この世界で、「最も確かなこと」は、何だろう?
 この世界で、「全く疑う余地のないこと」は、何だろう?

 唐突にそんな言葉をかけられて、アイギスは沈黙した。
 夜の磐戸台寮。深夜に物音を見知してラウンジに降りてきたアイギスが見たのは、マグカップを手にして一人そこに存在している。彼はアイギスの姿を確認すると、小さく微笑み、そして、さっきの質問。
 アイギスは少し考えた後、答える。
「――わかりません」





扉は小さな悲鳴を上げ






 三度目だ。高揚感もなく、感慨もなく、アイギスは平坦にその場所に足を踏み入れる。コロッセオの中は相変わらず、薄暗い。
「ここ……嫌な場所だね」風花が半歩後ろで言う。
「これで、最後です」アイギスは言った。
 また、扉が開く。真田と天田がやってきたように。順平とコロマルがやってきたように。桐条美鶴と岳羽ゆかりがこの場所にやってくる。二人はゆっくりと進み、アイギスの前に立つ。
「アイギス……風花もそっちについたんだ」ゆかりが言った。険を含んだ視線。
「ゆかりちゃん」風花は何かを言いかけて、けれど小さく頭を振って後の言葉を呑み込んだ。
 美鶴はしばしの間視線を彷徨わせた後、アイギスに向かう。
「メティスは。どうした?」
「彼女は、もういません」アイギスは静かに言った。「私一人です」
「馬鹿にしてるわけ?」ゆかりが言う。「私と美鶴先輩相手に一人で戦おうってこと? それとも最初からもう鍵を譲ってくれるってことかしら?」
「いいえ、違います」
 アイギスは担いでいた戦斧を下ろす。くるりと回転させたそれは、ごう、と風を鳴らす。
「私と、風花さんで戦います。そして、私は――私たちは、鍵を譲る積もりはありません」
「本気か、アイギス」
「はい」
 美鶴は小さく嘆息すると、剣を抜いた。突きを主体にしたレイピアがアイギスを指す。
「風花さんのバックアップを受けることを、認めていただけますか?」
 ゆかりさん、と呼ぶと、彼女は小さく肩を竦めて、頷いた。
「ワケわかんない。願いもないのになんで戦うのよ」
「願いは、あります」
「へえ、どんな?」
「それは」ぐ、と戦斧を握る。見様見真似、けれど、メティスの構え。「戦いが終わったら、言います」
「……あんた、なんか変わったわね」弓を構えながら、ゆかりは言う。「あたしは、今のあんたのほうが、好きだな」
「私だって、ゆかりさんも美鶴さんも好きです。好きだから……譲れません」
 風花が後ろに下がる。彼女の手に中にある召還機がこめかみを打ち抜き、彼女のペルソナが世界に現れる。
「私が倒れたら、それで負けです。風花さんの鍵は私が預かっています」
「そう」ゆかりは矢を番える。「正直に言うわね。あたし、あんたのこと、嫌いだった」
「……分かる気が、します」
「へえ?」
「でも、言葉にはしません」
「じゃあ、あたしも言わない」
 ゆかりは小さく笑った。アイギスもそれに笑い返す。
『アイギス、準備できたよ!』
 風花の声が、イメージになって届く。視覚に浸食。世界の色が変わり、空気の流れにすら色が付く。ゆかりは淡い緑色。美鶴は澄んだ、透明がかった青色。
「……行きます!」
 アイギスは地面を蹴った。ゆかりの前に、彼女を守るように美鶴が立ち塞がる。あらかじめそれが予測できていたアイギスは構わず戦斧を振り下ろした。衝撃を受け止めきれなかった美鶴が体勢を崩す。その後ろからゆかりの攻撃。弓矢。貫通。ペルソナチェンジ。ゆかりの攻撃を無効化して美鶴に追撃。切り返した斧は美鶴の袖口だけを切り裂いた。アイギスは振り上げた斧から手を離す。仰け反るように斧を避けた美鶴の腹部に振り上げた足を突き込んだ。
 顔を上げる。ゆかりが召還機を構えている。彼女のペルソナの特性は――疾風。ペルソナチェンジ。極大の疾風がアイギスを吹き飛ばす。けれど、ダメージを全て無効化して、アイギスはゆかりに肉薄した。
 ――右!
 風花のナビゲーションが視覚を補う。アイギスは慣性を強引にうち消し、左に飛ぶ。間接の駆動部が悲鳴を上げる。鋭い剣閃はアイギスの胸を掠めて通り過ぎた。
「……やるな、アイギス」
 さらに大きく後ろに飛んで間合いを広げたアイギスを追うことはせず、剣を構えた美鶴は言った。方頬を歪めるように笑って、彼女は言う。
「ゆかりに攻撃を加えたいなら、私を抜いてからにしてもらおうか」
「……先輩」
「美鶴さんも、過去を望みますか?」アイギスは言った。
「そうだな」美鶴は答える。「私の望みは、どちらでもない、と答えておこう」
