歌声を、聞いたような気がした
 とても優しくて、悲しい歌声を





「――ですから、」
 なんだろう、とプラティは思った。自分の頭の上で声がする。そのことを意識した瞬間、プラティの意識は急速に現実の水面に向かって浮上していた。
 がばっ、と体を起こす。「プラティさま!」と倒れていたプラティを覗き込んでいたシュガレットの笑顔が最初に見えた。
「良かったです、プラティさま……」
「あ、ごめん、シュガレット……」ずきん、とウレクサに打たれた場所が痛んだ。そして、その痛みがわ彼女の意識を完全に覚醒させた。「ウレクサさん……ウレクサさんは!?」
 そう言ったところで、プラティは、自分の傍に小さなハンカチが落ちていたのを見つけた。見覚えのない模様。少なくとも、自分のものではない、と思う。そう思ったとき、さっきからいたらしい、一人の女性が身をかがめて、そのハンカチを拾い上げた。
「……気がついたみたいだね。大丈夫?」
「え、えーと」
 黒い外套に、同じく黒いショートヘア。あんまり動きやすそうには見えないタイトなスカートと、あまり見慣れない模様の上着。腰には二本の剣。その女性は、静かな瞳でプラティを見下ろしていた。
 まるで、凪いだ海のような、静かな。
 救いを求めるようにシュガレットを見ると、彼女はプラティの視線の先で小さく首を振った。シュガレットも知らない、ということなのだろう。
「意識ははっきりしてる? 名前は?」
「あ、あと、わたしはプラティ……です。そっちはシュガレット」
「どうしてこんなところで気絶してたの?」
「えと、えっと、ここに隠してあるっているお父さんの剣を取りにきたんだけど、一緒にいた鍛聖の人……ウレクサさんって言うんですけど」
「うん」
「その人にいきなり気絶させられちゃって……」
「うん、それだけ話せるなら、大丈夫そうだね」そう言って、その女性はプラティから一歩離れる。「それじゃ、あたしはもう行くから」
「え、行く、って」
「ちょっとやることがあってね。悪いことは言わないから、今はこの先に進まない方がいいと思うよ」
「どうしてですか?」
「きっとね」女性は、少しだけ目を細めて、プラティに笑いかけた。「とても、危険だと思うから」
 それだけ言うと、女性はくるりと踵を返すと、歩き出す。プラティがこれから向かおうとしていた方向へ。
「あの!」プラティは遠ざかって行く背中に、思わず呼びかけた。小さくなり始めていた背中が立ち止まり、少し首をかしげながら、振り向く。振り向いた彼女に向かって、プラティは言った。「貴方の、名前は……?」
 女性は少し意外そうに目を丸くしたあと、小さく笑うと、
「ナツミだよ。またね」
 そう言って、ぽっかりと口を開けている洞窟の入り口の中に入っていった。ぽかん、とナツミと名乗った彼女が消えていった暗闇を眺めているプラティに、シュガレットが焦れたように声をかける。
「プラティさま!」
「わ、なに、シュガレット?」
「どうなさるんですか? あの方――」と、そこでシュガレットはちらりと洞窟の入り口に視線を送る。「――の言うとおりに、引き返しますか?」
 ちくちくと刺すような棘のある言葉だなぁ、とプラティはなんとなく思った。けれど、その理由まではわからない。少し考えてから、プラティは言う。
「ううん、行こう。ウレクサさんに会って、なんでいきなりこんなことしたのか、理由聞かないと」
 

 『剣の都』ワイスタァン。海中に立つ巨大な塔と、その海上部分に何階層にも積み上げられた海上都市。剣の都の二つ名は伊達ではなく、ワイスタァンはリィンバウムでも一、二を争う武器、特に刀剣の産地であり、そこに住んでいる住人のほぼすべてが鍛冶師、もしくはその家族である。
 炎の精霊の力を借りて作る魔力を帯びた武器。それが、ワイスタァン産の武器の特徴であり、だからこそ、その力を得ようとする者たちに、幾度となくワイスタァンは狙われ、その全てを跳ね返してきた。
 鍛冶師であると同時に、戦士であれ。
 それが、ワイスタァンで武器を鍛える者の掟。


