雪が降っているような気がした。



『いつか見た雪のように』



 生まれた場所では、よく雪が降った。雪は、敵だった。身を切るような寒さの中で、親のいない子供同士体をくっつけ合って寒さをしのいでいた。それでも、神父様が生きている間はまだよかった。神父様は優しくしてくれたし、みんな神父様が大好きだった。けれど、神父様が亡くなると、親のいない子供達はみんなそこを追い出された。神父様の後にそこに着たヤツは、吐き気がするくらい嫌なヤツだった。
 身を寄せ合うようにして過ごした冬の間に、一人減り、二人減り、仲間はどんどん減っていた。生きるためなら、なんでもした。盗みも、置き引きも。そうしなければ生きていけなかったから。
 双子の兄は、いつも守ってくれた。危うく捕まりそうになったとき、助けにきてくれるのはいつも兄だった。いつも庇ってくれたし、いつも一緒だった。

 けれど、もういない。

 それについての記憶は、曖昧だった。ある日、仲間の一人が綺麗な石を拾ってきた。物珍しさに、誰もがその石を見た。今までに見たことが無い石だった。紫色の石。じっと見ていると、その石の中に何かが見えたような気がした。彼女の兄がその石を手にとった。彼女は兄が手にしているその石を覗きこむ。何気なく、その手で石に触れて、


