もういいかげん夏になろうとしているのに、妙に肌寒い。

 ほんの数日前までは本当に初夏っていう感じで暖かかったのにな、なんて思いながら、俺はジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま商店街を歩いていた。
 今日の空は灰色。青でも黒でもなく、灰色。
 とりとめもない考え事をしながら歩いていると、ふと道路の向こう側に見知った顔を見たような気がして、俺は足を止めた。制服姿しか見たことはないけれど、それでも見間違いようのない艶の有るウェーブヘア。間違い無く美坂香里だった。すれ違う人がみな彼女を振り返って見た。もともと静かにしていても、そこにいるだけでモノトーンのなかに鮮やかな原色を落としたように目立つキャラクターだけれど、今俺の見ている香里は普段にも増して圧倒的な存在感を持って歩いていた。
 それはたぶん、目の端っこに涙を溜めているくせに、やたらと毅然とした態度で颯爽と歩いているからだ。不覚にも、俺はそんな香里に見惚れてしまった。普段学校では見せない態度は気になったし、そんな香里の態度にただならぬものを感じた。
 我に返ると、香里の姿は俺の視界の中で幾分小さくなっていた。俺はどうしようかほんの少しの間だけ考えるふりをして、香里の後姿を目指して歩き出した。商店街を抜けて、一度も入ったことのない道へ。香里はことさらゆっくりと歩いているようで、すぐに追いつくことができた。追いつくことはできたが、俺は香里と肩を並べるまであと三メートルというところまで来て、それ以上距離を詰めることができなかった。
 何がしたいんだ?
 香里なんて、ただのクラスメイトだろ?
 俺にとって香里がただのクラスメイトであるように、香里にとっての俺だって三十七人いるクラスメイトの一人に過ぎないだろう?
 ただ、従兄妹の水瀬名雪と香里が親しいだけで、俺はその余波で時々言葉を交わす。それだけのはずなのに。
 しばらくの間、距離を詰めることができずに、俺はそのまま香里と同じ速度でゆっくりと歩いた。歩きながら出た結論は、このまま後ろを向いて、今までの十分かそこらの記憶を全部忘れてしまえばいいというものだった。そして、その考えを実行しようと思って足を止めたちょうどその瞬間、後頭部しか見えなかったはずなのに、香里の顔が見えるようになっていた。
 香里が振り向いたんだ、と少し遅れて気付いた。
 ほんの小さな喜びの芽と、それをあっさりと萎れさせてしまう落胆が香里の表情を通り過ぎて行った。
「なぁんだ、相沢君かぁ」わざとらしくため息を吐いて、香里は言う。
 誰だったらよかったんだ、と俺は訊けなかった。

『屋上同盟』

「ほい」
「ありがと」
 俺が投げた缶コーヒーを、座ったままの香里は受け取る。
 香里が歩いていく先にあったのは、俺が知らなかった公園だった。中心には水の循環している人工池があり、なかなか規模は大きい、と俺は思った。香里は缶コーヒーを手の中で転がしながら俺を見上げている。このまま立っているのも間抜けなので、香里の隣りに腰を下ろす。屋上で香里と会うときよりも、少しだけ遠い距離。少し迷って、俺は煙草に火をつけた。公園には俺たち以外の誰の姿もなくて、空は頭が痛くなるくらいに灰色だった。
「……相沢君てあたしのストーカー?」
 吸い始めた煙草がフィルター近くまで灰になった頃になって、いきなり香里がそんなことを言った。吸いつづけた煙草のせいで少しくらくらする頭を振って、「違う」と俺は答えた。
「そんなこと言って」香里は横目で俺を見ながら、言う。「部屋に入ったら壁一面にあたしの隠し撮り写真が張ってあったり、あたしの部屋に盗聴機仕込んであったりするんじゃないの?」
「アホ」
「今度名雪に確認してみないとね」
「言ってろ」
「なんで、着いて来たの?」
「なんでだろーな」また煙草に火をつける。香里は少し目を細めて俺を見た。「特に理由はないけど、強いて言うなら、香里が泣いてたように見えたから……かな」
「あるじゃない、理由」香里は薄く微笑う。
 俺は黙って煙草を吸った。やりすぎだろう、と俺は思った。踏み込み過ぎだ。やっぱり、何も見なかったことにするのが正しい選択肢だったんだ、と改めて思った。そうだよ、と誰かが言った。女の子の声だった。まったくもって、その通りだ。
「……訊かないの?」香里が言った。
「何を」
「どうして、あたしが泣いてたか」
「本当に泣いてたのか」
「揚げ足取らないで」香里は俺を睨む。
 俺は一拍置いてから、言った。「……香里が、話したいっていうなら」
「そういう言い方、卑怯だわ」
「そうか?」
「そうよ」
「じゃ、聞きたい」俺は香里の目を見て、言った。
「聞かせてあげる」香里は少しだけ唇の端っこを持ち上げて、けれど全く笑っていない眼をして、言った。「ふられたの、あたし」
「そっか」
 俺はそれだけを言った。香里の声はいつもと同じで、香里の表情はどこも揺れてはいなかった。そんな彼女に、俺がかけることのできる言葉など存在しなかった。もし香里のその態度が嘘でも、外面にでない内側で香里が泣いているとしても、香里が嘘をついているとしても。
 俺に何が言える?
「時々ね」香里がぽつりと言った。「名雪がすごく羨ましく見えることがあるわ」
「名雪が?」
「うん」
「勘弁してくれ」
「え?」
「あんなスリープ・マシーンは一人だけでも迷惑なのに、香里までそうなったかと思うとぞっとする」
 香里は少し笑った。従兄妹なのにその言い方はひどいんじゃない? と言う。従兄妹だからだ、と俺は答えた。
「それに」
「それに?」
「確かに香里はぱっと見バリアー張ってそうだし、成績トップだし、なにげに毒舌だし、運動神経も良くてオマケに美人ときたら男としては付き合うのは怖い気がするのはわかる」
 香里が俺を睨んだ。「言ってくれるじゃない、これでも一応ヘコんでるのに」
 何かを考えながら喋っているわけじゃなかった。ただ、思いついたことだけをでたらめに俺は口にしていた。
「でも、香里は、それでいいと思う。名雪みたいになりたいなんておもわなくていい。そんな香里の方が俺は好き、だし」
 勢いで出てきた好きという言葉に、俺自身が驚いていた。ものすごく恥ずかしいことを言ったような気がする。
 俺は、香里のことが好きなのだろうか。ひょっとしたら、そうなのかもしれない。
 香里は少し目を見開いて、きょとんとした顔をしていた。ガードが下がっている彼女の顔。俺の言葉のせいなのか、それともただ単純に俺の言葉が聞き取れなかったのか。後ろの方の理由だったらいい、と俺は願望交じりに考えた。この距離で、俺の言った声のトーンで、聞こえなかったなんてことはないと分かってはいたけれど。
 瞬きもしないで俺の顔を見ている香里の眼。穴が開くほど、と良く言うけれど、本当に俺の顔に風通しのいい穴が開くんじゃないかという気がした。まるで時間が進むのを止めて足踏みしているみたいだった。俺は何か言おうとしたが、それは形にならず、うめき声のようなものにしかならなかった。何かを弁解しようとして、いったい何を弁解したら良いのかわからないことに気付く。灰色の雲は俺たち頭上で流れていて、隙間からは太陽の光が漏れていた。小さな風が流れて、俺たちの間にある空気を揺らした。
「あたしも」不意に、香里が言った。「相沢君の実は結構冷たいところとか、馬鹿なところとか、こうと決めたら絶対曲げない頑固なところとか、結構好きよ」
 おかえし。
 最後にそんな言葉を付け加えて、香里は笑った。


