涙の色は、とても不思議な色をしている。青かったり、緑だったり、ひどいときは赤かったり黒かったりする。比較的綺麗な色の時は、割と落ち着いた気分でいられるけれど、サイケデリックな色の時はどうにも駄目だ。自分の体から出てきた液体が赤かったり黒かったりするのが最高に気持ち悪い。と嘆いてみても、そのときの私にはどうすることもできない。あたりは狂ったような配色の雪景色。見渡す限り、雪しかない。それも、吐き気を催すような紫から赤へグラデーションしていく雪だ。頬にべったりと気持ち悪い色の液体をつけたまま立ち上がる。三歩進んだところで見えない透明な壁にぶち当たる。つまり、私はここからどこにも行けないということだ。ああなるほど、と不思議と納得した。ここにいろってことね。それが私に相応しい。そういうこと。
 そんな、夢。





「透明」






 さてどこから手をつけようか。色合いも鮮やかな、目の前で手をつけるのを待ちわびているかのような小さなお弁当箱の中身に、私は問いかける。一番最初に食べられたいのは、誰?
 なんとなく、卵焼きが手を挙げて「はい、僕僕!」と言っているような気がして、箸で突き刺すと、口の中に放り込んだ。ふわりと柔らかく、そして少し甘い卵焼き。私じゃない誰かの好み。まあ、それも悪くないか、と思う。
「香里、なんだか満足そう」
 自分のお弁当箱の中から最初の生け贄をハンバーグに選んだ名雪が、私の顔を見てそう言った。
「なるほど、ハンバーグが名雪を呼んだのね」
「え?」
「うん、そう言われてみると確かに、ハンバーグが呼んでいるような気もするわね。まあ、あたしを最初に呼んだのは卵焼きだったけれど」
「え? え?」
 よくわからない、と名雪がきょろきょろ視線をさまよわせる。うん、それはそれで、なかなか面白い。そう、特に、
「ジョークは意味がない方が面白いわよね」
 降参、と名雪は白旗を上げる代わりに、手にしていたフォークで天井を指した。
 私たちを取り巻いている昼休みの教室の喧噪は、とても近くて、なんだか遠い。
 たぶんそれが、日常。
 そう、例え、「今日の突撃お昼ご飯ー!」とか意味のわからないことをほざいて教室でご飯を食べている人のお昼ご飯を物色しまくっている二人組がいたとしても、まあ、私たちに被害が及ばない限りはただのお昼時の喧噪だ。
 私は祈る。
 お願いだからこっちこないで。
 祈りや願いや願望は、基本的には叶わないものだ。わかっているけど私は願ってみた。何に願えばいいだろう。日本には八百万の神がいるという。つまり、周囲にあるあらゆる物に神が宿る、そんな思想だ。だから物は大切にしなければいけない。とてもとても表層的な理解だと自分は思うけれど、それ以上踏み込もうとも思えない。とりあえずこの場合はなんの神様だろう。普通に食べ物の神様だろうか。もっと細かく白菜の神様か、お米の神様だろうか。机や椅子の神様に祈ったらあの二人の進行を妨害してくれるだろうか?
「香里はさ」徐々に距離を縮めてくる二人組にそこはかとなく視線を送りつつ、名雪は言う。「なんか、雰囲気変わったよね」
「誰でも」そこはかとなくお弁当をガードできる位置にずらしつつ、私は答えた。「変わっていくものでしょう?」
 名雪はくるくるとフォークに巻き付けたスパゲッティを、ぱくり。もぐもぐしながら小首を傾げて考えつつ、
「うーん、そうかもしれないね」
 と言った。
「まあ」私は言う。「名雪は出会った頃からぜんっっぜん変わらないけどね」
 名雪は悲しげに眉をひそめつつ、「わたしだって変わるもん」と言った。
 そんな表情こそが、出会った頃から変わっていない部分だよ、と私は言わなかった。

 放課後、特に用事もなく、帰ろうと思って昇降口で靴を履き替えようと下駄箱をのぞき込んだ私を出迎えたのは、小さな白い封筒だった。む、と私は眉を寄せる。しかしながら、下駄箱の中から私を見返しているその白い封筒は、私が一瞬で連想してしまったある儀式関係の物とは違うようだった。なんというか、重さが違うというか。まとった空気のよどみ具合が違うというか、そんな感じ。
 別にやましいことをしているわけでもないのに、ついあたりを見回してしまう。うん、こういうことで勘違いされて噂が立ったりすると、面倒だし。
 自分で思っているよりももっと慎重な手つきで、あたしの手がその封筒にかかる。もう一回辺りを確認して、ゆっくりと封を破る。そこから出てきたのは、一枚の小さな可愛い二つ折りの便箋。なんだろう、と思いながらそれを開く。そこに書かれてあった文字を私の視神経が認識して、脳に情報を送る。脳がその情報を処理して、そこに書かれてある文字の羅列に意味を見いだしたその瞬間、厳密に言えば脳から腕に指令を送るその電気信号の速さ分の時間で、私の手はその脳の指令に忠実に、便箋を握り潰した。
 くるりときびすを返すと、いつもより三割り増しくらいの速さで元来た教室への道のりを歩いていく。
 相沢祐一。
 私の何色かは分からないけど、脳細胞は、奴を犯人だと断定した。どうしてくれよう、と考えながらずんずん歩く。すれ違った下級生が何故か恐れおののくように道を開けてくれたけど、そんなの割とどうでもいい。とりあえず、どうしてくれようか。
 教室に戻ると、件の男、相沢祐一は鞄を手にして、これから帰ろうとしているところだった。相沢君は私の顔を見て、笑いたいような、でも失敗したような、左右非対称の複雑な顔をした。
「相沢君、話があるんだけど、時間あるかしら?」
「残念だな、今日はこれから帰ってもうすっかり俺の家族の一員になっている盆栽の世話を――」
「そう、暇なのね、よかったわ」
 にっこりと笑う。おまえそれ怖いからやめろって、とため息を吐きながら相沢君がつ呟いたけど、そんなの聞こえない。
「帰り、つきあってくれるわよ、ね?」
 ね? にアクセントをつけて問いかけると、相沢君は肩をすくめて、やれやれ、と呟いた。


