霞んでいく視界の向こうで、バノッサが剣を振り下ろそうとしているのが見えた。
『ナイフ』
真っ直ぐな少女は青年に出逢いました。
捻くれた青年は少女に出逢いました。
それが、はじまりで。
それだけが、
リプレの手から受け取ろうとしたカップが、ナツミの手の中を滑って、床へと落ちて砕けた。
「あっ、ナツミ、動かないで」
リプレはすぐに屈みこんで、てきぱきと割れたカップの破片を拾い上げ、床に小さな水溜りを作っている、カップからこぼれたコーヒーを拭き取る。その手際があまりにも鮮やかで、「手伝うよ」という暇すらなかったナツミは、
「ゴメン」と言った。「手、滑っちゃった。疲れてるのかなぁ」
「そうよぉ」リプレはびしっ、とナツミに指を突きつけた。「今日だって怪我して帰ってきたところなんだから。今日はもう寝たほうがいいわ」
「え? でもまだ早――」
「ね・た・ほ・う・が・い・い・わ・よ――」一言一言にスタッカートをつけて小気味良く、けれど有無を言わさぬ圧力で。そして、にっこり笑う。「――ね?}
「……ハイ……」
フィズにまで「早く寝なさいよぉ」なんてことを言われて、ナツミは肩を落とす。ましてや、リプレの言葉に異を唱えるなど持っての外だ。彼女に逆らえる人間など、フラットには存在しない。
廊下に出て、台所兼応接間に使われている通称『リプレの城』から見えないところまで歩くと、ナツミは壁に手をついた。さっきカップを受け取れなかった手は小さく震えていて、まったく握力がない。心臓はアレグレットのリズムを刻んで、こめかみが締めつけられるように痛み、立っていることですら辛い。どん、と肩が壁にぶつかった。
(……バレて、ないよね……?)
リプレに気付いた様子はなかった。リプレに気付かれていないなら、きっと、誰にも気付かれてないはずだ。この家のなかで彼女よりも目ざとい人間は、たぶん、いない。
ぐっ、と胃が縮んだ。胃の中にあるものをその場に吐き出してしまわないように、口元を押さえる。
部屋に戻れば、ソルがいる。皮肉屋でぶっきらぼうだけれど、本当は人一倍心配性なソルは、きっと、今のこの常態を知ったらこれは全部自分の責任だ、というような顔をするだろう。そうナツミは思った。そして、そんなソルの顔は見たくなかった。彼が向けてくる感情が、時々、重い。
よろめきながら、玄関を通って、外に出る。月明かりを全身に浴びた途端。堪えていたうめき声がたがを外されたようにナツミの口から漏れた。部屋の中では、声が漏れるのを防ぐことは出来ない。――そして、声を漏らさずに堪えることもできそうにない。
足を引き摺りながら、歩く。人気の少ない方を選んで。
どのくらい歩いたろうか、サイジェントの外周に近い、南スラムの端、打ち捨てられた廃屋にナツミは転がり込んだ。服が汚れるなどということを気にする思考は微塵も起こらず、その場に崩れ落ちる。
自分を構成している小さな細胞のひとつひとつの繋がりを無理矢理引き剥がされているような、絶え間の無い、激痛と呼ぶことすら生温いような痛み。自分の体が膨張して、そのまま膨れ上がる内圧に耐え切れずに風船のように四方八方に肉や血液や内臓を撒き散らして四散する――そんな妄想。出口の見えない痛みは、妄想を膨れ上がらせ、思考を狂わせていく。
「――あ」
四つん這いの姿勢で、額を地面に打ち付けた。すぐ傍にあった石作りの壁に腕を叩きつける。二回、三回。気持ち良かった。終わらない激痛の中では、小さな痛みはひどく甘い快楽に似ていた。
「――ああ」
ひびの入った石壁に、ナツミ自身の腕と同じ形をした赤い痕が付いていた。開いた右目は真っ赤に染まって何も見えない。
内側で膨張を続ける力が、体を、心を、犯していく。いいように蹂躙され、陵辱され、歪められ、貶められ、重力加速度のように急速に、今まで存在していたものが組み替えられていく。
「――あああああああああああああああっ!!」
絶叫が喉を灼く。
わけもわからず手に入れた傲慢なまでに強力な力。
これが、その代償なのか、とナツミは胡乱な頭で思考した。
青年と同じ場所に立つために、少女は背伸びをしました。
青年と同じ場所に立つために、少女はたくさん傷つきました。
青年と同じ場所に立つために、少女はたくさん傷つけました。
青年と同じ場所に立つために、心をナイフのように鋭くしました。
どのくらいの間喚いていたのか、わからない。ほんの一瞬のような気もしたし、もう何時間もこの場でもがいているような気もした。痛みに晒され続けた体は、もう神経が灼き切れてしまったのか、痺れたように重く、反応も鈍い。目は開いているのに何も見えないし、耳は水の中に放りこまれたみたいにざあざあと意味のない木霊を響かせている。
なのに、その声だけははっきりと聞こえた。
「――いいザマだなぁ、はぐれ野郎」
誰の声か。聞き間違えようもない。誰何する必要もない。
「……バノッ……サ?」
うっすらと視界に映る、頭のすぐ上で自分を見下ろしているシルエットは、確かにバノッサだ、とナツミは思った。
「まったく、無防備なこったなぁ。ええ?」
鯉口を切る音。楽器の音色のような鞘鳴り。バノッサが刃を抜いたことが分かった。
「意外と長い付き合いになっちまったが、そろそろ終わりにするか?」
(……あれ?)