 夢の中で、俺の知っている女の子が泣いていた。
 知っているはずなのに、誰なのかわからなかった。


 屋上へ続く扉には、いつも鍵がかかっている。その鍵は職員室で管理されていて、基本的には生徒が屋上に立ち入ることはできない。
 はず、だった。
 何故屋上の方に足を向けたのか、ということはよくわからない。理由なんてなにもない。あえて理由をつけるとするなら、運命とか、必然とか、偶然とか、宇宙からの電波を受信するためとか、そのくらいのものだろう。
 何気なく掴んだノブは、たいした力も必要とせずに、くるりと回った。誰かいるのだろうか、と僅かなあいだ躊躇した。けれど、誰かいたらいたで面白い、そう思いなおしてゆっくりとドアを押す。
 まず最初に、空が見えた。屋上は、前にいた学校のものとさほど変わらず、コンクリートの小さな箱庭みたいだった。誰かいないのかと思って辺りを見回してみると、真っ白な内履きが目に入った。足首から上は給水塔の影に入っていて見えない。
 誰だろう。そう思ってそちらに近づいてみると、給水塔に背中を預けて、足を投げ出して、これまでに一度も見たことがない無邪気な顔で昼寝をしている美坂香里がいた。
 始めに思ったことは、俺はここにいてはいけない、ということだった。例えがあまりよくないけれど、名雪の日記帳(つけているらしい)がたまたま開いたまま置いてあって、そこに書いてあることを見てしまったような、そんな感情。そして同時に、その続きを見てみたい、という下司な感情も。
 間違い無くこの状態で一番冴えた行動は、このまま屋上を出て何も見なかったことにしてしまうことだ。なのに、俺は踵を返すことができなかった。
 香里がうっすらと目を開く。
「……誰?」
 目を開いてから、その言葉を発するまでのほんの僅かな間に、香里の表情はいつも俺が教室で見ているものに変わっていた。さっきまで見ることができた無邪気さは、もうその表情の中には見つけられない。
「相沢君?」
「……ああ」喉に引っかかったような声だった。
「なんだ」香里はそう言って、自分のとなりの地面をぺちぺちと叩くと、座ったら? と言った。
「まだ昼休み三十分くらいあるし」
 時計代わりにしている携帯電話を見た。たしかに、あと三十分は余裕である。そうだな、と言って俺は香里の隣りに少し隙間をあけて座った。
「うっかりしてたわ」香里が言った。
「何を?」
「いつもなら、鍵かけておくのに」
「なるほど」頷く。
 日差しが多少気になるけれど、今いる場所は日陰になっているから涼しい。
「いい場所でしょ?」
「確かに」俺は言った。「他に誰もいないのが、すばらしい」
 誰も入れないのにどうして鍵を持っているんだという皮肉を込めてみたけれど、香里は気付いていないようだった。そうでしょ、と唇の端っこを持ち上げる。
「……で、どうして香里がその鍵を持ってるんだ?」
「合鍵作ったの」えらくあっさりと、香里は答えた。
「合鍵」
「そう」
 そう言って、香里は空を見上げた。俺も香里に習って空を見上げてみた。空は頭の上にあるのに、何故かそこに向かって落ちて行くような気がした。きっと、空が蒼すぎて、高すぎて、綺麗すぎるからだろう。
「気持ちいいな」俺がそう言うと、香里がそうでしょう、と微笑った。香里の方は見なかったけれど、微笑った気配だけはわかった。「気持ちよすぎて、午後の授業に出たくなくなる」
「同感だわ」
「ここで香里先生に教えてもらうか」
「青空教室ってわけ? 別にいいけど、あたしの授業は厳しいわよ?」
「やさしくして欲しいな」
「相沢君は厳しくしないと真面目に勉強しないから、だーめ」
 香里は片方の膝を立てると、その膝を抱え込み、そこに頭を乗っけて俺のほうを見た。ついつい香里の太腿に向かってしまう視線をなんとか外して、ズボンのポケットから煙草を出して咥えると、火をつけた。香里が嫌そうな顔をした。
「昨日も思ったんだけど、煙草、吸うのね」
「一応」
「吸殻落とされると合鍵持ってるあたしが疑われて困るんだけど」
「携帯灰皿持ってる」そう言って、俺は携帯灰皿を香里に見せた。ふぅん、と香里はよくわからない声を漏らした。
 煙を吸いこみ、吐き出す。香里が何か言いたそうにこっちをじっと見ていた。
「なるほど、ここは誰もこないからいいな」
 香里は何も言わない。
「誰も入れないことになってるし、いちいちこんなところ調べに来る奴もまずいない。それに、ここだと校舎からも影になっているから――」
「ねえ、相沢君」
「……ん?」
「気になる?」
「何が」
「あたしのパンツ」
 思わず煙草を尾としてしまいそうになった。香里はそんな様子がツボに入ったのか、お腹を抱えて笑い出した。憮然とした顔をしてみたものの、図星だったので何も言い返せない。笑いつづける香里を横目に、俺は黙って煙草を蒸かした。
「あー笑った笑った」香里は目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭いながら言った。
