例えば、直視できなくなるほど眩い、太陽。
 例えば、それだけで生きていることを肯定してしまえそうな、日溜り。
 例えば、清冽な蒼。空の蒼。海の蒼。この世界のどこにもない、世界の果てにある透明な蒼。

 それらを目の前にして、僕はいつも立ち竦む。





『楽園の片隅で』





 ウィルはコーヒーの注がれたカップをアティに手渡した。彼女はそれを受け取って一口啜ると、ほう、と美味しそうにため息を吐く。コーヒーでも、料理でも、彼女はとても幸せそうに物を食べる。そして、そんな彼女を見ることは、ウィルにとっては楽しいことだった。
 島の住人達が総力を上げて(という表現は誇張ではない)作ってくれた、二人の住まいになっている住居には大抵のものは揃っている。食料は定期的に運んでもらえるし、裏には井戸が掘ってあるし、コーヒーなどの嗜好品も揃っている。内装も丁寧で落ちついた作りになっていて、こういうものを見れば見るほど、この島から離れがたくなる、とウィルは思う。
 もっとも、今更離れる気なんて、これっぽっちもないのだけれど。
 ウィルが自分の分のコーヒーを持って、アティと向かい合って椅子に座ると、彼女が顔を上げた。
「ウィル」
「はい?」
「ご苦労様でした。私がいない間に大変だったね」
「まさかあんなことになるなんて思ってもいませんでした」
「うん……そうだね」彼女は少し、笑った。「思っていたら、私も島を離れたりはしませんでした」
「でも」言いかけて、ウィルは躊躇した。けれど、一度発しかけた言葉を止めることは出来ずに、続きの言葉を述べた。「……悪いことばかりでは、ありませんでした」
「楽しかったね」彼女は微笑う。
「はい」
「嬉しかった」彼女は言う。「本当に、嬉しかったです」
「ヘイゼルさんの、ことが?」
「ちょっとだけ、泣いちゃいました」
 そう言って笑った彼女は、初めてウィルが出会ったころのものと、変わらない。この島に張り巡らされた境界線とリンクしている蒼の魔剣。そのマスターである彼女は、この島の中に存在する限りは、境界線の魔力により不老となる。
 そして、それは自分も同じなのだ、とウィルは改めて思う。いつのまにか彼女の身長を越えてしまい、けれど、『不滅の紅』フォイアルディアを所有した、その瞬間から。
「いい仲間のみなさんと、とっても楽しそうで……よかった」
「楽しかったですよ。……いろんな意味で面白い人達ばっかりで」
「あはは……」
「この島の連中も、面白さでは負けてないですけどね」
「うん」
 アティの指がカップの縁をなぞり、軽く弾く。考え事をしている時の彼女の癖だ、とウィルは思った。彼女の思考を邪魔しないように、ウィルは黙った。
「外の世界では、いろいろ起こっているんだね」
「先生?」
「悪魔王メルギトスの話はトリスさんとネスティさんから聞きました。そして、その三年前、メルギトスが活動を起こすきっかけになった、無色の派閥の事件のことも……」
「え……?」
 そういうことがあった、ということはウィルも聞いたが、詳しくは聞いていない。原罪のシードの件もあって、聞きそびれていた。
「ウィル君、帰ってきたばかりでこういうことを言うのは気が引けるんですけど……」
「なんですか、先生」
「また、しばらくの間留守にしようと思います」
 ウィルは黙った。彼女の言葉はいつも、決定事項だった。こうだと決めた時は、何があっても譲らなかった。そのことを、他の誰よりもウィルは知っていた。
「蒼の派閥……だったよね? その派閥が、この島の遺跡のことを知った。もう結界はとっくになくなっているわけだし、今まで何事もなかったのが不思議なくらいなんです。きっともう、この島は外の世界から切り離して存在してはいけないんじゃないかと思うんです」
 ウィルは目を閉じる。
「だから、私は外の世界をしっかりと見てこようと思います。しっかりと見て、それを島のみんなに伝えたい。国同士の力関係、この島にいるだけじゃわからない新しい知識や常識、外の世界の正しい姿を伝えることが、大切だと思ったんです」
「……先生」
「それもこれも、ウィル君がいるから、です」彼女は微笑う。「君がいればこの島は大丈夫だ、って判断したから、行くんです」
「……先生は、ずるいです」ウィルは言った。
「えっ?」
 彼女は驚いた顔でウィルを見た。彼女のそんな顔を見ることができて、何故か、ウィルは嬉しく思った。
「そんな言い方されたら、反対することも、一緒に行くこともできないじゃないですか……」
「……久しぶりに見たな」アティが言う。
「何を、ですか」ウィルは聞き返した。
「ウィルの、拗ねた顔」
 ウィルは俯いた。顔が熱い。いつまで経ってもこうやって赤面してしまうのは何故だろう。彼女のたったひとつの言葉くらいで、嬉しくなったり悲しくなったり、振り子のように揺れ動いてしまうのは何故だろう。
「……拗ねてません」
「そう?」
「そうです!」
「拗ねてくれた方がちょっと嬉しい、先生の微妙なオンナゴゴロなんだけど」
「ぅ……」
 彼女はくすくすと笑うと、立ちあがる。
「ちょっと、行ってくるね」
 何処に、とは聞かなかった。
 何処へ、とは聞けなかった。
 ウィルはただ立ちあがって、彼女の外套を手に取ると、それを黙って手渡した。
「ありがと」
「風邪ひかないように気をつけてください」
「うん。わかってます」
 彼女は外へ出ようとして、足を止めた。くるりと振りかえり、ウィルを見る。ウィルは喉元まで上がってきたその言葉を言うべきかどうか迷った。彼女の目は言葉の発言を促しているようにも、押し留めようとするようにも見えた。彼女のことはわからない。けれど、どちらにも見えることは、自分の迷いが投影されているのだろう、とウィルは思った。
 短い、ほんの数秒にも満たない間。
「あの、先生……」
「はい」
 息を吸いこんだ。知らず俯いてしまっていた顔を上げて、まっすぐに彼女を見た。
「『彼』に、よろしく」
「うん」
 にっこりと笑って、アティは頷いた。



