日が落ちて夜になっても、空気はまるで水の中にいるみたいに重くて、湿っていた。昇降口で靴を履き替えると、数歩進んでから振りかえる。
「ごめん」私はそう言って、唇の両端を少しだけ持ち上げた。「遅くまで付き合せちゃった」
「気にすんなよ、香里」そう言うと、相沢君は笑ってみせる。「香里に貸しを作るのは好きなんだ」
「言ってなさい」
 手に持ったままだったファイルを鞄の中に入れて、どちらから、ということもなく並んで歩き出す。そういえば、相沢君と二人だけで帰るのはひょっとしたら初めてかもしれない、と私は思った。いつもはほぼ確実に名雪か栞が相沢君にべったりくっついているから。
「そういや、香里と二人だけなんて珍しいよな」
 相沢君がそんなことを言って、私は笑った。同じことを考えていたんだと思うと、何故か可笑しくなった。
「香里のファンに殺されるかもな」
 襟元を緩めてぱたぱた風を送りながら、冗談めかしてそんなことを言う。
「じゃああたしは相沢君のファンに殺されるわね」
「いないいない」
「あたしにだってそんなのいないわよ」
「俺はともかく、香里は――」
「あたしはともかく、相沢君は――」
 同じことを同時に言って、顔を見合わせて私たちは笑った。笑った後で、相沢君は小さく肩を竦める。この話題は終わり、とでも言うように。そして、不意に立ち止まった。どうしたの、と聞く前にズボンの後ろのポケットから財布を出して、相沢君が立ち止まった場所の少し先にあった自動販売機に向かうと、硬貨を入れる。
「ほい」
 そんな声が聞こえたかと思うと、何かがゆっくり山なりに飛んでくるのが見えて、私は慌ててそれを受け止めた。冷たさにびっくりして取り落としそうになったけれど、なんとか落とさないですんだ。相沢君はそんな私を見て笑うと、自分の分を取り出す。
 アイスのミルクティー。私がよく飲んでいる銘柄だった。
 相沢君はガードレールに寄りかかると、プルタブを押し込んで、口をつける。そのまま一息で半分くらいを一気に飲んだ。私は少し迷ったけれど、相沢君の隣りで、相沢君みたいにガードレールに体重を預けて、一口だけミルクティーを飲んだ。
「いいの? 相沢君の奢りで」
 口をつけてしまってから言うのも間が抜けているな、と思ったけれど、一応訊いてみる。
「いいさ」相沢君は言った。「いつも名雪や栞に奢らされてるのを考えたら、これくらい安いもんだ」
「ごめんね」
「何が」
「……栞、相沢君に奢らせてるんだ」
「いいさ。気にすんな」
 男の甲斐性かな、そんなことを言って相沢君は笑った。それにつられるようにして、私も少し笑った。とても、平和な時間だった。よくよく考えると、なんの変哲も無いこんな時間が、返って非日常的なんじゃないだろうか。相沢君はいつも気紛れて、ワガママで、嘘吐きで。でもそんな印象は、名雪や栞と遊んでいるところを、いつも私が一歩引いて見ていたから出来上がっていたのかもしれない。
「栞で思い出したけど」
「何?」
「香里の夢に、色はあるか?」
「何それ。将来が明るい色か、って? 受験生に言う言葉じゃないわね」わざと、私はそんな捻くれた受け答えをする。
「そうじゃなくて、眠っている時に見る夢の方」
「栞が言ったの? それ」
「そう」そう言って、相沢君は微笑う。いつもよりも、ちょっとだけ優しい笑い方。「栞がさ、すげーキレイな夢見たって何回も何回も言うからさ。すごいキレイな天使が出てきて、私を助けてくれたんです、って」
「あの子らしいわ」香里はため息をついた。「あの子、目を開けたままでも夢を見れるんだもの」
 言えてる、と相沢君が笑った。「ナチュラルドリーマー栞。今度本人に言ってみよう」
「そんなこと言う人嫌いですー!」
 ぎょっとしたように相沢君が私を見る。そんな相沢君の顔に一瞬だけ目を丸くして、けれどすぐに笑った。「――て言うわね、きっと」
 私がそう言うと、相沢君は、はー、と大きく息を吐いた。
「何? そんなに似てなかった?」
「いや逆。すげー似てた。心臓止まるかと思った」
「大袈裟ね」
 苦笑いしながら、さて今の反応は喜ぶべきか哀しむべきか、それとも怒るべきなのだろうか、と私は思った。どれかのような気もしたし、その全てのような気もしたし、どれでもないような気もした。わからなかった。
 相沢君が私を見た。
 私も、相沢君を見ていた。
 五秒間。