「で、これはなんの嫌がらせなのかしら?」どことなくしわくちゃになった便箋をひらひらさせながら、私は言う。「出るとこ出たらいいのかしら? ああ、でも、その場合ってどうなるのかしらね。あたしが感じた精神的苦痛をお金に換算したらいくらぐらいになるのかしら?」
「ほんの」沈痛な表情で相沢君は言う「ほんの出来心だったんだ」
「へえ?」
「栞が、どうしてもやりたいって相談してきたから……」
「あら栞に責任転嫁? 男らしくないわねぇ」
「くっ……っ」
 商店街のベンチに座って、KO負けしたボクサーのように相沢君はうなだれる。そんな相沢君を横目で見ながら、私は手の中にある便箋に視線を落とした。

 み さ か か お り ち ゃ ん お た ん じ ょ う か い の お し ら せ

 こんな馬鹿なこと考えるの誰だ。いやまあ分かってはいるんだけれど。そして右下に描かれている絵がまた憎たらしい。何が憎たらしいかって、こんな幾何学模様が私の似顔絵をポップにキュートに描いたつもりなんだろうって分かってしまうことがなにより憎たらしい。自分が憎たらしすぎて世を儚んでしまいそうになる。美的センスを根こそぎ杭打ち機かなんかでガンガン打ち壊されていくような気分だ。
「まあ」相沢君がうなだれたままで言った。「あいつなりに、がんばってるんだ」
 がんばっている。何を、とは私は聞かなかった。がんばっている。あの子は、いつもがんばっている。がんばっていない私とは対照的に。サイケデリックな夢の中で泣いている私とは対照的に、あの子は綺麗な夢の中を、自由に歩いているのだろう。
「だからまあ、俺が言うのもなんだけど、つきあってやってくれ」
「それこそ、相沢君に言われるのは心外ね」手の中の便箋を折り畳むと、ポケットにしまう。「あたしが、つきあわないと思う?」
「いや」相沢君は顔を上げて、笑った。「思わない」
「でしょう?」
 毎日を笑って過ごせる人なんて、ものすごいバカかものすごい天才だと思ってた。どっちにしても、そんなの奇蹟だと思ってた。私はとても平凡で、だから毎日笑うことばかりでもないけど、毎日怒るほどのこともないし、毎日泣きたくなるわけでもない、そういうのが当たり前だと思ってずっと今まで生きてきた。毎日を笑うために、割と本気で努力しちゃってる人に出会うまでは。
「ねえ相沢君」
「なんだ?」
「なんか、寒くない?」
「冬だからな」
「あったかーいもの、飲みたい気分じゃない?」
「ああ、あんなところに自販機が」
「駅前にさ、ジランっていう紅茶専門店、最近できたのよね」
「それがどうした」
「一回そこの紅茶飲んでみたいかなって」
「行ってらっしゃい」
「相沢君の奢りで」
「ど真ん中来たっ!?」
「変化球の方がよかった?」
「それを聞かれるのはとても微妙だ」
「消える魔球とか」
「意味わからん」
「じゃあ、行きましょ?」
「確定か?」
 やれやれ、と呟くと相沢君は立ち上がった。その様子をみながら、私はくすくすと笑う。不満そうな顔だった相沢君も、肩をすくめてにやっと笑った。
「ま、紅茶一杯で香里の笑顔見れるなら、安いもんだと思っとくか」
「あら」私はぽんぽん、と相沢君の肩を叩く。「相沢君っていい男じゃない」
「もっと言え」
「ジョークって、意味がない方が面白いよね」
「マジでへこみそうだ」
 あはは、と笑いながら私は歩く。
 あの頃の私にはどうしてもできなかったことが、今は少しだけ上手にできるようになった。だから、今の私はもう自分を投げ出したりしないし、他人をあんなふうに傷つけたりはしない。自信はある。
 だけど、今それをどんなに上手くできるようになったって、あの頃できなくて投げ出してしまった何かはもう戻ってはこないし、私が作った誰かの傷跡はいつまでもいつまでも消えなくて、だから今でも私は夢の中でだけ、泣く。
 誰にも届かなくても。

 雪の積もった街は真っ白で、涙の色は透明で、四歩目に踏み出した足は見えない透明な壁にぶつかることはない。