『ライフ』



 けたたましく階段を上る音。だんだんどの足音が近くなってくる。どがんっ、といっそドアが壊れたんじゃないかというような音がした後、ドアの向こうから「あぅ〜」と声が聞こえた。きっとどこかのバカが外開きのドアを内側に押し開けようとして体ごとぶつかった挙句、ドアに嫌われて額を打って痛みにもがいている声だろう。さして珍しくもない。
 しばらく考えて、まあいいや、と俺は起こしかけた体をベッドにもう一度倒した。いちいちアイツの相手をしてやれるほど暇じゃない。いや、まあ、暇ではあるんだけれど。
 冬が寒いんだから、夏は涼しいだろう――そんな俺が抱いていた当然の期待は、ここ数日裏切られっぱなしだ。こんな北の国で三十度を越えるなんて詐欺だとしか思えない。提訴する相手は誰だろう。JARO?
 ……と、いつまでたってもドアが開かないので、俺はため息をつきながらベッドから下りて、ドアを開けてみた。ドアを開けたそこには、悲劇に暮れる宝塚女優のような格好(格好だけ)で真琴がうずくまっていた。
 とりあえず、踏んでみる。
「何するのようっ!」
「お、動いた」
「汚い足で踏まないでよっ!」
「失礼な」
 俺の足を跳ね除けて、真琴は一息で立ちあがった。腰に手を当てて無意味に胸を張ると、俺を睨みつけている。
「で、なんか用なのか?」
「あ、そうだった。えっとね、こないだ買ったゲームわかんないから教えて――ってなんでドアしめるのよぅ!」
「悪い。今日あたり夢にドリームカップルの相手が出てくるから待ち合わせ場所を決めておかないと、うん」
「わけわかんない!」
「そうだな、俺もわからん」
「何よぅそれ!」
「相変わらず煩いなぁおまえは」
 爽やかに言ってみたら蹴られた。脛を。おもいっきり。
「本題に入るけど」
「……今までのはなんだったんだよ」
 また蹴られた。しかも痛くてかがみ込んでいたから今度は脇腹。つま先がめり込んで、一瞬息ができなくなる。
「明日さぁ、美汐がくるのよ。買い物に行こうって話してたんだけど、でさ、祐一も一緒に行かない?」
 コイツの方からこんなこと言うなんて、意外な提案。そう思って見返すと、真琴は目を反らして、聞き取り辛い言葉でもごもごと呟く。
「アタシは祐一なんてついてこない方いんだけどさ、でも、美汐がどーしてもっていうから……いやその、べつに嫌ってワケじゃないんだけど……」
「はいはい」
「何よぅその反応! ああーっ、にやにや笑わないでよっ!」
「言葉にしなくたってわかってるぞ、真琴の気持ち」
「うるさいうるさいっ! 祐一なんかキライ! 明日はついてくんなっ!」
「暑いからって腹出して寝るんじゃないぞー」
 数メートル前で、どばんっ、とそれこそドアが壊れるんじゃないかというような勢いで真琴の部屋のドアが閉まる。まあ、幸いなことに水瀬家は案外丈夫みたいだ。とはいえ、真琴の力で壊れるようじゃ手抜き工事って言われても仕方ないのだろうけど。
 とりあえず明日は買い物らしい。俺はさっき真琴に蹴られた脇腹をさすりながら部屋の中に戻った。
 机の上に広げてある参考書が目に留まる。さっきまで机の上で戦っていた参考書は、今日の勝負はお預けにしてやるぜ、と言っているようだった。お預けにしてやるのはこっちの方だ。そんなことを思いながらベッドに横になって目を閉じた。目を閉じてしまうと心臓の音がよく聞こえた。受験生にとっては勝負の夏。帰りのホームルームで担任が言ったそんな言葉が浮かんだ。まったく実感の涌かない言葉。受験なんてまだまだ遠い未来のような気がする。目の前に広がる夏休みがそう思わせるのかもしれない。
 眠りに落ちるのは、意外に早かった。


 朝。リビングに下りるといきなり天野がいた。
「……早いな」
「相沢さんが遅いんです」