 さく、とブーツが草を踏む。歩き慣れた道ではあるけれど、最初は何度も転んだ。歩き方も、戦い方も、召喚術の使い方も、挫けない強さも、立ちあがる勇気も、今のウィルを形成るものは、ほぼ全てか彼女から直接に、間接に、学んだものだ。
「……まったく」
 この感情は、ひょっとしたら嫉妬という感情かもしれない、と思って、ウィルは苦笑いをした。
「……もう存在しない人間に、勝てるわけないじゃないか」
 苦笑い。月日を重ねても、背が伸びて彼女を見下ろせるようになっても、彼女の前に立つと、初めて出会った頃のようになってしまう。
 風が吹いた。
 景色が二重になって見えた。視界は急速に白濁していき――

 風船が弾けるように、破裂した。
 そうウィルは思った。



 空には、大きな月。見下ろすと、それぞれの集落に燈った柔らかで小さな光。風が吹き抜けて、アティの髪を揺らしていく。そんな場所に、それはあった。送る言葉もなにもなく、ただそこにあるだけの、小さな墓標。アズリアがそう望んだから、アティもそう望んだから、彼はここで眠っている。
「……イスラ」
 呟いて、アティは膝をつき、墓標にそっと触れた。




 目を開く。弾け飛んだと思った世界は、そのままの姿でそこにあった。弾け飛んだのはひょっとしたら自分の方だったか、とウィルは思ったけれど、そうではないようだった。
 ただ、喚んだはずのない剣が、目の前に浮かんでいる。
「フォイアルディア……?」
 剣に呼ばれるように、ウィルは手を伸ばし、柄を握る。光が弾けた後、剣はウィルの腕の中に収まり、視界の隅に銀色の光が見えた。体中の血液が沸騰しそうなほどの高揚感を、押さえこむ。魔剣を握るときは感情に流されてはいけない。それが、魔剣の所有者としての先輩である彼女に教わったことだった。
「僕が、喚んだ……?」剣を持った手を下ろし、ウィルは呟く。「いや、僕を喚んだのか……?」
「……そうだよ」
 聞こえるはずがない他人の声が聞こえて、ウィルは目を凝らした。聞き覚えのある声だった。忘れようにも、忘れられない声。
「……まさか」
「憶えていてくれたんだ。嬉しいね」
 音も無く、彼はいつのまにかウィルの数歩手前に出現していた。淡い輪郭。紅い境界線。最後に見たその姿のままで、彼は、そこにいた。
「忘れてたよ。貴方のことなんて」
「本当に?」
「本当さ」ウィルは言って、視線を逸らした。「先生は、忘れてないみたいだけどね」
 言ってから、ウィルは後悔した。彼の前で先生である彼女の話をすることが、何故か悔しい。
「アズリアさんと先生とギャレオさんで貴方を埋葬したよ。あの二人はもうこの島にはいないけれど、先生は貴方のことを忘れてなんかない。いつも、花を絶やしたこともない。今だって……貴方に会いに行ってる」
 わけのわからない苛立ちを吐き捨てるように、ウィルは一息で言った。
「そうか」それだけを、彼――イスラは、言った。
「どうして今更、それも僕の前に出てくるんだ。恨み言ならお断りだ。僕は先生みたいに貴方に同情したりなんかしない」
「同情……ね」イスラは笑う。
「何がおかしいっ!」
「最初の質問に答えるよ。君が、君自身の意思で剣を呼び寄せて、真にこの剣――キルスレスの所有者になったからだ。今の僕は、この剣の中に僅かだけ残ったイスラの残留思念みたいなもの……かな」
「キルスレスじゃない」
「じゃあ、何?」
「『不滅の赤』フォイアルディアだ」
「いい銘だね」イスラは笑う。「彼女のもつ剣と対になるものとして、相応しい銘だよ」「……それはどうも」
「今の所有者が君だ、というのも不思議な縁だ」
 イスラが何を言おうとしているのか、ウィルにはわからなかった。ただ、会話の主導権を完全に向こうに握られている、それが不快だった。
(……落ちつけ。冷静さを失うな)
 相手の狙いを知ってこそ、対応策がとれる。ウィルは、普段よりも頭に血が上りやすくなっている自分を戒めた。
「……何が言いたい」
 イスラは笑って、言った。
「彼女と僕は、同じコインの表と裏だった。そういうことさ」



