2 かなり恥ずかしいこと




 彼女が僕に微笑みかけたその瞬間、眩暈を感じた。友達と一緒に行った遊園地で乗ったコーヒーカップのようだった。僕は調子に乗って中央についているハンドルを思いっきり回した。終わった後僕はベンチに座ったまましばらく動けなかった。馬鹿なことをしたな、と分かってはいた。けれど、分かっていてもやってしまうことはある。一緒に乗っていた女の子の方はというと全く平気な顔をしていて、僕が介抱されてしまうという有様だった。けれど、それがきっかけでその子とは付き会うことになったわけだから、人生はどう転ぶのか予測がつかない。その子とは三ヶ月で分かれた。中学二年生の時だった。
 一瞬でそれだけの記憶を引っ張り出して、また静めた。彼女の顔が見えた。けれど、僕はどうしようもない違和感を感じていた。それは、取り返しがつかないということを諦念として理解している違和感だった。彼女の笑顔が消えた。僕は黙って、彼女がきょろきょろと辺りを確認するように視線を走らせるのをただ眺めていた。
「……ここ、さっきの公園……?」
「たぶん、違うんじゃないかな?」
 彼女がとてもうろたえているので、逆に僕は冷静になってしまった。パニックに陥るタイミングを逃してしまう。こういうのは冷静になったほうが損なのだと個人的には思う。正直僕だって思い切りワケの分からないことを叫んで辺りを走りまわりたい。
 あたりは、森だった。どこからどう見ても森だった。日本にこんな場所があるなんて僕は知らない。イメージとして持っていた『富士の森海』という言葉がそのままぴったり当てはまりそうだ。
「は!? ナニこれ!? わけわかんない!?」
「いや、僕に言われても。わけわからないレベルはたぶん君とそう変わらないと思う」
「レベル?」
「うん。まあ、上限の九十九かな?」
「ちょっとちょっと! あんたいったい何したのよ!?」
「何って言われても……何かしたように見えた?」
「見えなかったわよっ!」
「じゃあ僕じゃない」
「それならなんでそんなに落ちついてんのよっ!」
 彼女は僕の襟首を掴んで前後に揺さぶり始めた。時々ピンポイントに気管が締めつけられて結構苦しい。君がパニックになってるから僕がパニックになれないんだ、と言おうとしたけれど、口からは言葉じゃなくて断末魔の吐息みたいなものが漏れただけだった。たっぷり三十秒はそうしたあと、彼女はやっと僕の襟首から手を離した。僕は大きく息を吐く。少しくらくらした。
「とりあえず」と僕は言った。「状況を整理してみよう」
 人差し指を立ててそう提案してみると、彼女はものすごく不満そうな顔をしていたけれど、とりあえず頷いてくれた。
「君と僕は今日はじめて会った。君と僕は異母兄弟。昨日の夜に君から電話がかかってきて、一方的に会う約束をさせられた」彼女は何か言いたそうにしていたが、僕をじろっと睨んだだけで終わった。僕は続ける。「多少省くけど、僕と君は僕の最寄り駅近くの公園で会った。そして、だいたい十分ほどかけてお互いが兄妹だということを確認したわけなんだけども」
「主に意味の無い会話に費やした時間ね」
「意味のある会話ばかりしてたら夢を見られなくなるよ。それはさておき、僕たちは兄妹だということを確認した。それから後だ」
「気がついたら、見知らぬ場所にいた。Q.E.D.」
「うん。実に単純明快でわかりやすい。見事な解答だ。僕が先生だったら花丸をつけるね。しかも丸の中は五重だ。五重丸」
 とんとんとん、と彼女は半眼になって人差し指でこめかみをノックした。
「……ひょっとして、あたしはアナタにおちょくられてるのカシラ?」
「とんでもない。僕はいつだって真面目だ。虚言が真面目の皮を被って歩いていると評されるくらいに真面目だ」
「それ真面目じゃないじゃないっ!」
「そうとも言う」
「『そうとも言う』じゃないわよっ! あああ、いったいどーゆーコトなのよ! アンタ責任とりなさいよっ!」
「身に覚えの無いことで責任とれって言われても。とりあえずジェイソンが悪かったんじゃないかと僕は思うんだけど、どうだろう?」
「ソレはひょっとして、あたしに意見を求めてるワケ?」
「今のところ辺りには君以外に意見を求められる相手はいないと僕は思うんだ」