「……そういう発言はしない方がいい」
「どうして?」
「毎晩香里の写真を眺めながら眠るような奴の幻想を粉々に打ち壊すから」
「相沢君みたいな?」
 香里を睨むと、香里はまた笑い出した。今度はもう、爆笑といって差し支えないような笑い方だった。これもきっと、見るヤツにとっては幻想を壊されるだろう、と俺は思ったけれど口には出さなかった。
 あー、煙草が美味しい。そんな現実逃避。
 香里はまだ笑っている。あまりに楽しそうに笑っているので、俺も笑い出したくなった。笑い出してもいいような気がしていた。
 空に向かって、煙を吐いた。俺の吐いた煙は、空気の中にすぐに紛れて見えなくなった。
「そろそろ昼休み終わるね」
「そっか」
「どうしようか」
「何を?」
「手つないで教室戻る?」
「アホ」
 あはは、と笑うと香里は立ちあがって、スカートを叩いた。それに続いて立ち上がろうとした俺に、香里は何かを投げて寄越す。顔の前に飛んできたそれを、咄嗟に掴む。
「何だコレ?」
「屋上同盟の会員証」
「ちなみに会員数は?」
「たった今、二人になったわ」
「……ちなみに、会長は?」
「あ・た・し」
 何とも言えずに俺は空を仰いだ。今日はとっても空が青い。
「煙草みつかって停学なんて真似したら、会員証は剥奪だからね」
「肝に銘じておくよ」
 それじゃ、と言い残して香里は校舎の中に入っていった。いや、ドアを開けたところで香里は振り返る。
「ああ、それから」にっこりと笑って香里は言った。「あたしね、見られてもいいパンツ履いてるのよ? ほとんどの女の子はそういうの履いてるんじゃないかしら?」
 そうじゃないとこんな短いスカート履いてられないしね。そんな言葉を残して香里は屋上から姿を消した。
 小さく肩を竦めて、とりあえずさっきのパンツ云々の話は聞かなかったことにしておこう、と思った。わざわざ男の夢を壊すようなことを言いふらして回ることもない。
 香里が昨日のことについて何も触れなかったことに、何故か俺は安堵していた。



 それからは、気が向いたら屋上に向かうようになった。昼休みの時もあったし、放課後の時もある。香里がいたら鍵は開いているし、いなければ閉まったままだ。その時は、そのまま教室に戻る。
「なんかね」香里は言った。「相沢君といると、楽」
「楽?」
「うん。話題探さなくていいし、話合わせる必要もないし」
「喜んでいいのか?」
「さあ?」香里は微笑う。「あたし的には、好みだけど?」
「俺はあんまり誉められてるって気がしないな」
「誉められてると思ってたの?」
「誉めてなかったのか?}
 香里はちょっと間を置いてから、俺をからかうように言った。
「言葉通り、よ」
 転校初日に香里と初めて顔を合わせてから、もう半年が過ぎている。名雪抜きで香里を話をしたのはその半年の中で何回あったかな、と考えた。
 最初の頃はただぼーっとしたり、学校のことや、友達のことや、脈絡無くあちこちに飛ぶような他愛の無い会話をしていた。名雪のこと、北川のこと、クラスメートのささやかな噂話。話しながら思ったのは、俺が知っていたのは『名雪の親友』としての香里であり、美坂香里のことは何にも知らなかったんだ、ということだった。
 無理して話題を探さないでもいい、と俺は思っていたし、香里もそんなようなこと言っていたのに、話し出すと尽きるところがなかった。
「……相沢君は、卒業したらどうするの?」
「俺?」
「うん」
「実はこれはまだ誰にも言ってないんだけど」
「うん」
「――大の推薦受けようと思ってる」
「こっち、残るんだ?」
「割と、」煙草の煙を吐いてから、俺は答えた。「気に入ったみたいなんだ、ここ」
「みたいなんだ、って他人事みたいね」
 苦笑いして、肩を竦める。
「香里は、ここを出るんだろ?」
「さあ?」
「さあ?」
「いくつか受けて、受かったところにいくわ」
 どこか投げやりに、香里は言った。それから、俺が吸っていた煙草をひったくると、一息吸いこんで、思いっきりむせた。
「……よくこんなの吸ってるわね」少し掠れた声で、香里は言った。
「いきなり吸いこむからだろ。吸ったことないのか?」
「うん」
「最初はゆっくり、あんまり吸い過ぎるな」
「……うん」
 香里は恐る恐る煙を吸い込んで、それから吐き出した。感触を確かめるように、もう一回。俺は黙って携帯灰皿を差し出した。香里も黙って、そこに灰を落とす。そんなどうってことない仕草でも、香里がやるとまったく違う動作に見えた。
 もう一回だけ煙草を吸って、香里はそれを携帯灰皿に押し付ける。
「結構、すっきりするわね」
 悪くないわ、と言って香里は立ちあがる。ポケットからキシリトールのガムを取り出すと、一つを俺に向けて放って、もう一つを自分の口の中に入れた。
「さんきゅ」
「どういたしまして」
 会話を終わらせるのはいつも香里で、先に立ちあがるのもいつも香里だった。香里のいなくなった屋上でもう一本だけ煙草を吸うと、俺も校舎の中へ戻った。