「では何故」
 この戦いに参加しているのか。
 願いが違うのに、ゆかりとともに戦っているのか。
「なぜなら」美鶴は剣を持っていない方の手を振った。その手中に、召還機。「私の望みは、ゆかりと共にあることだからだ!」
 ガラスが砕けるように光が飛び散り、彼女のペルソナが顕現する。氷結の女王、アルテミシア。高い魔力、スピード、補助、探索能力。あらゆるものを兼ね添えた、桐条美鶴のペルソナ。凍てつくような氷の視線。その中に燃える蒼い炎。ひょう、と風を切り裂いて剣が踊る。美鶴の右腕だけが霞んで、風の音が響き、元に戻る。見切れるような速さではない。間合いに踏み込んだ瞬間にその剣で寸刻みにされるだろう。けれど、アイギスに下がる積もりは無かった。下がることなどできなかった。
 ここで下がったら、絶対に届かない。
 理屈ではない。感情ではない。ただ素直に、手を離した林檎が地面に落ちていくような、ごく自然な認識だった。
『風花さん』
 声に出さずにアイギスは呼びかける。
 伝わるはずだ。
『サポートを、お願いします』
 風花からの返事を待たずにアイギスは飛び出した。ぐん、と視界に負荷がかかり、回路が軋む。空中に線が走る。アイギスは前方に幾つも走る線を避けるように前に飛んだ。避けようがないものは、致命傷にならない部位で受けた。幾つかの斬撃を受けて、アイギスは美鶴の前に立った。吐息すら届くほどの肉薄した距離。
 やれ、と美鶴の目が言った。
 通ります、とアイギスは答えた。
 引き絞り、めいっぱいに伸ばした右腕が美鶴に触れる。触れた部分から発生した衝撃波が美鶴を吹き飛ばし、彼女は数メートルを地面から離れたまま移動して、倒れ、そのまま動きを止めた。
 それを見て、膝をつきそうになった自分の体をアイギスは叱咤する。まだ一人。後一人、残っている。
 ぐるりと視線を回して残ったもう一人を視界に収める。その視線の先で、ゆかりは、脱力したように両腕を下ろしていた。
「あんたはさ、会いたく、ないんだ?」まるで泣いているような声で、ゆかりは言う。
 誰に、とは聞かなかった。聞くまでもなかった。
「会いたいです」
「ならっ!」
 アイギスは飛ぶ。動きが鈍い。左腕と左足。それでもゆかりの攻撃を避ける。感情のように吹き抜ける暴風を、アイギスは避ける。避けるたびに負担をかけている右足が軋む。
「あの時に戻って、もう一回やり直せばいいじゃない!」
「私は――!」
 ペルソナチェンジ。疾風属性を無効化し、跳ぶ。もう一度。貫通属性を無効化し、走る。
「彼一人が犠牲にならなくてもいい道を探せばいいじゃない!」
 もう一度。
 あの時に戻れたなら――
 何度、そう考えただろう。夢でいいから彼に会いたいと、何度願っただろう。どれだけ望んでも届かない。どれだけ願っても叶わない。
 けれど今、それに届く手がある。
 例え、今まで積み重ねてきた全てを失うとしても、その手を取ってしまうことは、愚かしいことだろうか?
「そう、ですね」
 何度目かの跳躍。着地した瞬間にがくんと体が沈んだ。間接部がもう保たない。地面についた手が何か棒状のものに触れた。握り、持ち上げると、それは先ほど放り出した戦斧だった。それをしっかりと握り、担ぐように構える。
 肩で息をしているゆかりと目が合う。言葉を吐き出したゆかりの顔は、疲労の色。けれどそこから、険は消えている。
「譲れないの。譲りたくないの」
「私もです、ゆかりさん」
「託されたのがアイギス、あんただとしても、譲りたくないものがあるの」
 握った斧が震える。メティス。全部、繋がってる。十年前の姉さんも、目覚めた後の姉さんも、『彼』を失ってからの姉さんも、みんな、繋がってる。過去は現在に繋がって、現在は未来へ、未来は――
「全部、繋がっているんです」アイギスは静かに言った。「過去も、現在も、未来も」
「繋がっている」ゆかりは言う。
 未来だけではたどり着けない。
 現在だけではどこへ行けばいいかわからない。
 過去だけでは、道が見えない。
「私は、」
 宇宙がある。誰もが持っている宇宙だ。誰もが繋がっている宇宙だ。心の海。輝く星。必ず通過するもの。必ずたどり着く場所。
「――会いに、行きます」
 誰に、とは言わなかった。
 どこへ、とは言わなかった。
 認めよう、とアイギスは思う。自分はもう、あの場所にはいないのだと。あのころと同じ自分ではないのだと。もう、同じ時間に戻ることはできないのだと。もう自分は、違う場所に立ってしまっているのだと。

