例え偽りだったとしても
 気づかなければ、幸せなままでいられたのに


「プラティさま」
 そっと囁くシュガレットの声に、プラティは頷いた。
「わかってる」
 音が、聞こえた。微かな、だけど確かに、自分たち以外の人間が立てる音だ。プラティは歩調を変え、地面を擦るようなすり足で足音を立てないようにゆっくりと進む。
 多少の音は、岩壁から吹き出す炎の音が掻き消してくれるはずだ。それでも用心するに越したことはない。この先には――おそらく、翡翠の鍛聖が待ち受けているはずなのだから。
 本当にそうなのだろうか、とも思う。これは何かの間違いで、ウレクサは一人で強敵と戦っているのではないだろうか。そんな願望にも似た考え。
 嘘だ、と分かってしまっていた。それでも、信じたいと思っている。自らの目指す鍛聖が、ずっと憧れている父と肩を並べる鍛聖が、人を騙し、裏切るなんて。そんなことがあるはずがないと信じたくて。
 曲がり角。道が分かれているそこに、ウレクサの姿が見えた。とっさにプラティは岩陰に身を隠す。反射的に隠れてから、どうして自分は隠れてしまったのだろう、と思う。ウレクサのことを信じている、いや、信じたいと思っているのならば、そのまま堂々と声をかければ良かったのに。それができなかったということは――疑っているのだ。
(わたしは、ウレクサさんを、疑ってる)
 意識よりも正直な、体の反応。それでもまだ否定しようとして、プラティは立ち上がる。――立ち上がろうと、した。
「――っ!」
「し。静かにね。敵じゃないよ」
 口を塞がれ、腕を抑えられ、とっさに振りほどこうとしたプラティを、すぐ耳元で聞こえた声が拘束する。その言葉が真実かどうかわからなくても、実際抵抗はできそうにない。腕だけじゃなくて、体全体が拘束されたように動くことができない。
 とりあえず、信じるしかない。そう思って、プラティは体の力を抜く。拘束しようとしているその力が、必要十分以上のものではなかったからだ。
 振り向く。そこにいたのは、ついさっき、この火山洞窟の入り口で会った、女性。
「ナツミ、さん……?」
「いえす」
 彼女は答えると、傍らでなんだか怖い目つきをしていたシュガレットに向き直り、唇に人差し指を立てた。
「来ない方がいいよって言ったけど」ナツミは笑う。「きっと来るんだろうなぁって思ってた」
 そこで言葉を切って、岩陰から様子を伺う。プラティもそれに倣った。
 話し声。さっき見えた、ウレクサと、それから、
「……ルベーテさん?」
「知り合い?」
「ウレクサさんと同じ、鍛聖の一人です」
「ウレクサに、ルベーテ、ね」ナツミが小さく呟く。
 二人の会話に耳を澄ます。プラティが持ち帰ろうとしている黒鉄の鍛聖シンテツの剣を、自らのものにしようとしていること。ワィスタァンの鍛冶師、その鍛える剣、それらをデグレアに売り渡して、自らも権力を得ようとしていること。そのために、すでにかの軍事国家と内通し、先遣部隊をワィスタァンに招き入れていること。会話が進むたびに、プラティの表情が凍り付いていく。
「プラティ?」
「プラティさま?」
 囁く二人の声が、ひどく遠いところから聞こえてくるようだった。自らの足下ががらがらと音を立てて崩れていくような恐怖。知らなかった。鍛聖はみな、尊敬できる人たちなのだと思っていた。いつも、必ず、正しい道を選ぶ人たちなのだと思っていた。
 それが、どうだ。今のこの現状は。
 尊敬すべき、されるべきはずの鍛聖は、彼ら自身がワィスタァンを裏切ろうとしている。
 不安が通り過ぎてしまうと、次に湧いてきたのは怒りだった。許せない。父、シンテツが命をかけて守ったものを、そしてずっと守ってきた鍛聖としての在り方を、汚そうとしているあの二人が、赦せなかった。赦してはいけない、と思った。
 裏切られた、と思った。
「プラティ、待って、落ち着いて――」
 声は遠い。聞こえない。ナツミとシュガレットの制止を振り切って、プラティは飛び出す。
「ウレクサさん! ルベーテさんっ!」

