大きな音で鳴らしていた音楽を途中で止めても、それからしばらくは音がスピーカーから流れ出続けているような感覚がある。ディスプレイは暗く、CDの回転は止まっていても、音楽はスピーカーから流れ出ているような感じ。眼には見えていなくても、耳には聞こえているような感覚。
 それはいつも、しばらくすればおさまる。本を読み始めたり、勉強を始めたりすれば、明確な区切りもなく気が付けば聞こえなくなっている。だけど同時に、明確な区切りを感じさせずに気が付けばまた聞こえている。つまり、時系列を追って記憶を並べてみると、気にしなければ気にならないくらいの音量でずっと鳴り続けていたようにも思える。脳がおかしいのか耳がおかしいのか、それとも本当に音がしているのか、一応考えてみる。考えている間も、音は聞こえたり聞こえなかったりしている。

 階下から母親の声が聞こえる。私はその声に返事を返すと、手を止めた。ぐるりと自分の部屋を見渡す。順調に片づけが遅れている室内と、いくつか積み上がったダンボール。これじゃ引っ越し予定日までに終わらないかも、という気がする。彼に手伝って貰おうか、という考えが一瞬よぎって、私は慌ててそれを否定した。さすがにそれはちょっと図々しい。
 時間がかかっているのが、やっぱり本だった。別に全部持っていくわけではないのだけど、これを持っていきたい、あれも持っていきたい、それが懐かしい、とついつい手が止まってしまうのだ。気が付いたら懐かしい本を読みふけったりしてしまう。父親に手伝って貰えばいいのだけれど、やっぱり抵抗を感じる。
 結局自分でやるしかない、と言い聞かせて、私はのろのろと手を動かす。


「茜。さっきから呼んでるでしょ」唐突にドアが開いて、入ってきたのは母だった。
「何?」私は聞き返す。
「あなたねぇ」母が呆れたように嘆息した。「せっかく彼氏がお手伝いに来てくれたのに、それはないでしょ?」
 別に気にしないっすよ、と聞き慣れた声が聞こえる。え、と慌てて私は腰を浮かせた。恐ろしいほどの不意打ちだ。そんな私を見て、母はにやりと笑う。後は若い二人にとか、しばらく出かけてくるわね二時間ほど、とかなんとか母が訳が分からないことを言ってドアから出ていった後、おずおずと、なんだか照れくさそうに彼が部屋に入ってくる。デートとかたくさんしたけれど、自分の部屋に通すのは初めてだった、と今さらながらに思い至る。
「手伝おうと思ったんだけど」彼が遠慮がちに言う。「返って悪かったかな」
「ううん、そんなこと、ないよ」なんだか少し嬉しくて、私は笑っていた。「ありがとう」
 彼がはにかむように笑う。優しい音。



『 K e e p  a w a y 』



 結局、片づけはあっという間に終わってしまった。がらんとした部屋に、梱包されたダンボールがいくつか。彼がてきぱきとものを片づけていくので、私はほとんどすることがなかったくらいだ。申し訳ないなぁ、とか思いながら、でも少し嬉しくなる。
「おつかれさま」そう言ってグラスに入ったお茶を手渡す。
 受け取ろうとした彼の手と私の手が触れる。からん、とグラスの中の氷が音を立てた。
「いっそのこと」彼が言った。「一緒に住む?」
「それってプロポーズ?」私はそう返す。
 え、とか、あ、とかうめくような声で、彼は俯く。自分から言ったのに照れて真っ赤になっているところは、少し可愛い。
 ゆっくりと手を下に下ろす。グラスが床に触れる。触れていた彼の手が、私の手を上から包み込む。
 え、と私は顔を上げる。彼も顔を上げたところで、真剣な目で私を見ている。いつかと同じ目。私に告白してくれたときと同じ目。
「それ、でも、いい」
 彼の手に力が籠もる。不快な強さじゃない。私が好きな、彼の拘束。時々わけもなく不安になる私を、縛り付けてくれる幸福な力。

 シアワセってのは、掴むものでも探すものでも飛び込んでくるものでもなくて、ただ見いだすものなのだ、と。
 そう言ったくせに、すごく寂しそうな顔をして笑う。
 誰か。

 二回目。ぎこちなく私の服のボタンを外していく彼の手を感じながら私は思う。緊張しているのが伝わってくる。私も同じように緊張している。開いた胸元に、ひやりとした風。彼の唇が、私の胸に紅い痕を付けていく。嫌じゃない。不快じゃない。
 脱がされた服が、ベッドの脇に落ちて、私の視界から消える。長いキス。中に入ってくる感触。こぼれる声は、きっと私のものじゃない。喘ぐ声は、どこか遠いところから聞こえてくる。快楽に流されて、消えていく私。
 規則正しい筈の鼓動が、外からの刺激によって変化する。自分でコントロールできなくなって初めて、私は自分の個体を意識する。
 彼が何かを耳元で囁く。聞こえない。
 私が掠れた声で何かを答える。聞こえない。
 ごめんなさい、と言ったら、彼が笑った。


 リアルのくせに、現実感を伴わない感触。すべて夢だったんじゃないかと、何度も思った。気温のせいか、季節のせいか、その掌の温度は、あまりにも切なすぎて。
 恋をすることは、夢を見ている状態に似すぎてる?


 私は彼のことが好きだった。気を遣って私をちらちら見てくれる彼の視線に、私は気にしていないような素振りを見せながらドキドキしていた。彼は私と話す時、私の目をじっと見つめる。あんまり近くで見つめられると目を逸らしてしまう私は、彼の顎の辺りを見ながら彼と会話する。薄く生えた髭が柔らかそうで、それに触れたくなる。


「茜」
「何?」
「気持ちよかった?」
「うん」
「そっか」彼は笑う。「よかった」
「……は」
「ん?」
「気持ちよかった?」
「良くないわけ、ないよ」
「そっか」私は笑う。「よかった」


 アルバムが、ぽとり、と積み上げた本の隙間から落ちた。
 ぱらぱらと めくり、少し、微笑む。
 目には見えないけれど、音が聞こえる。私の中で音が聞こえる。大好きだった歌だったり、印象に残っている記憶の中でかかっているインストメンタルだったり。私に聞こえる音は、いつも私に優しい。時間がきっと、記憶をそういうものに変えていくのだろう。
 大丈夫だ、と思う。
 私は大丈夫だ、と思う。


「茜、寝言言ってた」
「本当?」
「うん」
「なんて?」
「……コウヘイって、誰?」
「コウヘイ?」私は首を傾げる。「知らない、人」

 私は曖昧に笑う。つられるように彼も曖昧に笑う。聞こえていた音が遠くなる。