一言の感謝


 しっかりとボールが指にかかったときは、リリースの瞬間自分にしか聞こえない『ビシッ』という音がする。指から離れた白球が白い軌跡を残して、キャッチャーミットに収まる。重い音。ナイスボール。キャッチャーの秋丸恭平の声。
 返球を受け取ると、榛名元希は、ブルペンのマウンド上で人差し指を立て、くるくると回した。曲げるぞ、という意思表示。秋丸が頷く。回していた指を、そのまま横に。スライダーのサイン。また秋丸が頷く。
 プレートに足をかけて、大きく振りかぶる。ぐっ、と視界が狭まって、世界がまるで十八、四十四メートル先にあるキャッチャーミットに向かって収束していく。

 ──モトキさん程度の

 一瞬だけ通り過ぎた、シニア時代に自分の球を受けていた、後輩の顔。生意気な声。頭に来る目つき。

 ──あの六番は、モトキさん程度のスライダーでも空振ってくれるありがたい打者なんスよ!

 ちり。何かが焼ける音がする。
 情けない感触を残して指から離れていったボールは、すっぽ抜けの大暴投になった。スライドも何も関係ない。キャッチャーの捕れる範囲に行かない球になんて意味はない。秋丸がジャンプして思いっきり手を伸ばす。けれどボールは、その伸ばしたミットの遙か上を通り過ぎて行った。
「榛名?」
 咎めるような、心配するような、そんな顔で秋丸は別のボールを榛名に投げる。
「悪ィ」
 何でもない、と手を振って、秋丸を座らせる。そうだ、何でもない。何でもあるはずがない。たかだかムカつく奴の顔が一瞬頭をよぎっただけだ。何もない。動揺なんてしていない。
 深呼吸。肺に、そして全身に、吸い込んだ酸素を行き渡らせるイメージ。
 大丈夫だ。
 ――モトキさん程度のスライダー
「……にゃろう」
 見せてやる。
 見てやがれ。
 榛名は大きく振りかぶる。軸足から、踏み出した足へ。下半身で生み出したエネルギーを、螺旋を描くイメージで上半身、それから右腕。手首。指先。リリース。
 頭の中で音が響く。リリースされたボールはイメージ通りの道筋を通って、ホームベースの角を嘗めるように鋭くスライドした後、秋丸のミットに収まった。



「つまり、さ」
「あ?」
「榛名は、悔しいんだろ?」
「何がだよ」
 ペットボトルのスポーツドリンクをあおる。ピッチングは終わっても、練習はまだ終わってはいない。後ろでは他の部員の声や、バットが硬球を叩く音がひっきりなしに聞こえている。
「例のシニアの後輩のタカヤが、武蔵野に来なかったのが」
「はあ?」まるで心外なことを言われたかのように、榛名は顔をしかめる。「なんでそんな話になんだよ」
「なんでもなにも」秋丸は頭から水を被りながら、言う。「榛名の全身がそう言ってるよ」
「テキトーなこと言うんじゃねぇよ」
「テキトーに言ってるつもりはないよ」
「そうかよ」
「そうだよ」
 ペットボトルを置く。隣で秋丸が顔を上げる。タオルを手にとって顔を拭くと、秋丸が眼鏡をかけたところだった。
 タカヤ。阿部隆也。榛名のシニア時代の後輩であり、榛名の球を受ける捕手だった。バッテリーだった。――と言ってもいいのかどうか、時々分からなくなるときがある。
「アイツは」榛名は言う。「俺のこと、嫌ってんだよ」
 それだけは、間違いないと思う。今でこそ違うが、あのころの自分はお世辞にもまともな投手とは言えなかった。怪我をして、監督に見放されて、自分で勉強して、治して。でも、野球なんて大嫌いになりかけてて。本当にやめてやろうと思っていて。
 時々、あのころは何を考えて投げていたのか分からなくなるときがある。いったい何を考えて、なんのために投げていたのか。それが、わからない。何をしたかったのか。やめようとしていたくせに、マウンドに立っていた。なんてムカつくキャッチャーだろうと思いながら、それでも投げていた。
「嫌ってるかどうかはまあ、わからないけどさ」秋丸は言う。「タカヤって、きっといい奴なんだな」
「……なんでだよ」
「榛名のわがままに、付き合ってくれてたんだろ?」
「どこがいい奴だよ。人のことサイテーとか言う野郎が」
 あはは、と秋丸は明るく笑う。「でもさ、いいキャッチだったんだろ?」
「……まあ、それなりにはな」
 また、秋丸は笑う。榛名には癪だったけれど、どう言い返せばいいかも分からなかった。
 本当にムカつく奴だった、と思う。と同時に、まあ、それなりにはいいキャッチャーではあった、と認めてもいいような気はしている。なにしろ、最初は全然だったとはいえ、まがりなりにも自分の全力投球を受けることができるレベルにはいたのだ。
「榛名」秋丸が言う。
「ああ?」榛名が言った。
「もう上がるの?」
 少し考えてから、榛名は言った。
「……いや、もう少し投げる。投げたくなった」
「オーケー」
 秋丸そう答えると、レガースを着け始めた。それを見ながら、榛名は思う。きっと、タカヤは自分んを追いかけてくるのだと、どこかで信じていたのかもしれない。だからこそこんなに頭に来るのだ。そして同時に、それが理不尽な怒りなのだということも理解していた。
 アベタカヤは、ハルナモトキを選ばなかった。
 それがただ、悔しいのだ。
「榛名?」
「ああ」
「準備、できた」
「オーケー」
 ブルペンのマウンドに登る。休憩した分肩が冷えているので、立ったままのキャッチボール。しばらくそれを続けてから、秋丸を座らせる。
 左腕からリリースされたストレートが、秋丸のミットに収まる。一球。二球。三球。ストライクゾーンだが、狙ったところにはいかない。ノーコン。それも、タカヤに言われた言葉だ、と思い出す。
 秋丸からの返球を受け取って、息を吐く。ブルペンの隣では、いつの間にか香具山直人が投球練習をしている。榛名と目が合うと、香具山がにっと歯を出して笑った。
 ああ、いいな、と榛名は思う。
 きっと、自分はこういうのを求めていたんだ、と思う。
「榛名ぁ、ペース上げすぎー!」秋丸が言う。
「おう!」榛名は答える。
 当たり前に投げることができることがこんなに楽しいと、もっと早く気付いていたら良かったのに。
 自分のボールを受けてくれる捕手が、壁なんかじゃないと、もっと早くに気付けていたらよかったのに。
 タカヤは、どんな気持ちで自分の球を受けていたんだろう、と思った。
 謝りたい、なんてまったく思わない。いっぱい喧嘩したし、お互い言いたいことを言い合った。そして、自分の当時の行動がとても子供じみたものだったと分かってもいる。それでも、タカヤに謝ろうなんて気持ちはこれっぽっちもない。
 でも。
 榛名は思う。
 たった一言程度の感謝は、してやってもいいんじゃないか。そんな気がした。
「秋丸!」
 榛名はボールを持った左手を前に突き出す。握りはストレート。全力で投げる、というサイン。
「は、榛名、ちょっと待って――!」
「一球だけだっ!」
 秋丸の抗議の声を無視して、榛名は大きく振りかぶった。





 なんかこう、榛名サンがニセモノ風味……