最近の音楽について思う。別にアイドルと称した素人が歌おうが何十年前の曲をリメイクしようが(それはそれで悪くないと思う)どうでもいいが、あのラップとかいう音の羅列だけは何とかしてもらえないだろうか。CDショップ『ケネス・アーノルド』の店内で、新譜のコーナーを眺めながら思う。野太い声で青春を高らかに歌い上げるそれを聞くと、好きな人には悪いとは思うが、どうにも好きになれそうもない。
 そんなことを考えながら洋楽の棚に移動すると、そこで、少し意外な人物に出会った。
「……あれ」
「望月」
 望月綾時。少し前に月光館学園に転校してきたクラスメイト。同じ寮の伊織順平らが彼と親しいようで、そのつながりで何度か言葉を交わしたことがある。
「やあ」
「奇遇だな」
「そうだね」
 素通りするのも気が引けて、なんとなく、望月の隣にたって棚を眺める。
「音楽は」望月がぽつりと言った。「いいね」
「どんな音楽が?」社交辞令じみた質問なのを自覚しつつ、訊く。
「いやあ、好き嫌いはないよ。歌はいいねぇ。何を聞いても新鮮に感じるよ」
「そうか」
 それはどんな感覚なのだろうかと思う。全てが新鮮で、何を聞いても感動を得られる、そんな感覚。
「何か、お勧めの音楽はあるかい?」
「俺の?」
「そう」望月は笑う。「君の好きなものを、僕も聞きたいんだ」






 








「ずっと、こうなることを望んでいたんだと、僕は思う」
 望月綾時は言った。
「さあ、ひと思いにやってくれ」







「いやあ、ありがとう。実はポロニアンモール、あんまり回ったことなかったんだ」
 弾んだ声で、望月は言う。
「……よく女の子とデートしてるって話だけど」
「それはそれ」
「なんだそりゃ」
「気兼ねなく男同士でふらふらするのも楽しいなぁってことだよ」
「そうか」
 CDから始まって、本屋、骨董品、薬屋、ゲームセンター、何故か宝飾店、一通りを回って、望月は満足そうに半歩前を歩いている。
「あんまり、男だけで遊ぶことってなかったからね」
「そうなのか?」
 望月なら――自分が知っている望月なら――男女関係なく、どこにいたって人の輪の中心になっていてもおかしくないと思う。
 あんな風にはなれない、と思っている自分。
 どこかで、ああなりたかった自分。
「最近は、でも、そうでもないかも」望月は言う。「君たち――順平君とか、一緒に遊んでくれるし、すごく楽しい」
「順平か……」
「あの寮は、いいね。とても居心地がいい」
 本当に、今日も太陽は空に昇っているね、と告げるのと同じ口調で、望月は言う。なんと答えたものか逡巡し、表情を複雑に変化させた後で、
「だから、あそこにいる」
 とだけ答えた。可笑しそうに望月は笑う。

「男と二人でカラオケ入るのって初めてだなぁ」
「……俺も初めてだ」
「あはは。なかなかないよねぇ」
 楽しそうに笑いながら、楽曲が載っているノートをぱらぱらと捲っている望月。 「飲み物はどうする?」
「あ、コーラで」
「わかった」
 室内のインターフォンで二人分の飲み物を注文すると、すでにオーダーをいれた望月の歌のイントロが流れ出した。
「……井上陽水?」
「好きなんだよねー。でも、女の子とくるとなかなか歌えなくってさ」
 曲が始まり、望月の気持ちよさそうな歌声が狭い部屋の中に響く。知らず知らず口元に浮かぶのは、三日月の笑み。片手でリモコンを操作し、曲を予約する。
 歌い終わり、次の曲のイントロが流れてきた瞬間、望月が顔を上げた。
「なっ、拓郎……?」
「受けて立つ」
「く、やるな……」
 ふ、と片側だけで笑うと、マイクを手に立ち上がる。お互いを斬りつけあうような懐メロ二時間勝負が幕を開けた。

「この気持ちは何だろう」空を見上げて、望月は呟く。「たった二時間で、僕と君はまるでタナトスとヒュプノスのように、お互いを分かり合えたような気がする……」
「俺もだ」同じように空を見上げ、呟く。「望月、君とは他人のような気がしない」
「綾時、と呼んでくれないか」
「わかった、綾時」
「僕たちは親友だ」
「そう思うことにやぶさかじゃない」
「ありがとう」
「こちらこそ」
 大真面目な顔で馬鹿みたいな会話をして、二人で馬鹿みたいに肩をたたき合って大笑いした。そのままの勢いでシャガールに入ってコーヒーを飲みながら、何時間も話をした。学校のこと、友人のこと、音楽のこと、映画のこと、小説のこと、好きなもののこと、なんでも。
 不思議なくらいに好みは共通していて、不思議なくらい時間の流れるのは早かった。何かに急かされるように、お互いのことを話した。
「楽しかった」帰り際に、望月は言った。「今日は記念の日だ。僕という自我が発生してから、今日ほど楽しかった日を僕は知らない」
「俺も、今日みたいに素直に笑えたのは、久しぶりだ。楽しかった」
「また、付き合ってくれるかい」
「それは、こっちが言いたい」
「ありがとう」
 望月は立ち上がると、テーブルに置かれていた伝票を手に取る。どうする気だ、と目で問うと、望月は笑った。
「ここは僕に払わせてくれないか」
「どうしてだ」
「貸し一。次に遊ぶときに返してもらうよ」
 その言葉に、小さく笑う。「わかった、約束だ」
「うん。約束、だね」







