『視線』



 校舎から出たとたん、体の水分を全部干上がらせてしまおうとでもしているみたいな太陽光線。祐一は手で顔の前に庇を作ると、憎々しげに空を見上げた。冬があれだけ寒かったのだから、少しくらい遠慮してくれてもいいじゃないか――そんなことを思いながら。
 補習と名のつく授業の延長。一応、進学組として補習はサボるわけにはいかない。けれど、毎朝制服を前にするたびに、今日はこのまま部屋で寝ていたいという気持ちになる。
「……あっついよなぁ」
 言って、ひとつのびをする。空には、もう目にするのも嫌になりそうな入道雲。背中をつうっと汗が滑り落ちていった。きっとシャツの背中の部分は濡れてしまっているだろう。
 ふと、視線を感じる。別段敵意がこもっているわけではない。いつもいつも、張り付いている訳でもない。時折、ふと背中に感じる視線。理由がわからないけれど、不快というわけでもない。
 祐一は、その視線を追いかけて振り向いた。昇降口で外履きに履き替えようとしていたクラスメイトの美坂香里と目が合う。他には誰もいない。補習が終わってからも教室でだらだらと話をしていたためだ。いつまでも学校に残っている物好きなんて、そうはいない。
 香里は何でもないように視線を外すと、靴を履き替えた。それから、ゆっくりとした歩調で歩いてくる。その間も、祐一は香里を見つづけた。
「……何? 相沢君」
 そんな、言葉通りの意味以外は一ミリグラムも他の成分が含まれていない声で、香里は訊ねてくる。
「なあ、香里。俺のこと……見てた?」
 時折視線を感じるのは初めてではないけれど、こうやって訊いてみたのは初めてだった。きっと、訊いても答えてくれないだろうな、なんて思っていたからかもしれない。きっと訊いてもはぐらかされるからだ、と。美坂香里という女は、いつもいつも肝心なことは自分で処理してしまって、決して悩みを打ち明けたりしない人間だから。
「うん」
 だから、そんな風にあっさりと答えられて、祐一は肩透かしを食らった気分になった。香里はそんな祐一の気分など気にした風も無く「腕、上げてみて」と言ってくる。祐一は黙って腕を持ち上げた。何を思ったのか、香里は持ち上げた祐一の腕と平行に、彼女自身の腕を並べる。
 その腕は、祐一の腕よりは一回りも細くて、白い。
「……やっぱりねぇ」ため息を吐いた時のような表情で――実際にはそうはしなかったけれど――香里は言う。「ちょっと、羨ましい」
「何が」そう祐一が訊き返すと、「ほら」と並べた腕を香里は指す。何が「ほら」なのか祐一はわからなくて、思わずじっと香里の顔を見つめてしまう。
「日焼け、しないのよね」拗ねたような顔で、香里は言った。「日焼けしても、赤くなって痛いだけなの。まあ……真っ黒になりたいなんて思わないけど」
 でも――と、香里は祐一を見た。
「相沢君くらいは焼けてた方が、なんか、夏って感じするよね」
 そう言って、香里は微笑った。そんな香里に、祐一は自然と頬が緩んでくるのを押さえられない。妹の栞が病気から快復して学校に通うようになって、香里は相変わらずの香里だったけれど、ときどき見ていて息が詰まるくらい無防備だと思えるような瞬間がある。
 笑顔の余韻を残したままで、香里が腕を引く。先に歩き出した香里を追いかけるように祐一も歩き出して、小さく息をはいた。けれど、視線の謎が解けたというのに、どこか気の抜けたような感じがする。
「別に焼けてなくてもいいだろ? 無理に焼くとシミになるぞ? 香里白いから、シミできると目立つんじゃねーの?」
「そうなんだけどね」
 それでも、焼けた肌にまだ未練がある様子で、香里は軽く肩を竦めた。
「あーあ」
 気が抜けた吐息を、祐一は吐いた。
「どっかの可愛い女の子が俺に告白しようと狙ってるんじゃないかと期待したのになー」
「あら、がっかりした?」
「ちょっとな」
 本心を冗談でくるんで、祐一はそう言った。がっかりしたのは本当。でも、視線の主が告白しようと狙っている可愛い女の子ではなかったからじゃない。香里が自分に視線を向けることに、もっと別な理由が欲しかったから。
「じゃあ、あたしがせいぜい冷たい視線でも送るように心がけてあげるから」
「余計なお世話」
 あ、と声を漏らして、香里は少し首を傾げた。
「そんなことしてちゃ、名雪に誤解されちゃうかな」
「名雪は関係ないだろ」
 その声が、自分が意図していた声よりも、口から出てきたときにはずっと硬い声になっていた。
「ダメよ、そんなこと言ってちゃ。名雪、泣いちゃうから」
「だーかーらー、俺と名雪はそういうんじゃないんだって」
「はいはい。そういうことにしといたげる」
「……勘弁してくれよ」
 香里は楽しそうに笑う。
「まあ、あたしなんかに視線送られてもしかたないよね。相沢君の周りは可愛い女の子いっぱいいるし」
 名雪をはじめとしてね。そう念押しするように言って、香里はくるりと背中を向ける。
 やっぱりだ。
 香里の言葉にがっかりしている自分がいる。祐一は首を振った。
 もしも。
 もしもの話。
 香里に、今日の日差しみたいな視線を送られたら―――。
 全身が強張った。心臓がリズムを乱して鼓動する。流れていた汗が一瞬で引っ込んで、厚いのか寒いのか、辺りの景色さえわからなくなる。
 祐一は大きく、胸の中にたまった熱を全部吐き出すように息を吐くと、頭を掻いた。どうかしている。やっぱり、受験生とはいえ夏休みに学校なんてくるものじゃない。香里は名雪の友達で、栞の姉で――ともかく、こんな感情の対象になるような相手ではない。
 ない、はずだ。
 祐一は歩く足を速めて、香里を追い越した。