 この世界で、「最も確かなこと」は、何だろう?
 この世界で、「全く疑う余地のないこと」は、何だろう?

 いつかの彼の声が蘇る。アイギスは微笑む。

 ――それは、「自分」です。

 世界に溢れるあらゆる全てを疑って、初めて見えるもの。疑うことができるものの中で、最後に唯一残るもの。ぴん、と弦を張って、しっかりこの胸に番えよう。幾つも重ねた想いを炎に変えて。灯った炎を確信に変えて。
 私は、ここにいる。
 私は、ここにいます。
「だから」アイギスは笑う。「行きましょう」
「行く?」
「ええ、みんなで、行きましょう」
 ゆかりは目を見開いた。しばらくそのままでアイギスを見る。それから、小さく肩を震わせて、それは次第に大きくなり、抑えきれない笑い声がその唇から漏れだした。
「ああ」
 ゆかりは流れ落ちる水のような吐息を漏らす。一度目を閉じて、開く。ゆかりの表情はとても穏やかだった。
「なんか、わかっちゃった」
 苦笑いのような顔。ゆかりはゆっくりと、召還機を持ち上げ、自らの額に押し当てる。
「わかっちゃいましたか」
「うん、わかっちゃいました」
 ゆかりの苦笑に、アイギスも苦笑で答えた。ふわりと風が髪と二人の間の空気を揺らして通りすぎていった。そこには何かがあった。言葉にしてしまえばあっという間に本来の意味を失ってしまいそうな、儚い何かがあった。
 だから、ゆかりはただ召還機のトリガーに指をかけた。
 だから、アイギスは戦斧を盾にするように前方に掲げた。
 がちん、とトリガーが落ちる。ガラスが割れるように心が弾け、ペルソナ能力が現実を想いのままに書き換える。ゆかりの方から、真っ白い壁のような光が自分を押しつぶそうと迫ってくるのがアイギスには見えた。避けようのない光。アイギスは斧を掲げたまま一歩前に踏み込んだ。光が自分を通り過ぎる。衝撃は一瞬遅れてやってきた。全身がバラバラになったような錯覚を感じながら、それでもアイギスはそこに踏みとどまった。倒れてはいけない、と思った。
 この命の果てへ。
 行きたい。
 刹那のような、数時間のような、時間の感覚さえ消えた世界で、アイギスは手を伸ばす。
 もし。アイギスは思う。それこそが『死』なのだとしたら。
 死を想い、命を想う。今生きている自分を想う。共に生きている仲間を想う。もうここにはいない、かって仲間だった命を想う。自分と関係のあるところで散っていった命のことを想う。自分と関係のないところで、でも生きている命のことを想う。一人で先に行ってしまった彼の命のことを想う。
 光が通り過ぎていったことを、戻ってきた視界でアイギスは知った。薄暗いコロッセオの中、岳羽ゆかりはだらりと両腕を下げる。桐条美鶴は体を起こし、片膝をついた。山岸風花は緊張を崩さすに、未だペルソナを維持している。アイギスはゆっくりと足を前に進めた。
