“今夜は見えないあの月に”
夜。
寝苦しさに何度寝返りをうっただろう。枕に顔を埋めたまま少しでも寝ようと目蓋を閉じてみたけれども、睡魔は一向に夢の世界へと誘ってはくれない。どのくらいそうしていたかはわからないが、いいかげんにソルは諦めて体を起こした。寝巻きのままでベッドを這い出し、部屋を出た。
隣の部屋を見る。
きっと、もう眠ってしまっているだろう。案外みかけによらず肝が据わっていて図太いヤツだから。そう考えて、ソルは小さく笑った。本人の前で言ったら頬を膨らませて怒るだろう。その様子を考えると自然と笑えた。
「まったく……たいしたヤツだよ、アヤ。おまえは、さ」
アヤの部屋の前でそう小さく呟くと、ソルはその前を通りすぎて、孤児院の外に出た。どこに行くともなくフラフラと歩いて――辿りついたのは、よく昼寝なんかをしに来た、アルク川のほとりだった。よく知っている昼間の景色とは全然違う。
月のない夜だった。ひどく静かで、人気がない。既に日付が変わっているような時刻、出歩いているのはソルのような酔狂な人間だけだろう。それに――今日は本当はできるだけ早く寝ておいた方がいい。次に太陽が昇ればもう、最後の戦いが始まる。
ソルは、眠れなかった。眠れる筈がない。明日になれば――実の父親と戦わなければならないのだ。それが例え、どんな父親であろうとも。
ゆっくりと、ここで過ごした日々を反芻した。
自分は変わった、と思う。人と付き合うのがこんなに大変だとは思っていなかった。
中でもとびっきりは、アイツだ。アヤ。異世界からやってきた少女。自分が呼んでしまった――罪。
どうしてそんなに優しくなれる?
どうしてそんなに真っ直ぐでいられる?
どうしてそんなに――人を信じられる?
さっぱりわからない。手を触れたら壊れてしまいそうなくらい脆く見えると思えば、信じられないくらいの強さをその身体に宿している。
謎だらけ。ともに過ごした三ヶ月でもそれは変わらない。
わかりたい、と思う。自分にはとても真似できないあの強さが、いったいどこからくるのか。
自分の手に余るほどの力を手にしても、それに心を曇らせない強さ。すべては仲間を守るために使われ、私利私欲のために使われたことなどソルが知る限りは、ない。やろうと思えばこの世界ではなんでもできるのに。
例えば、他人より強い自分を周囲に知らしめたり。
例えば、憎い相手を二度と顔が出せなくなるまで痛めつけたり。
富も、名声も、望むだけで手に入るのに。
「……俺には、とても真似できないな」
時折、強暴な感情がわきあがることある。きっと、これは恋じゃない。そんなに上等な感情じゃない。
この両手で君を抱きしめたいと思う。
この両手で、君を壊してしまいたいと思っている。
誰にでも好かれるアヤ。誰にでも優しい。――だから、俺は少し口惜しい。
俺だけを見て欲しい。
俺以外は眼に入らなくていい。
そのためには――
「……バカだな」
君をこの手にかけてしまえばいい、なんて。馬鹿の考えることだ。
今現在、この戦いの歯車はアヤを中心に回っている。アヤを失えば天秤は一気に『無色の派閥』側に傾くだろう。
それでも。
わかっているかい、アヤ。君が俺を人間にしたんだ。君じゃなきゃダメなんだ。君以外は――
はっとしたようにソルは顔を上げた。闇が――濃い。
誰かいる。誰が? こんな夜更けに?
とっさにいつもの癖で腰に手をやって、舌打ちした。寝間着だ。短剣なんて帯びてはいない。
――馬鹿野郎!