 飛び出してきたプラティを、ルベーテは驚きの表情で、ウレクサは最初からそこにいることを知っていたかのような余裕で、それぞれ出迎えていた。勢いのままに言葉を投げかけようとするプラティを、ウレクサは片手で制す。
「聞いたとおりだ、プラティ」
「どうして……っ!」
「オレにはオレの目的がある。ただ、お前達とは相容れない道を選んだ。それだけだ」
 なおも言い募ろうとするプラティを無視して、彼女が飛び出してきた岩陰をウレクサは見遣る。
「いるのは分かっている。出てこい」
「……ご指名ってことじゃ、いつまでも隠れてられないね」
 言いながら、ナツミはゆっくりと岩陰から歩み出る。その姿を見て、ルベーテとウレクサの表情が変わった。
「お前……まさか」ウレクサが呟く。
「サイジェントの勇者か!」ルベーテが吼えた。
「よくご存じで」苦笑しながら、ナツミは言う。
「勇者……?」ぽかん、とナツミを見るプラティに、肩を竦めてみせる。
 サイジェントの勇者。気が付けば、そんな二つ名がまかり通っていた。苦笑するしかない、とナツミは思う。いったい誰が勇者だというのか。何をもって、自分のことを勇者などと呼ぶのか。嬉しいと思ったことは一度もないけれど、まあ、ハッタリ程度になるのならそれもいいか、その程度の感慨しか湧かない。
 勇者とは、いったい何だ。
「何故ここにいる。高名な勇者様はなんでもお見通しだとでも言うつもりか」
「そんなこと言わないよ」ルベーテの嫌味をさらりと流して、ナツミは言う。「デートの予定がかち合っちゃっただけ。先約があるから通してくれると嬉しいんだけど」
「戯れ言を……!」
「おじさんじゃあ、デートの相手にはちょっとねぇ。そっちのオニイサンなら、少しくらい考えてもいいけど?」
 言いながら、サモナイト石を握る。洞窟の中、ということであれば、使える召還術は限定される。大規模攻撃の召還術を使うということは、自ら生き埋めになるという自殺でしかない。
 ふ、と。
 風が吹いた。
 ウレクサが槍を構えている。穂先から圧力が伝わってくるような、隙の無い、いい構えだった。剣の柄に手を掛けて、ナツミもウレクサに向かって構える。
「……オレは、勇者なんてモノの存在を認めない」
「へぇ?」
「勇者が守るものは、自らの理想だけだろう。ならば、そのために踏みにじられた者の想いはどうする」
 槍が疾る。ナツミは横に飛んでそれを避けると、後ろに下がって間合いを取った。
「勇者などと……気取るな」
「気取ったつもりはないけど……ね!」
 突き出される槍を踏み込んで避け、槍を握っている手元を押さえる。身長差。頭半分ほど高いウレクサのちょうど顎の辺りに、ナツミは思いっきり頭をぶつけた( , , , , , ,)
「ぐ――」
「……っ」
 弾けるように、お互いが離れる。そしてまた、最初の間合い。最初の立ち位置。
「理想なんてね、ないよ」ぽつり、とナツミが言う。「もう、なくしちゃった」
「ならば、何故戦う」
「なんでだろうね。負けたくないから、かな?」
「何に、だ」
「何をごちゃごちゃ言っている。残った者が都合よく捏造する! それを理想というだけのことだ!」ルベーテが口を挟む。
 ナツミは答えずに、サモナイト石を掲げた。緑色のサモナイト石。
 口を挟んできたルベーテをちらりと見て、正しいよ、とナツミは思う。あんたの言うことは正しい。勝った者が都合良く作り上げるのが理想であり、真実だ。うん、正しい。正しいよ。

 正しいから。それは、正しいから。あたしだってそう思うから。
 だから、あたしがそうしたって構わないでしょう?