「ねえ祐一」
 夜。
 部屋のドアを開けて入ってきたのは、名雪だった。俺は寝転がって読んでいた雑誌を放り投げると、体を起こして名雪を見た。
「なんだ?」
「うん。えっと、その、ね」名雪は何かを言いよどみ、視線をさ迷わせた。「ね、祐一。最近、香里と仲いいよね?」
「そうか?」
 名雪は困ったように眉を寄せて、曖昧に微笑う。
「なんか、ね、祐一と香里が付き合ってるって噂になってるみたいだから」
「……そうなのか?」そういえば、一回だけ屋上へ行く時に一緒だったことがある。それを見られたのか、と俺は思った。「でもなんで、名雪が?」
 名雪が眉を寄せる。
「わざわざ、わたしのところに言いに来るんだよ」
「……何て?」
「祐一が浮気してるって。香里と二股かけてる、って」
 思わず天井を眺めた。噂の一人歩きもいいところだ。むしろ、ここまで行ったら途中で誰かの悪意が入りこんでいるんじゃないかと思いたくもなる。――まあ、出てくる名前が香里と名雪じゃあそれも当然か。
「おかしいよねぇ」ふわふわと名雪は笑う。「わたしと祐一付き合ってるわけじゃないのに、浮気だなんて」
「まったくだ」
 常識的に見るならば。
 毎朝一緒に登校して、休み時間は適当に話をして、昼休みは一緒に学食へ行ったりして、放課後は彼女の部活動が無い時は一緒に帰る。もしもこれで付き合ってませんなどと言われて自分だったらどう思うだろうか。
 まさか、と笑い飛ばすに決まってる。
 それでも、違うんだ。俺と名雪は、そういうのじゃない。
「わたしと祐一は」困ったような苦笑いで、名雪は言う。「付き合ってるとか、そういうのじゃないのにねぇ」
「それを理解してくれてるのはたぶん、香里だけだろうな」
「そうかもしれないね」
 ただの従兄妹よりはたぶん、近くて。
 でも、兄妹にはなれなくて。
 そして、男と女の関係にもなれない。
「で、わざわざそれを名雪のところに言いに来るのか?」
「うん。祐一が浮気してるって」
「おせっかいもいいところだな」
「ホントだね」
「悪い」
「どうして、祐一が謝るの?」
「迷惑してるだろうから」
「わたしは、いいんだよ」名雪が口元に手を当てて少し笑った。「別に、祐一が香里と付き合ってても。あ、でも、二人ともわたしに何にも話してくれなかったのはちょっと傷つくかな?」
「……付き合ってるわけじゃねぇっつの」
 俺がそう言うと、名雪は「……そうなの?」と思いっきり意外そうに首を傾げた。
「あ、別に二人が付き合うのは構わないけど」
「だから、付き合ってない」
「喧嘩とかしちゃダメだよ。わたし、悲しいから」
「だから、」
「もしそうなったら、きっと、わたしは香里の味方するからね。祐一のことは好きだけど、香里は親友だから」
 いいかげん言い返す気力も無くなって、俺は肩を竦める。名雪はそんな俺を見て、にっこりと笑ってみせた。
「……気をつけるよ」
「うんっ」
 名雪は満足そうに頷いた。「できれば、何かあったら真っ先にわたしに教えて欲しいな」
 名雪が俺の部屋から出ていって、どうでもいいテレビのニュースを聞きながら、俺は枕に顔を押し付けた。俺は名雪に甘えている。突然そう自覚してしまうと、今までどうやって名雪と普通に会話していたのかわからなくなる。
 だけど、そんな感情も、今、この瞬間だけで、明日の朝には忘れてしまうんだろう。



