3 これで、一緒だね




 西洋風の建物であるこの家は、なんと驚いたことに、ネスティさんが所有者として登録されているらしい。日本だったら高級住宅地の豪邸並の広さがあるけれど、蒼の派閥の高位召還師ともなると、これくらいは当たり前らしい。けれど、これを聞いたとき、ネスティさんは肩を竦めて苦笑いした。「派閥の中の僕らの立場というものが、それなりに微妙なものなんだ」。それなりに微妙。その表現こそが何よりも微妙だと僕は思った。
 ここに住んでいるのは、ネスティさんに、トリスさんに、アメルさん。「……二股ですか?」と訊いてみたらものすごい目で睨まれた。外見に反せず、冗談はあまり通じない人だった。
 僕は台所へ行ってアメルさんにいらない小さな容器を貰ってくると、それを手にして庭に出た。庭の方も、よく手入れがされている。ネスティさんがしているのだろうか。それともアメルさんだろうか。トリスさんではない気がするけれど。
 僕と柚木がリィンバウムに来てから、三日が過ぎた。僕も柚木も家事などは積極的に手伝うようにしてはいるのだけれど、結局はただの居候だ。でも、二人だけで知らない世界に放り出されて生きていくのは無理そうなので、それに関しては凄く感謝している。
 ジャケットのポケットに入っている煙草を出して、咥えると、火をつけた。残っているのは、あと三本。考え事をする時は煙草を吸うのがすっかり癖になってしまっている。この世界には煙草っていうものはあるのだろうか。無ければ無いで、習慣になる前に止めてしまえるからそれはそれでいいのかもしれない。
 とんとん、と貰ってきた小さな容器に灰を落とす。
「……煙草、吸うんだ」
 そんな声が聞こえた。僕が声のした方に顔を向けると、僕が出てきたところからトリスさんが出てくるところだった。彼女は僕の方に歩いてきて、隣りに並ぶ。
「名も無き世界の人は、みんなタバコ吸うの?」
「それは誤解です。吸う人もいれば、吸わない人もいる。最近は嫌煙運動が活発になってきて喫煙嗜好の人は随分と肩身の狭い思いをしているけれど」
「そうなんだ」トリスさんは真面目な顔で頷く。「レナードさん、てあなたと同じ世界からきた人がいたんだけど、その人もよくタバコ吸ってたから」
 僕たちの世界からリィンバウムに召還されてしまうというのは、かなり低い確率ではあるものの、絶無ではないらしい。前に一度、聞いた。そのレナードさんという人はトライドラという都市にいることも。けれど、僕にはトライドラという固有名詞がいったいどこを指しているのかまったくイメージできない。
「傷は、もういいの?」
「まあ、大丈夫です。でも不思議ですね」
「何が?」トリスさんは訊き返してくる。
「これ」と僕は自分の傷があった腹部を指差した。「三日やそこらで治るような傷じゃなかったように思うんですけど。もうすっかり治ってる。これも、召還術、てものなんですか?」
「うん。治癒の召還術。でもね」ずいっ、とトリスさんは僕の方に体を乗り出してくる。そして、とん、と人差し指で僕の胸を突いた。「もうしばらくは安静にしてないとダメ」
「……しばらく、てどのくらいですか?」
「一週間。だいたい、出てっちゃった分の血が補充されるくらいの期間。召還術は傷を塞げるれど、なくした血液は補充できないの。応急処置みたいなもの」
「だから、一週間ですか」
「経験者が言うんだから、間違いないよ」
「はあ」
 突っ込むべきところなのかどうかわからなくて、僕はただ曖昧に頷いた。まだ、彼らとの距離のとり方がわからない。まだ、というよりも、僕はずっと、他人との距離のとり方がわからないままでこれまで生きてきたのかもしれないけれど。
「とりあえずね」トリスさんが言った。「ネスが、派閥の方であなたたちを召還した召還師をあたってみてくれれるけど……」
 トリスさんは語尾を濁す。つまりは、そういうことだろう。
「気にしないでください」僕は言った。「こうやって居候させてもらってるだけで、僕たちは恵まれてると思ってますから。何もわからないままで放り出されていたら、それこそ今ごろ生きていられたかどうかも怪しいです」
「……そう言ってくれると、助かるな」
「だから、助かってるのは僕たちの方ですってば」
 トリスさんは、まじまじと僕を見た。
「ナオヤって、変わってるね」
「よく言われます」
 僕がそう言うと、トリスさんは笑い出した。何がそんなに可笑しいのか僕にはわからなかった。そんなに変なこと言ったのだろうか、と僕は彼女の笑顔を見ながら考えていた。
「ナオヤって、いくつ? ユズキには聞いたんだけど」
「ユズキと同い年です」
「ええっ!?」
「ちなみに、ユズキとは母親の違う異母兄弟で、初めて会ったのはここに召還される十五分ほど前です」
「ちょ……ちょっと待って。頭がぐるぐるする。えと、つまり、ナオヤとユズキは兄妹だけどお父さんが違って、つい最近初めて逢ったばかりで、あたしよりも年下ってコト?」