刃の照り返し。月の光。頭上に大きな月が見えた。
(おかしいな。月が見えるわけないのに……)
バノッサが。彼が手にした刃が、この痛みを断ち切ってくれるなら。
(それも、悪くない、かな)
だから。
刃を手にしたバノッサを前に、ナツミは目を閉じた。何故か、ひどく穏やかな気分だった。死が目の前にぶら下がっているというのに、それを拒絶するような気にはなれなかった。
元の世界に帰れないことは、ナツミにとっては正直、もうどうでもいいように思えた。リィンバウムでたくさんの優しい人達に出会えた。たくさんの優しい人達から、たくさんの大切なものをもらって、たくさん学ぶことができた。
だから、
(ソル……あたしは、後悔なんて、してないんだよ。ソルが感じてる責任なんていうものは、まったく的外れなんだ)
もっと、みっともない人間だと思っていた。どんなに見苦しくても、最後の最後まで生きることに執着してあがくんだと思っていた。そういう時が来たならば、きっと、どんな手を使っても生き残ることを考えるんだと自分では確信していた。
なのに、今はどうだ。死を目の前にして、まるでそれを受け入れるように目を閉じている。
いいんだ、とナツミは思った。他の誰でも、たとえソルであっても、殺されてやるのはゴメンだ。
(だけど、バノッサならいいんだ)
何故か、そう思った。
鋭いナイフは少女を傷つけて、少女の傷口からは雫が落ちました。
まるで、涙のような。
目を開けた。バノッサの剣は落ちてきたのに、ナツミはまだ生きていた。すぐ耳元で髪の数本を貫いて地面に突き立っている剣に反射った自分の目を見ながら、ナツミは言った。
「……なんで」
体を起こそうとしてみたものの、まったく力が入らずに、爪先が小さく地面を引っ掻いただけだった。
「死にたいのか?」バノッサは言った。
ナツミは答えない。
「殺してやるよ。ただし――」バノッサは口元を歪める。「オレと戦え」
(……戦う?)
「やっと面白くなってきたところだ」左手で魅魔の宝玉を弄びながら、バノッサは言う。「今更テメェから降りるなんざ、オレは認めねぇ」
「勝手な……ことを……」
「勝手なこと? 違うだろう」バノッサは突き立てた剣を引き抜いて、鞘に収めた。「これは、オマエから始めたゲームだぜ、はぐれ野郎。ちゃんと責任はとってもらわないと、な」
手を付く。動く。膝を付いて、体を起こす。
「……ゲーム?」
「そうだ、ゲームだ。オレが勝つか、オマエが勝つか。もしくは――」バノッサは魅魔の宝玉を見る。「どっちが先に、過ぎた力に潰されるか」
どっちが先に潰されるか。それはつまり、バノッサも魅魔の宝玉の力を引き出すことによって体を蝕まれているということ。ナツミは立ちあがった。膝が笑う。それでも、バノッサを見上げているのは嫌だった。バノッサに見下ろされているのは嫌だった。
「勝手なこと……言わないで! そんな力……なんで欲しがるのよ!」
「オマエがいるからだ」
「そんなの――」理由にならない、という言葉は、バノッサの次の言葉にかき消された。
「オマエが悪い。本気で、こんなにも本気で強くなりたい、力が欲しいと思ったことはない。誰かに勝ちたいと思ったこともない。ただ潰すんじゃねぇ……自分の力で、オレのこの手で殺してやりたい。オレを、そんな気分にさせちまったんだからな」
たとえ、そのために命を削ることになっても。
たとえ、そのために命を失うとしても。
「オマエのせいで気付いちまった。酒を飲んでもクスリをキメても女を抱いても、オマエと戦ってる時に比べたら全然全くこれっぽっちもトべねぇ。オマエじゃないとダメなんだ」
それはまるで、愛の告白のような――
「だから、オマエはオレが殺す」
――死刑宣告。
「……喋り過ぎたな」バノッサは踵を返す。ばさり、と彼のマントが翻った。「さっさと回復して、オレと戦え。オルドレイクの儀式はもうすぐだ。オレはあんなものどうでもいいが、オマエはそれを止めたいんだろう」
ナツミは答えない。答えられない。