 一歩。ぐらり、と視界が傾く。
 二歩。足の幅を広げて、倒れないように踏みとどまる。
 三歩。手にしていたメティスの戦斧が、もはや武器の体を成していないことに気付く。
 四歩。もうちょっとだけつき合って、と語りかける。
 五歩。右の膝が崩壊寸前の音を立てる。
 六歩。ぐにゃりとゆかりの姿が歪む。
 七歩。八歩。九歩。十歩。
 岳羽ゆかりは、もう目の前にいる。顔を上げたゆかりと視線がぶつかる。あはは、とゆかりは力無く笑う。
「も、限界」ふ、と状態を揺らしたゆかりは、その場に座り込む。「降参、かな。美鶴先輩、せっかく一緒に戦ってくれたのに、ごめんなさい」
「……気にするな」美鶴は言った。「私は、君の力になりたかった。謝るのは私の方だろう」
 いいんです、とゆかりは笑った。美鶴もそれを見て、笑う。
 アイギスの手から戦斧が落ちた。音はコロッセオに響き、ゆかりと美鶴はアイギスを見る。アイギスは彼女たちを見て、小さく笑う。
「実は」
「実は?」ゆかりが聞いた。
「私ももう、限界でした」
 そのまま、アイギスは後ろにぶっ倒れた。


「負けは、負けよね」
 ゆかりは言うと、胸の前に手をかざす。そこに鍵が浮かぶ。浮かんだ鍵はゆかりに押し出され、ゆっくりと倒れたままのアイギスの胸に吸い込まれた。美鶴の鍵も同じようにアイギスの中へ。それが自分の中にゆっくりと沈んでいくのを、アイギスは感じていた。七つの鍵。自分のものを含めて八つの鍵。これで、扉が開かれる。望みを掴み取るための扉が開かれる。
「二人がかりで負けるとは、な」美鶴が自嘲を浮かべて言う。
「風花さんのバックアップがありましたから」アイギスが言う。
「それでも、ねぇ」ゆかりがため息をつく。
 体が動かないな、とアイギスは思った。あちこちにガタが来ている。腕や足は丸々取り替えないといけないかもしれない。
「アイギス」
「はい、ゆかりさん」
「あなたの、願いは?」
「私の、願いは……」
 とくん、と何かが自分の中で鼓動を打つ。心臓だ。たぶん、心がそこにあるからだろう。心の形をしたものが、そうでなくても、心のようなものがそこにあるからだろう。埋め込まれた心臓。パピヨンハート。ニュクスの欠片。メティスの想い。
 今なら分かる。ここにあるのは、悲しみだった。苦しみだった。押しつぶされてしまいそうな後悔だった。
 今なら分かる。これがあって、今の自分は存在しているということが。自分を形成している要素の一つだということが。
 だから、認めよう。
 全部受け入れて、そうして、
「彼に、会いに行くことです」
 彼に、会いに行こう。
 美鶴を見る。
 そして、ゆかりを見る。
「みなさんと、一緒に」
 アイギスは目を閉じる。
 誰かの息づかいが、近く聞こえる。それ以外には何も聞こえることはなく、アイギスの意識は急速に沈んでいった。




