決めたことがひとつある。
もう絶対、アンタのことなんかで傷ついてやらない。
夜の闇と同じ色をした外套が風を受けてふわりと広がり、すぐに元の位置に落ちついた。隙間から入ってくる風に肌寒さを感じて、ナツミは外套の前を掻き合わせた。
頬に何かが当たる。手で触れてみると、それは水滴だった。空を見上げると、月さえ見えない世界の全てを押し潰してしまいそうな黒。
夜の闇が濃密さを増す。ナツミは薄く微笑んで、腰に帯びた剣の柄に手をかけた。
「出てきなよ」
それは、彼女自身が驚くくらいに冷たく、ひび割れた声だった。
無色の派閥の残党。いや、残党と言うべきではいのかもしれない。オルドレイクは倒したものの、それが無色の派閥の全てではなく、例えるなら支社のひとつだということはクラレットの話で知った。そして、無色の派閥の別の組織がオルドレイクのやろうとしたことをまたなぞろうとしていること。
見過ごすわけには、いかない。
それは、いったい誰の思考だったのだろう?
『カナリア』
歌をひとつ覚えるたびに、歌をひとつ忘れるの
人を殺すのに慣れたのはいったいいつからだろう。刃を肋骨の隙間に刺し込み、捻り、引き抜くまでの一瞬に、ナツミはそんなことを考えた。いや、ずっと考えていた。体は意識を超えて動く。ならば、暇を持て余している意識は余計なことを考える以外の選択がないではないか。
引き抜いた剣を逆手に持ち替える。剣先から滴る赤が地面に染みを作る前に、ナツミはそのまま後ろに飛んで、彼女の背中を狙っていた敵に肩からぶつかった。逆手で持った剣の切っ先を後ろに突き出したまま。
敵は五人。あと三人。
しっかりと視認したわけでもないのに、数はわかる。意識が外に向けて広がっていく。ナツミは低い姿勢で、獲物を狙う肉食獣のように走った。ターゲットにされた敵は慌てて召還術を唱えようとする。が、遅い。体を起こし、上半身を攻めると見せて、走っている時の姿勢よりも更に低く踏み込む。踏み込んだ時の力を利用し、下から上へ逆手に持ったままの剣で切り上げる。
血煙が舞った。
夜の中でそれは見えなかったが、顔に振りかかった生温い雫がそれを示している。
ガゼルが投げたナイフが喉に刺さり、男が倒れる。あと一人。
いつもいつも、胸を締め付けられるだけ
幸せになりたかっただけなのに
ただ、そこにいればいいよって
そう言ってくれるひとが欲しかっただけなのに
きっと、それだけだったのに
「殺しちゃダメ!」
アカネが叫んだ。
どうして殺してはいけない?
そう怒鳴り返そうとして、喉が空気を振わせて、思いを音に変換しようとする寸前で気づく。殺してしまってはいけない。彼らを動かしていた人物の所在を突き止めなければならないのだ。下っ端を幾ら排除したって意味が無い。無くは無いけれど、根本的な解決にはなり得ない。
振り下ろそうとした刃を、咄嗟に返す。剣の腹で打ち据えると、最後の一人はその場に倒れた。何かうめいているところを見ると、意識はあるようだ。ナツミはその男の傍らに膝をつくと、尋ねた。
「あなたたちに命令していた奴は、どこにいるの?」
優しい声だった。
恐ろしく、残酷な声だった。
二つがなんの矛盾も無く同居する、この上も無く静かで乾いた声だった。ナツミの傍に近寄ろうしていたクラレットが思わず足を止めてしまったほどに。
「アタシが聞き出しておく」いつのまにかそこにいたアカネが言った。「だから、ナツミは休んでなよ」
頷く。とん、とアカネがナツミの肩を押した。押されるままにその場を離れようと足を踏み出すと、頬に水滴が当たった。その場所を指でなぞると、ぬるりとした感触があった。
クラレットが召還術であたりを照らした。
なぁんだ、とナツミは思った。指先を濡らしていたのは雨の水滴などではなく、赤黒い血液だった。良く見ると、服のあちらこちらに黒っぽい染みがあり、手にした剣から滴るものは固まり始めている。髪に手を遣ると、べたりとした不快な感触と、ごわごわとした、髪が引っ張られるような感触があった。
落ちないだろうなぁ、と思う。
リプレに怒られるだろうなぁ、と思う。
笑い出したくなった。
あたしの頭を撫でてあたしの顎を掴んであたしの唇も体も全てきつく手繰り寄せて
そう身動きできないくらいに
あたしの体は華奢ではないけれど頑丈にもできていないので握り潰されてしまうととても痛いけどでも