 何かがおかしい。薄暗い火山の洞窟の中を手探りで進みながら、プラティは思う。今回のリンドウ師に言われた火山の調査は、何か変だ。ただの調査で終わるような気がしない。そもそも、ウレクサはいったいどんな目的で自分を気絶させたりしたんだろうか。それほどまでに一人で調査をしたかったのか。それとも――他人に見られたくないものがあるのか。他人にみられたくないことをやろうとしているのか。
 そこまで考えて、プラティは首を小さく振った。考えすぎだ。こんなもの邪推でしかないし、鍛聖であるウレクサがすることだ、何かきっと、自分には想像もできない深い理由があるに決まっている。そうプラティは自分に言い聞かせた。
 くらくらする、とプラティは思う。そして、それが錯覚ではないことに気付く。頬を伝って、顎の先から、汗が滴り落ちた。
「シュガレット」
「はい?」
「……暑いね」
「そればっかりはわたしに言われても……」
 苦笑いしながら、シュガレットが言う。確かに言ったところでどうにもならないのはプラティだって分かっている。が、わかっていても愚痴をこぼしたいときだってあるのだ。困りましたねぇ、とシュガレットは笑っている。
「プラティさま」
 シュガレットが囁く。その声を聞き終わる頃には、プラティも彼女が何を訴えようとしているのか理解していた。とっさに抜刀し、凶悪な気配を振りまいているはぐれ召還獣に向き直る。溶岩の塊のようなその召還獣に、シュガレットが氷の嵐を浴びせた。どろりとした不定形だったそれが、冷やされて、硬直する。そこを、プラティの剣が易々とうち砕く。
 一安心したのもつかの間、そこかしこにはぐれ召還獣がいる。
 こんな危険な場所で、どうしてウレクサは自分を気絶させてまで先行したのだろう?
 剣を振るうプラティの脳裏を、そんな考えが走り抜けた。ウレクサは鍛聖だ。一人だってなんの問題もないだろう。プラティは確かに、同行する上では足手まといになるかもしれない。けれど、気絶させてまで先行する理由にはならないのではないか。
 ウレクサは、何を隠している?
 そんな考えが泡のように浮かび、消える。一瞬でも鍛聖であるウレクサを疑ってしまった自分を、プラティは恥じた。それでも、一度湧き上がった疑念は、どれだけ否定しようとしても、頭から離れてはくれなかった。
「……プラティさま?」
 目の前にいた最後のはぐれ召還獣を倒してしまったあと、動きを止めたプラティに、怪訝そうにシュガレットが言う。その声で、プラティは底なし沼みたいな思考の中から引き戻される。
「行こう、シュガレット」
 自分の頭だけで考えていたって、答えの出せない問題はある。なら、本人を捕まえて問いただせばいい。そう思考を切り替えて、プラティはさらに先に進んでいく。
 しばらく進んだその先で、出刃包丁のような大剣を担いだ大男がプラティの前に立つ。
 一度、戦った相手だった。