「私と貴方は、きっと同じ魂の表と裏だった」墓標に触れたまま、アティは言った。「同じ形、同じ輝き。ただ、向かうベクトルの方向が違ってしまっただけで」
 アティは頭を垂れた。伸ばした髪が恐る恐るといった風に滑り落ちて、視界を覆う。
「どうして、もっと早く気付けなかったんだろう。どうして、もっと早くあなたの望みを理解することができなかったんだろう。ううん、手遅れなんかじゃなかった。これから、だったのに。これから幾らでも、貴方は幸せになることが出来たはずなのに。ヘイゼルさんみたいに、幸せになってくれるのが、私の願いだったのに……」
 彼女と再開して、改めて思った。悩んで、迷って、傷ついて、それでもあの日望んだ未来は、間違っていなかった。
 間違っていなかったと、思えたのに。
「……死にたい、なんて言葉、言わせたくなかった」




「死にたかったんだ」イスラは言った。「これ以上誰にも迷惑をかけないように、姉さんにも、家の連中にも世話にならずに、死にたかったんだ」
「……何を」
「でも、死ねなかった。僕にかけられてた召喚呪詛はそういうものだったんだ。頚動脈を掻ききっても、致死量の毒を飲み干しても、死んだ後で蘇生する。もうね、いっそ狂ってしまいたかったよ」いや、とイスラは頭を振った。「……とっくに、狂っていたんだろうね」
 ウィルは口を開いた。気が付くと、唇が、口の中が乾いていた。
「狂っていた、だって……?」
「だって、僕の願いは……彼女に、アティに殺してもらうことだったから」
「勝手なことを……っ!」
「そう、彼女のことを考えない、身勝手な願いだね」イスラは頷く。「でも、それ以外に僕の望みを満たしてくれるものはなかった。魔剣だけが、同じ魔剣の使い手を滅ぼすことができる……」
「っ……!」
「彼女のことは大っ嫌いだよ。あの甘っちょろい理想主義の偽善者が、僕を殺す時にどんな顔をするのかも、楽しみだった。あいつの綺麗事を粉々に打ち砕いて、壊してやりたかった。楽しかったよ」
 フォイアルディアの柄が軋んだ。自分の手が砕けてしまうくらいにその柄を握り締めているのをウィルは自覚したけれど、理性はこのまま剣の力を全開でイスラに叩きつけろと命令する感情を押さえ込むので精一杯だった。眼の奥で火花が爆ぜて、視界が滲んだ。
「貴方という人は……っ!」
「でもね、何故だろう」イスラはウィルのことを意に介した風もなく、続ける。「辛かった。悲しかった。わかっていたんだ。彼女は僕を殺さないだろう、って。それでも、僕は彼女を否定した。否定するしかなかった。そうでないと……」
 淡々と話すイスラを見ながら、ウィルの頭は急速に冷えていった。
「貴方は、馬鹿だ」ウィルは言った。「先生を信じることができなかった、貴方は馬鹿だ」
 さっきとは別の理由で、視界が滲む。どうして彼女がイスラに対してあんな態度をとっていたのか、今なら分かるような気がした。あの時彼女が感じていたものに、今一瞬触れることができたような、そんな気がした。
「馬鹿だよ……先生は、貴方に別の道を示してくれたのに!」