十分に気をつけていなければいけないことのはずだった。無色の派閥が襲ってくることも十分に考慮に入れておかなければならなかったはずだ。自分の間抜けさに唾を吐きかけたい気持ちだった。
ゆらり、と闇から溶け出してきたように影が現れる。黒装束に、フード。
五人。ソルは首を回さずに目だけで確認すると、身構えた。
「ソル=セルボルトだな」
「……俺はセルボルトじゃない」
「我等と共に来てもらおう」
「断る!」
「……拒むのならば」
来る、と反射的に思った。血が滲むほどに強く口唇を噛んだ。今の自分には成す術がない。そこそこ使えるようになった剣も持っていないし、召喚術を使うためのサモナイト石もない。
「殺しても良い、とオルドレイク様はおっしゃっていた」
かっ、と頭に血が昇る。――殺しても。
その言葉が契機だった。
一人目が斬りかかってくるのを避け、二人目が短剣で突きかかってくるのを見を捻ってかわし、三人目の腕を掴んで後ろに回り、二人目に向かって蹴り飛ばす。
四人目――と、ソルが意識を向けた瞬間、違和感が身体を貫く。風に乗って流れる小さな詠唱の声。
「っ! マズ――」
感情を表さない不透明な声が魔力を帯び、異世界との綻びを作る。そこから獄鎖に繋がれた漆黒の魔人が姿を現した。瞳を開き、閃光が走る――
(しまった……!)
指先一本に至るまで身体が動かせない。ごくありきたりな作戦だ。四人で時間を稼ぎ、召喚術で動きを止める。わざわざソルにかわせる程度の攻撃をしていたのもその為なのだろう。接近戦に長けていないソルが四人がかりの攻撃を捌けるはずがないのだ。
「死ね」
白刃が閃く。
死ぬ?
俺が?
――イヤだ。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ――!
思い起こされる日々。楽しかった時間。守りたい人。
――アヤ
「死にたく――ない!!」
「ソルさん!」
凛と響く声。その後に、火線がソルと黒装束との間を走りぬけた。目を向けた先には、虹色に輝くサモナイト石で作られた短剣を構えて、鋼鉄の兵士《ディアブロ》を従えた髪の長い少女。
もう一度、ディアブロの放った熱衝撃波が黒装束たちを散らし、その間にアヤはソルに駆け寄る。
「プラーマ、お願い」
紫のやわらかな光がソルを包み、見えない戒めから開放する。大きく息をつくソルに、アヤはサモナイト石を渡した。
「ソルさん」
名前を呼ぶ。目を合わせる――それだけ。それだけで十分だった。
「……ああ」
ソルに向かって頷きかけると、アヤは黒装束たちの方へ向き直る。
「……決着をつけるのは明日です。引いてください。このまま帰るのなら――見逃します」
「帰らない、と言ったら? 誓約者。オマエの命も――」
「できると思いますか?」
短剣を構えたまま、アヤはいう。精一杯の迫力を出しているつもりでもどこか微笑ましく感じる。ソルは口元を緩めた。
そう、いつだってコイツは一生懸命だ。――だから、守りたいんだ。
「……とっとと消えろ。決着は明日、つけてやるよ」
サモナイト石にありったけの魔力を込める。石がぼんやりと光、その発光がどんどん大きくなっていく。
「シャインセイバー!」
アヤの声に、四振りの刃が降臨する。ソルの魔力を感知して行動を起こそうとしていた黒装束たちの出鼻をくじく。
それでも襲いかかってくる黒装束たちを打ち返し、避け、ソルの召喚術を使う時間を稼ぐ。それほど時間がいるわけではない。ほんのわずか、そう、十秒にも満たない時間を。
「……来たれ、機神の鉄槌――ヘキサボルテージ!!」
ソルから放たれた魔力を依り白としてこの世界に召喚獣が具現化する。空間を刳り貫き現れた機神はどこまでも無感情に力を放出する。全く容赦のない、ただの破壊。振動と雷撃が空気を震わす。膨大な魔力の放出にソルの意識は白濁し、汗が吹き出る。
やがて、召喚獣をこの世界に固定しておくだけの魔力も尽き、現れたのと同じように唐突に機神はあるべき世界へと帰っていく。
破壊が通り過ぎたその後には、何も残らなかった。焼け焦げた死体も、何もかも。
アヤは構えを解かないまま周囲に注意を払って――本当に誰もいない事を確認して、肩の力を抜いた。
「ソルさん……!」
振り向く。その先でソルの肩が揺れた。慌ててアヤは駆け寄り、倒れないように支える。
「……どう、して」
ここにいるのか、という問い。
ソルの息が荒い。あれだけの大きな召喚術を使ったのだから無理もない。
「いつもの場所にいたんです」
いつもの場所とは、よく二人で話した屋根の上。月がよく見える場所。――今日は、見えないが。