 まるで暴風のような剣圧。自分の身長ほどの大剣が暴れ回り、プラティは必死にそれを受け流す。まともに受ければ、ここに来る前に鍛えたばかりの剣ですら、あっさりとへし折られてしまうだろう。
「……チェベスっ!」叫ぶ。一度、戦った相手だった。決して、好きにはなれないタイプの敵だった。 「邪魔、しないでっ」
「したくはないんだが、な」チェベスは言う。
「ならっ!」
 このままでは、剣が壊れる。そう判断したプラティは、後ろに飛んで間合いを広げる。剣を鞘に収め、背負っていた槍を引き抜き、構える。少しでも、相手の間合いの広さに対応するために。
「そうもいかなくてよ」
「どう……してっ!」
「どうしてもさ!」
 プラティは全身の力を使って、槍を突き出す。狙いは、足。けれど、その突き出した槍の穂先はチェベスの振り上げる剣によって弾かれていた。プラティの体が槍を弾かれた勢いに逆らえずに流れる。勝機と見えたか、薄笑いを浮かべてチェベスが間合いを詰める。プラティには体勢を立て直している余裕はなかった。
「こん――のおっ!」
 プラティは踏みとどまった。崩れた姿勢のまま、右足を軸にして、槍の穂先を弾かれた勢いのまま旋回。ぐるん、と槍がプラティの体ごと半回転して、
「がっ――」
 槍の柄が、踏み込んできたチェベスの側頭部にちょうどカウンターを取るような形で炸裂した。
「プラティさまっ」
「だ……だいじょうぶ……」
 膝に手を突いて、荒い息を吐きながら、プラティは答えた。膝が震えている。酸欠の体が酸素を求めて、プラティは喘ぐように肩を上下させる。
「この人」シュガレットが言う。「なんで、こんなところにいたのでしょうか。しかも、私たちが来ることを分かってたみたいに……」
「それは……」
 ずきん、と痛みが走る。物理的な痛みじゃない。胸が痛い。プラティは胸を押さえた。シュガレットには疲労で酸素を求めているように見えるだろう。知っていた。コイツは自分たちがここへ来ることを知っていた。間違いなく知っていた。
 ならば、それを教えたのはいったい誰だ?
 決まっているじゃないか。自分の内側から声がする。ここへ来ることを、知っていた人物。かつ、自分たちを足止めして、近づけさせたくない人物。そんな人間が、いったい何人いるというのか。
「……違う」
 違う。違う。違う。そんなわけがない。あの人がそんなことをするはずがない。違う。違う。絶対に、違う――。
「プラティさま?」
「大丈夫」プラティは言った。「行こう」
 信じろ。疑え。相克する二つの声がプラティの内側で木霊する。
 怖い、とプラティは思った。先へ進むのが怖い。この先にあるものを、見ることが怖い。ウレクサがどうしてこんなことをしたのか、その理由を問いただすことが、怖い。
 けれど、進むしかない。
 何が真実で、何が偽りなのか。
 ブーツが地面を踏みしめる。その感触に縋るように、プラティは歩き続ける。




「ワィスタァンの力の源、聖獣バリスタパリス、そして、それを封ずる四つの剣、ね」
 暑さと熱で湿る髪をかき上げながら、ナツミは呟く。歩きながら、ここに来るまでに仕入れた情報を反芻する。詳しいことは知らなくていい。ここの奥にあるのがその四つの剣の内の一つであることを知っていればいい。無色の派閥の残党がその剣を利用しようとしている。その剣をキーアイテムとして、なんらかの強力な召喚獣を喚ぶつもりなのだろう。
「もう、終わったのにね」
 そう、もう終わっているのだ。無色の派閥の未来も、オルドレイク・セルボルトの歪んだ悪夢も、バノッサの命も。戦いは終わったはずなのに、終わったあとも、終わらない。もう終わりにしてしまいたいのに、なにも終わってはくれない。選択肢を間違えました。ゲームーオーバー。セーブされたところからやり直してください。リセット。
 そんな風にして世界が続いていくのなら、どんなに幸せなことだろう。けれど、世界はそこまで優しくはない。もうダメ。終わり。アウト。それがどうした、と言わんばかりに、『もう終わってしまった状況』のままで世界は続いていく。それは、なんて残酷なんだろう。誰かに与えられる救いもなく、暗闇から抜け出すための力もなく。自らの足で歩こうにも、足が折れてしまっている。そんな世界で、いったい誰が生きていけるというのか。
 出口のない思考に苦笑いして、ナツミは歩く。終わってしまった世界でも、まだ自分は歩くこと位はできるらしい。
 ここに来る前に、無色の派閥の下っ端を締め上げて吐かせた情報をメモしておいた紙を取りだして、眺める。カグロ火山。西宝の剣。召還。ナツミはぐしゃりとその紙を握りつぶす。放り投げると、その紙は岩壁から吹き出す炎であっという間に消えてなくなった。
 消えてしまったメモの最後に記されていた名前。クラレットの口から聞いたことのある名前。
 キール・セルボルト。
 その男の心臓を刺し貫く自分の姿を想像して、クラレットはどんな顔をするだろう、とナツミは思った。
「ねえ」ナツミは呟く。「クラレットはさ、どうしたい?」
 くすくすと笑いながら、ナツミは目の前に現れたはぐれ召還獣を切り伏せた。


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