それは、咲くものだったのだ、と今更ながらに思い知った。
 初めて会ったその瞬間の彼女は、まだ咲くということを拒んでいる、青く硬い蕾に見えたのに。




『蕾』





 船から降り、大地を踏みしめて、レックスは久しぶりの街並みに目を細めた。訪れるたびに、変わったもの、変わらずにそこにあるものがごちゃ混ぜになって自分を迎えてくれている――そんな気分になる。海賊旗を下げ、一般の船に偽装したカイルの船を振り返ると、甲板からスカーレルが小さく手を振っていた。
 軽く手を振り返すと、レックスは港を抜けて、学術都市の街並みの中へ歩いていく。
 ベルフラウからの手紙に書かれていた地図と店の名前を頼りに中央の一番大きな通りから外れて、あまり人通りのない通りを歩いていると、彼女が待ち合わせに指定した店はすぐに見つかった。木造のドアを押すと、ドアベルが小さな音色を奏でる。「いらっしゃいませ」と穏やかに声をかけてきた、この店のマスターであるらしい初老の紳士に挨拶を返すと、レックスはさほど広くない店内を見渡した。ベルフラウの位置はすぐに分かる。マスターの第一印象のように穏やかな色彩を持った店内で、彼女は間違いなく浮いていた。悪い意味ではなく、いい意味で、彼女は異質だった。目を留めずにはいられない。目を留めたら、視線をそこに留めずにはいられない。モノトーンの中に原色のインクを垂らしたような、そんな鮮やかさ。
 彼女は頬杖をついて、窓の外にある人通りの少ない通りを眺めていた。その穏やかな憂鬱さを含んだ仕草は、以前の彼女にはなかったものだ、とレックスは思った。しばらくそんな彼女に見惚れていると、彼女の方がレックスに気づき、「先生!」とレックスを呼ぶと、手招きした。
 テーブル席に座っていた彼女の前にレックスが座ると、初老のマスターがメニューを差し出す。レックスがそれに目を通す前に、ベルフラウが口を開く。
「ハーブティー。私と同じのを」
 ね? と目で同意を求める彼女に、レックスは頷いた。
「私のお勧めよ?」
「ベルのお眼鏡に適うなんて、美味しいんだろうな」
「当ったり前ですわ」
 ベルフラウが微笑う。その笑顔を見ると、レックスも素直に笑うことができた。
「久しぶりだね」
「ええ」
「軍学校で、何か変わったことはない?」
「相変らず、授業の内容も訓練も簡単」
 そう言って、ベルフラウは肩を竦める。そんな彼女を見て、レックスは苦笑を噛み殺した。入学試験からずっと、実技、教養を通して首席を取り続けている彼女は、もし軍学校に飛び級制度があるならばとっくに卒業していてもいいだけの能力も、知識も、経験もすでに備えているのだ。
「正直、私、軍学校を誤解していたわ」
「……どんな風に?」
「先生やアズリアさんみたいに、向学心や熱意のある人が学びにくるものだとばかり」
 今度こそ、苦笑。
「先生に対するアズリアさんみたいなライバルでもいたら少しは違った感想を持つのかもしれませんけどね」
 どちらかと言えば彼女はアズリアみたいなタイプだとは思ったけれど、口には出さない。
 運ばれてきたティーポットから、カップにハーブティーを注ぐ。きちんと暖められたカップと、心を解してくれるような香り。ベルフラウの目は確かだな、と変なところで納得する。
「ねえ、ベル」
「はい?」
「何か、悩んでることあるんじゃないか?」
 レックスがそう言うと、ベルフラウは耳の横辺りを流れる髪を後ろに払った。落ち着かないときに彼女が見せる癖。
「……なぜ、そう思うの?」
「ここに入ったとき、最初俺に気づかなかったろ? 何か考えごとしてるみたいだったから」
 ベルフラウは小さく嘆息すると、「……その通り」と肯定した。
「俺に解決できるかはわからないけど……君がよければ、話してみてくれないかな」
「そうですわね……」ベルフラウは少し考え込んでから、言った。「先生に話してもいいのかもしれませんわね」
 ベルフラウは鞄を手に取ると、その中から小さな包みを取り出した。綺麗なラッピングがされてある、一目見てプレゼントとわかる、その小さな包み。押し出すように、彼女はその包みをレックスの前に置いた。
「……これ、プレゼント?」
 ベルフラウは頷く。
「俺が開けてもいいの?」
 また頷く。
 どことなくぎこちない手つきでレックスがその包みを開けると、中身は小さな箱。その中には、この地方ではまずお目にかかることができない、大きな真珠のついた耳飾り。レックスのような装飾品に縁のない人間でも一目で高級品だとわかる。
「これ……すごく高価いんじゃないか?」
「高価いどころの騒ぎじゃありませんわよ」こめかみに人差し指を当てて、頭痛を堪えるような仕草をしたベルフラウが言う。「何考えてるのかさっぱりわからない」
 レックスはそれを目にしたまま、黙り込んだ。
「お父様の仕事の関係で、一度だけ、どうしても断り切れなくてお見合いさせられたんですの。その時はちゃんとお断りしたばずなんですけど……」ベルフラウはため息を吐く。「それ以来、ことあるごとにこうやって物を送りつけてきて……あまり無碍にもできなくて、困っているんですわ」
「……断ったんだろう?」
「先方は諦めてくれないの」またため息。「今思うと、最初に受け取ってしまったのがいかなかったのね。最初はこんな高価なものではありませんでしたから、突き返すに返せなかったんですけど……」
 わかっていたのに。レックスは目の前に突きつけられた現実を目の前にため息を吐くことしかできなかった。不機嫌そうに押し黙るベルフラウが醸し出す『女』の気配。軍学校の長期休暇の時に合うたびに、大人になっていく彼女に、惹かれているのは自分の方だということ。年の差だとか、家柄だとか、そんな言い訳はもう自分だって騙せないこと。
 ベルフラウは、不意に笑顔に戻った。
「せっかく先生と会ってるのに、愚痴ばかりというのも情けないですわね」ベルフラウは言って、冷めたハーブティーに口をつけた。「もっと、楽しいこと話しましょう」
「……もう、受け取らなくていい」
「先生?」
「そんなの、もう受け取らなくたっていいよ。ベルの欲しいものは何だって俺が手に入れてあげるから。あ、いや、何でも、っていうのは無理かもしれないけど、でも、俺、努力するから、その……」
 何を言っているのか分からなくなって、しどろもどろになりながら、頭をかく。何を言いたいのか分かっているのだけど、それがはっきりとした言葉にならなくて、視線が落ち着かない。
 きょとんとした顔をしていたベルフラウは、一転くすくすと笑い出すと、テーブルに肘をついて、レックスに近づいた。
 レックスの知っている少女の顔と、レックスの知らない大人の女性の顔が交錯する。
 嬉しそうに笑うベルフラウは、
「それじゃあ、先生に指輪でもプレゼントしてもらおうかしら?」
 そう言って左手を見せ付けるように掲げると、顔を真っ赤にしているレックスを見て、今度は声を上げて笑い出した。

 蕾はもう、花になろうとしている。