「そうしたら、ソルさんが出て行くのが見えて」
気になって後をつけちゃいました。そう言ってアヤは悪戯っぽく笑った。
「……寝てたんじゃなかったのか」
「眠れなかったんです」
「……てっきり熟睡してるもんだと思ってたよ」
苦しげなのは変わらなかったが、どこかからかうような口調になってソルは言った。それを聞いて、アヤは泣き笑いのような顔になる。
「そこまで、図太くはないです」
「……そうだな」
その言葉を最後に、ふ、とソルの身体から力が抜けた。アヤは倒れ込むソルをなんとか支えようとしたが、体勢がよくなかったこともあって支え切れずに、絡み合うようにして地面に倒れた。
「わ……きゃあっ。……いたた」
頭をぶつけたようだ。アヤはそう考えながら置きあがろうとすると、胸に圧迫感。
首だけを動かして見ると、一気にアヤの頭に血が昇った。
ソルが、胸に顔を埋めるようにして上から覆い被さってきている。頬が紅潮し、思考が滅茶苦茶に掻き回され、断片ばかりの単語が頭の中を通り過ぎていく――
ごん。
咄嗟にアヤはソルを横に放り出していた。地面とソルの頭が鈍い音を立てる。なんとな
く服の前をかきあわせるような仕草を取りながら、荒くなった息を落ちつかせるようにアヤはソルを睨みつけながら次の行動を待った。弁解するか、それとも開き直るか――
――開き直られたらどうしよう。今のうちに動き止めておくべきかしら。
五秒。
十秒。
「……ふえ?」
指先一本たりとも動かない。恐ろしく重い沈黙が辺りを、というよりはアヤを押し潰した。
「……ソル……さん……?」
ぺちぺち、とソルの頬を叩く。無反応。
「……ひょっとして、私がトドメさしちゃった……?」
さあっ、と血の気が引いていく音が聞こえた気がした。
慌ててソルを抱えて起こす。胸に耳を当てると心臓は動いているし、ちゃんと息もしている。はあっ、とアヤは本当に安堵したように大きく息をついた。こんなことで殺してしまった、なんて冗談にもならない。
落ちついて、とりあえずどうしよう、と考えた。早く帰ったほうがいいだろう。でも……。
「……無理」
小柄だけど、ソルだって男だ。更に小柄なアヤが抱き抱えて運ぶに少々手に余る。
と、今自分がどんな体勢をしているのかに気付いて、アヤは顔を赤らめた。
後ろから、ソルを抱きすくめている形。見かけよりもソルの体つきががっしりして入ることにアヤは少しだけ驚いていた。
自分に身体を預けて眠っているソルの顔は、どこまでもあどけない。いつも彼が引いている線は、そこにはない。眠っている時だけにしかそんな顔ができないなんて、なんて悲しいことだろう。
アヤは、ほんのわずかな一片とはいえソルを疑う気持ちを持っていた自分を恥じた。
信じる、といった。なら、最後まで信じぬこう。
そうしなければ、本当の彼は語ってはくれない。
そうしなければ、ここから歩き出せない。
そうしなければ――笑い合えた過去さえ偽りのものにか変わってしまう。それだけは絶対にイヤだ。
守る、と彼は言った。けれど、今は。
「……私が、守りたい」
誰よりも繊細で複雑で、だからこそ壊れやすいこの少年を。
いつもどこかで血を流して苦しんでいるこの少年を。
いつも、他人には見えない所で涙を流して。そして、涙を流している事に自分でも気付いていない。
アヤは泣いていた。
どうして、彼がこんなに苦しまなければならないのだろう。産まれた時から魔王への貢物になるために育てられ、自分から何かを望む事を知らない。生きる意味を知らないで、すぐそこにある温もりに眼を反らして、いつも自分から死を求めてしまう。もう魔王の生贄という運命からは開放されたのに。明日全てを終わらせて、そして新しい日々を歩み出せるのに。
守りたい。
今この手の中にある小さな命を。自分を守る術を持たない鳥の雛のようなあなたを、誰よりも守りたいのに。
そう言えば、迷惑だ、と突っ撥ねるだろう。自分にはそんな価値はない、と。
自分を貶めることなど、してほしくはないのに。
「……ん……」
「ソルさん!?」
ソルがゆっくりと瞳を開く。寝起きのぼやあっとした顔でアヤを見る。その顔があまりに可愛くて、アヤは思わずたじろいだ。
「……アヤ……?」
意識が覚醒し、無防備な顔がそのまま驚きに変わる。
「ちょ……! な……」
言葉になっていない。自分がどんな体勢でいるのか気付いて、ソルは口を開閉させた。空気だけが漏れる。
ソルがアヤの手を振り解こうとする前にアヤは手に力を入れて、ソルの身体を自分の身体に押し付けた。