「夢のことだけど」ほんの五秒間を、まるで何も無かったように相沢君は言った。「俺、色付きの夢って見たことが無いんだ。いつもモノクロ。色は無いけど、音が聞こえる」
「あたしも」だから私も、何も無かったように相沢君の言葉に答えた。「色付きの夢はみない。でも、そうね。音が聞こえるわ。ピアノの音。何回練習してもキレイに弾けなかった曲を弾いているの。どれだけ一生懸命練習してもでなかった理想の音で。こんな風に弾きたい、って思ってたそのままの音で」
「知らない曲を歌ってるんだ」相沢君は言った。「知らないし、目が覚めたら全然憶えてないけど、すごくいい曲なんだ。目が覚めても憶えてないのが、ちょっとだけ悔しい」
「不思議ね」私は言った。
「似てるな」相沢君が言った。

 どちらから、ということはなく。
 体を寄せて、私達はキスをした。

 私を見ている相沢君の肩越しに、夜を見た。色が消えて、等間隔で立っている街灯の明かりが作り出す、濃淡だけの世界。月。少しだけかかっている、雲。それらがあまりに綺麗に思えて、ため息も出ない。どこまでが現実で、どこまでが夢なのかわからなくなる。まるで作り物みたいな、何の変哲も無い夏の夜。
 ただの成り行きみたいにしたキスなんて、すぐに忘れると思った。ずっと遠くにいるわけではなく、けれど、近くにいることもない。遠くも近くもない人。それがきっと、私にとっての相沢君なんだろうと思った。
 どちらから、ということはなく。
 何も無かったように。
 空き缶をゴミ箱に向かって投げて。
 ありふれた言葉で私たちはさよならを言った。

 とても、とても理解できるような気がして。
 わかったような顔をするのが苦手で、天災を除く世界に起こる全ての事象は、きっと私以外の誰かが画策したことで、そんな世界を興味深いと思うから、私は観察して、その間は自分を第三者だと思いこんでいる。自分以外の人間が何を考えて生きているかなんてまったくわからない。わからなくて当然だと思っている。理解するのもされるのも、無理な話。だって他人だから。たとえ自分と全く同じ環境に育った人が居たとしても、その人の視点が違えば、見るものも感じるものも異なるわけで、同じ人生からでも、たぶん違うものを得るのだと思う。別に私が特別だと思っているのではなく、特別という言葉を使うならば、誰もが同じ程度に特別なのだから、理解し合えなくて当然なのだ。誰かが私を理解しなくても憤慨しないし、他人を理解できなくてもそれなりに上手くやっていける。
 でも。
 わからなくなる。
 理解できなくて当然の他人と付き合う方法は知っていても、理解できるような気持ちになってしまう人間とは、どうやって付き合ったらいいのかわからない。そういうときはどうしたらいいのだろう?
 理解できるよ?
 共感した?
 アナタとアタシは、とてもよく似てるね?
 そんなこと、言えるわけがない。

 ――だから、私は戸惑う。

「……好き」
 小さく囁く。届かないくらいの小さな声。どどかなかったかもしれない。それならそれで構わない、と思った。そんな気持ちがまったくなかったかと言われたら嘘になってしまうけれど、答えを求めていたわけじゃなかった。
 ただ――何だろう?
 知って欲しかったのかもしれない。
「ありがとう」
 その声は、私の声に負けないくらい小さな囁きだった。私は「えっ?」と思わず訊き返していた。
「ありがとう。すごく、嬉しい」
 そう言って、相沢君は優しく微笑う。けれど、それを見た瞬間、これはいつもの相沢君じゃないのがわかって、私は肩を落とした。世界は原色で作られていて、相沢君は狂ったような配色のままで笑っている。右目がアクアマリン。左目はアメジスト。サイケデリックな配色にくらくらする。
 イミテーションの宝石みたいにぴかぴかしている二つの目で私を見ながら、見たことの無い、この上はないんじゃないかと思えるくらいの優しい顔をしている相沢君。そんな相沢君を見て、ああ、嘘をついているんだ、と私は理解した。そう理解して、哀しくなった。
 そして、唐突に夢は終わった。


 いつも通りに朝が来て、布団を頭から被ったまま、今朝見たばかりのその夢を思い出した。それで、私はふと気が付いた。私の夢には色があった。しかも、あれほどまでに鮮やかな色が。脳裏に焼き付けられた、相沢君の左右違う瞳を思い返しながら、私はまた少し哀しくなった。
「私の夢には、やっぱり色があったよ」
 私は、今日また学校で、昨日の会話の続きのように話し掛けることは絶対に出来ないだろうと思った。だって、どんな夢を見たのかを訊かれたら、私は言葉に詰まるしかないのだから。
 そっと、唇に触れた。あのキスは、夢じゃない。それは喜んでいいことなのか、それとも哀しむことなのか、それとも後悔することなのか。
 私には、わからない。