『Short rain song / 雨の音しか聞こえない』





 ぱしゃぱしゃ、と足元で水が跳ねる。足元がたちまち黒く染まっていくのを見て、ナツミは思わず舌打ちした。雨が服に染み込んで、肌に張り付いていく感触にも舌打ち。出掛けに傘を持ってこなかったことにも舌打ち。雨を降らせる雲にも舌打ち。
 要するに、あらゆる物に文句を言いたい気分だった。
「うあー、もう真っ暗だぁ……リプレ怒ってるだろうなぁ」
 あかなべのシオンのところに醤油その他もろもろを受け取りに行く。それだけだったはずなのにどうしてこんなに遅くなってしまったのだろう。ナツミは頭を抱えた。原因は考えなくてもわかっていたけれど。
 アカネのせいだ。
 ただの責任転嫁ではあるのだが、ナツミはそう決め付けて地面を蹴る。将棋なんてこっちにもあったんだなぁ、なんてあかなべでのことを思い出す。
 将棋なんて、ルール以上のことはよくはしらなかったけれど。アカネがやろうというので一回だけやって帰る積もりだったのに、何故か勝ってしまった。そして、アカネは自分が勝つまで勝負を止めない人間だった。そして最後はシオンが出てきて飛車角香落ちでそれでも一度も攻めの手を見出せないまま負けてしまった。野球で言えば完封負け。ノーヒットノーランでもいいかもしれない。金銀落ちだったらパーフェクトゲームだ。
 繁華街を駆け抜けたところで、雨足が強くなってくる。頬に張りついた髪をかきあげると、べったりと濡れていた。帰ってお風呂に入りたい。そんなことを思いながら、走る。
 少し走って、空家になっている家の軒下を見つけると、ナツミはそこへ飛びこんだ。
 かなり強くなった雨足にため息を吐く。それでも、雨のあたらないところに避難できたこともあって、とりあえず一息つくことができた。
 ぺたん、と段になっている石の上に腰を下ろす。
 ばたばたばた、と跳ねる雨の音。それがとても煩く感じて、ナツミはため息をついた。自分の体を見下ろすと、かなり濡れてしまっている。これならびしょ濡れになっても走って帰った方がいいだろうか。
 そんな風に考えた時、影が揺れた。
「あん?」
「え?」
 隣りに滑りこんできたのは、紛れも無く見知った顔で。
 でも、できれば顔を合わせたくない相手で。
 バノッサ。
 当のバノッサは、忌々しそうに舌打ちをひとつ。しばらく逡巡した後、それでもこの雨の中出て行く気にはならなかったのか、ナツミと少し距離を置いて、座る。
 どうしよう。出ようか。
 そう思ったけれど、何故か立ち上がれない。
 少しだけ離れた空間。
 たぶん、出会ってからこれまでで、一番近い距離。
 バノッサは何も言わない。
 だから、ナツミも何も言わなかった。
 とても静かで、雨の音だけが煩く聞こえる。
「……バノッサ」
 沈黙に耐え切れなくなったのは、ナツミの方だった。けれど、名前を呼んでみたものの、その後に続く言葉は出てこなかった。
「……んだよ」
 気だるげに、バノッサが応える。ただだるいだけなのか、それともまったく関心がないのか、そのまま黙り込んだナツミを、バノッサは一瞥すらしない。
「なんで、こんなところにいんの?」
「うるせぇな。そう言うオマエはなんでこんなところにいるんだよ?」
 バノッサはこちらを見ようともしない。それが、何故かナツミの癇に障った。
「用事の帰り。そっちは?」
「……あのな」バノッサは片手で濡れた髪をかきあげると、ナツミを見た。「なんでオレとオマエが世間話始めなくちゃならないんだ? オレとオマエは敵同士なんだぜ?」
 バノッサはナツミを小馬鹿にしたように、嘲笑う。
 敵同士。
「……わかってる」ナツミは俯いて、言った。「わかってるよ、そんなこと。あたしはフラットの一員で、バノッサは敵対してるオプテュスの一員。そんなこと分かってる。でも、でもさ――」
「わかってんなら黙れ」
「でもさ! 敵だったら会話すらできないの!? 世界はみんな敵か、敵じゃない、そんな風に分かれてるわけ!? そうじゃないでしょ!?」
 バノッサは黙ったままで肩を竦める。相手を馬鹿にしきった無言の否定。折れそうになる気持ちを奮い立たせて、ナツミは続ける。
「立場が違えば敵対しちゃうかもしれない。でも、敵だったら戦う以外に選択肢が無いわけじゃないでしょ?」
「ほお、そいつは面白いな」バノッサは酷薄な笑みを浮かべてナツミに詰め寄る。一番近い距離。「オレ様に教えてくれないか。オレとオマエに戦う以外のどんな選択肢があるってのか」
「う……」
 ナツミは言葉に詰まる。はっきりとした結論のない、ただの思いつきの域を出ない言葉だ。オプテュスとフラットの間に横たわる溝が浅いものではないことも分かっている。
 それでも。
 それでも、とナツミは思う。
「何でもかんでも力で押しとおせばいいってモンじゃないでしょ!? 話し合って距離を縮めて行く事だってできるじゃない。あたしたちはちゃんと、お互いに意思を伝えることができるように言葉を持ってんだから!」
 バノッサはナツミから目を逸らして、ため息を吐いた。ポケットから出した煙草が雨で時化っていることに舌打ちしながらも、軽くケースを振って飛び出した一本を咥える。片手で器用にマッチを擦ると、小さな赤い日が燈る。
「戦うしか道がないなんて、哀しいじゃない……」
 俯き、風が吹いたらそのまま吹き散らされてしまいそうなか細い声でナツミは言った。
 バノッサはただ黙ったままで、煙草を蒸かしている。さっき縮まった距離は、今はもう遠い。物理的な距離よりも、もっと。
「イイ方法があるぜ」バノッサは言った。
「……いい、方法?」のろのろと顔を上げて、ナツミは答える。
 バノッサはナツミを見る。そこに、いつもの人を小馬鹿にするような嫌らしさも、時折見せる自暴自棄ささも、全てを拒絶するかのような冷たさも無かった。紫煙を吸いこみ、吐き出す。
「オレのオンナになれ」
「……はあ?」
「それで全部円満解決だ。チャラにしてやる」
 バノッサが何を言っているのか理解できない。数秒経ってから、じわじわと砂に水が染みこむようにバノッサの言葉の意味がナツミの意識に浸透する。
「ば……っ!」
「馬鹿なこと言うな、とでも言いたいのか? どうして馬鹿なことなんだ? それでチャラに出来るもんなら捨てたモンでもない選択肢だろうが」
 バノッサが近づく。吐息すら触れるほどの距離。すぐ目の前に、バノッサの顔がある。