 何かを堪えるように彼女は人差し指をこめかみに当てて、嘆息した。
「……ジェイソンは関係無いと思うわ。とりあえず」
「そうか。今度のジェイソンは宇宙で復活するらしいから、ひょっとしたらと思ったんだけど」
「どこが『ひょっとしたら』なのよっ!」
「……ええと、僕の理解を超えている辺りが」
「アナタの理解なんてどうでもいいのっ!」
「それじゃあ、これまでに君がフッた男の数、十三について考察してみようか。古来、十三という数字はキリスト教でのイエスの使徒の数に由来してて――」
「黙らないとシメるわよ」
「了解」
 とりあえず、身のない討論はさておいて、僕は状況把握に努めようと思った。とは言ったものの、さっき彼女が出した結論以上には頭が回らない。身に憶えも無いし、何か不可解な前兆があったわけでもない。強いて言えば、彼女に会ってしまったことくらいだろうか。さすがに、それを直接彼女に言うほどの度胸はないけれど。
「君に言っても信じてもらえないかもしれないけど」
「信じないわ」
「これでも、僕だってかなり動揺してる」
「信じない」
 がさり、と音がした。僕と彼女は同時に音のした方を見た。下草が揺れる。僕も、彼女も、硬直していた。すぐに身を隠す度胸も、百八十度回れ右をして逃げ出す判断力も、僕にはなかった。いや、そうじゃない。僕は――僕たちは、まだ、この事態を深刻なものとして受け止めていなかった。僕も彼女も、自分の命が圧倒的な暴力によって脅かされるなんて、考えたこともなかったのだ。それは、ゲームや漫画の世界の中のことで、現実に生きる僕たちに降りかかってくるようなものではなかったはずなのだ。
 僕たちの目の前に現れたのは、人形をした、けれど決して人間ではありえない生き物だった。背中には小さな蝙蝠のような羽根。手には歪な形をした槍状のものを持っている。そいつは、僕達を見た。目があった瞬間、僕はまったく動けなくなった。頭の中では疑問符ばかりがパレードをしながらぐるぐる回って、まともな思考なんてできそうにも無かった。
 一歩、距離が縮まる。
 だけど、僕は動けなかった。
 そいつの持った槍が僕のほうに伸びてきて、三叉に分かれた切っ先のうちの二つが僕の腹部に刺さった。何が起こったのかわからなかった。ただ衝撃だけがあった。次に、刺された個所が燃えるように熱くなる。まるで火のついた煙草の先を押し付けられているように。僕は腹部を押さえてその場に土下座するように蹲った。口から何かが溢れた。それが黒ずんだ赤をしていることに気付いた。
「やめなさいっ!」彼女の声だった。
 僕はその声に少しだけ元気を取り戻して、顔を上げた。蹲る僕に槍を振り下ろそうとしているそいつを、彼女が蹴り飛ばしたところだった。女の子にはとても似つかわしくない、突き飛ばすようなヤクザキック。それをくらって、そいつはよろけた。彼女は槍をもぎ取って、柄の部分でそいつを打ち倒す。
「ねえ、大丈夫!?」
 僕の肩に手をかけて、彼女が耳元で言う。大丈夫、と言えるほどの強がりは僕の中には残っていなかった。彼女がまだ手にしている槍に手をかけて、それを杖代わりにして僕は立ちあがった。動かないで、と彼女が言ったけれど、僕は無視した。視線の先で、さっき僕を槍で指した人間じゃない何かが、起き上がろうとしている。よく見ると、そいつはあちこち怪我をしているらしかった。なるほど、と僕は思った。そうでなければ女の子が一人で対抗できる相手ではないだろう。なにしろ、まったくの躊躇なく人を槍でぶっ刺すようなやつだ。
 視界がだんだん狭くなってくる。立ち眩みが終わらずにずっと続いているような感じだ。僕は精一杯の力で槍を振り上げ、刃の方を下にして、体重と重力に任せて、落とした。何か骨のようなものに当たるごりっとした感触があった。彼女が何かを叫んでいる。聞こえているのに、理解できなかった。まるで僕の知らない言語を彼女が喋っているみたいだった。僕はまた槍を持ち上げた。痛みは感じずに、ただ緩慢な寒気だけが僕を覆っていた。槍を落とす。持ち上げる。落とす。持ち上げる。その動作を繰り返す。
 もういいよ、と彼女が言った。もういいのか、と僕は思った。遠くから、声が聞こえた。声はだんだん僕から離れていってるみたいに、遠くなって行く。
 ――お願いです、この人を助けてっ!