 約束をしたまま、十二月一日を迎えて、望月綾時は姿を消した。







 ルージュ・オア・ノワール。
 赤か黒か。
 どちらか一つしか選べないとしたら。どちらの選択枝も苦痛を伴うものならば。よりベターなのは、いったいどちらか。
 真田明彦の、桐条美鶴の、伊織順平の、岳羽ゆかりの、アイギスの、天田乾の、そしてコロマルの、それぞれの決意に背中を押されて、寮の階段を昇る。右手側、一番奥の部屋。自分に宛われたその部屋が、今は審判の場所。
 選ばなければならない。
 望月綾時をこの手で殺め、全てを忘れて終わりの日を何も知らずに迎える黒の目。
 必ず訪れる終わりの日を、立ち向かうために迎える赤の目。
『誰か』に選ばせるわけにはいかない。自分で考え、自分で決めなければならない。
 自室の前。ノックしようと手を持ち上げて、止めた。そのままドアを開ける。望月はベッドに座って、こちらを見ていた。
「……やあ。答えは、出たかい?」
「綾時」
「ああ」望月は夢を見るように、ため息を吐いた。「まだ、そう呼んでくれるんだ」
「当然だ」
「当然……当然か」
 不意に、望月は笑い出した。爽やかに、晴れやかに、軽やかに。笑って、笑って、そして、表情が消える。
「楽しかった。君と過ごした時間が。嬉しかった。君と同じものを共有できたことが」
「俺もだ」
「でも、そうじゃなかった。幻想だったんだ。だって、僕は君の中から生まれたんだから。好きなこと。好きなもの。音楽の趣味。カラオケのレパートリー。好きな本。どんなことに怒って、どんなことに笑うか。どんなことに泣いて、どんなことに悲しむか。似ているのは当たり前じゃないか」
 だから、と望月は続ける。
「それこそが、僕の絶望なんだ。そして、君の絶望でもある……そうだろう?」
 表情のない望月。仮面のような顔。吸い込まれそうな、暗闇を宿した眼窩。
「ニュクスの受胎は決して避けられない。文明というものが生まれてから、人が数多持つ予言の日。今日がその、終わりの始まりだ」
「今日は饒舌だな、綾時」
 ぴたり、と言葉が、そして空気が止まる。
「……最後、だからね」しばらくの沈黙。「ずっと、こうなることを望んでいたんだと、僕は思う」
 望月綾時は言った。
「さあ、ひと思いにやってくれ」
 目を細める。足を前に出す。望月のすぐ目の前、断罪の鎌を振り下ろすように宣言する。

「――覚悟はいいか、綾時」

 返事が返ってくる前に、右手を望月の頬に叩きつける。ごり、と骨と骨が擦れる感触。はじけ飛ぶ望月と、じんと熱を持った拳。右手を振り切った状態のまま、望月が体を起こすのを見る。
「ふざけるな」熱を持ち始めた右腕を引き戻しながら、言う。「絶望? ――誰も絶望なんかしちゃいない。俺とお前が同じ? ――どこが同じだ。一緒にするな」
「――、君……」
「俺とお前は同一の存在じゃない。俺は俺で、綾時は綾時――俺の友人だ」
 仮面を付けているようだった望月の表情が歪む。泣くような。笑うような。泣きながら笑っているような、そんな顔に。
「俺は、俺……君が、そんなことを言うようになるなんて」
「おかしいか」
「ああ、可笑しい。いいかい、ペルソナを付け替えられるということは、逆に言えば、確固とした『自分』というものが存在しない――そういうことなんだよ」
 望月は笑う。
「君は、この一年で、強くなったんだね……」
「綾時」
「え?」
「俺が強くなったのなら……お前も無関係じゃない」
「ああ」囁くような、吐息。「人は、他者との関わりの中で自分を確立していく。僕も……君が君になる要素の一つだったんだね」
「俺は」と言いかけて、小さく笑い、言い直す。「俺たちは、諦めない。世界の終わりにだって、最後まで抵抗してみせる」
「そう、なんだね」
「絶望なんて、しない」
「うん、もう止めないよ」
 ふわり、と望月が重力を無視したように浮かび上がる。周囲には、仮面を付けた死神の輪郭。
「みんなにも、よろしく伝えてほしい。僕は『死神』――君たちの敵だけど、君たちの未来を想っている、と」
「必ず」
「赦されるなら、こう呼ぶのを許してほしい」
 望月の輪郭に、小さな輪郭が一瞬だけ重なって、消える。
「さようなら……僕の友達」
 その言葉の残響を残して、部屋の中には誰もいなくなった。気配も、たった今まで存在していたという名残も、何もない。ベッドの望月が座っていた場所に、同じように座る。
「さようなら、綾時……ファルロス」
 俺の友達。小さく呟いた言葉は、ささやかに流れた空気の中に溶け込んで、どこにも届くことなく消えていった。