「香里、時間あるよな? どうせだからなんか冷たいもんでも飲んで帰ろうぜ?」


 そう言って、祐一は一歩前を歩く。ついつい祐一の背中に向かってしまう視線を下におろして、香里は気付かれないようにそっとため息をついた。
 ――もうちょっと、気をつけないと。
 いつもいつも、目が自分の意思を離れて追いかけてしまう。ふと気が付くと祐一の姿を探している。体育の授業などで隣のコートで男子が何かをしている時も。そして、何故か探す必要もなしに、祐一はいつのまにか自分の視界の中にいる。
 長く見ていると気付かれるから、いつもすぐに目を離すのだけど、目を離しても意識の方はずっとそちらに行ったままになってしまう。祐一は勘の良いほうだから、何度もこんなことをしていれば気付かれてしまうのはわかっている。
 それだけはしちゃいけない。悟られてはいけない。これは裏切りだ。まっすぐに祐一を想っている、親友の名雪への。純粋に祐一を想っている、妹の栞への。
 香里は唇を噛んだ。それだけはダメだ。こんな思いを知られたら、大事なものを、ずっと大切にしてきたものを、一度に二つ同時に無くしてしまう。
 いつからこんな風になったのだろう。はっきりとしたものはない。でも、気付いた。気付かされた。自分が祐一を見る、その視線の温度で。気が付いた時にはもう――好きだった。
 見つめることすら気付かれてしまいそうで怖い。友情と言う名前の緩衝材を挟んで、本音を冗談で包み込んで、隠しつづけなければいけない。
「……相沢君」
 それでも――
「それでも、好きなのよ。結構本気で」
 祐一に聞こえないように小声で言って、香里は顔を上げて、言葉通りの意味を込めた視線を祐一の背中に向けた。
 今ならまだ、冗談で誤魔化せるから。


 視線が届く。
 祐一は振り向いた。細胞を片っ端から融かしていくような、真夏の太陽光線のように熱い視線。ずっと、ずっと願っていたもの。
 ――例えそれが、冗談だとしても。
「……香里」
「どう? お望みの視線送ってみたんだけど?」
 香里は祐一の視線の先で、悪戯っぽく笑う。その笑顔のままで、香里は隣を追い越して、前を歩いていく。
 その背中を見ながら、祐一は思う。
 これは冗談だから。香里の目がそう言っていた。それでも、わかっていても勘違いしてしまいそうな熱。
 本物じゃないのに、冗談だってわかっているのに。
 祐一は汗を拭ってから、太陽を仰いだ。流れ落ちる汗の原因は、きっと太陽のせいだけじゃない。