洞窟内に、自分の足跡だけが木霊する。置き去りにした足跡は、まるで自分を追いかけてくるように響き、目前の闇に吸い込まれていく。
 目的地は、きっともう、すぐそこ。だいたいの方角ではあるけれど、そろそろ火山の中心部に自分が到達しようとしていることが、プラティには分かっていた。そして、その先に、求めるものがある。父親の残した三振りの剣のうちの、一つ。これは、偉大な、偉大すぎる父親の足跡をなぞる第一歩なのだ。その想いが、プラティの心を震わせた。
 黒鉄の鍛聖、シンテツ。彼女の父親であり、死んだ今もなお、ワィスタァンでは並ぶものがないと表される人物。
 父親に並び、追い越すことがどれほど難しいことなのか、同じ鍛冶師の道へ足を踏み入れたプラティには少しずつ分かり始めていた。それは、途方もなく遠く、自分が想像していたよりもずっと険しい道だ。
 母親から、そして周囲の人から聞いた、シンテツという人物。
 その様になりたいと思った。
 鍛冶師とは、鍛聖とは、かくあるべきだと思った。
 だから。
 プラティは足を止める。少し遅れて動きを止めたシュガレットが、どうしたんですか、とプラティを覗き込む。けれど、プラティはそちらに視線を向けなかった。プラティの視線の先には、緑の闇。
「きっと」プラティは言った。「きっとあなたが、私の前に立つんだと思っていました」
「何故だろうな」緑の闇を背負った男は言った。「オレも、きっと君の前に立つことになるような気がしていた。初めて会った時からな」
 男の背後に、召還獣。霊界サプレスの住人、タケシーだ。
「シュガレット」
 名前を呼ぶ。ただそれだけ。他の言葉は必要ない。言葉なんて意味はない。
 なぜ、も。
 どうして、も。
 今は封印しよう。成すべきことを成すために、まっすぐ前だけを見ていよう。
 まるで、刃のように。今この瞬間だけでいい。剣になろう。まっすぐな、折れない剣になろう。叩いて、引き延ばされて、それでも光を受け輝く剣になろう。そう、偶然出会ったあの勇者のような、眩しくはなれなくても、愚直で、前しか見ない剣になろう。
 プラティは剣を引き抜き、構える。
「――行きます!」
 なぜ、も。
 どうして、も。
 きっと、手にしたこの剣が教えてくれる。
 まるで、爆発が起こったかのような振動がこの火山洞窟を揺さぶった。
 プラティが走る。



 優しい、優しい歌に、ずっと憧れていたのに



 勝てない、という思いが一瞬頭をよぎった。
 その思いが思考に入り込んだ瞬間を捉えたように、ウレクサの槍が滑り込んでくる。プラティは体を捻ってそれを避けた。
「ウレクサさんの――」体を捻りながら、プラティは剣を振るう。「馬鹿あっ!」
「なっ――!」
 その声に意表を突かれたのか、一瞬動きを止めたウレクサを、プラティの剣がかすめる。その斬撃に押されるように、ウレクサは後退した。
「こんなことしてなんになるんですか! ウレクサさんは鍛聖じゃなかったんですか。鍛聖って、ワイスタァンのために剣を打ち、戦う、そんな人のことじゃなかったんですかっ」
「オレは――」ウレクサが槍を振るう。「オレの守りたいもののためにこうしているんだっ!」
 激情のままに剣を振るう。切り返しは遅れるし、一つ一つの斬撃の隙も大きくなる。なのに、がむしゃらに剣を振るうプラティは、ウレクサを怯ませていた。
「それでも、あたしは、ワィスタァンが好き。ワイスタァンに住む人が好き」前に出ながら、体を捻って突き出された槍を避ける。そのまま、プラティは槍の柄を掴んだ。「お父さんが守ったワイスタァンを、わたしも守るんだあっ!」
 槍の柄を掴んだまま、プラティは剣を振り下ろして、