 ――ネス、この人怪我してる!
 ――……トリス。アメルを呼んでくるんだ。手遅れになるぞ。早くっ!
 ――うんっ!

 ……ゆっくりと、緩慢に、僕を闇が包んでいった。これが死なのか、と僕は思った。何も聞こえなくなって、世界が僕に向かって収束して行く。そうだ、これが死なんだ。
 僕はゆっくりと、死んでいく。僕の世界を道連れにして。



 目を覚ました時に僕が見たのは、まったく見覚えの無い天井だった。ここはどこだろう? そう思いながらも、上半身を起こした。腹部に少し引き攣れるような感覚があって、森での出来事が記憶として一瞬で僕の頭の中に展開されて、ぎくりとして腹部を押さえた。
 けれど、さほど痛みは感じなかった。服の上(よく見たら、僕の着ていた服じゃない)から触ってみた感触だと、包帯が巻いてあるようだった。僕は少し力をこめて、傷を押してみた。痛みは感じない。どういうことか、傷はもうほとんど塞がっているようだった。落ちついて、部屋の内装を眺めてみる。シンプルだけど、品のいい空気を保っている。豪奢ではないけれど、決して安っぽいものではないだろう。時間を知りたかったけれど、時計のようなものはなかった。
 ベッドを下りてみようか、とかけられていた毛布を捲ってみたその時、不意にドアが開いた。入ってきたのは、見知らぬ女の子。その人は僕と目があって、それから驚きで目を丸くして口元に手を当てた。
「目が覚めたんですか?」
「ええと、まあ、はい。君はまだ夢の中にいるんだよ、と言われても信じてしまいそうな状態ではありますけど」
 僕の言葉に彼女は何故かくすくす笑うと、「傷はどうですか?」と訊いてきた。なんとか、と僕は答える。
「よかった」そう言って、彼女は笑った。
 僕は思わずその笑顔に見惚れてしまったけれど、訊かなければいけないことがあるのを思い出して、慌てて表情を引き締めた。
「あの」
「はい?」
「差し支えなければで構わないんですけど」
「はい」
「……一緒にいた子は、無事なのでしょうか」
 彼女は穏やかに微笑んだ。「もちろんです」
 なにがどうもちろんなのかわからなかったけれど、僕はとりあえず頷いておいた。無事だというのならそれに越したことはない。ひょっとしたらこの目の前にいる女の子はどこかの秘密組織の一員で、どこかの研究所で発生したバイオハザートのせいで逃げ出してしまったバケモノを追っているときにたまたまそのバケモノに襲われている僕たちを発見して、秘密を守るために僕たちを監禁しようとしているのかもしれないけれど。例えもしそうだとしても、僕はどうせ今手元にカードを一枚も持っていないのだ。有効なカードはみんなあっちが握っている。
「ここ、どこですか?」さしあたって、僕は訊いてみる。
 彼女はまたちょっと目を丸くして、それから、ああ、と吐息みたいな声を漏らした。
「ちょっと待っててください。今ユズキさんも呼んできますから、一緒に話しましょう」「あ、はい」
 彼女はぱたぱたと足音と響かせて、部屋から出て行く。ぱたん、とドアが閉まってから、僕はベッドに体を倒した。わからないことだらけだ。わからなすぎて、いろんなところが麻痺している。あまりに理解の範疇を超えすぎていると、現実感が薄れてしまうらしい。
 僕は起こったことを順番に頭の中で並べた。
 妹とあった。
 気がつくと見知らぬ世界にいた。
 人間じゃないバケモノに襲われた。
 腹部を刺された。
 気がついたら、知らない場所で寝ていて、おまけに手当てまでしてもらっていた。
 手当てしてくれた(らしい)女の子は、かなり可愛い子だった。
