懐かしいCDを見つけた。私は机の上を片付けている手を止めて、そのCDを手に取る。もう何度聞いたかわからない、とても大好きだったアーティストの一枚。新しい曲が、アーティストが生まれてはすぐに風化していく中で、私はいつもこのCDを聞いていた。これだけ長く聞き続けることができたのは、今のところこれ一枚だけだ。はじめてこれを聞いたのは十三の時。ずっと聞いてきたけれど、ここ一年あまり、あまりにいろいろなことがありすぎて聞いていなかった。
 表面にはうっすらと埃がついている。私はそれを手で払った。
 服を着替える。そして、ドレッサーの前でささやかなメイクをしながら、大学の友人と一緒に買い物に行った時に流されるようにして買ってしまったいくつかのアクセサリーに目をとめる。入学式の時に始めて袖を通したスーツ。少し先の尖ったハイヒール。高級感のあるモノグラム。光る石のついたリング。いつか似合うようになるだろうと楽観的に考えていたものは、いつまでたっても私に似合わない。茜は変わらないね、と詩子は言う。

 詩子と約束している時間までもう少し。
 そろそろ家を出た方がいい時間。
 私はふと思い立って、そのCDをポーダブルの中に詰め込んだ。




晴れた終わり





 駅のホームに着いて、電車が来るまで後五分だということを確認すると、私は鞄からイヤホンのついたコードを引っ張り出して耳に当てると、再生のボタンを押した。ギターのカットから入るイントロが空気の振動として私の耳に入り、脳内で音の連なりとして変換される。海外のアーティストなので英語詞の歌だったけれど、ずいぶんと聞いていなかった割にはちゃんと言葉が目の前に浮かんできた。言葉が私の意識の表層を滑り落ちて、その内のいくつかの単語がするりと潜りこんできて、意識の深いところで眠っている昔の私を優しくノックする。
 これを始めて聞いたのはいつだっけ?
 ――あの人がいなくなってから、すぐだった。
 これを聞かなくなったのはいつからだっけ?
 ――浩平がいなくなってから、すぐだった。
 もしも、ということを考える。もしも、ある二人の人物とまったく接点がなかったら。あの二人と出会わないという選択肢が私にあったなら。私はいったいどんな私になっていただろうか。
 電車が到着する。私はそれに乗りこんだ。座席はすべて埋まっていたので、ドアのすぐ前に私は立った。動き出した電車から、外の景色を眺める。その気色の手前に、半透明の自分がいて、じっとこっちを見ていた。その頼りなさが、いつかどこかで置き忘れてきた自分の残滓のようにも思えて、そんな風に感じた自分に少し笑った。