「トリスさん、年上なんですか?」
 言ってからしまった、と思った。驚きが声に現れてしまった。トリスさんはその場にしゃがみこむと、膝を抱えて足元の雑草をぶちぶちと毟りだす。
「そうよね、そうよね。どーせあたしは子供っぽいよね。もう二十歳になるっていうのに、十六のナオヤはもちろん、下手をするとユズキよりも年下に見えるもんね……」
 やってしまった。僕は踏んではいけない地雷を踏んでしまったらしい。トリスさんは近くの雑草を毟ってしまうと、今度は人差し指で地面に『の』を何回も何回も書いている。重傷だ。
「ふふ……胸だって小さいし、ネスには怒られてばっかりだし……どーせ、どーせあたしなんて……」
 ヤバい。こういう時はどうするか。僕はある手段を実行することにした。
「ええと……実は僕、母が死んでからは祖父母に育ててもらっていたんです」
「……おじいさんと、おばあさん?」
「はい。祖父母に伝言を残してくることもできなかったから、いったいどうしているのか気になって……」
 そう言って、僕は肩を落とす。
 これは、演技じゃなかった。
「――だーいじょうぶっ!」
 いきなりトリスさんに背中を叩かれて、僕は驚いて二三歩たたらを踏んだ。振り向くと、トリスさんはさっきまでの落ち込んだ顔は何処へやら。真正面から僕を見て、「絶対に帰る方法を見つけてみせるから!」と断言した。そのまま、トリスさんは行ってしまった。僕はしばらくぼーっとしていたけれど、なんだか酷く体が重く感じて、壁にもたれかかると、ジャケットの胸ポケットをまさぐって煙草を取り出した。
 落ちこんだ人が目の前にいるときは、自分がそれ以上に落ちこんで見せるに限る、けれど。
「まったく」
 まったく、どうしようもない。自分で思う。僕は考える。いつからあんな嘘がすらすらと言えるようになってしまったのだろう。壁に持たれかかって、適当に煙草をふかしながら、僕はずっとそのことを考えていた。けれど、あと二本残っていた煙草が全部灰になってしまうくらいの時間では、その答えは出せそうにはなかった。


 玄関で、トリスさん、ネスティさん、アメルさんの三人に会った。僕がどこかに出かけるんですか、と聞くと、買い物に行く、という答えが帰って来た。僕は少し考えてから、言った。
「僕も、一緒に行っても構いませんか?」
 ネスティさんはとてもとても渋い顔をした。トリスさんは「うん、いいよ」と言った。アメルさんはそんな二人を見比べて、困った笑顔を浮かべた。
「……ユズキを一人で残して行くのか?」ネスティさんが言う。
「いえ」僕は言った。「問題が無ければ、ユズキも一緒に」
 問題なんか数えるのも馬鹿らしくなるくらいにある、とネスティさんは言いたげにしていたが、何故か僕らの同行は許可された。僕はユズキを呼んでくると、五人で街へと出た。
 聖王都ゼラムというのが、この街の名前。街並みは、僕がイメージとして持っていた中世ヨーロッパ、といった感じだった。僕のイメージなので、本当の中世ヨーロッパがこんな感じだったのかどうかはわからない。見慣れない物がたくさんあって、僕とユズキはその都度説明を強請った。とりあえず基本的なことを知っておいて損にはならない。なにしろ、帰れるのかどうか分からないのだから。ユズキは、はしゃいでいるように見えた。
「変わってるね、ここ」とユズキが言った。
「ああ」と僕は言った。
「僕から見れば」とネスティさんが言う。「君たちの方がよっぽど変わっている」
「たぶん、そういうものなんでしょうね」と僕が言った。
 途中、ネスティさんが「派閥に用がある」といって、そこで別れた。彼の姿が見えなくなってから、トリスさんが言った。
「ネスはね、派閥では師範の地位にいるの」
 トリスさんは説明してくれたが、僕には良くわからなかった。とりあえず、かなり偉い地位にいるらしい。なのに、それを語っているときのトリスさんはあまり嬉しそうではなかった。踏み込むな、と僕は自分に言い聞かせる。何か言いかけたユズキを制して、僕は言った。
「買い物って、どんなものを買うんですか?」
「いろいろです。食べ物とか、後は細かいものを。それから――」と、アメルさんは僕とユズキを見る。「あなたたち二人の服の代えも」
 一応今は、僕はネスティさんの服、ユズキはトリスさんの服を貸してもらっている。ユズキの方はいいみたいだけれど、僕のほうは身長差のせいでサイズが合わない。これは、決して僕がチビだからではない、ということだけは訴えておきたいと思う。
「いいんですか?」とユズキが聞いた。
 もちろん、とアメルさんは頷いた。


 華やかに見えたゼラムの街は、けれど、表通りを一歩離れると、物乞いがいたりするようなところだった。戦いがあったんだ、とトリスさんは言った。
