1 ささやかな、けれどとりかえしのつかない
チャイムが鳴って、僕は顔を上げた。机の上において枕にしていた腕の感覚が無い。しばらく腕を振っていると、ぴりぴりと痺れるような痛みが皮膚の裏を駆け回る。顔をしかめてそれをやり過ごした。
教室の中は喧騒に包まれている。窓側一番後ろの席で(席替えの時に多少の裏工作で手に入れたものだ)、僕は大きく息を吐く。授業が終わった。終わってしまった。その言葉がため息に包まれて消えて行った。すぐに担任が入ってきて、帰りのホームルームが始まった。僕は担任の土方先生(新撰組の誰かがそんな名前だった気がする)の言葉を右から左に聞き流しながら、これからのことを考えていた。
土曜日。
週末。
これらには気分を沈ませる要因などないはずなのに、今の僕の心は錨を下ろした船みたいに重かった。つまり、繋がれた犬みたいに、ある一定の範囲までしか動けない、そんな感じが近い。
気が付いたら、ホームルームも終わっている。嫌だと思うことが後に控えていると、体調も悪くなってくる気がする。ありもしない頭痛を感じた気がして僕は頭を押さえた。
いまさらだ。
僕は思う。
いまさらだろう、そんなことは。
僕は鞄を持って立ちあがる。クラスメートに挨拶して教室を出ると、まず部室に向かった。部長はいなかったが、上級生に今日の部活を休むことを告げて、あれこれと詮索される前にさっさと家路についた。
下校する波に紛れて、校門を出る。やや冷たくなり始めた秋の風が、まるでウィルス感染するように僕の服の隙間に潜りこんできて、体感温度を下げていく。くるりと踵を返して部活に出て、何事も無かったかのように、昨日は信じていられた平穏な一日というものを過ごしたいという衝動が足元から湧き上がってきて僕の全身を満たした。けれど僕は無理矢理それに逆らって、歩き出した。
両親の離婚というのは、まあこんな世の中ではさして珍しくもないものなのだろう。僕と母は、母の実家の方で暮らすことになり、父は再婚相手(当時は浮気相手だったわけっだけれど)と一緒に暮らすことになった。父の浮気相手(あえて、こう呼ぼう)には子供(一応、僕の妹ということになる)がいた。まあ、ここまでも客観的に見ればさして珍しい話ではないのだろう。妹が僕よりも三ヶ月遅い誕生日だというのは思うところが無かったわけではないけれど。数年後に母は亡くなり、僕は現在祖父母と共に暮らしている。ここまでも、そうあることではないけれど、全く無いわけでもない話だと思う。
けれど。
一度も面識の無い妹からいきなり呼び出される、というのは、ひょっとしたらそうそうあることではないんじゃないだろうか?
家に戻ってから着替えると、僕は駅に向かった。何か食べて行きたいところだったけれど、祖父母と顔を会わせたくなかった。僕は、今日はいつものように部活をしてから帰ってくることになっているのだ。それ以前の問題として、僕は祖父母が父をどう思っているのか知らない。彼らの口から父についての話が出てきたことは一度も無い。妹がいるということも、存在する、という言葉以上の意味を感じたことは無かった。……昨夜、本人から電話を貰うまでは。
妹のこと。
父のこと。
ジャケットのポケットの手を突っ込んで歩きながら、今まで考えようとしなかったそれらのことを、僕は考えてみた。これまでまったく考えたことが無かったわけじゃない。でも、少なくとも、昨日までの僕には、電話を取る前までの僕には、考える必要の無いことだったのだ。なのに、今僕の目の前にはそれが考えなければいけないこととして立ちはだかっている。これはいったいどういうことなんだ、と僕は思った。悪い夢みたいだった。ひょっとしたら、僕は昨日なにかひどく致命的な間違いを犯してしまったのか? 積み木を組む時に、ひとつ間違えて組んでしまうとその後に積むものがガタガタになり、どうしようもなくなって最後には崩れ落ちる。そんな風に、僕はどこかで間違った積み木を組んでしまったのだろうか?
オーケー。わかった。認めよう。僕はあの男が嫌いだ。どのくらい嫌いかというと、それを表現するために上手い比喩が見つからなくて、ぐるっと一週回って結局『嫌い』の一言以上に僕の感情を表現する言葉が見つからない、そのくらい。その『嫌い』は瞬間的に発生した感情ではなかった。少しづつ少しづつ僕の中に降り積もって、底の方でヘドロみたいに気持ち悪くこびりついて、もうどうしようもないくらいに腐敗している、そんな感情だ。
忘れることは出来なくても、思い出さないことはできると思っていた。
なのに、僕は今それを思い出している。
駅を通り過ぎると、少し大きめの公園がある。噴水まであってなかなか豪華なのだけど、正直僕には金の無駄遣いとしか思えない。こんな田舎の公園の中にある噴水なんて、カップルの雰囲気作り以外の何に役立つというのだろう。もしそういう意図で作られたのであったのなら、それは少し面白いと思う。それこそ『市民の声を反映する』市長なのかもしれない。そんなどうでもいいことを考えながら、僕は噴水の縁に腰を下ろした。まるでタイミングを計っていたみたいに、後ろで噴水が水を上げた。僕はちらりと肩越しにそれを見て、すぐに視線を戻した。
彼女の指定した場所が、この公園だった。
ジャケットの胸のポケットに煙草が入っているのを見つけた。たぶん祖父がちょっと外に出る時に僕のジャケットを勝手に着て行って、帰って来た後に煙草をそのまま忘れて行ってしまったのだろう。祖父のことを考えて、僕は少し笑った。あのクソ親父のことを考えているよりは、よっぽどいい。僕は煙草を引っ張り出して咥えると、ライターで火をつけた。時間も時間だったし、顔見知りに会う可能性は低いとは言えなかったけれど、僕はそれを忘れたことにして煙草を吸った。
なあ。
僕はここにいない誰かに向かって語りかけた。
いまさらだろ?