「そうだね」ナツミは言う。「ごちゃごちゃやってる時間ももったいないし、何言っても無駄みたいだから、ここは強行突破させてもらっちゃおうかな」
 それだけを宣言すると、掲げた緑の召還石にナツミは囁く。「おいで、ヒポス」
 緑の光が辺りを埋め尽くす。光と同じ色の煙がウレクサとルベーテを覆う。召還者であるナツミの強い魔力に抗えるはずもなく、霧が晴れた後には、意識を失って倒れている二人だけが残った。
「ほえ……」
「すごい、ですね……」
 プラティとシュガレットが、感嘆のため息を漏らす。
「しばらくは起きないと思うから、今のうちに先に進もう」
「あ、はいっ」
 言って、並んで走り出す。
「ナツミさんって」
「何?」
「すごいんですねっ」
「まあ、それほどでもない、よ」
「すごいですよ。ウレクサさんとルベーテさんを子供扱いしてますし」
「それよりも」走りながらナツミは言う。「いいの? あのウレクサって人、問いつめなくて」
 僅かな沈黙。反響する足音。答えずに唇を噛んでいたプラティは、何かを決意したようにまっすぐ前を見ると、言った。
「今は、いいんです。今わたしがするべきことは、お父さんの剣を回収することだから。ウレクサさんのことは、後で……」
「いいね」ナツミは言った。どこか苦笑じみた表情。「大人の判断だ」

 二手に分かれている道の手前で、ナツミは足を止める。同じように足を止めたプラティが、ナツミを見上げた。
「どうしたんですか?」
「うん。ここから先はね、別行動」
「え?」
 どうして、一緒に行けないんですか――言葉にはしないものの、プラティの表情がそう言っていた。
「……ねえ、プラティ。勇者って、どんな人のことを言うと思う?」
 ふと、口から滑り出た言葉。そんな言葉を口にしたことに、ナツミ自身が驚いていた。
「勇者……ですか」うーん、とプラティが考える。「きっと、ですね。強くて、優しくて、かっこよくて、それから、それから……」
「それから?」
「それから……きっと、剣みたいな人、だと、わたしは思います」顔を上げて、プラティは答える。
 その答えは、ナツミを驚かせた。剣。
「……剣?」
「はい」プラティは頬を少し染めて、頷く。「鍛冶師にとって、剣って自分の心を映すものなんです。鍛えた剣は、そのまま心を映す鏡になる……だから、わたしたちは自分の心と向き合って、剣を鍛えるんです。今日よりも明日。明日よりも明後日。剣を鍛えるのと同時に、心を鍛える……それが、剣です」
 そこまでほとんど一息で言い切ってから、ぼん、と擬音がつくくらいの勢いで、プラティは真っ赤になった。「ご、ごめんなさいっ。何言ってるのかわかんないですね。上手く、言えなくて……」
 ナツミはきょとん、とした顔をして、すぐに笑い出した。嬉しそうに、楽しそうに。けらけらと大声で笑う。
「いいね」ナツミは言った。「面白い。ありがとう、プラティ」
「え?」
「面白い話だったよ」
「そ、そうですか……?」
「うん」言って、ナツミは分かれた道の片方に向かって足を進める。「それじゃあ、ここでお別れ。お互いの目的を達成したら、また会いましょう」
「はい」プラティは答える。「ナツミさんも、お気を付けて」