 君の見えない心の糸が
 僕の傍を漂っていないかと
 狭い部屋を見渡して
 小さな窓から空を見る


 三曲目をリピート。単語が頭の中でぐるぐると回る。その単語を私は一つ一つ拾い上げて、丁寧に並べて、日本語に変換していく。受験が終わって英単語なんてほとんど忘れていると思っていたけど、自分でも意外なほど覚えているようで、大体は訳すことができた。
 折原浩平。あのやることなすこと話すこと全てが無茶苦茶な彼のことを考える。浩平が悪い、と私は思った。勝手にいなくなるのはもちろんそう。浩平と最初に付き合い出したあの短い期間、私達は馬鹿みたいに浮かれていた。もう二度とこんな時間はこないと思うくらい、浮かれていた。今になって思えば、当時の私達は「失うことがある」ということ考えることすら放棄していただけだったんだ。
 目的の駅に着いたことを告げるアナウンスが、私をとりとめと生産性のない考えから現実へと立ち戻らせる。トートバッグを肩に引っ掛けて立ちあがると、開いたドアからホームに下りた。
 浩平が悪い。また私は思う。
 私の感情を増幅させ過ぎるから。喜怒哀楽の振れ幅が大きくなってしまった私は、今や笑い過ぎるし、怒り過ぎるし、泣き過ぎる。浩平を想い過ぎるし、時には憎み過ぎる。
 笑おうにも笑えない、笑うということすら想いつかない毎日と、ほんの些細なことですぐに泣きたくなってしまう、そんな毎日とではどちらが好ましいのだろう?
 やっぱり浩平が悪い。
 そんな事を考えながら、駅を出る。駅から出ると、良く見知った街並みがそこにある。大学に入ってすぐに、両親の転勤が決まったせいで、私は時期はずれの一人暮しを始めることになった。ゴールデンウイークをそのまま引っ越しに使うことになったので、浩平と予定していたことは全て白紙。それでも浩平と会うのに時間を気にしなくても良くなったのはかなり大きなプラスでもあったわけだけど。
 内側にいたころと違って、外からこの街を訪れると、何故か街は私が知っているものとは違う表情を見せてくれる。それを少しだけ不思議に思いながら、駅前のベンチに腰を下ろした。詩子との待ち合わせの時間まであと十分。これまでの経験から言って詩子がここに現れるまでは更にあと十分、というところだろう。
 そんな風に考えていたら、いきなり影が射して、私は顔を上げた。私のすぐ目の前に立っている詩子と、その後ろに見えた雲一つ無い空の、じっと見ていると目が痛くなるような青色。
「茜、待った?」
 目の前で詩子が片手を上げている。私は自分の時計を確認して、おまけに駅前に設置されている時計を見て、自分の時計が時間を間違えていないことを改めて確認してから「驚きました」と言った。
「何が?」と詩子は言う。
「詩子が約束した時間よりも早く来ていることです」
「ひっどいなぁ〜」と詩子は不満そうな顔になる。「あたしだって遅刻しないときもあるよ」
「そうですね」と私は言った。
 私の記憶では詩子が遅刻しなかったことはここ数年ないのだけれど、それは言わないでおくことにした。今目の前の詩子は遅刻せずにここにいるのだから、それでいい気がした。
「それで、今日はどうしたんですか?」
「あれ? 言わなかったっけ?」
「聞いてません」
「言ったような気がするんだけどなー」
「聞いてません」
「そっかぁ」と詩子は言った。「茜がそう言うんだったらそうなんだろうね」
 私は小さく嘆息。用件も言わずに詩子に呼び出されるのはいつものことだ。それでも、やっぱり、ちょっと疲れる。
「じゃ、行こっか」
 どこに、と訊こうとして、やめた。どうせ詩子は「着いてからのお楽しみ」なんて言うに決まっている。思考のパターンが誰かに似ている。人を驚かせて楽しそうにしているところなんて、そっくりだ。
「そういえば茜、髪下ろしてるんだ」歩きながら、詩子が言った。
「はい」と私は返す。
「めっずらしいねー。外出る時はいつもお下げにしてたのに」
「そういう気分の日もあります」
「どんな気分?」笑いながら、詩子が詰め寄ってくる。
 私は空を見上げた。
 二年前の今ごろの私は、推薦入学で地元の大学に決めてしまい、合格発表を待っているクラスメイト達よりは遥かに余裕があったはずなのに、精神的には酷く窮屈な、縛られたような思いをしていて、それを全部春のせいにしていた。去年の今ごろの私は、手帳にびっしりと浩平と詩子との予定を書きこんで、毎日ばたばたしていたのに、ココロだけはとても自由でふわふわして、それをみんな春のせいにしていた。
 今の私は、どうだろう?
「……春な、気分でしょうか」
 なんとなく口に出したその一言を聞いて、詩子はきょとんとした顔をした。それから、「なんか茜らしいかもっ」とけらけら笑い出した。それは肯定的なニュアンスなのか否定的なニュアンスなのか微妙なところだったので、私はとりあえず黙っておくことにした。向けた視線の先に色鮮やかな桜がちらりと見えて、私は詩子がどこに行こうとしているか理解する。
「詩子」
「何?」
「何か、食べるものを買って行きませんか?」
「うん。おっけ」
 詩子が顔全体で笑って、言った。