 太陽が呼んでいる。
 魂の唄が語りかけている。
 シャドウの奥にあるもの。
 ペルソナの先に存在するもの。
 命の果てに生まれるもの。
 全てがくぐる、世界の扉へ。




「ペルソナとは、心の力」
「けれど、それは、シャドウと表裏一体の力」
「目を閉じる」
「耳を塞ぐ」
「嗅覚を閉じる」
「味覚を忘れる」
「体を消す」
「意識を無に」
「自分の中に落ちていく」
「ほら、世界に手が届く」
 君たちは、繋がっている。その声で、アイギスは瞳を開く。そこには、見知った一人の少年がいる。仮面で顔の半分を隠した、よく知っている少年。少年の向こうに星の光。宇宙。何もないところに浮かんでいる自分をアイギスは感じる。
「君の、名前は?」
 一瞬、問いかけの意味が分からずに困惑する。名前。なまえ。ナマエ。自分の名前。自分が自分として存在するための記号。自分と他者を分かつための記号。
「アイギス」
「アイギス」
「私は、アイギス。私立月光館学園二年F組、特別課外活動部所属、アイギス」
「よくできました」少年は仮面がない顔半分で笑い、ぱちぱちと芝居がかった拍手をする。
「あなたは、綾時さん」
「であり、そうではないとも言える」
「違うのですか?」
「どこにもいなくて、どこにでもいる……そんなところかな」
 綾時は悪戯をした子供のように笑う。それは、アイギスのよく知っている笑顔だった。誰かによく似ている笑顔だった。
「君を待っている」
「私を待っている」
「ここではない場所、ここではない時間で、君を待ってる」
「私を、待っている……」
「僕が、待っている。彼が、待ってる」
「彼」
「そう、彼」
 ゆらりと綾時が手を挙げる。胸の前で、何かを抱くように、そっと。
「でも、このままでもいいかとも思ってる」
「このまま?」
「君たちが幸せに生きていけるのなら、このままでも」
「私は」アイギスは綾時を――綾時の姿をしたものを、見る。「嫌です」
 綾時は笑う。嬉しそうに、悲しそうに。幸福なように、絶望したように。
 それを最後の残像にして、彼は消える。
 自分の中に沈んでいく。 