あたしのあたしたちの間の空気なんて邪魔で邪魔でしかたないから
しかたないから
「ワイスタァン?」
「そう」アカネは頷いた。「そこに逃げたらしいよ。それから、なにか切り札があるらしいようなことも言ってた。下っ端だったらあんまり詳しいことは知らないみたいだったけどね」
「嘘の可能性は、ある?」ナツミは聞き返す。
「嘘は、言ってないと思う。思う、けど、これ自体がフェイクって可能性は、あると思う」
「部下にも本当のことを教えてないってことかよ」ガゼルが吐き捨てる。「ヤツららしいぜ。いつでも切り捨てられるように、って――」
ナツミはガゼルを見た。ガゼルが言葉を詰まらせて目を逸らす。どうしてだろう、とナツミは思った。何も言っていないのに、何もガゼルについて、ガゼルの発言について思うところなんてないのに、ただなんとなく目が合っただけなのに。
何も思わない。
何も感じない。
ただ、からっぽなだけだ。
空を見上げる。曇っているせいだろうか、月さえ見えない漆黒。何も無い空っぽの黒。
何も無い、この空みたいに。
何も無い、この夜みたいに。
何も無い、この世界みたいに。
何も無い世界で、何度も何度も死んでは生まれる。消えて無くなるまで、何度も何度もそれを繰り返す。昨日の自分は死んで、今日の自分が生まれる。でも、それは同じ自分なのだろうか?
きつくきつく抱きしめた
あたしの剣はバノッサの胸に根元まで埋まっていた
バノッサの剣は足元に転がっていた
あたしの腕はバノッサを抱きしめていたけれど
バノッサの腕はあたしを抱きしめていてはくれなかった
どうして、その剣をあたしの胸に突き立ててくれなかったのだろう?
どうして、あたしも一緒に連れて行ってくれなかったのだろう?
ふわふわと剥離した意識が考える。昨日のあたしはいつのあたしだったんだろう。ここに召還されたばかりのあたしは、いったい誰だったんだろう。そして、どこにいってしまったんだろう。あたしはいったい、何を失ったんだろう?
そんなことを、考える。
「……ナツミ?」クラレットが上目遣いで、こちらの様子を伺うように声をかけてくる。
ナツミはクラレットに微笑み返した。それは、一番バランスのとれた彼女が返した行動だった。一番真ん中にいる彼女は虚ろな瞳で膝を抱えていて、泣いている彼女がいて、怒っている彼女がいて、笑っている彼女がいて、クラレットを心配している彼女がいる。他にも無数の彼女がいて、その誰もが彼女の中で平行に存在している。
狂ってるな、とナツミは思った。
「何?」
クラレットにそう聞き返した。クラレットは僅かの間ナツミの目をじっと覗きこんでいたが、やがて生きることを諦めたように目を逸らすと、小さくため息を吐く。何を諦めたのだろう、とナツミは思った。それはね、とナツミの中の一人が答えようとした。その答えを聞きたくなくて、それを遮るためにナツミは言った。
「あたし、ワイスタァンまで行ってみるよ」
「これから?」訊いたのはアカネ。
「うん」ナツミは頷いた。
「でも――」
言いかけたクラレットの言葉を遮って、ナツミは言う。「一人の方が身軽に動けるし、今動ける人少ないから、こっち手薄にしたくないし」
レイドは騎士団の再編を行っているイリアスのためにずっと城に詰めている。ギブソンとミモザは蒼の派閥に戻った。ローカスは何も言わずに唐突に姿を消した。アキュートの面々はもうサイジェントにはいない。エルジンやカイナ、エスガルドも調査をするといって旅立っていった。
だんだんだんだん、いなくなる。誰だってきっと、いつかはいなくなる。
フラットのみんなは優しいけれど、その優しさを受け取ることができない自分がひどく愚かだ。ほんの少しでも、その優しさに甘えようとしてしまった自分自身が救いようも無く愚かだ。
最後の瞬間に選んだのは、彼らではなく、バノッサの隣りだった。心が全て支配されていた。今もっている全てを捨ててでも、バノッサと一緒に行きたいと思った。
なのに。
「私も、一緒に……!」
「ナニかあったとき、召還術使える人いないと困るでしょ? だからクラレットは残ってて」
アカネから、いくらかの携帯食料を貰う。
クラレットも、ガゼルも、アカネも、何か言いたそうな顔をしていた。
クラレットも、ガゼルも、アカネも、何かを諦めたような顔をしていた。
「……気をつけなさいよ。ヤバイと思ったら素直に一回戻ってくるんだからね」