 喜ぶ声が聞きたくて
 求める心に触れたくて
 僕は静かに考える
 君のことを考える


「茜は変わらないね」詩子は言う。
「詩子は変わりました」私は言う。
「どこが?」
「昔よりも、人に合わせるのが上手くなりました」
「そっかな?」
「そうです」
「茜も変わったよ」
「どこがですか?」
 詩子は子供みたいに、笑う。「前よりずっと、美人になった。折原君のおかげ?」
「……詩子っ」
 ささやかなことで声を出して笑ったり、不意に真面目になってみたり、時々怒ってみせたりしながら、私たちは歩く。
 今年最初の桜は、まだ少しシーズンには早い、蕾のままの花だった。大学生には休みでも世間的には平日ということもあって、それほど人は多くない。そういえば、と私は思い出す。ここは、いつか浩平と一緒に来た公園だった。少し前を歩く詩子の手には飲み物と適当に買ってきた食べ物。ついでに私は例のあのワッフル(詩子は手に持つのすら嫌がった)を持っている。
 少し歩いて、人気の無い桜の木の下で、詩子は鞄から出したシートを広げた。買ってきた物を置いて、二人で並んで座る。「はい」と詩子が私にビールの缶を投げて寄越す。
「……詩子」
「気にしない気にしない。お花見といえばお酒でしょ?」
 その認識は激しく間違っています、と言おうとして、結局その言葉を私は飲みこんだ。今更言ってどうなる? 詩子相手にそんな反論がいったい何の役に立つ?
 小気味良い音を立てて、詩子がビールの缶のプルタブを押しこんだ。私もそれに習う。乾杯、という詩子の声に合わせて私達が持っている缶がぶつかる。勢い良くぶつけた詩子のビールが零れて、彼女の袖を濡らした。子供みたいに笑った彼女はとても美味しそうにビールを一口飲んだあと、ハンカチでそれを拭った。
「茜、もう折原君とお花見しちゃった?」
「いいえ」
「あー、よかった」
 また詩子はビールに口をつける。気持ちのいい詩子の飲みっぷりにつられるように、私も一口。
「……何がですか?」
「やっぱりね」
「はい」
「一番最初は、茜とがいいな、って」
「いつも詩子には付き合わされてます」
「例えば、どんな?」
 私はまた、ビールを一口。詩子は最初の缶をもう空にしてしまって、次のをもう開けている。「初めてお酒を飲んだ時は、詩子とでした」
「うんうん」
「生まれて初めて授業をサボって、チーズケーキ食べに行ったのも誘ったのは詩子でした」
「アレは美味しかったね」
「はい」
 あの時のチーズケーキの味を、私は一瞬で思い出す。お世辞にも綺麗な店内とは言えなくて、いかにも手作りではない、味のぼけたチーズケーキ。なのに、あれ以上に美味しいと思えたケーキに私はまだ出逢っていない。私も詩子もあの人も制服のままで、サボっているという後ろめたい気持ちのせいで、三人ともとてもハイだったのを憶えている。
 三人。中学生だった私と詩子。それから――。
「初めて、」言いかけて、言葉が止まった。酔っているな、と思う。気がつくと手に持った缶は中身が感じられないくらい軽くなっていた。「初めて、私に声をかけてくれたのは、詩子でした」
「あたしも中学入って初めて自分から声かけたのは、茜だったよ。なんでだろうね?」
「どうしてでしょうね?」
「わかんないよ」
「わかりませんね」
「そーゆーもんなのかもね」詩子が行った。
「そういうものなのかもしれませんね」私も言った。
 人との距離の取り方を良くわからない私と、そして、たぶん、人との距離を上手く取れ過ぎる詩子と。
 正しいことなんてわからない。
 でも、詩子のことだったら少しはわかる。
 そういうものなのかな、と私は思う。
 

 すべてを壊し
 すべてを消し去り
 なにもなかったかのほうが
 君は幸せなのかもしれない


「そういえば」私は鞄の中からポーダブルを引っ張り出した。
「何?」詩子が訊く。
「懐かしいものを見つけたんです」
 そう言って、私は詩子にくっつくくらいに体を寄せて、片方のイヤホンを自分で、もう片方のイヤホンを詩子の耳に当てた。

 再生>

 あ、と詩子が小さく声を上げた。イヤホンをつけた耳を、その上から手のひらで抑えて、目を閉じる。アルコールのせいで少し朱の射した頬と、ゆるやかな曲線を描く唇。そのとき私は「詩子って綺麗だなあ」という場違いなことを思っていた。
「この曲」ぽつり、と詩子が言った。私の方を見ないで。視線を前に固定したままで。「茜、よく聞いてたよね」
「はい」
「あたしも、好きだった」
「……そうでした」
「なんでだろうね」目を閉じたまま、詩子は言う。「お酒飲んだせいかな。すごく、すごく……」
 詩子は言葉に詰まった。私は何も言えなかった。風がほんの少しの間だけ強く吹いて、私は髪を抑えた。詩子は微動だにしなかった。ただ、風が過ぎ去ったあとに乱れた前髪をかきあげただけ。
 気の早い桜の花びらが、今の風に煽られてぱらぱらと落ちてくる。私の肩に落ちて、詩子の前髪に引っかかった。


 そんなことはない
 そんなはずはない


 もしもあの人と出会わなかったら。
 もしも浩平と出会わなかったら。
 もしも、を想像することは、ありえないとわかっているから、いつだって少し魅力的だ。
 仮定の現在。
 それでも。
 その仮定の現在でも、私は詩子とこうやっているんじゃないかという気がした。


 僕が君に繋がる意味を
 こうしていつも考えている


「どしたの茜? なんか嬉しそう?」
「少し」
「少し?」
「詩子がいてくれてよかった、と思ってみただけです」
 よくわからない、という顔をしている詩子に笑いかけて、私は二本目の缶ビールのプルタブを押しこんだ。空気の抜ける音と同時に、中身が少し飛び出して私の服の袖を少し濡らした。
 私達は少しの間顔を見合わせて、それから同時に吹き出していた。
「わぉ、茜の告白だぁ」
「……そうですね」そうなのだろうか、と少し疑問に思いながらも私は言う。
「嬉しいっ! 幸せにしてね茜っ!」
「嫌です」
 私は小さく笑うと、いつもの口調で言った。


 空を見上げると、とても綺麗で澄んだ蒼。
 この空のように晴れやかで、直視すると胸が痛む
 あの日の終わりを、僕は想う
 あの日の始まりを、僕は想う


「ねえ茜」唐突に、詩子が言った。
「はい」
「ひさしぶりに聞いたけど、いい曲だね、これ」
 そう言って、花びらを前髪にくっつけたままで、詩子は私に笑いかけた。