 扉というものは、いつだって無慈悲で、外にいる人間のことも、中にあるもののことも、これから扉を潜ろうとしている人間がどんな想いを持っているのかということも一切考慮してくれない。手を触れた扉は、いつもと変わらない木の感触。こんこんと響く音もいつもと変わらない反響。いつまでも変わらないものの象徴のように思えて、そんなことを考えた自分にアイギスは苦笑する。
 扉。
 アイギスは扉の前にいる。
 今まで開くことの無かった、彼の部屋の扉。ざらざらする扉にそっと手を這わせると、どくん、と心臓が跳ねた。心が反応している。鍵が反応している、とアイギスは思う。
 扉。
 メティスは言った。現在に戻るなら、寮の出入り口の扉を。
 もしも、過去に戻りたいと願うならば、彼の部屋の扉を。
 どちらを選んでも、願いは叶う、と。
 扉。
 そして、目の前には扉がある。願いを叶えるための道へ続く扉が。想いを届けに行くための扉が。
 心臓が疼く。ノブに手をかけたまま、アイギスはそれ以上動くことをためらっている自分がいることを自覚した。これは自分の願い。けれど、それは、イコールでみんなの願い、とはならない。
 扉。
 選択。
 アイギスは一度ノブから手を離して、ゆっくりと後ろを振り返った。後ろにいる仲間たちと、順番に目があう。
 真田明彦。
 天田乾。
 伊織順平。
 コロマル。
 桐条美鶴。
 岳羽ゆかり。
 山岸風花。
 いいんですか、と言おうとして、アイギスはそれをやめた。その問いかけ事態が意味のないものであると気付いてしまった。今更それを問いかけることは、自分の仲間たちをあまりにも馬鹿にしている行為だということに気付いてしまった。
 好きにしろ、と真田明彦は苦笑しながら肩を竦めた。
 がんばりましょう、と天田乾は槍を握り直す。
 今ならなんだってできるぜ、と伊織順平は笑った。
 わん、と高らかにコロマルは声を上げる。
 穏やかに微笑んで、桐条美鶴は頷いた。
 さっさと行こうよ、と岳羽ゆかりはアイギスを促す。
 風花は微笑んだまま、こちらを見ている。
 アイギスは思う。かって、自分は他の仲間たちと同じ場所にいて、今のこの場所には彼がいた。そして今は自分がいる。これはきっと変化なのだろう。変わってしまった私たちの絆なのだろう、と思う。それは正しいのか、間違っているのか。それでもまだ、アイギスには違和感があった。あるべきものが存在しない違和感。あるべき場所に立っていない違和感。
 今更何を迷う。
 アイギスは小さく頭を振った。もう一度扉に手をかける。
 アイギス。
 誰かの呼び声が聞こえた。もう一度振り返る。みんなが、どうしたのか、とアイギスを見ている。
 アイギス。
 もう一度。
 目を閉じる。閉ざされた視界の中で、仲間の気配を感じる。その中に、一つ、あるはずのない感触がある。ずっと切望していた感触。ずっと触れたかった気配。
 そこに、いるんですね。
 ああ。
 ずっと。
 ここに、いた。
 頬を伝って落ちていくものの存在を、確かにアイギスは感じていた。ずっと、いたんだ。それを思うと、止まらなかった。気付かなかったのは自分のせいだった。目を逸らしていたのは自分だった。気付こうともしなかったのは自分だった。
 自分の中へ、落ちていく。
 誰の中にもいて、世界のどこにもいない。
 誰の中にもある星の海の中で、彼はこんなにも鮮やかに存在している。
 顔を上げる。
 仲間たちと目が合う。
 その誰もが、同じような表情をしていた。溢れるものをこらえられずに、滴を落としていた。
 心の奥で、深く眠る海の中で、私たちは繋がっている。全部、繋がってる。十年前の姉さんも、目覚めた後の姉さんも、『彼』を失ってからの自分も、みんな、繋がってる。過去は現在に繋がって、現在は未来へ、未来は――
「私たちは」
 誰かが言った。
「つながって、いる」
 誰かの声だった。誰でもない声のような気もした。どうでもよかった。誰の声でも関係なかった。ここにいる全員を統べる声だった。
 違和感は消えていた。ここにいる。彼はここにいる。私はここにいる。みんながここで、生きている。いつか訪れる死を想い、限りある命を生きている。
 それだけのことで、それだけが全てだった。
 誰かが、手を出した。誰かの手が、その手に重なった。一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。六つ。七つ。八つ。アイギスも手を重ねた。どこかひんやりして、けれど暖かい感触だった。
「……行きます」
 アイギスが言うと、全員が頷いた。言葉にはできない何か。ぶつかり合って初めて分かった何か。迷って間違って、やっと掴んだような気がする何か。
 ふ、と。アイギスの手の上に、誰かの手が重なった。よく見知った手だった。よく知っている暖かさだった。何よりも大切で、心から守ると誓った手だった。
 アイギスは扉を開く。その扉は小さな悲鳴を上げながら、彼女を迎え入れるようにゆっくりと開いていく。




 とりあえずここまで。