煌々と、翠色の月が空から世界を染め上げている。その光が染めているのは、紙芝居のような街並み。押せば倒れそうな存在感。斜めに伸びた影。
 音がすべて消えていることに気付く。付けたままだったMP3プレーヤのイヤフォンからは何も聞こえない。通りを満たす雑踏もない。車の音。話し声。すべてが消失している。
 数ミリ持ち上げて前に進めた足が地面を擦る。硬い音がした。世界を満たす唯一の音。
 通りには、棺桶。静止した夜に、静止した棺桶が巡礼者のように並んでいる。その間をすり抜けながら、歩く。
 おかしな夜だ、と思う。
 影だけが、存在感を持った夜。
 ふいに、何かを囁かれたような気がして、振り返る。振り返った景色に何も変化はない。動きを見せるものすらない。
 可笑しさが込み上げてきて、笑う。何度も何度も夢に見てきた光景と、今のこの現実は似すぎている。夢と現実の境界線に立っているような酩酊感。
 君は知ってる?
 何かが囁く。








 初めて撃鉄を落としたあの瞬間を、鮮明に憶えている。
 訳も分からずたたき起こされた夜。翠の月が染める世界。真田明彦。桐条美鶴。シャドウと呼ばれた「敵」。岳羽ゆかり。ペルソナ。「敵」と戦うための力。召還機。  岳羽ゆかりが吹っ飛ばされて目の前に転がってきたそれを、咄嗟に掴み取っていた。
 ただ、怖かった。目の前にいたシャドウが。何も出来ず殺されるのだということが。どうすれば助かることができるのか、それを手にした瞬間に分かっていた。震える手で銃口をこめかみに当てる。これから殺されるというのに、まるで自殺をするようだと考え、少し笑った。それで、手の震えは無くなった。
 与えられる死と、自ら選ぶ死。
 あのとき、確かに自分は選択したのだ。

 一瞬、視界がホワイトアウトする。次の瞬間、自分と重なるように浮かび上がった異形の巨人が、群がるシャドウに向けて炎のつぶてを放つ。
 ペルソナ。
 もう一つの自分。
 自分ではない自分。
 オルフェウス。ペルソナはそう名乗った。アポロンの息子にして、聞くもの全てを魅了する竪琴の名手。死した妻エウリュディケを求めて黄泉へ下り、けれど最後の最後に振り返って妻を取り戻す機会を永遠に失ってしまう。
 それがどうした、と言われればその通りだろう。今ここにいる自分には何の関係もない話だ。
 けれど、その名をもつものがペルソナとして自分の中にいる。
 視線を上げると、オルフェウスは空気に溶け込むようにして消えていくところだった。
 なぜ、オマエなんだ?
 なぜ、俺なんだ?
 叫び出したくなるような衝動。
「よくやった」
 低いバリトン。振り向くと、真田明彦が肩に手を置いてくる。
「……やれ、ました」なんと答えようか迷って、結局それだけを口にする。
 真田の視線を避けるように目を背けると、伊織順平が岳羽ゆかりに回復してもらっている姿が見えた。
「……大丈夫か?」真田の声に、意識がざわめく。
「ええ、大丈夫、です」
 答えて、辺りを見渡す。影時間だけに現れるシャドウの住まう塔、タルタロス。ペルソナを使った実戦の訓練のために訪れる場でもあった。
「無理せずに、岳羽に回復してもらえ」真田は言う。「君が倒れると、戦力のバランスが崩れて一気に全滅だ」
 そうなのだろうか、と思う。自分が倒れても真田がいれば十分なのではないかという思いが離れない。
 あの時から、ずっとそうだ。自分がどこに立っているかわからない。なぜ、自分が生きているのかわからない。事故で両親が死に、自分一人が生き残ってしまったあの時から。
「……行きましょう。留まっていたら囲まれるかもしれない」そう言うと、真田は頷く。
「そうだな」
 伊織と岳羽の二人を呼び、タルタロスをさらに登っていく。そうやって、何体目かのシャドウを倒したその時だった。
「鈴……?」岳羽が呟く。
 次の瞬間、真田が弾かれたように叫んだ。「不味い、『刈り取るもの』だ!」
 息を呑む音。伊織の表情が強張る。
「階段まで走れっ!」
 真田の声をきっかけに、全員が走り出す。四つの足音と、少しずつ大きくなる鈴の音。遅れだした岳羽の少し後ろを走りながら、逃げ切れない、と何故か冷静に判断している自分に気付いていた。
「もう少し――」伊織が叫ぶ。
 瞬間、伸ばした右手が岳羽を掴み、その場に引きずり倒していた。倒れる前の岳羽がいた空間を、鋭い光が通り過ぎた。――ちょうど、首と胴を切り離す軌道で。
「ひっ……」岳羽が倒れた姿勢のまま、少しでも『それ』から離れようともがく。
 『それ』は死そのものだった。黒いローブに、眼窩の無い髑髏。携えた大鎌。ゆらゆらと揺れながら、まるで獲物を前に舌なめずりするように近づいてくる。
 『すぐに離脱してください!』山岸風花の声も虚しく響く。  離脱など、できようはずもない。真田も、伊織も、すぐ傍で震えている岳羽も、魅入られたように動けずにいる。
 おそらく、このまま、雑草でも刈り取るかのように軽やかに、自分たちの命は刈られるのだろう。
 誰にも等しく、そこに死はある。
「オルフェウス!」
 叫んだ声は、自分のものだった。立ち上がることを選択したのも、自分だった。抗うことを選択したのも、自ら選ぶ死を選択したのも。
 戦うことを、選択したのも。
「無茶だっ!」真田が叫ぶ。
「走れ岳羽!」岳羽を走らせ、前に出る。膝が笑う。手が震える。たったの一振りで、自分は死ぬだろう。「みんなも、早くっ!」
 振り向いている余裕など無い。僅かでもできた時間に、仲間が離脱できていることを信じるしかない。
 大鎌が翻る。震える手で銃口をこめかみに当てる。これから殺されるというのに、まるで自殺をするようだと考え、少し笑った。それで、手の震えは無くなった。