 そこで、彼女の記憶は途切れている。




 目を覚ました時、自分が何処にいるのかトリスには分からなかった。夢と現実との境界線が上手く掴めない。今自分が存在しているのが夢なのか、それとも現実なのか、それすらもわからない。手で頬に触れると、指の先が濡れた。夜着の袖で顔を擦ると、ベッドから体を起こす。
 とても哀しい夢を見たような気がした。なのに、夢の内容はちっとも憶えていない。それが酷くもどかしい。寝るのは大好きで、いつでもどこでも寝られるのが自慢だったのに、今はこれ以上眠れそうになかった。
 夢の内容を思い出そうとすると、キリキリと頭が痛んだ。忘れていた、忘れようとしていた記憶の欠片。けれど、そういったものは自分が思っているよりも遥かに強く、剥がすことのできない澱のように記憶の底にこびりついているものらしい。そう思って、彼女は薄く自嘲の笑みを零した。
 布団の中から出ると、痛いくらいの冷たさがじわじわと体を切り裂こうとする。トリスは夜着の上からガウンを羽織ると、部屋を出た。廊下は耳が痛くなるくらいにしんと静まりかえっている。この二人の先輩が管理する屋敷は広い。それでも、昼間はそれを感じさせないくらいの活気に満ちているのに、夜はまるで異世界に迷い込んでしまったかのようだとトリスは思った。時間は真夜中。誰もが寝静まっているのを気にして、足音を忍ばせて階段を上る。磨かれた床は思った以上に足音が響いたが、しばらく試していると足音を消すことができた。前にシノビであるシオンに教わった足を床からほんの少しだけ浮かせて滑るように歩く歩法。変な歩き方になっているのは分かっていたけど、階段を上りきり、テラスへのドアのすぐ前に着くまで、トリスはそれに没頭していた。余計な考えが浮かばないようにするには、思考に別のベクトルを持たせることだ、と以前兄弟子であるネスティが言っていたな、と彼女は思い出す。もっと簡単なのは頭を使わなくていいように体を動かすことだ、とトリスは思う。
「……ネスってば、すぐにそんな難しい言い方するんだから」
 トリスは僅かに笑顔を見せると、ドアを押した。そのドアが開いて行くにつれて、一段と冷たい風が吹きこんできた。彼女はガウンの前をしっかりと掻き抱いて、ゆっくりと歩を進める。人が落ちることのないように設けられている柵の手前まで来ると、夢を見るように夜空を見上げる。気に入らない絵を絵の具で乱暴に塗りつぶしたような真っ黒な空。その中で、いくつか光る星と、大きな真円を描く月だけがその存在を高らかに謳っている。
「僕が、なんだって?」
 声は、テラスの入り口から聞こえた。トリスが振り向くと、ドアに手をかけた姿勢のままで、彼女の兄弟子であるネスティがこちらを見ている。
「ネス?」
「……こんな寒いところで何をしているんだ、君は」
「んー、なんかね、眠れなくって」
 ネスティは軽く肩を竦めると、トリスの隣りに並んだ。彼は片手にカップを二つ器用に持っていて、なんとなくトリスはそんな些細なことでネスティも男なんだなぁと変な感心をしてしまう。カップのひとつをトリスは受け取り、一口口をつけると思っていた以上に熱くて、どちらかといえば猫舌なトリスは顔をしかめた。
「まだ熱かったか」
 トリスは頷く。熱いだけでなく完璧な純度のコーヒーだったということもある。トリスはミルクと砂糖をこれでもかと入れたものしか飲めないし、飲んだことがないからだ。けれど、暖まることには変わりはない。トリスはなんどか息を吹きかけて、またカップに口をつけた。
「……苦い〜」
 トリスがそう訴えても、ネスティは知らぬ顔。
「以前、君が僕の煎れたコーヒーを飲んだ時、君が自分で言った言葉を憶えているか?」
「えっと……」
 いきなり質問を向けられて、トリスは必死に記憶を検索する。一つ思い当たる出来事があった。徹夜で反省文を書いていた時に、彼が飲み物を差し入れてくれたことがあった。
「確か、ネスの入れてくれたの飲んで気持ち悪くなってぶっ倒れちゃって、反省文提出できなかったのよねぇあたし」
「軟弱だな」
「あんなゲテモノ飲料飲めるわけないでしょ!」
「それだ」
「え?」
「君はあの時もそう言っただろう? だから今度は余計なものを入れないようにしてみたんだ」
「へえ……ネスってばいつのまにそんな気遣いできるようになったの?」
「茶化すな」
「茶化してないよ」
 トリスは両手でカップを持って、空を見上げた。ネスティが、そのトリスの視線を追いかける。空に浮かぶ星たちは静かに瞬いている。まるで、大きな月を指揮者に空全体で一つのリズムを追いかけているみたいに。
「何を、考えていた?」
「別に」
「嘘をつくな」
「嘘じゃないよ」
「君の嘘くらい、わかる。何回君が僕に嘘をついたと思ってるんだ」
「いつも、バレたよね」
「君の嘘は、わかりやすい」
「お兄ちゃんの、こと」
 ネスティが眉を上げる。「……君に兄妹がいたなんて、僕は初耳だぞ?」
「忘れてたからね」トリスはあっさりと言った。「あたしが派閥に来る前のことなんて、全然思い出せなかったんだ。でもね、最近いろいろあったじゃない? 機械遺跡とか、クレスメントとか」
「……ああ」
「ちょっとずつね、思い出してきたんだ。派閥に来る前の暮らし、お兄ちゃんがいたこと、あの……召還術の暴走のこと」
 ネスティは少し顔を伏せた。けれど、トリスにとってはそれでよかった。彼がそこにいればそれでいいのだ。
「そしたらさ、あたし、お兄ちゃんのことも忘れてたんだなぁって。そう考えて、ちょっと自己嫌悪なわけ」
「……そうか」
「うん」
 夜の闇は濃く、ゼラムの街は静まりかえっている。通常ならその静けさに思いを馳せることもできるだろう。けれど、現状では月の光で生まれるささやな影の中にすら、メルギトスの存在を疑わねばならない。
「忘れていたのは、無理もないことだ」
「どういうこと?」
「僕は伝聞で聞いただけだが……」ネスティは表情に迷いを浮かべた。いいよ、とトリスは先を促す。「何も、無かったらしい」
「……何も、なかった?」
「人も、街も、何も無かったそうだ。そして、クレーターの中心で君が蹲っていた。後でラウル師範に報告書を極秘で見せてもらったんだが、内容は聞いたものとそう変わらなかった」
「……そう、なんだ」トリスは視線を落とす。「それじゃあ、お兄ちゃんが生きてるってことは、ないね」
 ネスティは答えない。答えられない。
「時々、考えるんだ。もし、お兄ちゃんと一緒にここにいたら、どうなってたんだろうって」
「……間違い無く」ネスティが言った。トリスは彼を見る。「僕の苦労は二倍に、いや、相乗効果で三倍にも四倍にもなっていただろうな。なにしろ――君の兄妹だ」
「うあ、ネス、なにげに酷いこと言ってる!」
「これまで君に負わされてきた苦労を元にした、純粋な考察だ。君に対しても君の兄に対しても、他意はない」
「嘘だー! 難しいこと言ってごまかそうとしてるー!」
 すっかりいつもの雰囲気に戻って、二人はいつもの言い合いを始める。ネスティがトリスの日頃の生活態度に対して小言を言い、彼女はそれにささやかな反論をする。その後に、そのささやかな反論の何倍もの小言がトリスを貫き、彼女は何も言えずにただ不満そうに唸る。
 ここにあるのは、それだけだった。
 それ以上も、それ以下もなかった。
 星が流れる。トリスが、あっ、と声を上げた。ネスティがその声を追いかけて、遠くに見える山々の向こうに消えて行く流れ星の軌跡を目に留めた。
「君は、召還術の暴走の後でも生きていた」
「ネス?」
「ならば、同じクレスメントの一族の魔力を持つ君の兄も、どこかで生きているかもしれない」
「……ネス」
「儚い期待だと、思うか?」
「そうだね」トリスは言った。「でも、何も期待しないよりは、はるかにマシよ」
「僕もそう思うよ」ネスティは頷く。「――そう、思うようになった、が正しいかな?」
 トリスはネスティを見る。ネスティは小さく肩を竦めると、「風邪を引く」と言ってくるりと背中を向けた。もう戻ろう、ということらしい。「うん」とトリスは答える。
 急に素っ気無くなるのは照れている時の仕草だ、とトリスは気付いて、彼に見えないようにささやかに微笑った。
 彼の後についてテラスを出る前に、トリスは一度振り返った。空に映る星と、ゼラムの街並みに燈る光。それはまるで、いつか見た雪のようにトリスには見えた。