 補習というお題目のついた授業の延長。それは、夏休みに入ってからの最初の一週間に食い込んでいた。自由参加、ということにはなっているが、進学組はまず強制参加。そして、進学組の端くれの俺や名雪も、もちろん強制参加。
 参加しなくても、今すぐに入学試験を受けてもたぶん合格通知を貰えるであろう、美坂香里も参加していた。
 午前中だけの授業が終わり、いつものように屋上に足を向けると、すでに香里がぺたんと腰を下ろしてパックのコーヒー牛乳を啜っていた。
「夏ねー」
「そうだなー」
 間延びした口調でそんな会話をすると、俺はいつものように香里の隣りに座った。
「ここ来る前に生徒会室顔出してきたんだけど」香里が言った。「相変わらずクソだわ」
 今年の春から、香里は生徒会執行部の中で書記を務めていた。香里本人から聞いた話だと、生徒会を担当している教師の方からかなり強引に加入させられた、らしい。必要だったのは学年一位っていう肩書きよね、とは香里の弁。
「もー生徒会大っ嫌い。まったくなんなのよ。政治やってんじゃないっつの。仕事できないくせに自慢話だけは上手いわ、ハナっから他人を見下したような眼してるわ、ああもう、久瀬君の腰巾着なお坊ちゃんは使えないったらありゃしない」
 香里は俺の方を見みないで、手のひらを上に向けて突き出す。俺は何も言わないでポケットから煙草を出すと、その香里の手のひらの上に載せた。ライターの火を香里の顔の前に持っていくと、以前よりは遥かに洗練された仕草で香里は煙草に火をつけて、紫煙を吐き出した。
「ずいぶんストレス溜まってるな」
「早く学園祭終わらないかしら。さっさと抜けたいわ」
「九月? 十月?」
「九月の最後。長いわ」
「すぐ終わる」
「そうかな?」
「そう」
「そうかもね」
「で、だ」
「何?」
「この際聞いておこうと思う。新しい生徒会執行部決まってすぐに、香里が大暴れした、という噂を聞いたことあるんだが」
「ああ」香里は息を吐くような声で言った。「アレね」
「やったのか」
「十倍返し」
「それは過剰防衛だ」
「女の癖に生意気だ、なんて言葉吐いてくれるんだもの。笑っちゃったわよ。最後は泣かしたけど」
 馬鹿なヤツだ、と俺は思った。香里を敵に回したが最後、俺たちの学年の半数以上からは総スカンだ。それだけ香里は頼りにされているし、信頼されている。やっかみももちろんあるとは思うが、それを表に出せない空気がすでに出来あがってしまっている。
「でも、男の子って案外打たれ弱いのね」
「ノーコメントだ」
 香里は笑って、煙草を灰皿の中に押しつけた。俺は灰皿を閉じると、それをしまう。
「一応、反省してるのよ。ちょっとやりすぎたなって」
「へぇ?」
 茶化すように言うと、香里に睨まれた。俺は香里から目を逸らして、肩を竦める。
「生理の時はイライラするの。歯止め効かなくなっちゃう時あるのよ」
「おまえぶっちゃけすぎ」
「え、そうかな?」よくわかならい、という顔で香里はきょとんとしている。そんな様子が可笑しかった。「……そう、かな。うん、そうなのかもね」
 そう言って香里は、ふっと肩の力を抜いた。給水塔に背中を預けたままで、目を閉じる。俺はそんな香里を横目で見ていた。屋上にいる時の香里はなんだかすごく力を抜いているように見える。教室にいる時の香里はしっかりと背筋が伸びていて、早過ぎず、遅過ぎず、とても聞き取りやすい声で喋っているのに。ここにいる時の香里の声はどこか眠そうに間延びしていて、話す内容も抽象的だ。一度だけ、眠いのか、と尋ねたことがある。香里は曖昧な角度で首を傾げて、そうでもない、と言った。
 俺は香里のことが好きなのだろうか。そんなことを、以前勢いで「好きだ」と口にしてしまってから何度か考えたことがある。あれ以来、俺と香里の間でその話を蒸し返したことはない。香里がどう思っているのかもわからない。このところほとんど毎日のように屋上で顔をあわせているということが何か関係あるのかもしれない。ないのかもしれない。
「相沢君はねえ、カッコ付け過ぎ」
 それは香里の方だろ、と言いかけた言葉を飲みこんだ。
「普段はバカやってるのに、向こうから近づいてくるとするっと避けちゃう。意識してやってるんだとしたら最低。無意識にやってるんだとしたら救いようがないわね。宇宙人と呼んであげる」
「よし、メジャーリーグに挑戦するか」
 香里は肩を竦めて、唇を歪めた。「マイナー暮らし」
 ふと気がつくと、影が少し短くなって、伸ばした足の先は日向になっていた。
「ねえ相沢君」
「ん?」
「これから何か予定、ある?」
「いや?」
「じゃあ、ちょっと付き合わない?」
「どこへだ?」
「あたしの買い物」

 一度帰って着替えた後、駅で香里と待ち合わせて、そのまま電車に乗った。どこ行くんだ、と俺が訊くと、香里はここから五つ先の駅名を口にした。改札を抜けて、ちょうど到着したところだった電車に二人で駆け込んだ。電車の中は混んではいなかったものの、座席は全て埋まっていて、俺たちはドアの辺りに並んで立った。香里は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。香里が特に会話を振ろうとしなかったので、俺も何も言わずにいた。
 香里がちら、と俺を見る。目が合う。香里が視線を戻す。そんなことが三回あった。四回目に、香里は視線をそらさずに、何かを言おうとした。言おうとしたちょうどその時、車内にアナウンスが流れて、俺たちが降りる駅の名前を言った。香里は結局何も言わずに視線を戻した。電車がゆっくりと減速して、ホームに停止する。先にドアをくぐった香里に続いて、俺もホームへ降りた。
 閉じた電車のドアのガラスに、俺と香里が反射っていた。その少し奥に、俺が知っているはずの、名前が思い出せない女の子が立っていた。
 振り向く。
 ガラスの中にいた少女は現実の中には存在しない。
「……何してるの?」香里が階段の一段目に足をかけたところで振り返って、俺を呼んだ。
 いや、と曖昧に答えて、俺は歩き出した。
 白昼夢。