 ――また、届かなかった。
 伸ばそうとした右腕は、けれど伸ばされることはなく、ナツミは後ろに跳ぶ。黒い光と、足下を疾る魔法円。用意周到。準備万端で待ちかまえていた。
 それはつまり、逃げるという気はない、ということか。
 クラレットの姉。
 バノッサの――兄弟。
 召還は、発動する。プラティが探しているらしい剣をキーアイテムにして、そこから黒い光が溢れる。溢れ出した光はキールに絡みつき、その体を締め上げた。
「ぐ……う」
 キールが呻く。けれど、彼に抵抗するような素振りは見えなかった。それだけではなく、体を締め上げられながら、逆に力を抜いたようにも見えた。
「……死ぬのね」ナツミは言う。
「ああ」
「死にたいのね」
「……ああ」キールは答える。
 ナツミは剣を構えた。今のうちだ。召還が終わっていない今なら、キールを殺してしまえばキャンセルできる周囲に満ちるマナと複雑な魔法円から考えても、そうとう危険な術に違いない。
 けれど、動けない。目の前の光景に、魅入られたように動けない。
「死にたいのなら」ぽつり、とナツミは呟く。「一人で死ねばいいのに」
「ほんとう、だ」掠れた声で、キールは言う。「でも……」
「でも、何?」
 ナツミは問いかける。キールの体はもうほとんどが漆黒に覆われてしまっていた。術者の体を媒体としての召還。それは、つまり。
 あのときの。
 ナツミの、クラレットの、運命を変えてしまった、
 あのときの、召還と同じ――
「……でも、一つだけ、望みがあった」
「のぞ、み」
 黒い繭の中から声がする。キール・セルボルトの声。クラレットの兄だった男の声。
 同じだ。
 あのときと。
 召還された儀式と。
 目の前で、バノッサが死んだときと。
 目の前で、バノッサが魔王になったときと。
 この手で、バノッサの命を奪った、あの瞬間と。
「あ……」
 これは、何だろう。ナツミは思う。自分はどうしてしまったのだろう。動かない。動けない。この頬に流れているものはいったいなんだろう。どうして立ちつくしてしまっているのだろう。
 すべてのことは変わっていく。変化しないものなんてない。夜が明けて、朝が来ると、別の自分になる。昨日のことを忘れて、今日になる。昨日の歌を忘れて、今日の歌を歌い、そして今日の歌も、同じように忘れていく。
 動け。
 動け。
 剣を構えろ。
 前へ出ろ。
 漆黒の闇。黒い男。キールはナツミの目の前で、キールではない何かに変わっていく。
「――ああ」
 闇が、囁いた。
「僕は」
 剣を構える。
 顔を上げた。
「僕の、望みは」
 どうしてだろう。ナツミは思う。どうして彼は、あんなにもバノッサに似ていたのだろう。すべてを諦めたような瞳の中で、どうして悲しみだけがあんなにも溢れていたのだろう。
 痛くない。
 胸が痛いなんて、そんなわけがない。
 だから、戦える。
 彼女の中の彼女が、一番奥で虚ろな目をして泣いている彼女を守るために、立ち上がる。笑っていた。怒っていた。悲しんでいた。憤っていた。一番バランスのとれている彼女は、立ち上がって、走り出す。
 感じない。
 何も感じない。
「僕は……貴方を、殺したいんだ――」
 闇が晴れて、キールだったものの姿が現れる。黒い装束。銀色の髪。立っているだけでもわかる、魔力の渦。けれど、そんなことは関係なかった。剣を前へ突き出す。まっすぐ前へ。
 剣は、彼の体に半ばほどまで突き刺さって、そして、そこからあっさりとへし折れた。
 あのときと同じように。
 澄んだ音。