ソルは僅かばかりの抵抗を示すが、それもすぐに止んだ。力を抜いて、アヤのしたいようにさせてくれる。
「……アヤ」
「はい」
「さっき、俺さ……死にたくないって言ったな」
「はい」
「死ぬ覚悟なんかとっくにできてたのに。一度は死を受け入れたのに。俺は……死にたくないって言った」
「受け入れてません。ソルさんは死にたいとなんて思っていません」
「……なんで、そう言える?」
「ソルさんは、私を呼びました。助けてくれと言いました。止めてくれと言いました」
いつも二人でいる時はそうしていたように、空を見上げた。月のない、黒一色の空。このまま闇の中に溶け込んでしまいそうな夜、俯いているソルは確かに、人知の及ばないものに捧げられようとしている供物の姿のように見えた。
「俺は、死ぬつもりだった。そうなって当然だと思っていた」
「そんなの!」
ソルはそのまま黙り込む。
口惜しさにアヤは口唇を噛んだ。どんなに言葉にしても伝わらない思いがある。それを今実感させられていた。生きること、死ぬこと。今まで考えてもいなかった。生まれてきたことさえもが恐怖になる、などと。
生きていることは当たり前だった。ぬるま湯の中にいるような生活の中で、当然のようにそう考えていた。そんな自分の馬鹿で薄っぺらい考えが今は無性に恥ずかしかった。
この世界では、リィンバウムでは保証などないのだ。己の命は己自身が守らなければならない。誰も代わりに戦ってはくれないし、助けてもくれない。協力しあうことはあっても、結局最後にものを言うのは自分の持つ力だけだ。 自分自身の意思だけだ。強く願う、その想いだけ。
生まれた世界が違う。育ってきた環境もまるで違う。
言葉にしなければ伝わらないのは当たり前だけど、言葉にしても伝わらない思いがあるなんてもどかしい。
「なあ、アヤ。俺は……生きてるか?」
ソルが何を言っているのかわからなかった。息をしている、心臓が動いている。
それでも――
「ずるいよ……おまえ」
「ずる、い……? 私が……?」
「どうして俺の声を聞いたんだ。どうして俺の声に応えたんだ」
魔王の生贄になること。それだけがたったひとつの彼の存在意義。自分でそう思い込んでいる。
その理由を、アヤはなんとなくわかっていた。
ただ、愛してほしかったのだ。無色の派閥を率いるもの。このリィンバウムに破壊と渾沌を望むもの。彼の父親――オルドレイクに。それが間違っているとわかっていても、彼が逆らえなかったのは、逆らわなかったのは、そいうことなんじゃないかとアヤは思う。
「教えてくれ、アヤ。どうして俺の声に応えたんだ」
自分の居場所を求めるタマシイと自分の居場所を見失ったタマシイがお互いに惹かれ合った。つい、そんな言葉が浮かぶ。アヤは苦笑して、けれどそれ以外に確かな理由も見つからぬまま、
「あんなに……私を求めてくれた声ははじめてだったから」
生きたい。
死にたくない。
助けて。
「……無視なんて、できるわけないじゃないですか」
こんなに救いを求めている相手を見捨てることなどできはしない。自分に何ができるかはわからない、何もできないかもしれない、けれど、なにかできることがあるかもしれない。できることがあるのならそれをしてあげたい。
「……きっと、私も同じだったんですよ。私もソルさんのように誰かに助けてほしいと思っていた」
「おまえが? ……どうして」
「私とソルさんは、たぶん似てるんです」
「似ていない」
「似ています」
「似ていない!」
「似ています!」
誰かに助けを求めて、喘ぐように生きる意味を探して、自分というものの存在を誰かに認めて欲しくて、誰かに求めてもらえる場所をずっと切望していた。駄々をこねる子供のように。
ソルはアヤの腕を振り解いて、正面からアヤを睨んだ。
「……似ていない」
ソルは吐き出すように言葉を紡いだ。
「俺には、生きる意味があった」
握り締めた手が震え、唇の端からつうっ、と赤い線が顎へと下りた。
「……魔王を身体に宿すということはつまり、俺の死を意味する。だが俺はそのために生まれたんだ。そのために育て、生かされてきたんだ。魔王の生贄になることが俺のただ一つの存在意義だったんだ!」
ソルは怒っていた。その怒りが誰に向けられたものであるのかは、アヤにはわからない。ソルの激情はアヤをすり抜けて遠くへ流れていく。受け止めることができない。それがアヤには悲しかった。
「……存在意義」
「そうだ。ずっと、それを求められてきたんだ、俺は」
違う、と自分の中で声が響いた。
「ただ、生きていたおまえとは……違う」
それは――違う!