「夢があったのよ」改札を出て歩きながら、香里は言った。
「夢?」
「そう、夢。相沢君にだってあるでしょ?」
「どうだろうな」
 つまんない男ね、と香里は笑った。「あたしの夢はねえ、一番最初のは、アイスだった」
「栞みたいだな」
「バケツみたいな大きいサイズのあるじゃない? あれが欲しかった頃があったの」
「そんな、手に入れるの難しいものじゃないと思うけど」
「手に入れるのはね」
「と言うと?」
「お母さんはね、小皿に取って食べなさい、って怒るの。そうじゃないのに。あれをそのまま置いて、カレーとかに使うみたいな大きいスプーン使って食べるのが夢だったのに、そんな小分けにして食べるなんて興ざめじゃない」
「そういうもんなのか」
「そういうもんなのよ」
「でもさ」すれ違ったスーツを着た男が俺達を横目で見て行った。俺達、じゃなくてたぶん香里を、だろう。「そんなに食べ切れないだろ、それ」
「栞なら食べ切るかもしれないけどね」
「確かに」
 本人が目の前にいたら『そんなこと言う祐一さんもお姉ちゃんも嫌いですっ』とかなんとか言われそうだけど、残念ながら会話は距離と言う高い壁を越えることができないので問題はない。栞は今ごろきっと演劇部の部室にいるだろう。美術部よりはいいと俺は思う。栞が美術部に入ろうものならあっというまに世界の敵ナンバーワンだ。ブギーポップがやってくる。
「あたしは少し食べただけで満足しちゃったわ」
「もったいないな」
「たぶんね」右手の人指し指を立てて、頭の横辺りでくるくる回しながら、香里は言う「アイスが食べたかったわけじゃなくて、このアイスは全部あたしのっ、ていう独占欲が満たされればそれでよかったの。その時は分からなかったけど、今はそんな風に思うわ」
「いつの話だ?」
「中学二年生の時」
 セーラー服を着た香里を想像してみた。俺の想像力では似合っているのかいないのか微妙なところだった。髪はもう今のようにウェーブをかけていたのだろうか。それともストレートだったのだろうか。髪型は?
「栞がずっと入院してて、両親も病院に泊まり込むことが多かった時期ね」
 何でもないことのように言った香里のその言葉が、本当に何でもない内容だと思えるほど、俺の頭は快晴ではなかった。俺が何を言うべきかもわからずに、それでも何か言おうと口を開く前に、香里は、
「なんて、ね」
 そう言って小さく笑い、その言葉を魔法のように冗談に変えてみせた。
 冗談のように、装ってみせた。

 香里は迷いなんて一ミリグラムも含んでいない足取りで、大きな総合デパートの中に入っていく。何階に目的の店舗が入っているのか把握しているのだろう、案内板も見なかった。
 ちょうど目の前で開いたエレベーターに乗る。香里は六階のボタンを押す。半面がガラスになっているエレベーターからは外の風景が見えて、高いところが苦手な俺は落ちつかなかった。
「……ひょっとして、高いところダメなの?」香里が俺に囁いた。
 ノーコメントで通すと、香里はそれを肯定と受け取ったらしく、面白そうに「ふぅん」と言った。
 落ちていく誰かの姿がガラス越しに見えた気がして、俺はエレベーターが止まるまでの短い間、目を閉じていた。エレベーターは上に昇っていくのに、何故か俺はどこまでも落ちて行く妄想を振り払えない。
「……なんだかなぁ」
「何が?」
「なんでもない」
「ふぅん?」
 香里がそう呟いた時、エレベーターが止まって、ドアが開いた。