「私の進んだ道は、本当に貴方の進む道とは相容れなかったんでしょうか……?」
 その通りだろう、と理性は肯定する。死によってしか、彼は救われることはなかっただろうと。
 絶対に違う、と感情は否定する。傲慢と思われても、身勝手だと言われても、偽善者だと罵られたとしても、生きているから、やりなおせる。何度だって立ちあがることができる。そう信じていたい。
 そうやって幸せになろうとしている彼女の信じてくれたものを、嘘にしてしまいたくない。
 滴が落ちた。




「どうして、泣いているんだ?」イスラは言った。
 その時はじめて、ウィルは自分が泣いていたんだと自覚した。頬に手を当ててみる。涙は体温と同じ暖かさで、頬から離した手は急速に熱を失っていった。
「僕のことを哀れんでいるのか?」
 違う。
「僕のことが可哀想だから?」
 違う。
「僕を救えなかったことが悔しいかい?」
 違う。
「ならば、どうして泣かないといけない?」
「……悲しいからだよ」
「悲しい?」
「貴方は、僕だ」ウィルは涙を拭いもしないで、顔を上げた。「他人と距離をとって、傷つくのが怖いからいつも冷めたふりをしてた、先生と出会わなかった、僕なんだ。やっと、わかったよ。先生が見ていたものを、やっと僕も見ることができた……そんな気がする」
「同じ形……同じ輝きを持った魂。それが『適格者』だ」
「だから、フォイアルディア、いいや、キルスレスを、僕は抜くことができた」
「彼女と出会った時期、なのかな」イスラは言った。「僕と君の差は」
「歳の差、かもしれないよ」
 冗談めかしてウィルが言うと、イスラが笑った。こういう笑い方もできる人なんだ、とウィルは思った。思って、少し悲しくなった。
「貴方が生きていたら」ウィルは言う。「きっと、今みたいに笑えたんだ。先生と一緒に、アズリアさんと一緒に、今みたいに笑えたんだ」
「そうかも、しれないね」イスラは言った。
 悲しいだけの沈黙が下りた。それが、もう二度と取り返しのつかないものであると、二人ともわかっていた。
「君と話したかった。僕はもう消える。二度と会うこともないだろう」
「何か、先生に伝えることは?」
 ウィルが聞くと、イスラは笑った。苦笑のような、自嘲のような、そんな笑み。
「……何も、ないよ」



「私が貴方にしてあげられることなんて、もう何もないんだね」
 アティは手に持っていた小さな花を墓標の前に置いて、立ちあがった。
「……見ていて、くださいね。私は、生きていくから。あの時貴方にぶつけた言葉が嘘になってしまわないように、生きていくから。だから、」
 アティは顔を上げた。




 目を閉じて、開く。そこにはもう彼の姿は無かった。手にしたままの魔剣からも、もう何も感じられない。
 空を見上げた。
「証明してみせる。僕は、貴方のようにはならない」
 涙が、頬を伝って落ちた。
「そして、この島を、貴方のような人だって、いつかきっと笑えるように、幸せになれるように、そんな希望を持てる場所に、してみせる」
 ウィルは、フォイアルディアを掲げた。




『――この剣に、誓う』




 気が付くと、ウィルの足は自然とイスラの眠っている場所へと向かっていた。先にそこにいたアティは、墓標と向き合うようにして座って、空を眺めていた。
「先生」
「ウィル」
「隣、いいですか?」
「うん。どうぞ」
 彼女の隣に腰を下ろす。二人で体を寄せ合うようにして座って、ただ空を眺めていた。アティも、ウィルも、どちらも言語機能を忘れてしまったかのように、何も喋らずにいた。闇色一色だったら空が、やがて、海と空の境界の周辺からゆっくりと明るい色に変わっていく。ただ、太陽が姿を現す瞬間を待とうと思った。太陽が空を昇っていく姿を見ようと思った。太陽に照らされたこの楽園を見たい、と思った。
 彼女の頭が、ウィルの肩に乗った。
 小さな寝息が聞こえて、ウィルは少し微笑った。
 ウィルは長い間躊躇って――それから、そっと彼女の肩に手を置いた。
 ここで、この剣の中で、この楽園の片隅で、
(……貴方を知っている、僕達の中で)
 生き続ける魂があることを、ウィルは知っていた。