船は、ゆっくりと岸を離れていく。
 海面で乱反射した光に目を刺されて、トリスは手で庇を作って光を遮った。
 雲ひとつ無い青空に、ゆるゆると頬を撫でていくそよ風。傍にいるのは大切な人と、仲間たち。
 ナツミが言った言葉をトリスは思い出していた。そして、その意味を考えてみる。
『……お別れには最高の日だね』
 考えてみたけれど――トリスにはわからなかった。






『全ての言葉はさよなら』






 船がどんどん小さくなる。指と指の間に収まるくらいの大きさになって、お米の一粒くらいの大きさになって、そのうちにその姿もまるで最初から無かったかのように見えなくなった。トリスはずっとその場所に立ったまま、それを眺めつづけていた。
「……言っちゃったね」
 ぽつり、と呟く。隣りにいるネスティから「そうだな」と同意が返ってきた。
「ねぇネス?」
「何だ?」
「もし、ナツミと逢えなかったら……どうなってたかな?」
「そんな仮定は意味が無い」
「むぅ……」
「君も僕もアメルもメルギトスの侵攻を止めることができずにリィンバウムが悪魔の世界になった。こう言えば君は満足するのか?」
「そういうのじゃないけど……」
 不満そうなトリスに、ネスティは小さく笑いかける。「まあ、君の言いたいこともわかる。実際彼女がいなかったら、僕は今こうやっていられなかっただろうしね」
「あたしも……たぶんそう」
「でも僕は、それも君のおかげだと思っている」ネスティはトリスの肩に手を置いて言った。「クレスメントの一族は、その強い魔力故に『調律者』と呼ばれていた」
「それが何か関係あるの?」
 クレスメント、という単語に反応したトリスが少し棘のある口調でネスティに問い返す。 そんなトリスに苦笑いを返して、ネスティは言葉を続ける。
「まあ聞くんだ、トリス。『調律者』。その強い魔力で運命さえも律することができると謳われたクレスメント。君がその最後の一人だ」
「わかってるわよ! だから何だ、って言ってるの!」イライラして、トリスは聞訊き返す。
「君が呼んだんだ、彼女を」
「は?」
「君が彼女と出会ったのは、滅亡へ向かう運命を変えるためだったのさ。因果律に干渉し、望む未来を勝ち取るために。……こういう考え方は気に食わないか?」
 トリスは眉間に皺を寄せて、つい今しがたネスティの口から紡がれた言葉の意味を考えた。
 助けを求めていただろうか?
 そうかもしれない。
 その声を、ナツミが聞いてくれた?
 そして、あたしたちを助けに来てくれた?
「……それってさ、ものすっごくこじつけみたいな気がする」
「そうか?」ネスティは平然として頷く。「それは奇遇だな。僕もそう思っていたところだよ」
「自分で言ったくせに」
「君が、こういう答えを欲しがっていたような気がしたからな」
「……否定はしない」
 トリスは肩を竦めると、ネスティを見上げた。
「それに、ネスの解釈、結構ステキかもね!」
 トリスはくるりと振り返ると、自分の名を呼ぶアメルに向かって手を振った。
 運命だって変えちゃう人。もう一度会えるだろうか。そうトリスは考えて、思わず笑ってしまった。
 当然だ。
 会えないわけがない。
 今度はもっと、ゆっくりと話をしよう。いろんな話を聞かせてもらおう。
「ネス! ネス!」
「何だ?」
「絶対行こうね。サイジェント。ナツミのいるところ」
「……ああ」
 ネスティは穏やかに笑った。その顔を見てトリスは笑い声を上げると、彼の手を引いた。






 タタン、とステップを踏むようにしてタラップを駆け下りる。それから、ナツミはくるりと振り向いた。
「うにゅう〜」
 ふらふらと、倒れこむようにして飛びこんできたモナティの体を抱きとめた。モナティはもう自分で立つ力も無いらしく、体重を全部ナツミに預けてぐったりとしている。
「モナティ、大丈夫?」
「大丈夫ですの〜……」
「自分の足で立てない状態って大丈夫とは言わないって」
「申し訳ありませんですの、マスター……」
 ぽんぽん、と軽くモナティの頭を撫でると、ナツミは顔を上げる。そこには、モナティと似たような顔色をすているものの、かろうじて自分の足で立ってはいるクラレットがいた。二人を見比べて、ナツミは苦笑した。
 手を伸ばす。
 クラレットが、その手を取った。
「行こう」
「はい」
「はいですのっ」


『連れて行って』
喉まで出かかったその言葉は、けれど決して出てくることは無かった。

「ナツミ」
 クラレットが微笑っていた。くだらない考えなんて全部吹き飛んでしまう。
 結論を出すには、たぶん、まだまだ早過ぎる。
「……悟りを開くにゃ、まだまだ早過ぎるね」
 クラレットが「何か言いました?」と訊き返してくる。ナツミは肩を竦めて頭を振った。
「なぁんにも」
 クラレットは首を傾げる。


待っててくれる人がいるから。
名前を読んでくれる人がいるから。
そっちに行くのはもうちょっと先にするよ、バノッサ。

「また、ゼラムへ行きましょう」
「うん」
「今度は純粋に観光でもするために」
「そうだね。いつか、トリス達に会いに行こう。ね、モナティ?」
「はいですのっ!」
 クラレットと手を繋いで。
 腰にしがみつくモナティに歩幅を合わせて。
「なんか、すごいひっさしぶりな気がするなぁ、サイジェント」
 今はまだ素直にそうは呼べないけれど、いつか故郷と呼べる場所へ帰るために、ゆっくりと歩き出した。
 空を見上げる。
 文句のつけようが無い青。
 終わりじゃない。
 終わりじゃない。
 これは始まりなんだ。何度も何度も、そう自分に言い聞かせた。泣くもんか。絶対に泣くもんか。そう思って、空を見上げた。
 文句のつけようが無い青。
 その青を見ながら、懐かしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。






 じゃあね。
 バイバイ。






【長いお別れ】closed.
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