 彼女は秘密組織(何がどう秘密で組織なのだろう?)の一員かもしれない。
 僕はカードを持っていない。
 ……ユズキって誰だ? ついついさらりと流してしまったけれど、僕はそんな名前の知り合いはいないはずだ。
 そこまで考えて、僕は自分が意図的に思考をずらしていたことに気付く。ずらしていた、というよりは避けていたというべきだろうか。僕は嘆息した。あれはひょっとしたら夢ではなかった。そう考えてはみたけれど、現実として今目の前に見たことが無い天井があって、僕の腹部に傷の痕が残っている以上、あれは現実だったのだろう。
 オーケー。わかった。認めよう。

 僕は、あのバケモノを、殺した。

 殺人の定義に当てはまるものかどうなのか、僕にはわからない。アレが人であったという確証は無い。人でないという確証も無い。あの瞬間僕は何も考えてはいなかった。殺される、ならばその前に殺せ。背筋が寒くなるくらいにシンプルだ。
 さて――あの瞬間の僕とアイツ。
 バケモノだったはどっちだ?



 ドアが開いて、人が入ってきた。僕が予想していたよりも、ちょうど倍の人数だ。妹、さっきの彼女、それから、しかめっ面をしている眼鏡のオニイサン。なんとなく――本当になんとなく、だけど、妹とちょっとだけ雰囲気の似ている女の子。どのあたりが似ているかはあえて口にはしないでおこう。
「目覚ました? 大丈夫? どっか痛いところない?」
 妹が早口で訊いてくる。本気で僕のことを心配している顔だ。僕は少しばつが悪くなった。
「大丈夫、なんとか生きてるよ。君の方こそ、怪我は無かった?」
「あたしは……大丈夫」
「よかった」
 彼女は何か言いたそうに口を開きかけたけれど、結局何も言わずに黙り込んだ。しばらくは部屋の中に沈黙が満ちた。その沈黙を破って口を開いたのは、眼鏡が似合い過ぎる、いかにもカタブツっ、て感じのオニイサンだった。
「君の名前はナオヤ。間違い無いか?」
「ええと、はい」
「君と、ユズキは兄妹。これも間違いないな?」
「……ええと」尋問みたいだな、と僕は思った。
 質問、と僕は手を上げる。その質問は、内容を口にする前に、「質問はあとから受け付ける」とあっさり却下されてしまった。仕方なく、僕は渋々と上げた手を戻す。
「僕はネスティ。そして、君の手当てをしたのはこっちのアメル」アメルと呼ばれた女の子は僕に向かって笑いかけた。僕がそれに上品に微笑みで返すと、何故かアメルのとなりにいた妹に睨まれた。「それから、こっちがトリスだ。ここは聖王国ゼラム。僕とトリスはゼラムに本部を置く蒼の派閥に所属している」
 わけがわからない。この説明で分かれって言う方が変だ。けれど、質問は後で、と言われた手前、重要そうなキーワードだけを拾ってとりあえず黙って訊いておく。話している彼がネスティさん。手当てをしてくれたのが、アメルさん。ネスティさんの周りをちょこちょこ動いている小柄な女の子が、トリスさん。それから、妹。ユズキという名前らしい。そういえば今初めて聞いた。
 それからネスティは一通り僕たちの置かれた状況を語った。ここはリィンバウムという世界であること。リィンバウムには召還術というものがあり、僕たちはおそらくそれによってこの世界に引っ張り込まれてしまったのだということ。元の世界に帰るためには、僕たちを召還した人を見つけて、送り返してもらうしかないこと。
「……これは、言いにくいことなのだが」と前置きしてから、ネスティさんは言った。「ユズキの話を聞いたところ、君たちは四つの世界――霊界サプレス、機界ロレイラル、鬼界シルターン、獣界メイトルパ――から来た者ではないようだ。通常の召還術ではありえないんだ。だから、召還事故などで引っ張り込まれてしまったのかもしれない」