「それは間違っています! 死ぬために生きるなんて――」
「おまえにはわからない!」
激昂したソルの声は、珍しく温度を上げかかったアヤを一瞬で冷やした。
死ぬための生。けれどそれがわかっていても、避けようのない死が眼前に迫っていてもなお生きたいと望むのが人間ではないのか?
けれど。
「俺は――そうじゃないと、生まれてきた意味がないんだよぉっ!」
声も枯れよと、ソルの絶叫が辺りに木霊する。
「たったひとつだけでよかったんだ。俺は望まれて生まれたと信じたかったんだ。それだけでよかった。それ以上を望んだらもっと生きたくなる。だから、俺は――」
「ソルさん……」
彼に触れようと伸ばした手は、けれど空中で何かに押しとどめられたようにそれ以上進まなくなり、彼に触れることはできない。
アヤは、空を仰いだ。黒々と冴え渡る空。生きている世界が奏でる静かな音。ただ、沈黙だけが優しい今。
動かない時。包み込むような夜。
「……それは、あなたの生きる意味ですか?」
「どういう意味だ?」
「あなたの言っている生きる意味というのは、オルドレイクにとってのあなたの意味です。あなた自身の意味じゃない!」
「……っ!」
アヤは手のひらに爪の跡が残るほど強く、手を握り込んだ。これから言う言葉がソルを傷つけてしまうことを知っているから。
「気付いているんでしょう、ソルさん! あなたはオルドレイクにいいように利用されていた
だけだということに!!」
ぱぁん、と乾いた音で頬が鳴った。勢いで立ちあがったソルをアヤは見上げた。打たれた頬が赤くなり、じんじんと痛みを訴えかけてくる。けれど、そんなものよりもずっと、目の前で荒い息で肩を震わせ涙をこぼしているソルの姿の方が痛々しかった。
まだ、信じようとしている。あの男を、オルドレイクを。けれど、彼が信じているものは全てあの男によって都合良く捻じ曲げられた歪なものでしかない。
言葉は止まらない。アヤの目にも涙が浮かんだ。
「……あなたは、まだオルドレイクを信じようとしている。間違っているって自分でもわかっているのに、まだ。私よりも……自分自身よりも!」
「違う! ちがうちがうチガウ!!」
必死になって言い返す言葉は、けれどソルは気付いているだろうか、それこそが肯定以外のなんでもないことに。
道具として産まれ、道具として育てられ、それでも彼がソレを知ってもまだ道具として扱われることに甘んじたのは、きっと、どこかで父に――オルドレイクに愛して欲しいと心のどこかで願っていたから。血の絆というものはそれほどに大きい。特に、子供にとっては。
そしてそれは居心地の言い家ともなれば、心まで縛りつけてしまう鎖にもなる。
「……ソルさん」
応えてほしい。今度こそ、離さないようにあなたを抱きしめるから。
この世界にいるのかどうかはわかりませんが、どうか神よ、おられるならばお願いです。壊れてしまいそうなこの少年の心を、どうか壊さないで。
父から見放されて、生きる意味を失い、それでも、自らが求める愛情がすぐ傍にあることに気付かない。すぐ傍に答えがあるのにそれから目をそらしてしまっているこの少年の心を、どうか。