 素っ気無く、天野はそんなことを言う。素っ気無くされると逆に構いたくなるのは人間の(むしろ男の)性というこのだろう。たぶん。きっと。
 よく見ると、リビングのソファに座っている天野に身体を預けるようにして、真琴が眠っていた。天野の方はそれをさして気にする様子も見せずに、ときおり真琴の髪を手で梳きながら文庫本のページをめくっている。
「真琴、寝てるのか?」
「ええ。さっきまで起きていたんですけどね。相沢さんが起きてくるのが遅いので待ちくたびれて眠ってしまいました」
「遅いってなぁ」俺は壁掛け時計を見た。時間は十一時と三十三分。休日に起きるには相当早い時間だ。
「俺の感覚でいくとむしろ早いと思える時間なんだけど」
 パタン、と文庫本を閉じると天野は嘆息した。
「相沢さんは、ご自分の考える常識と世間の常識がいかに懸け離れているのかを早く理解するべきではないかと私は思いますが」
「なんのことやら」
 処置なし、とでも言うように天野は肩をすくめた。
「真琴は随分早い時間から起きていたみたいですよ?」
「そんだけ楽しみにしてたんだろ」
 天野と話しながら、俺はキッチンの方に向かう。
「天野、コーヒーと紅茶どっちがいい?」
 俺は天野にそう尋ねた。天野は首だけを俺の方に向けて、しばらく考えると、
「では、紅茶の方を」
「ちなみに、俺はコーヒーの煎れ方しかしらないけどな」
「……コーヒーをお願いします」
 ゴールデンルールなんて知らないし。コーヒーはコーヒーメーカーが全部やってくれるし。
「ホットだけどいいか?」
「はい。ここは冷房が効いているのでちょうどいいです」
 天野の家の自分の部屋には冷房がついていないと前に聞いたことがある。それにくらべて全室冷房完備の水瀬家。怖いのはブレーカーだけだ。
「砂糖は?」
「ひとつでお願いします」
「ミルクは使うか?」
「お願いします」
 ご所望の通りにコーヒーを天野に手渡すと、俺は天野の隣に座った。天野は一口飲んで熱さに顔をしかめると、ふーふー息を吹きかけている。そんな仕草がちょっと可愛い。
「猫舌?」
「……少し」
 恥ずかしそうにそう答える。誰でもそういったところはあるものだけれど、天野は自分の弱みを他人(特に俺)に見られるのをひどく嫌う。俺がからかい過ぎるからかもしれない。
「真琴起こしたらいいんじゃないか? 重いだろ?」
「いえ……別に。それに起こすのも可哀想ですし」
「そうかぁ?」
「そうです」
 真琴はずるずる、と滑り落ちて天野の腿に頭を乗せている形になる。
「でもさ、出かけるんだろ?」
「そう、ですけど……」天野は眠っている真琴の顔を見た。静かにしていれば、という条件付きで可愛いと思えないこともない、かもしれない。と思ってやってもいいかもしれない。
「いいじゃないですか」
「何が」
「別に慌てなくたって」天野は顔をあげて、俺を見た。思わずはっとしてしまうほど、天野の声は穏やかだった。「まだ、夏休みは始まったばかりですし」
 そうかもしれない、と思った。
 窓から外を見る。真っ青な空に白い雲がアクセントを添えていた。始まったばかりの夏。受験生の慌ただしさとは無関係の青。
「ああ」
 きっと、そうだ。
「やっぱりさ、天野って――」
「おばさんくさい、とでも仰りたいのでしょう?」
 呆れたような天野の声。俺を見る視線がなんだか白い。
 秋子さんは出かけているのだろう。名雪も部活でいない。とても静かな、空間。真琴の寝息だけが聞こえる。とりあえず、目の前のコーヒーを飲んでしまうまで、俺も天野もなにも喋らなかった。テレビには、イチローが綺麗なヒットで三遊間を抜いた映像が映っていた。
「天野は」天野が視線だけを俺に向ける。「変わったよな」
「ええ」少しだけ――ほんの少しだけ、天野が微笑った。「相沢さんと、真琴のせいですよ?」