「シュガレット」プラティは言う。
「はい」
 シュガレットがプラティに手をかざし、傷を癒す。表面上の傷は癒えるけれど、消耗した体力や流した血液まで補充してくれるわけではない。歩こうとしたところで、プラティはふらりとよろけた。
「少し、休んだ方が……」
 シュガレットの言葉を聞きながら、プラティは背後に視線を遣る。壁にもたれるようにして倒れ、目を閉じたウレクサ。自分は勝ったんだ、とプラティは思う。
「ねえ、シュガレット」
「なんですか、プラティさま」
「わたし、勝ったんだよね」
「はい。プラティさまが、勝ちました。翡翠の鍛聖を相手に、プラティさまは勝ったんです」
 言いながら、言葉の内容とは裏腹に、シュガレットには弾んだ様子はない。
「勝った……ん、だよ、ね」
 何故だろう、とプラティは思う。鍛聖というものに憧れていた。そうなりたくて。そして今、その憧れていた鍛聖の一人に勝ったのだ。理由がどうあれ、状況がどうあれ、喜んでいいことのはずだった。雲の上の存在だったはずの鍛聖に、手が届いたのだ。
 なのに。
「ねえ、シュガレット」
「はい」
「わたし」
「プラティさま」
「わたしね、全然、嬉しくないよ……」
 シュガレットは答えない。
「トーナメントで勝ったときと、全然違うよ。こんなの、嫌だ。こんなとこで、こんな風に勝ったって、わたし全然嬉しくない」
 横たわるウレクサ。誰にも譲れないものがあって、そして、譲れないもの同士がぶつかってしまう。そんなときは、どうしたらいいのだろう。ぶつかって、壊れた方が負け?
「プラティさま」
「シュガレット?」
「プラティさまは、間違ってません」
「そう、かな」
「そうです」
「そうだと、いいな……」
 勝った方が偉いの?
 強い方が勝ちなの?
 分からない。
「正しいことが分からなかったら」シュガレットが言う。「正しいと思うことを、しましょう」
 プラティは、頷く。そして、もう一度倒れたまま動かないウレクサを見た。
「……ウレクサさん」聞こえていないことを分かっていて、プラティは言う。「行きます。わたしがやるべきことをするために」
 たくさんの疑問に蓋をして。全部、終わってから考えよう。
 さらに何かを言いかけて、けれどプラティはその先を言わなかった。踵を返し、少しふらつきながらも、走り出す。
 その背中に、シュガレットが影のように寄り添った。



 砕けていく世界
 裂けていく自己
 壊れていく理想と
 散っていく夢想と
 生まれてはすぐ死んでいく言葉たちに



 折れた剣を、ナツミは呆然と眺めていた。
「僕は――信じていたんだ」囁くような声が聞こえる。「クラレットが、僕たちのところに帰ってくる日を」
 遠い。酷く遠くから聞こえてくる声だった。
「僕たちは、四人だった。最初から四人で――ずっと、四人だと思っていた」
 胸に半分折れた剣を埋めたまま、彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
「貴方が、奪ったんだ」
 そうだ、とナツミは思う。たくさんのものを奪って。たくさんのものを奪われて。そして今、生きている。
 奪われたくないものほど奪われるし、何も奪いたくないと思っている人間が、誰かの大切なものを奪ってしまう。
 奪って。
 奪われて。

 でも、大切なものを奪ったのは、あんたたちだって同じでしょう?

 右の拳を強く握った。この手は届くんだ、と思った。何も折れてはいないんだ、と思った。ありったけの力で。魔力で。想いで。
 届くんだ、と思った。
 折れてなんかない、と思った。
 固めた右拳を、思い切り叩きつけた。折れた剣の上から。殴った手が裂け、右手が真っ赤に染まる。けれど、痛くはない。痛みなんて感じない。
 誰しもが奪われて。
 誰しもが奪う側に立って。
 そこに意味なんてないのなら。どちらが正しいかなんてことに意味がないのならば。
 彼は――キールは、殴られた胸を押さえながら、こちらを見ている。先ほどまでの言葉とは裏腹に、そこに憎しみは見えない。ただ、途方に暮れた子供みたいな色が見えるだけ。それだけ。
 ナツミは、折れた剣を投げ捨てる。
「あなたは、キール?」
「不思議なことに、まだ、キール・セルボルトみたいだ」
「なら、いいわ」
 来い。ナツミは念じる。来い。あたしの中のありったけの力よ、こっちに来い。戦うための力よ、あたしの所に来い。
 それだけが、できることなら。
「キール、って呼ぶわ」
「ナツミ、と呼んでもいいだろうか」
 頷く。キールは笑った。どこか、くすぐったそうに。
「さあ、殺し合いましょう?」
 握りこんだ右手で、ぱん、と左の手のひらを叩いた。
 ナツミも笑う。


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