一歩歩くごとに、だんだんと違和感が大きくなっていく。私は制服の包まれた自分の肩をぽんぽんと叩くと、ともすればそのまま家に引き返してしまいそうになる足に、ぐっと力を入れた。
 今日は朝から体調がよくない。変な夢は見るし(あれはあれで面白かったと言えないこともないけれど)、玄関を出たら目の前にカラスがいたし、足元を黒猫に横切られた。おまけに、起きた時から続いている、脳が膨張して頭蓋骨を内側から押し上げているような頭痛は、治まるどころかどんどん悪化しているような気がする。
 学校が見えてくると、その違和感はだんだん大きくなっていく。私と同じ、真っ白な夏服を着た大勢の人が、学校に吸い込まれるようにして歩いていく。その流れから外れるようにして立ち止まったまま、私はただそれを見ていた。頭痛はもう我慢できないくらいに酷くなってきている。呼吸が浅くなって、冷や汗かこめかみから落ちて、吐き気がする。私の中の何かが、目の前にある何かを拒絶している。
 交差点。そこを渡れば通学するみんなの流れに乗れる。けれど、私はそうできないまま電信柱に手をついて俯いた。

 冬の切なさを、引き摺ったまま
 私は、どこにも行けない

 足元には、歩道と車道をわける白いライン。私はそれを踏み越えられない。
 私はカラダをぎゅっと縮めたい衝動に駆られた。そうしなければ守れない。この陽射しは暑過ぎる。心の奥に、ずっとずっと大切に仕舞い込んでいたもの。長い間仕舞い込んでいたせいで、冬の寒さに凍り付いてしまった宝物。
 熱したガラスに冷たい水をかけると、ガラスが砕けてしまうように。膨張と収縮を繰り返して、砕け散ろうとする何か。そんなものが私の中を満たしては、干上がっていく。入れ物のカラダは、黙ってそれに耐えるだけ。ヒビが入っているのかどうかなんてわからない。涙というものがヒビの隙間から流れ落ちてくるものだというのなら、そうなのかもしれない。そんなことは分からない。わからないし、どうでもいい。問題は、ただ、辛い、ということ。それだけ。

 見えなくなる。辺りが、じゃない。私が。触れている感触がない。すっ、と奥の方へ引っ込んでいく。

 とりあえず、学校へ行かないと。そんな考えだけが頭にある。私は顔を上げた。それだけのことが、ひどく大変だった。
「よ」
「……はい?」
 顔を上げて、一番最初に目に入ったのは、相沢さん。覗き込むようにして私を見ていた。「大丈夫か?」
「ええと……あの、おはようございます……」
「それはいいから」
 相沢さんがやけに心配そうにしていたので、私は意識して背筋を伸ばした。不思議なことに、さっきよりはずっと楽にできた。
「大丈夫です」
「……そうか?」
 相沢さんは疑わしそうに言う。私は平気だと言うことをアピールするために、なんでもない風に歩き出す。すぐに、相沢さんは隣に並んできた。
「無理しないで、出席だけ出たら保健室でも行ってろよ」
「大丈夫ですってば」
「本人の大丈夫なんてアテにならないんだってば」
「ですから、大丈夫ですっ」
「アテになんねぇって言ってんだろ?」
 あんまりしつこいので、かちんときた。大丈夫だって、言ってるのに!
「しつこいですね! 相沢さんは!」
「天野が頑固すぎんだよ! おまえが頑固だからこっちもしつこくなっちまうんたよ!」
「しつこい上に失礼なこと言わないでください! 誰のどこが頑固だって言うんですか! だいたい自分がしつこいのを他人のせいにするなんて!」
「おまえのそうゆうトコだよ! 頑固ってのは!」
「頑固頑固言わないでください!」
「頑固なヤツを頑固と言ってナニが悪い!」
「……あのね、お二人さん」
 睨み合っていた私達は、不意に割り込んできた声に、同時にその方向を見た。
 呆れたように私達を見ている美坂先輩――栞さんのお姉さん。それから、苦笑いしている名雪さん。それから。
 興味津々といった顔で私達を見ている、栞さん。
 三者三様のその表情を見ながら、私は慌てて口元を抑えた。けれど、そんなのもう手遅れだ。どんなに願ったって時間は戻らない。放たれた言葉が返ってくることは、ない。
「非常に微笑ましい会話してるとこ申し訳ないんだけどさ、もうすぐ――」きーんこーんかーんこーん。学校の方から音が聞こえる。美坂先輩はその音を聞いて、うんうん、と頷いた。「――チャイム、鳴っちゃうよ?」
 私と相沢さんは顔を見合わせて、それから同時に嘆息した。さっさと歩いていく三人を追いかけて――栞さんはなんだか美坂先輩に引き摺られているようにも見えたけど――、私と相沢さんも歩き出した。
 唐突に、相沢さんは私に顔を寄せて、囁いた。
「なあ天野。結構イイじゃん――夏服」
 不意打ちに私が狼狽しきっているのを見て、相沢さんはどこか満足げに昇降口へ歩いていく。
 それを見ながら、私は今日二回目のため息を吐いた。その吐息は、さっきよりも幾分熱いような気がした。朝からため息二回。今日は先が長そうだ。
 その時になって、私は、ようやく気が付いた。
 さっきまで越えられなかったラインを、いつのまにかあっさり越えてしまっていたことに。朝から感じていた違和感は、もうどこにもない。
 目を閉じて、遠くにいる君を想う。
 あの頃、同じ目の高さで同じ世界を見ていた私達は、いつの間にかこんなにも引き離されてしまった。今では、未だにこんなところでくすぶっている私を、君は雲の上から見下ろしている。

                   

 ゆっくりと目を開いて、私は空を見上げる。
 いつかどこかで見たことがあるような青い空が、どこまでもどこまでも広がっていた。