「止めたいなら、オレを殺して、オルドレイクを殺せ。はっ、他の誰にも殺されるなんざ御免だが――」
バノッサは振りかえる。
「オマエに殺されるなら、まあ、悪くはない」
その言葉と、その瞬間に見えたバノッサの表情は、ふらつきながらも追い縋ろうとしたナツミの意思と気力を根こそぎ薙ぎ倒した。バノッサの姿が遠くなり、見えなくなる。立っていることもできなくなって、ナツミはその場に膝をついた。
笑いたいのか、泣きたいのか。
怒りたいのか、哀しみたいのか。
どうしてバノッサは、笑っていたのか。一度も見せたことなんて無い、ただ楽しいから、笑う。そんな顔をしていたのか。
何もわからなかった。ありとあらゆる感情が溢れ出して、ナツミはその場所に仰向けに倒れると、結局笑い出した。笑って、笑って。
笑いながら、少しだけ泣いた。
顔を合わせるたびに、刃を交えるたびに、言葉を重ねるたびに、バノッサという人間のことを知っていく。理解していく。それが増えていくことが嬉しいことにはずなのに、何故かその代わりに掌の中から失われていくものの感触がひどく生々しくて。
失われていくものたちのことを想って、
自分はもう、あらゆる選択肢を全て自らの手で潰した上で、すでにこの道を選択したのだということを理解して、
少しだけナツミは泣いた。
少女はナイフを引き抜いて、全身を真っ赤に染めたまま走り出しました。
もっと強く。
もっと鋭く。
そのせいで失うものの大きさを、少女はちゃんとわかっていました。
わかって、いたのに。
いつの間に眠っていたのだろうか。目を開けて、重い頭を振って体を起こすと、そこはいつもの彼女の部屋で、椅子にはソルがこちらを向いて座っていた。
「……ソル」
ソルは厳しい目でナツミのことを睨むようにして見ている。ナツミは彼から目を逸らして、額に落ちてきた前髪を撫でつけた。
「――いつからだ?」不意に、ソルが言った。「いつから、体に反動がくるようになってたんだ?」
ナツミは答えない。
「……どうして、俺に何も言わなかった」
ナツミはソルを見た。怒りや、落胆や、辛さが入り混じった顔。言っても多分分かってもらえないだろうとナツミは思う。そんな目で見られたくなかったら、言わなかったんだということに。
「言ったら……どうにか、なった?」
ソルは言葉に詰まる。怒りを通り越して、悲しみ、そして失望。ナツミは後ろに下がって、ソルはその場に立ったまま。距離は初めて出会った頃のように開いている。
「今ならたぶん、まだ間に合う。戦いは俺達に任せて、体を治すことに集中しろ。オルドレイクは、俺達でなんとかするから」
ナツミは答えない。
ベッドを下りる。体はまだ少し重かったけれど、動けないほどではなかった。もう一日くらい休めばまともに動けるようになるだろう。
「……バノッサのこと、好きなのか……?」
ナツミは答えない。
鏡を見て髪形を直すと、いつものように剣を腰に帯びた。
「ナツミ……!」
とんとん、とブーツのつま先で床を叩く。そのまま歩いて、ドアのノブに手をかけたところで、ナツミは振り返ってソルを見た。
「誰にも邪魔はさせない」ナツミは言った。「誰のせいでもない、誰の責任でもない。これは、あたしが始めた、あたしの戦いなの。誰かの――ううん、ソルの責任にするつもりなんて、これっぽちもないよ」
その後に続く言葉を、ナツミは飲みこんだ。飲み込んだ、けれど、きっとソルには伝わってしまっただろう。
――たとえ、あたしが死ぬことになっても。
息を切らせて、目の前でナイフを構える少女に、
青年は、生まれてはじめて微笑いました。
少女もたぶん、微笑っていました。
馬鹿だなぁ、とナツミは思う。
救われないなぁ、とナツミは思う。
「バノッサを殺していいのはあたしだけ。あたしを殺していいのは。バノッサだけ」
ソルに、ではない。誰に聞かせるでもない言葉を、ナツミは紡ぐ。
「……それだけが――」
それだけが、
ソルを部屋に残したまま、ナツミは静かにドアを閉めた。