ねがい



 それは雨の日だった。父から与えられた『初めての任務』の帰り道。無視しようと思ったのだけれど、何故か、その時は無視して通り過ぎることが出来なかった。猫に近づく。手を伸ばして、触れようとして――思いとどまった。視界にあったのは、真っ赤に塗れた自分自身の手だった。生まれて初めて人の命を奪った、いっそ切り落としてしまいたいくらいに穢れた手。
 躊躇っている僅かな間に、猫は離れて行った。その猫が見えなくなってから、カシスは、これで良かったんだ、と思った。
 触れてはいけないのだと、思った。
 雨の音が、耳の奥にこびりついて離れない。




『Under the rose/ひそやかなねがい』





 刃が肋骨の隙間を通り抜け、正確に心臓を貫く。
 そんな夢ばかり見ている。



 結びの言葉を自身の署名で終えて、カシスはペンを置いた。三回最初から最後まで読み返して、インクが乾いているのを確認すると、折り曲げて封筒に入れた。フカザキトウヤについての定期報告。
 泣き出してしまいそうだった。自分のしている行為がひどく汚れたものに感じて。
 雨が降っていたはずなのに、とカシスは思った。手紙を書き出す時に降っていた雨は、窓を見るともう止んでいる。目では、雨はもう止んでいると認識しているのに、耳ではまだ雨が降っていると認識している。ずっと、ずっと雨の音が聞こえている。雨の音が、心に波紋を作っていく。
 カシスはベッドに座って本を読み始めた。その間も、雨は止まない。気にしなければ気にならないくらいの音量でずっと聞こえている。文字をナナメに目で追いながら、おかしいのは耳なのか、それとも頭の方なのかカシスは考えてみた。
 そのことについて考えている間も、雨の音は続いている。

 屋根に登ると、大きな丸い月が見える。雲で隠れていることはない。雨はいつの間に止んでしまったのだろう。カシスは膝を抱えて座ると、空を見上げる。自分はいったい何をしているのだろう、と思う。
 最初から、分かっていたコトのはずだ。まるで理解者のような顔をして、仲間になるような振りをして、彼らのことを裏切り続ける。それをするために、今自分はここにいる。
 そのはず、なのに。
「カシス?」
 不意に聞こえた声に、カシスは振り返る。その先に、彼女が先ほど定期報告を書いていた対象である少年がいた。
 フカザキトウヤ。
 魔王である可能性をその身に宿した少年。
「どうしたの、トウヤ?」自分から話しかける。
「いや、特に用事はないんだけど……」トウヤは肩を竦めた。「なんとなく、外の風にあたりたくなって」
 言いながら、トウヤはカシスの隣に腰を下ろす。手を伸ばせば届く距離。けれど、手を伸ばしてはいけない。触れてはいけない。触れたらきっと、トウヤが汚れてしまう。
「それに」トウヤはカシスに笑いかける。「なんとなく、カシスがここにいるような気がしたんだ」
 おかしい。カシスは思う。こんなはずじゃなかったのに。ここに自分がいる理由は、トウヤを観察し、魔王の力を持っていると判断できた場合、無色の派閥の元へ連行する。それだけがここにいる理由のはずなのに。
 どうしてこんな気持ちになってしまうのだろう。

 届きそうで届かない夢を掴もうとして手を伸ばし続けるのは疲れるけれど、諦めて腕を降ろす勇気もない。往生際が悪い私は、疲労によって感覚がなくなってしまった腕を震わせて、それでも手を伸ばし続けている。諦めると後で後悔することが判っているから、腕を降ろすことが出来ないでいる。

「カシス」
「何?」
 呼んだのはトウヤなのに、彼はそこで、言葉に詰まる。
「……こんなこと言ってもいいのかどうかわからないけど」トウヤは言う。「何か、悩んでることでもあるのかい?」
 僕で良ければ話を聞くけど。トウヤは言う。
 思わず笑い出しそうになった。悩みはいったいどこに端を発するものだというのか。他の誰に話すことはできても、目の前の少年にだけは話すことができないものではないか。
 最初からその積もりだった。
 何よりも、理解していた。
 他人を裏切る、ということを。
 何度もそうしてきたはずだった。誰かを裏切り、陥れ、そして今の自分が存在している。
 それがどうして。今この時になって、裏切ることに罪悪感を憶えてしまうのか。
 分かっている。
 分からない。
 でも本当は、分かっている。
「大丈夫よ、トウヤ」カシスは言った。「大丈夫だから、トウヤは自分のこと考えてなさい。知らない世界で大変でしょう?」
「うん、大変だ」そう言って、ちっとも大変さを感じさせない顔でトウヤは笑う。「大変だから、カシスがいてくれて良かったよ」

 神様。生まれて一度も信じたことのない、存在するのかどうかもわからない神様、私のお願いを聞いてください。
 お願いです。私を死なせてください。
 トウヤを汚してしまう前に、私を死なせてください。

「……カシス?」
 トウヤが顔を覗き込んでくる。手を伸ばせば触れられる。でも、触れたらきっとトウヤを汚してしまう。せめて、トウヤだけは綺麗なままでいてくれたら。そう思っているのに。トウヤを汚すのは自分だと、どこかで理解してしまっている。
「トウヤ」
 いつか、トウヤは真実を知るだろう。
 そうしたら、どうするだろうか。トウヤは怒るだろうか。それとも、悲しんでしまうだろうか。そこに残るのが、怒りであればいいと思う。そうして、自分を殺してくれたら。トウヤに殺される、ということをカシスは想像した。それは、なんて、甘い夢なのだろうか。
「大丈夫、明日も、がんばろ?」
「うん、そうだね」
 トウヤが笑う。この笑顔を汚してしまうのは、自分。トウヤを苦しめるのは、自分。トウヤを悲しませるのは、自分。避けようがないものなら、そうやってトウヤのココロに残ろう。謝っても赦されることなどないのだ。傷としてだって、トウヤの中に残れるのなら。
 トウヤの刃がこの身を貫く。
 そんな甘い夢を、きっと今日も見るだろう。

 ざあざあ、と。
 雨の音が耳から離れない。