煙が目に染みて、僕は目を擦った。ニコチンがゆっくりと体に吸収されて、煮詰まった頭を少しクリアにしてくれる。
ふと、影が射した。僕は頭の回転を止めて顔を上げると、目の前に立っている人物(女の子だ)に目の焦点を合わせた。ごくごく標準的な制服は、けれどどこの学校のものかは分からなかった。この辺りの学校ではおそらくないのだろう。スカートはこんな田舎では珍しいことに、かなり短い。
「……何してるの?」
その声は、彼女が顔に張りつけた無表情と同じくらい、表情のない声だった。
「別に」
僕はそう答えて、彼女が顔見知りなのだろうか考えた。けれど、考えるまでもないことに気付く。この辺りで見かけない制服を着た女の子と知り合ったことは無い。僕は品行方正に生きているのだ。
「別に」
彼女は噛んで含めるように、僕の言葉を復唱した。何故かとても不機嫌なようだった。とりあえずその不機嫌の理由がなんとなく手にしている煙草にあるような気がして、それを足元に落とすと靴の裏で踏んだ。彼女は顔を顰めた。これも失敗だったか、と僕は思った。
「悪いけど」彼女が何か言うよりも早く、僕は口を開いた。わけのわからない不機嫌をまったく理由もわからずにぶつけられるのはさすがに困る。「人と約束をしてるんだ」
「約束」
また噛んで含めるように彼女は復唱した。僕はひょっとしたらオウムに化かされているんじゃないかという気がした。オウムが人を化かすなんて聞いたことは無いけれど、まあそういう話があっても悪くは無いだろう。
「実は顔も名前も知らない生き別れの妹と、今日はじめて会うんだ」
「顔も名前も知らないの?」
「知らない」と僕は答えた。本当のことだ。彼女の不機嫌さがまた増したように見えた。僕はどんどん積み木を歪な形に組んでいってしまっているようだ。
「知らなくても生きていける。正直、どうだっていい。なんでいまさら僕と会おうとするのかわからない」
僕はもう一本煙草を取り出して、咥えた。火をつけて一息吸いこむ。けれど、その一瞬後に煙草は僕の口から消えていた。消えた僕の煙草は、彼女の右手の人差し指と中指の間に引っかかっていた。
「煙草は体に良くないわ」
「一般論だ。そして正しい」
「わかってて吸ってるのって、馬鹿じゃない? て思うわ」
「馬鹿なんだ」
「馬鹿みたい」
「馬鹿の方が楽なんだ」
「それこそ馬鹿」
「まったくそのとおり」
言って、僕は時計を見た。約束した(というか、一方的に押し付けられた)時間はもう過ぎている。あたりを見まわしてもそれらしき人はいない。
「何を探してるの?」
「髪が長くて笑うと小さなえくぼが出来て不機嫌そうな顔をしてないで、人のことを馬鹿よわばりしない可愛い妹」
「それは残念ね」彼女はぎりぎり肩にかかるかどうかという長さの少し茶色がかった髪を揺らして、笑った。とても皮肉を込めて。「そんな妹なんて妄想の中にしか存在しないわ」
「君の言うとおりだ。でもせっかくだからもう少し付け加えてみよう。成績は優秀だけど、家庭科だけはどうしてもダメ。口より先に手が出る。友達は多い。教師にはとても相性がいい人とどうしようもなく悪い人がいる。男と付き合った経験はないけれど、これまでにフッた男の数は十七人。彼氏が欲しいと思わないというわけではないけれど、同級生の男は馬鹿にしか見えないから付き合う気は起きない。趣味は読書。そういうと、いつも似合わない、という顔をされるのでできるだけ言わないようにしている。一番好きなのは村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』。部活動は運動系。意表を突いて剣道部なんてどうだろう?」
「どうだろう、て何」
「意味はないけど」
「じゃあ続けて」
「もう終わり」
「そう」
彼女は持ったままだった煙草を足元に落とすと、さっき僕がしたように靴の裏で踏み潰した。
「変な人」彼女は言った。
「たぶん、お互い様だと思う」
彼女は後ろを向いて、何かをした。何をしたのかは僕にはわからなかった。くるり、と振りかえる。そして、言った。
「ハジメマシテ、お兄様?」
「……はじめまして、妹」と僕は言った。まだ名前すら聞いていなかったからだ。「で、どこまで当たってた?」
彼女は「うっ」と言葉を詰まらせて黙り込んだ。しばらくしてから顔を上げて僕を見ると、とても悔しそうに「フッた男の数は十三人よっ!」と言った。それは縁起がいい、と僕は言った。
「どうして?」
「ジェイソンが現れるのはいつも十三日だ。金曜日ならなおさらいい」
彼女は何を言っているのかわからない、という顔で僕を見る。その顔はすぐに笑顔に変わった。さっきのような皮肉で笑った顔じゃなくて、ごく普通の笑顔だった。
そして。
彼女は笑顔のままで、両方の瞳から雫を落とした。
つまり、これはそういう話だ。
彼女が僕に初めて笑顔を見せてから、初めて涙を流すまでの間。
その僅かな時間の間に僕たち二人に起きた、夢のような出来事の話。
僕たちが経験した、ささやかな、けれどとりかえしのつかないくらいに僕たち二人を変えてしまった、旅の話――
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