 まるで、タマシイが折れてしまったような、そんな気がした。
 折れた剣。折れたサモナイトソード。折れたココロ。
 ああ、負けた……と思った。
 届かなかったんだ、と思った。
 魔王と融合したバノッサの胸。そこに半分ほどが刺さって、そこから折れてしまった自らの刃。
 届かなかった。
 届かなかった、と思った。
 遠くで誰かが呼んでいる。だけど、その声は聞こえなかった。声は聞こえても、言葉として認識されない。
 見上げたバノッサは、微笑っていた。初めて見る顔。一度も見たことが無い顔。
 わからない。
 わからないけど、右の拳を固めた。
 負けるもんか、って思った。
 あげる。あげるよ。この剣は、ついさっきあんたを殺した剣だから。きっと、あんたの命を吸い込んでる剣だから。だから。
 返してあげる、と思った。

 あんたの命、返してあげる。

 固めた右の拳を、思いっきり叩きつけた。折れた剣の、その上から。ありったけの力で。腕力で。魔力で。思い出で。感情で。タマシイで。それ以外の、いろんなもので。思いっきり叩きつけた。届けばいい、と思った。全部。一つでも。届けばいい。
 それだけが――





「剣だって、さ」
 プラティと分かれて、洞窟の中を走る。が、ナツミはふと足を止めた。
 別に、プラティと別の道を行く必要はなかったのだ。なかったけれど、一緒に行くことができなかった。きっと、見られたくなかったんだろうな、と自分で思う。そして、そんな風に思った自分のことが、可笑しかった。
 無意識に、腰に手をやる。そこには、折れたサモナイトソード。失われた刀身。折れたココロ。
「すっごい、皮肉」
 もちろん、プラティにそんなつもりはないのだろうけど。
「面白いこと言うなぁ、あの子」
 肩を震わせて、笑う。笑う。笑う。しばらく笑い続けると、また、何事もなかったようにナツミは走り出した。
 襲いかかってくるはぐれ召還獣たちを無造作に切り捨て、踏みつぶし、ナツミは進む。吹き出してくる炎や溶岩を避け、先に進む。髪の毛がぺたりと頬に張り付いた。それで初めて、暑い、と自覚する。足を止めると、呼吸が揺れた。岩壁に背中を預けて、水筒に手を伸ばす。喉を通りすぎていく水は生ぬるく、けれどそのぬるさは不快ではなかった。
 呼吸。水筒の水のように、湿度の高い生ぬるい空気。けれど、体の芯の冷え切っているものを暖めてはくれない。
 誰も触れられない。
 自分でさえも、触れることができない。
「……ばっかみたい」
 呟くと、ナツミは歩き出す。細い道を通ると、開けた場所に出た。火山のほぼ中心部だろうか、とナツミは思う。
 一振りの剣が、中央に浮かんでいる。
 その剣の向こうに、彼はいた。
 キール・セルボルト。
 クラレットの、姉。
 四人いたという彼女の兄妹の、長兄。
「はじめまして」ナツミは言う。「クラレットの、お兄さま」
「はじめまして」キールは言う。「我が妹姫の、生涯の伴侶」
「探したわ」
「そうか」
「やっと見つけた」
「そうか」
「だから、もう死んでよ」
「ああ」キールは言った。「でも、あと一つだけ、やることがあるんだ」
「しなくていいよ」ナツミは言う。「どうせ、ロクなことじゃないんでしょ?」
「確かに」キールは微笑んだ。穏やかな笑みだった。「ロクなことじゃないね」
 ナツミが地面を蹴る。それと同時に、キールが両手を浮かんだ剣に向かってかざした。距離は、遠い。キールが呪文を紡ぐ。
「霊界サプレスにたゆたうものよ。我が声を聞け。キール・セルボルトの名において命じる」
 発光。
 ナツミは走る。
「混沌の果てに封じられし惨劇の王よ。我が呼びかけに応えよ。我が望みを叶えよ。契約の証に――」
 ナツミは走って――立ち止まった。
 間に合わなかった。
 届かなかった。
「――我が命を奉る」
 眩いブラックライト。黒と赤が交錯する。ナツミは顔をかばいながら、とっさに後ろに跳んでいた。



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