「ソルさんは、死にたくないって言った」
「……」
アヤはソルの胸に飛び込んだ。アヤを受けとめる力すら残っていなかったソルの身体は簡単に後ろに倒れる。さっきとは逆、ソルの上にアヤが覆い被さるような形で。
涙は、とまらない。
ソルは両手で顔を覆った。
「……死にたくなかった! 本当は死にたくなかったんだ! 死ぬことなんでなんでもないと思っていた。世界なんてどうなってもいいと思っていた。だけど、いざって時になったら膝が笑ってた。どうしようもなく怖くて――でも、もう事態は俺がどうこうできる範囲をとっくに越えていた。どうしようもなかった。泣くことすらできなかった」
無意識に求めた救いの声は遠く、アヤの元まで届き、不安定になっていた世界と魔王の力との影響で本来繋がれるはずのない世界との道を作り上げてしまった。
「私の中にある力は魔王のものかもしれない……けど、あなたは以前言った。『おまえの力は危険かもしれないが、おまえ自身は危険な存在ではない』と。あれは……私を信じてくれたからじゃないんですか? 私を認めてくれからではないんですか」
アヤは、ソルの胸に顔を押し当てた。人の温もり。穏やかな鼓動。
命の証。
「あなたは……生きています」
「俺は、生きている……」
しばらく、そうしていた。そうしていたかった。お互いの体温だけを感じていたかった。
どちらからとなく手を伸ばした。お互いの頬にその手が触れる。
「ソルさん」
「なんだ?」
「私は、あなたと一緒に生きたい。生きていきたい」
「……ンなこと、真顔で言うな。恥ずかしくないのかよ」
「聞いているのがソルさんだけですから、恥ずかしくはありません」
ソルは所在無さげな手で髪を掻き回して、大きく嘆息した。涙の後を拭いもせずに。
「ソルさん、返事は――」
「知るかっ」
「……返事……」
「あーっもう、わかれよ、馬鹿!」
「わかりません、馬鹿ですから。ちゃーんと口で言ってくれないと」
「……聞くなよ、今更だろ」
「ふふ……」
アヤに肩を借りて、ソルは立ちあがった。
「……ごめん」
「どうしてですか?」
「おまえを巻き込みたくなかった。おまえはただ、事故でこの世界に召喚されてしまっただけだから。なんとか……こうなる前にもとの世界に帰してやりたかった」
「それこそ今更、ですよ」
「……違いない」
アヤの肩にかかったソルの腕に力が篭る。
「もう十分私は関わってしまいました。バノッサさんだってそうです。私がいなければ彼はあんなにも……」
「おまえのせいじゃない」
「……とにかく、関係ないっていうのはなしですよ」
「そうだな」
ここで逃げてしまっては、今まで一緒に戦ってきた仲間に申し訳が立たない。いや、申し訳ないとかそういう問題じゃない。
「ねえ、ソルさん」
「ん?」
ゆっくりと歩幅を合わせて、二人一緒に孤児院への短い道のりを歩く。月の照らさない夜は足元もおぼつかない。だから、転んでしまわないように、ゆっくりと。
二人なら、大丈夫。
「ソルさんは……オルドレイクを止めたいんですね」
「……」
ソルの視線が鋭くなる。アヤはその視線を受けとめて、微笑んだ。
命をかけてまで叶えようとした願いは、誰のものだった?