 唇が、触れた。

 乾いた音が響いた。ナツミ自身の意識のコントロールを離れて振り抜かれた左手は、手加減も遠慮も全く無しに、バノッサの右頬を張っていた。左手は振り抜かれた姿勢のまま、小刻みに震えている。
「人を、モノみたいに……」
 じわり、と視界が滲んだ。これはきっと雨のせいだ。濡れたままだった髪についていた水滴が目に入ったんだ。そうに決まっている。それ以外の理由なんてない。

 あたしが、コイツのせいで涙を流すなんて、そんなことありえない。

 ナツミは勢い良くバノッサに背中を向けると、そのままその場所を飛び出した。雨足はさらに強くなっていた。雨が髪を、服を更に濡らし、熱を奪われた体はどんどん重くなっていく。
 前が見えない。
 何も考えず、ただ足を全力で前に動かす。
 遠くに行かないと。
 できるだけ遠くに。
 あそこから、離れないと。
 手足の感覚が消えて行く。走っているのか、歩いているのか、それとも立ち止まっているのか、それすらもわからない。思考はズタズタに切り裂かれ、まともに焦点が合わない。バラバラな断片だけがカレイドスコープのように浮かんでは、消える。体は動きつづけているのに、ナツミの思考だけは体を離れて迷路の中を迷っていた。
 やがて、限界が訪れる。
 足がもつれ、引き倒されるようにしてナツミは地面に寝転がった。真正面から倒れこんだせいか、口の中は泥の味がした。
 立ちあがる体力はない。
 気力すら、ない。
 怖かった。戦いの中で相対するどの時よりも、あの一瞬のバノッサが怖かった。
 泣くもんか。
 泣いてなんかいない。
 だって、これは雨だから。






 雨の音が、煩い。
 燃え尽きた煙草が指の間から滑り落ちた。
 新しい煙草に火をつけて、紫煙を思いきり吸いこむと、まるでため息のようにバノッサはそれを吐き出した。
 舌打ち。
「女なんざ……腐るほどいるだろうが」
 なのに。
 苛々する。
 熱をもって疼く頬が、その感情を加速する。
「……うるせぇな」
 そう呟いてバノッサは立ちあがると、叩きつけるような雨の中に踏み出して行った。







 耳障りな雨の音。そういえば、二人でいたあの短い時間だけは、まるで調和のとれた音楽みたいだったのに。今はもう、指揮者のいない不協和音。
 怖かった。あのまま受け入れていたらどうなっていたのか。いろんなものが、きっと変わってしまう。変わってしまって、取り返しがつかなくなる。
 怖い。
 バノッサは、きっとあたしをあたしじゃなくしてしまう。

 何も見えないのは、雨のせい。
 何も聞こえないのも、雨のせいなのだ。

「だいっ……きらい――」

 何も聞こえない。
 自分の声ですら、聞こえない。



【終わり】