 香里のウィンドウショッピング(二時間使って、買ったのは小さなアクセサリ一つだけだった)が終わった後、俺達は駅前のかなり目立たないところにある喫茶店で向かい合って座っていた。物は試しね、とは香里の弁。
 香里は運ばれてきたコーヒーを一口飲むと「……当たりかも」と呟いた。
「同感」
「ここの豆買って帰ろうかしら」
「いいかもな」
 店内に流れている曲がクライマックスを迎えて終わり、少しの静寂の後で、次の曲が流れ始める。
「『森のささやき』、ね」香里が言った。
「リスト?」
「あら、意外と物知りじゃない」
「クソ親父がクラシック好きでな」
「あら、良い趣味じゃない?」
「あまりにも似合わな過ぎて笑うを通り越して泣けてくる」
「名雪に聞いたことあるんだけど」香里は一口コーヒーを啜る。「相沢君て、そのお父さんとかなり似てるそうじゃない?」
「いや似てない」
「行動がそっくりだって」香里はカップを置く。「顔はお父さんの方がいいって名雪言ってた」
「……後でシメてやる」
「名雪はファザコンの気があるからね。お父さんと相沢君の差は、たぶん、年齢ね」
「……そんなもんかな」
「たぶんね」香里は言うと、メニューを手に取って眺める。「ねえ、このケーキ美味しそうだと思わない?」
「そうだなぁ」
「あ、すいません、この『アルザスの雪』ってケーキ一つ」香里はカウンターの向こうでグラスを拭いていたマスターにそう言うと、俺のほうを向いた。「相沢君の奢りで」
「奢りかよ」
「……男の甲斐性ってやつ?」首を傾げて、香里は言う。
「オマエがゆーな」
「相沢君は食べないの?」
「いい。胸がいっぱいだ」
「お腹じゃなくて?」
「お腹じゃなくて」
 香里は笑って、運ばれてきたケーキに、フォークを突き刺した。チョコレートケーキに、まるで雪のようにパウダーがかかっている。
「ホントに雪みたいね」
「そうだな」
 香里はケーキを一口食べて、にっこり笑った。どうやらご満足な味だったらしい。
「相沢君」
「ん?」コーヒーのカップを持ったまま、聞き返す。
「前に、あたしのこと好きだって言ったよね」
 僅かな躊躇を置いてから、俺は頷く。
「あれって、本気だった?」
 ほんの少しだけ、俯く。それだけの動作で、俺の視線は香里の瞳から逸れた。
「あの時は、間違い無く本気だった。嘘は言ってない……と、思う」
「じゃあ、今は?」
「わからない」俺は言った。香里の目を見ないままで。「……わからないよ」
「そう」香里は言った。
「本気だって言ったら、香里はどうするんだ?」
「……わからない」香里は言った。香里の目は、やっぱり見えない。伏せた目を、ほんの少しだけ上に向ける勇気が、俺には無かった。「わからないわ」
「……そうだな」
「その程度、ってことね」
「お互いに、な」
 香里の髪が揺れた。小さく頭を振った香里の肩は、どことなく落ちているように見えた。その姿が、何故か落胆しているように見えて。何故か、俺は落胆している自分を感じていて。
 香里が何を考えているのか、俺にはわからない。わかるわけないじゃないか、と俺は思った。自分のことですら分からないことだらけなのに、他人のことが分かるわけない。
 しばらく会話も無く俺達は座っていたけど、不意に香里が伝票を手に取って立ち上がった。俺もその後に続いて立ち上がる。そう、この重い沈黙も、行き場の無い言葉も、重ならない視線も、俺達の曖昧なままだった関係も。
 会話だって、終わらせるのはいつも香里の方なんだ。


 電車に乗って、元の駅に戻ってくる。会話の一つも無いまま、視線さえ一度も合わさないままで、俺達は改札を抜けて、駅から出た。
「ああ、いい天気ね」
 そう、言って香里は目を細めた。俺の方を振り返り、笑顔で別れの言葉を告げると、一人で先に歩いていく。どんどん小さくなって、やがて見えなくなる香里の背中を、俺は立ち尽くしたまま眺めていた。何か、心残りがあった。
 俺は、いったい何に心を引かれているのだろう?
 今日という一日で、俺達はいったい何を確認しあったのだろう?
『その程度、ってことね』香里は落胆したように言って。
『お互いに、な』俺は落胆みたいな気持ちで。
 これが、俺達の結論なのだろうか?
 香里が歩いていった方向を睨みつける。本当に、本当に俺達が望んでいる現実が曖昧なもののままならば、具体的な像を結んだりはしない。本当に曖昧なままなのなら――俺達は今この瞬間に、落胆したりなんかしていない。曖昧なものは、都合のいいように形を変えて、決して俺達を裏切ったりはしないから。
 目を閉じて、開く。
 次の瞬間、俺は走り出していた。駅前から伸びている商店街の風景が、フィルムを逆回しにするみたいに後ろに流れていく。
 ――道は?
 オーケー、憶えてるさ。
 前にも一度、通った道。
 前にも一度、香里を追いかけた道。
 その先に香里はいる。予測よりも確信よりも祈りに近い気持ちで想いながら、俺は走った。香里はゆっくりと歩きながら、俺が追いかけてくるのを待っている。何故かそう思えた。酸欠の脳が足を止めろと命令をだしても俺はそれを無視した。視界が白く霞んだ。白い世界で俺の前を少年と少女が手を繋いで歩いていた。少年は不貞腐れたようにそっぽを向いて、少女は泣き笑いみたいな顔で俺に向かって手を振った。俺を呼んでいるようにもさよならを言っているようにも見えた。何かを失いながら走っているんだと思った。何を失っていくのかわからないまま俺は走り続けた。
 これはさよならなんだ、と俺は思った。吐息のような情けない、喉を絞めつけるような声で、空に向かって彼女の名前を叫んだ。何かを手に入れるためには、何かを失わなければならない。したり顔の誰かが言う。くそくらえだ、と俺は思った。さよならなんて、言えるわけがなかった。謝罪なんて、彼女に届くわけがなかった。
 ことさらゆっくりと歩いている香里の背中が見えた。辺りは白く霞んでいるのに、その香里の後姿だけははっきりと見えた。俺が足を止めると、香里も足を止めた。膝に手をついて、俯いて、肩で大きく呼吸する。高いビルの上から下を見下ろすくらいの気合を入れて顔を上げると、香里はもう振り向いていた。
「……なんだ、相沢くんかぁ」わざとらしくため息をついて、香里は言う。
「誰だったらよかった?」
「誰だと思う?」
「わからない」俺は言った。「でも――」
「でも?」
「香里のことが、好きなんだ」
「泣きそうになっちゃうくらい?」
「ああ、泣きそうになるくらい」
 香里は一歩俺に近づく。ゆっくりと持ち上げられた彼女の手が、俺の頬に触れた。
 頬を濡らしている汗は、ひょっとしたら涙なのかもしれなかった。