 与えられる死と、自ら選ぶ死。
 確かに自分は選択した。



「君は知ってる?」
 何かが囁く。
「俺は、知ってる」
「何を?」
「俺がまだ、死ぬわけにはいかないこと、だ」
「どうして?」『何か』は、少年の顔で微笑んだ。
「俺は」右手を胸の前で握り、それに左手を重ねる。「それを、知りたいんだ」



 初めてペルソナを起動したときと、同じだった。オルフェウスの姿が歪み、その内に内包した『死』をさらけ出す。神経が灼き切れるような激痛。
 振り向くな。目を凝らせ。前を見ろ。それは、オルフェウスの声だったかもしれない。わからない。どうでもいい。
「あ」
 ――喚ぶんだ。
「ああ」
 ――君は、
「あああ」
 君は――
「うあああああああああああああああああああああああああああっ!」
 堰を切ったように紡がれた叫びが、光となって世界を満たす。

 我が名は、タナトス。死を告げるもの。我は汝。汝は我。我は汝の心の海より出しもの――

 死を纏い、死に抗う。それは、気の利いた運命か。どうしようもない皮肉か。
 それも、どうでもいいと思える。今はただ、力を得られるならば。生きることができるならば。
「タ、」
 振り下ろされた鎌を、左手で掴む。痛みは無い。ペルソナが自分に重なるように、その鎌を受け止めている。
「ナ、」
 左足を一歩前へ。すぐ目の前に死神の顔がある。ただ漆黒だけの眼窩。
「ト、」
 後ろに引いた右の拳を、まっすぐにその眼窩に――
「ス」
 叩きつけた。









 目を開くと、タルタロス一階のエントランスにいた。不安げに揺れる瞳が自分を見下ろしている。仰向けに倒れたまま、自分は生きている、と思う。
「……生きてる」
「当たり前でしょう!」岳羽が怒気を孕んだ声で言う。
「みんな、生きてる」
「ああ、生きている」真田が言う。
「俺も、生きてる」
「死にたかったか?」  そう桐条が言うと、みんなが黙り込んだ。
「いや」仰向けのまま、気怠げに髪をかき上げる。今度少し切ろうかな、と思う。「生きたかった」
「なら安心だ」
 桐条が言って、全員が頬を緩めた。何故か笑い出したくなって、けれど場の雰囲気にそぐわないような気がしたので、それを抑えた。唇だけがその名残を留めた。
「ありがとう」瞳に映っているものに対して、そう言う。
「何が?」岳羽が訝しそうに言う。
「急にどうした」真田の怪訝そうな顔。
「つか、頭打ったんじゃねぇの?」伊織が手を差し出しながら笑う。
 そうかもな。そう言って、伊織の手を掴んで、今度こそ笑い出した。水面に石を投げ込んだときの波紋のように広がる笑い声を聞きながら、体を起こす。
「本当に」岳羽が言う。「死ぬかと、思った。これで終わりかと思っちゃった」
 まだまだしなきゃいけないこといっぱいあるのにね。そう言って岳羽は苦笑じみた笑顔。
「俺もだ」
 頷いて、答える。死神の鎌を目の前にしたあの瞬間を思い出すと、体が震える。死ねばそこで終わり。それはわかっている。けれど、あの瞬間に触れた「その先にあるもの」の感触が、まだ自分の中に残っているような気がして、小さく頭を振る。
「……何も、あるわけがない」
「え?」山岸が振り返る。「何か、言いました?」
「いや、何も」
 そうですか、と山岸は前を向く。
「帰るぞ」真田が言った。
 頷く。
 歩き出す。
 一歩一歩踏みしめるように歩きながら、帰る場所があることを想う。








 煌々と、翠色の月が空から世界を染め上げている。その光が染めているのは、紙芝居のような街並み。押せば倒れそうな存在感。斜めに伸びた影。
 なんとなく習慣で付けてしまったMP3プレーヤのイヤフォンからは何も聞こえない。通りを満たす雑踏もない。車の音。話し声。すべてが消失している。
 数ミリ持ち上げて前に進めた足が地面を擦る。硬い音がした。世界を満たす唯一の音。
 通りには、棺桶。静止した夜に、静止した棺桶が巡礼者のように並んでいる。その間をすり抜けながら、歩く。
 おかしな夜だ、と思う。
 影だけが、存在感を持った夜。
 まるで、世界の終わりのような夜。
 足を止めて空を見上げると、なんの前触れもなく世界に音が戻った。月は見知った姿のまま、通りを埋め尽くしていた棺桶はどこにもなく、イヤフォンからは音楽が聞こえている。