「……そう……かもしれない」
ソルの手が優しくアヤの髪を梳いた。アヤはその感触に目を閉じる。
「あんなのでも……一応は、俺の親、だから」
「どうしてオルドレイクがあんなに魔王に固執するようになったのかはわかりませんけど――」
どこで間違ってしまったのだろう。きっと、かっては彼も知識の探求者だったに違いないのに。目の前にぶら下がっている強大な力に飲み込まれ、その力を盲信し、そのために大切な物をすべて投げ捨ててしまった、いっそ哀れとも言える男。
「魔王が降臨してしまえば、この世界には何も残らない」
オルドレイクは魔王が世界を原始のものに還してしまった後、無色の派閥が秩序を作ると言っていたが、そんなことできるはずがないのだ。
魔王はなにものにも従わない。従えることなどできない。自由で無慈悲、純粋に破壊を好み、全てを壊してしまうまでは止まらない。
この赤子のように無防備な世界に魔王が降臨したら、どうなるか。
容易く壊されてしまうだろう。――紙屑でも引き裂くように。オルドレイクの望む世界の形など、最初から幻想の中にしか存在しないのだ。
「止めましょう。そして、この世界を守りましょう」
「結界も、なんとかしないとな」
かって、エルゴが周囲を巡る四つの世界からリィンバウムを守るために張った結界は召喚術によってもはや修復不可能なほどに綻びている。魔王を召喚してしまえば結界は完全に崩壊し、異世界からの侵略にリィンバウムは晒されることになる。
魔王召喚をやめさせて、結界を守る。
できるかどうか、ではない。やるのだ。
「俺は、アイツが嫌いだ」
「はい」
「……でも、憎むことはできなかった」
「はい」
「俺のように産まれた兄妹は何人かいるらしい。俺は他の誰とも面識はないけど。けど――選ばれたのが俺で、よかったと思う」
ソルは、アヤから手を離した。肩を借りずに、自分の足だけで立つ。
「おまえと会えたから。こんな命でも、そう悪くはなかったって、そう思える」
ソルのその言葉に、アヤは顔をしかめた。不機嫌な顔をして――本人は精一杯威圧している積もりだろうが――ソルの口元に人差し指を突き付ける。やっぱりどこか微笑ましかった。
「そんな台詞はやめてください。この戦いが終わったらそれで終わり――そんなことじゃないんですから!」
生きているから。
生きていくから。
「……ああ」
生きていく意味は、生きたいからだ。生きることを求めたからだ。
今すべきことは、目の前に立ち塞がるものを一つ一つ打ち倒していくこと。
何の為に生きるかなんてわからなくていい。それでも、何かひとつ答えが欲しいと思うのなら――一傍にいる人間の顔を思い出してみたらいい。きっと、それが生きる意味、存在意義というものなのだから。
「アヤ」
「なんですか?」
「俺を助けてくれ」
真摯な声。
嬉しかった。自分を頼ってくれたことが。必要としてくれたことが。
ソルの顔を見た。真面目な顔。目が合うと、ふ、と相好を崩した。
アヤも、それに微笑み返す。
「……はいっ!」
それでもきっと。
ソルは思う。
この笑顔を守るためなら、命を捨てることを厭うものか。
「……おいアヤ」
「はい?」
「なんでここにいる?」
「ソルさんと一緒にいたいからですぅ」
「こ・こ・は、俺の部屋だっ! さっさと自分の部屋へ帰れっ! もうあんまり時間もないが少しくらい寝ておかないと辛いぞ」
帰ってきて、軽く身体を拭いて汚れを落とした後ソルが自室へ戻ってくると、何故か自分の枕を抱えたアヤがベッドの上でくつろいでいた。
「今日くらいいいじゃないですか」
「ったく……」
観念して――というよりは疲れていて追い返す元気もないというのが本当の所だったが――ソルはベッドに腰を下ろした。
ぐい、とそんなソルの腕をアヤは引く。
「……なあ、まさか……」
「さ、寝ましょう、ソルさん」
「ちょっと待てったら!」
ソルの反論など聞く耳持たず、アヤは腕を引いてソルをベッドに中に引き摺り込む。文句の一つも言ってやろうかと思ったが、アヤの嬉しそうな顔を見ると何も言えなくなる。こんなのも悪くないなんて、そう思っている自分が確かにいる。
恐る恐る伸ばした手はアヤに触れた。キスをして、抱き合って。子供みたいに、無邪気に。
お互いの鼓動が、なににも勝る安心感を与えてくれる。
「……なあ、アヤ」
「なんですか?」
「いいんだよな。俺……生きていてもいいんだよな」
「はい」
「俺……もっと生きたい。おまえと一緒に生きていたい」
「私もです」
夜が開ければ最後の戦いが始まる。せめて今は温もりを与えてくれるコイツを抱いて眠ろう。今夜は見えないあの月が、明日は優しい夜を運んできてくれる事を祈りながら。