「その余波が大きくて、いまだにその後遺症が残っているんです」とアメルさんは言った。
 僕がそれについて尋ねると、二人は歩きながらぽつぽつとそれについて話してくれた。大悪魔の目覚め。国と国を巻き込んでの抗争。その影に、悪魔の影があったこと。その悪魔も封じられ、今は復興中だということ。
「あなたたちが襲われたあの悪魔も」トリスさんが言う。「あの戦いの中で召還されて、そのままリィンバウムにはぐれ悪魔として居着いてしまったんだと思う」
 そうなのか、と僕は思った。それ以上の感想は出てこなかった。そう、僕にはそれを事実として受け入れる以外の選択肢はないのだ。何か意見を言うことも、反論する余地も、僕の中にはない。
 長い時間をかけて買い物を終え(女性の買い物が長いのはこちらでも変わらないらしい)、僕もとりあえずユズキの妨害を避けつつ煙草を手にいれることに成功し、帰り道を歩き始めた時だった。
 最初に足を止めたのは、トリスさんだった。辺りに視線を走らせて、ポケットに手をやって、ひとつ舌打ちをした。
「アメル」硬い声だった。
「はい」
 同じような硬い声で、アメルさんは言った。その短いやり取りだけで、二人は十二分に意思を通い合わせているようだった。僕はいきなり雰囲気の変わった二人に面食らって、ユズキを見た。ユズキはさっき『護身用に』とい名目で買った片手剣(こういうのが欲しかったらしい)の柄に手をかけていた。
「出てきたら、どうなの」トリスさんが言った。
 その声に誘われたかのように、所々にある小さな路地への入り口から、黒い影が姿を現した。
 黒い影。真っ黒なマントに顔が隠れるくらいにフードを被ったその姿は、黒い影としか表現しようが無かった。
「用件は何?」
 影は答えない。無言で、一斉にヤツらは距離を縮めてきた。けれど、それよりも早く、トリスさんは飛び出して、一番近くにいた一人を短剣で切り伏せていた。アメルさんが放った光が、何人かを打ち倒す。それでも、包囲の一角を崩したに過ぎない。僕とユズキは崩れた一角へ促されるままに走った。
 一人に追いつかれる。そいつは、僕に向かって手を伸ばした。避けようの無いタイミングで、けれど、その手は僕に振れなかった。ユズキの振った剣がその手を弾き飛ばし、そいつを肩口から逆側の腰まで斬り裂いた。
 時間が止まる。スローになった時間の流れの中で、そいつはゆっくりと地面に倒れた。血液なのだろうか、何か液体がその場に水溜りを作り、ユズキのつま先を濡らした。不思議と、その色は灰色に見えた。その色だけではなく、全ての景色、周囲のあらゆる物が灰色に見えた。
 ユズキは、剣を振り切ったままで、動かない。動けない。
 景色が自分の中に入ってくる。トリスさんとアメルさんは向こうで戦っている。いつのまにか、二人とは距離が出来てしまっていた。呆然としているユズキに向かって五本の剣が降ってくる。僕はユズキの体を抱いて横に飛んだ。剣の一本が僕の腕を裂いた。ユズキを抱いたまま二回転がって立ちあがった。ユズキの手から剣を取り上げる。
「あ……」
 耳元で聞こえる声。血に濡れた手。ひどく、取り返しのつかないことが起きてしまったような気分。
 タイミングだ、と僕は思う。タイミングを合わせろ。できるはずだ。最初に、そうしたように。名も知らない、人間とも言えない生き物を殺したときのように。
 けれど、現実はそう甘くはなかった。僕の手にした剣はあっさりとはじき飛ばされ、逆に喉元に短剣を突きつけられる。
 これが終わりだというのなら、なんてあっけない終わりなんだろう。それとも、終わりなんてものはすべからく、こういったものなのだろうか。
 そうなのかもしれない。
 肉を貫く生々しい音は、胸元で聞こえた。僕の喉が裂けた音ではなかった。僕に短剣を向けていた男の胸から、銀色の棒が生えていた。元が銀色だったその棒は、べっとりとした赤黒いもので覆われている。僕の見ている前で、それが引っ込んでいく。目の前の男が倒れる。その男の後ろに立っていたのは、柚木だった。男の胸から生えていたものは、今は柚木の手の中で、赤い滴りを大地に捧げている。
 僕はトリスさんとアメルさんの戦っている三人に目を向けた。その瞬間に、二人はトリスさんの短剣で、一人はアメルさんの召還術で、仕留められていた。
 もういい。
 僕は思った。
 もういいんだ。
 それは声だった。
「……うん」
 そう返事した積もりだった。声になっていたのかはわからない。剣を引きずって、地面に頼りない細く赤い道を作りながら、柚木は僕の前に立つ。膝をついたまま、僕はそれを見上げる。柚木は、小さく笑っていた。泣いていたのかもしれない。どちらも、おそらく正解で、どちらも、おそらく同じような感情の動きなんだろう。
「これで」柚木が言った。「直哉と、一緒だね」
 そうだね、と僕は言った。

 back←→next