 妹もネスティさんの話を真剣に聞いている。彼女にとっても初耳な話らしい。まあ確かに、別々に話をするようりもまとめた方が一度で済む。実に合理的だ。
「その場合、どうなりますか?」僕は訊いてみた。僕らにとって良くない答えが返ってくることは分かっていたけれど、これは訊いておかなければならない。「僕たちがあるべき世界に戻れる可能性は、どのくらいあるのでしょうか」
「低い、と言わざるを得ない。事故で召還されたとしたら、君たちを召還した人物が、君たちのいた世界に帰すための召還術を使えるかどうかわからない。それから、もうひとつ。君たちがいた場所の近くで、僕たちははぐれ悪魔と戦っていた。君たちが遭遇したのは、この馬鹿が――」と、ネスティさんはトリスさんを見る。「撃ち漏らしてしまった一体だ」
 なるほど。だからあの――悪魔、といったっけ。アイツは怪我をしていたんだ。
「……僕たちを召還した人が、もう殺されてしまっているかもしれない――そういうことですか?」
 ネスティさんは頷いた。うん、正直な人だ。
「じゃあ、あたしたちもう帰れないってコト!?」ユズキが言う。
「……可能性は低い、という話だ。現段階では断言することはできない」
「そっか」僕は言った。
 思ったよりもずっと、動揺していなかった。たぶん、妹が僕よりもずっと動揺しているのがわかるからだろう。
「ネスティさん、トリスさん、アメルさん」僕は三人に向かって言った。「すいませんけど、妹と二人にしてもらえませんか?」
 トリスさんは何かを言いたそうにしていたが、ネスティさんはそんな彼女を引っ張ると「わかった」とだけ言ってドアの方に彼女を引きずりながら歩いていった。アメルさんはそんな二人と僕らを見比べて、少し困った顔をした後で、彼らの後に続いた。
「お腹空いたら、言ってくださいね。食べ物、お持ちしますから」
 ドアの手前で振り返ると、アメルさんはそう言った。僕はありがとうございます、と頭を下げた。そうして、部屋の中には僕と妹の二人だけになった。僕も妹も、しばらく口を開かなかった。何を話せばいいのか分からなかった。「低い、と言わざるを得ない」。ネスティの言葉が耳の奥で木霊する。妹の耳の奥でもきっとそうなのだろう。他の音を全部塗りつぶして、それ以外なにも聞こえなくしてしまう。そうして、その言葉の意味を、僕たちは何度も思考錯誤してパソコンの操作を覚えるみたいに、理解してしまう。
「本当は」僕は言った。「意識を失う前に、ひとつだけやっておけばよかったな、と思うことがあったんだ」
 妹はベッドの傍にあった椅子に座ると、僕を見た。「……何を?」
「遣り残しというか、なんというか。消化不良? とにかく、そんな感じ?」
「だから、何」
「ええと、とっても小さな事なんだ。君から見れば何馬鹿なこと言ってんの、ていう」
「何、てあたしは訊いてるんだけど」
 僕は後悔を始めていた。どうしてこんな話を振ってしまったのだろう。これを話すというのは、ひょっとしてかなり恥ずかしいことではないだろうか。
「いいからさっさと話すっ!」
「……はい」
 僕は殊勝に返事をして、深呼吸した。触らぬ神に祟りなし。妹には従順に。
「ええと、その……名前」
「は?」
「君の名前、まだ聞いてなかったな、て」


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