私は、あなたの――










 Aegis









 窓の外を見ると、白い花弁がはらはらと地面に向かって落ちていくところだった。
 季節の移り変わりは思っているよりもずっと早く、一年前よりもずっと足早になっているような気がする。枕元の時計を見ると、いつもと変わらない時刻。ベッドから降りて制服に着替えたところで、いつも通りに控えめなノックが二回、響いた。
「おはようございます。アイギスです。起きてます、か?」
「空いてるよ」
 馴染んだやりとり。いちいちノックしなくていいと言っているものの、アイギスは頑なにこのやりとりを止めようとはしない。そんなアイギスの頑なさを、決して嫌いではない。
「入ります」
「どうぞ」
 ドアを開けて入ってくるのは、金髪の少女。人の手で生み出された、人と同じ心を持った戦乙女。
「おはようございます」律儀にアイギスは頭を下げる。
「おはようございます」つられるようにして同じように頭を下げた。
 同時に顔を上げて、微笑みあう。
「学校へ、行きましょう」
「わかった」
 教科書などの入った鞄を抱え、部屋を出る。そこには日常がある。当たり前のようで、当たり前じゃない日常。文字通り命をかけて守り通した、その日常。
「あの」
「ん?」
「体調は、どうですか?」
「別に、なんともない」ポケットから両手を出して、左右に広げる。「寝ても寝ても寝足りないくらいには、眠いけどね」
「眠りたくなっらいつでも言ってくださいね」アイギスは目を細めて、ぽん、と自分の腿を触る。「授業中でも」
 それはちょっと、と返して、肩を竦めた。



「買い出し当番」
「はい、買い出し当番です」真面目な声で、アイギスは言った。
 放課後、巌戸代駅前の商店街で買い物をして帰らなければ、というアイギスの言葉に、どうして、と訊いたときに返ってきた言葉がそれだった。
 アイギスは慣れた様子でスーパーに入っていくと、買い物籠を左腕に引っかけて、迷いのない足取りで食品売り場を歩いていく。
「そういえば、最近寮で岳羽とか山岸とかが夕食作ってることたまにあるけど……」
「ゆかりさんが、風花さんに料理を教えてるんです」
 ひょいひょい、とアイギスは時折ポケットからメモを取りだして目を落としながら、籠に食材を放り込んでいく。持つよ、と言って買い物籠を貰おうとしたら、断固として拒否されて、仕方なく手を引っ込める。
「せっかくですから、私も習おうということで」
「アイギスも?」
「ええ」
「なら、俺も習おうかな」
 アイギスが振り向く。「いいえ」
「え?」
「私が、あなたに、料理を食べてもらいたいと思ったんです。ですから、そういった気遣いは無用です」
 そういって、アイギスは次の食材を探しに先へ進む。その姿をなんとなく見つめて、嘆息をひとつ。
「……そういうことじゃ、ないんだけどなぁ」
 小さく呟いて、アイギスの後を追いかける。



 ささやかな緊張。時計の秒針がゆっくりと進み、日付が変わる瞬間を迎える。そのまま止まらずに通り過ぎた秒針を見て、思わず吐息が漏れる。影時間はもう訪れない。そう分かっていても、どこか緊張は残っていた。それは、一年間誰の記憶にも残らない静止した時間の中で戦い続けた後遺症なのかもしれない。
 誰もいなくなった寮のロビーでソファに座って、今日の夕食を思い出す。悪くない時間だった。岳羽ゆかり、山岸風花、伊織順平、アイギス、卒業してもう寮を出ているはずなのになぜかそこにいた真田明彦と桐条美鶴。
「どうか、しましたか?」
「アイギス」階段を下りてロビーにやってきたアイギスが、声をかけてくる。
「何か、考え事をしていたようでしたので」
「いや、たいしたことじゃない」
「そうですか」
 コーヒーでも煎れましょうか、という提案。ありがとう、と頷くと、アイギスはコーヒーメーカーに向かう。しばらくするとコーヒーの香りが辺りを満たす。それも、悪くない、と思う。
「どうぞ」
「ありがとう」
 アイギスが差し出したカップを受け取り、一口。味は悪くない。というよりも、悪いと思ったことはない。
「コーヒーを煎れておいて言うのも変ですが」アイギスが言う。「明日も学校ですので、早めに寝ておく方がよいかと思います」
「うん」
「何を、考えていたのですか?」
「いろいろ」
「いろいろ、ですか」少し、アイギスの表情が曇る。
 その顔を見て、少しだけ逡巡して、口を開く。 「たいしたことじゃないんだ。ただ、タルタロスとか行ってたころは、みんなで集まってご飯食べるとか、そういうことしてなかったな、って思ってさ」
 余裕がなかったんだろうね。そう言うと、アイギスは頷く。
「そうですね。あまりそういった機会を持つことはなかったと記憶しています」
「悪くないな、と思った」
「私も、思います」
 コーヒーに落としたミルクが、カップの中に白い渦を描く。かき混ぜることをせずに、それを眺めている。
「でも、いまいち実感がない」
「実感がない……ですか?」
「上手く言えないけど……」くるりとカップの中でスプーンを回す。黒と白の螺旋は、混ざり合って褐色になった。
 しばしの沈黙。カップとソーサーが立てる音だけが間をつなぐ。
「自分でも情けないと思うんだけど」
「はい」
「影時間がなくなって、ペルソナ能力も使う必要がなくなって、それでOK。のはずなのに、なんでかぽっかり穴があいちゃったみたいに感じてる」
 アイギスはコーヒーカップを下ろした。かちん、と音。
「私が」まっすぐで、真面目で、頑なな目。「あなたのそばにいます。それではダメでしょうか」
 その真面目さを、頑なさを、決して嫌いではない。自分を打ち貫くようなその瞳も。
「それ、なんかめちゃくちゃだよ、アイギス」
「そうですね、私もそう思います」アイギスは微笑う。「でも、本心です」
 意味が通らなくても、想いが走る。それが人間ではないか、と。どこかで、そんな声が聞こえる。

「忘れないでください。私は『Aegis』――あなたの、『Aegis』です」

「……ありがとう」残ったコーヒーを一息でん飲み干すと、立ち上がる。 「なんか、よく寝れそうだ」
「子守歌も歌えますよ?」
「なんか、どんどん多彩になってくね」
「あなたの、『Aegis』ですから」
「……俺のせい?」
 ふふ、とアイギスは笑う。「さあ、どうでしょうね」