「今日のテーマ、恋愛について」
 放課後の屋上で、香里はいきなりそう切り出した。
 北川に聞いた話だと、俺と香里が付き合っているという噂は、既に名雪と香里と俺で修羅場を演じた、というところまで発展しているらしかった。その話を、ヘッドロックをかけながら北川は教えてくれた。ホントのところはどうなんだよ、なんてことを言いながら。俺は曖昧に言葉を濁した。北川が香里に視線を向けると、香里は肯定とも否定ともとれる笑顔をうかべた。
 けれど、面と向かって訊いてきたのは北川だけだった。俺たちは休み時間ごとに誰かの机に集まって話していたし、名雪ほど修羅場という言葉から遠い人間もそうはいないだろうし、香里に冷ややかに見つめられて耐えられる人間もそうはいない。そして、そうやって過ごしていれば、たぶん、噂なんてすぐに消える。
「なんだよ、今日のテーマって」
「じゃあここはひとつ、相沢君の女性遍歴を聞いておかないと、と思って」
「唐突すぎてわけわかんねぇ」
 嫌だなんて言わないよね? と香里はにっこり笑った。
「なあ香里、俺たちの間には何か誤解があると思わないか?」
「思わないわ」
「自慢じゃないが、彼女なんていなかったぞ」
「ホントに自慢にならないわね」
「うるせ」
「……おかしいわ」香里はやたら真面目な口調で言う。「相沢君ならきっと女の子を弄ぶだけ弄んでボロ雑巾のように捨てる、というのが一回や二回じゃきかないはずなのに」
「なあ香里」
「なぁに?」
「一回よーく話し合おう。人と人の間に横たわる深い溝を埋めるためには対話しかないと思うんだ」
「まあ、溝だらけよね」
「お互いにな」
「そうね」
 そう言って、香里はペットボトルの紅茶に口をつけた。こくん、と喉が動く。俺はそれをなんとなく見ていた。
「彼女じゃないけど、面白いこと言われたことがある」
「どんな?」
「前の学校で特に仲もよくない変人がいたんだけど、そいつ、霊が見えるって噂だったんだ」
 そう、と香里は相槌を打った。そういったものを信じていないのだろう。香里だったらそうだろうな、と思った。
「で、そいつと一回だけ話したことあるんだけど」
「うん」
「そいつが言うには、俺は幽霊憑きらしい」
「幽霊」
 香里はそう言って、視線を俺の顔から右肩の上辺りにずらして、すぐに戻した。
「相沢君は、それ言われたときどう思ったの?」
 俺は何も答えなかった。ただ、ちくりと胸を刺す棘があるのを感じた。これは、一生抜けることのない刺なんだと思った。この棘に触れることのできるあの日の女の子は、もうどこにいるのかわからない。
「もし、栞が死んでたら」香里は言った。「あたしも幽霊憑きになってたのかもね」
 香里の妹のことは、何度か会って知っていた。入院で一年休学していて、もう一回一年生なの、とどこか照れくさそうに香里が紹介して、その紹介された栞を見た時に、俺は素直に驚いた。まだ雪の降っているこの学校の中庭で何度か話したことのある女の子だった。入院していたのにどうして中庭にいたのか、と俺は訊かなかった。それはどうでもいいことだし、訊かない方がいいような気がした。
「ならないよ」俺は言った。「栞は香里を恨まない」
「あら、そんなのわからないわよ」
「恨まないさ」
「そうかもね」香里は少しだけ俯いた。「……そうだったら、いいわね」
「ああ」俺は言った。「そうだったら、いいよな……」
 ゆっくりと、雲が流れて行く。野球部の掛け声と金属バットが硬球を叩く音、それから吹奏楽の演奏が違和感無くあたりの空気に融け込んでいた。
 放課後。屋上。たったふたりの、屋上同盟。
「で、」唐突に香里は普段の調子で言う。「相沢君に憑いてるのって水子の霊?」
「一回脳味噌洗濯して来い」
 香里は人差し指でとんとん、と自分のこめかみをノックする。
「相沢君のほど汚れてないわよ?」
「人聞きの悪いこと言うな」
「汚れ切ってるじゃない。エロ妄想で」
「エロゆーな」
「あたし初めてだったのに。痛かったのにー」
「ぐ……」
「三回なんてキチクよねー」
 拗ねたように唇を尖らせる香里に、思わず視線を逸らしてしまう。
「でもまあ、」香里は言った。「なんか、わかったような気がする。ひょっとしたら雰囲気に流されてるだけなのかもしれない。でもね」
 香里の手が、俺の手に重なった。
「相沢君のこと、好きかもしれない」
 少し照れくさそうに笑う香里の顔。その向こうには青空。空がなんだかやけに眩しく見えて、俺は目を擦った。とても大きな、失われてしまったもののことを想った。二度も出会って、二度とも追い付くことなく見送ってしまった彼女の小さな背中があの日の夕焼けの中に溶けていく。
 香里の手を、握る。
「ゆっくり行こう。ね?」
「ゆっくり、な」
「名雪、なんて言うかな?」
「報告しなきゃいけないかな。もう名雪に甘えてられないし」
「え?」
「こっちの話」
 俺は香里の手を引っ張って立ち上がった。
「手繋いで下りようか」香里が言った。
「よし、そうするか」
「……え?」
 言い出した方の香里が真っ赤になって固まる。そんな香里を見て、俺は馬鹿みたいに笑い出していた。
 俺の笑い声みたいに、馬鹿みたく透き通った夏の空。上を向いて小さく呟いた彼女の名前は、空にとけて流れていった。知らず知らず力を入れてしまっていた、香里とつないだ手。
 同じだけの力で、香里は握り返してくれた。



サークル『スブルマン』 七夢香奇譚 初出