「うん」アカネの言葉に頷く。
ガゼルは何かを言いかけたが、結局何も言わなかった。
クラレットは最初から何も言おうとはせずに、ただ唇を噛んでいた。
「じゃあ、行ってくるね」
場違いなほどに明るい声で、ナツミはくるりと踵を返す。三人はそれぞれに複雑な表情を浮かべたままで、その背中が闇に解けこんで見えなくなるまで動こうとしなかった。
とっくに見えなくなって、それでもまだ動けなかった。
剣が、折れた
力任せに突き立てた剣は、魔王の体に突き刺さり、あっけなくへし折れた
サモナイトソード
バノッサの命を吸いこんだ、剣
雨が本格的になってきたのは、もうすぐ夜が明けようかという時刻だった。外套のフードを被り、街道を少し外れ雨の当たらなそうな大きな木の根元に座る。眠気は感じなかった。戦いの高揚感のようなものの燻りがまだ胸の奥に残っていて、なのに、体はどこまでも冷たく感じた。
風邪を引くほどの気温ではないものの、冷たさは体力を奪う。ナツミは外套の前を掻き合わせると、熱を逃がさないように膝を抱えて小さくなった。
アカネからもらった携帯食料を齧る。
折れたサモナイトソードは、そのまま自分自身のように思えた。
新しい歌を覚えたら、昔の歌をなくしてしまった。亡くしてしまった歌はとても大切なものだったような気がするのに、もうその些細な欠片すらも思い出せない。
目を閉じる。眠くはなかったけれど、体を休めておく必要があった。
目を閉じたら、何も見えない。
眠りの中で、夢なんかみない。
いつものことだ。
バノッサをこの手で殺めて、あたしの一部も一緒に死んでしまって
それでも、ほっとしたんだ
もうバノッサのことで傷つかなくていいんだ、って思ったから
目が覚めると、体は冷え切っていた。物理的な冷たさではなく、内側から硬直していく冷たさ。体を起こすと、節々が痛んだ。無理矢理それを伸ばし、軽くストレッチをするように体を動かす。少し歩くと小川があったので、顔と髪を洗った。髪についた血がこびり付いていていいかげん面倒くさくなったので、頭を川に突っ込んだ。
外套は黒なので、太陽の下でも染みは目立たない。
朝が来るたびに昨日とは違う自分になって、昨日のことを忘れていく。忘れたいことは、なかったことになる。忘れたくないことも、どんどん忘れていく。
手のひらから零れる
朝日の欠片にも少し似た
やさしいひかり
肌身離さず身につけている、折れたサモナイトソードを鞘から抜いて、顔の前に掲げる。
開いたままだった瞳から雫が刀身に落ちた。
傷つくことしかできなかった。傷つけることしかできなかった。傍にいたら、それだけでお互いを傷つける、ハリネズミのジレンマ。
泣きたかった。けれど、バノッサのためにどうやって泣けばいいのかわからなかった。バノッサのことを哀しんでいるのかどうかもわからなかった。水面に映った自分の顔は揺らめいていて、いつでも何処かに消えてしまえそうな気がした。
朝の光の中で、刀身に落ちた雫が、まるで夕焼けのように光っていた。
夕焼けの色を、思い出す。赤い世界を、思い出す。ほんの少しの時間だけ、何かを共有できた気になれた、あの赤い時間を思い出す。
もう二度と、戻れない。
「……痛いよ」掻き毟るように、ナツミは自らの上着の胸元を握り締めた。「胸が、痛い」
そう、胸が痛くて仕方がなかった。他の何よりも、自分のことを一番大切にしないで、それを周りの人がどんな想いで見ているのか、まったく気に留めていなくて。他人を傷つけながら、その実一番傷ついているのはまぎれもなく彼自身で。
「胸が、痛いよ」
そう、見ているだけで、胸が痛かった。憎悪に燃える瞳の中に、悲しみの色を見つけてしまったとき、もう自分は引き返せないところに進んでしまったんだろう、とナツミは思う。
でも。
だけど。
バノッサをこの手で殺めて、もうこれ以上辛い思いをしなくていい、って思ったのに。
「……いたい」
どうして、この痛みは消えてくれないのだろう?
辛くなんかない。
傷ついてなんていない。
「泣いたりなんか、しないけど」
涙なんて、流したりするわけがない。
ナツミは少しだけ、笑った。
川に反射った彼女の顔は、まるで泣いているように揺れていた。
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