優しい歌なんて、歌えない



「――ナツミ」キールは言う。「サイジェントの、勇者」
「呼びたい人が、勝手にそう呼んでるだけだけどね」
「昔、妹によく物語を読み聞かせていた。妹はそういった話が好きで、僕も妹に話を読むのが好きだった。遠い昔の、もしくは、ここではない世界の、勇者の話だ」
「そう」ナツミは相槌を打つ。
「でも、僕には疑問があった」
「何?」
「世界を救った勇者は、平和になった世界で、どうやって生きていくんだろう? 明確な敵のいない世界で、強大すぎる力を抱いたまま、平穏無事に生きていけるものなのだろうか?」
 ナツミは答えない。地震の前触れのような静寂。キールが口を開くたびに無意識に放出される魔力の強さに、顔をしかめる。ナツミは腰に帯びた剣を鞘から引き抜いた。刀身の半ばから折れた、サモナイトソード。ないよりはマシだろう、と思う。ナイフだと思って使えばいい。
「一度だけ、僕は創作をしたんだ。妹に聞かせたくて」
「どんな話? 是非聞きたいわ」
「世界を救った勇者の、その後の話だよ」





 勇者は見事、世界を救いました。人々は喜び、勇者を英雄として歓迎しました。魔族の侵攻によって失われた街も少しずつ復興し、勇者の協力の下に結ばれた国家間には平和を元とした条約が締結され、世界には平和が訪れました。
 けれど、めでたしめでたし――とは、終わらなかったのです。
 誰となく、どこからとなく、密やかな噂が流れ始めました。魔王は、人間などではとてもとても歯が立たないほどの強大な力と、魔力を持っていました。

 じゃあ、その魔王を倒した勇者は、いったい何者?

 少しずつ少しずつその波は広がっていき、人々の勇者を見る目は、畏敬と親愛から、恐怖と嫌悪に変わっていきました。
 それだけの力を持った者が第二の魔王になったら?
 もし、彼が世界を支配しようとその力をふるったら?

 少しずつ、少しずつ、黄昏がその色を濃くしていくように、勇者は絶望していきました。






 キールが走る。空間を削り取ったような跳躍の早さ。瞬きした次の瞬間には、もう目の前にいる。下がってはいけない、とナツミは思った。キールの突進を、前に踏み込んで迎撃する。身に纏った魔力同士が火花を上げて相殺され、その反発力で距離が開く。
 歌うように、ナツミの唇が召還の呪を紡ぐ。
 キールのかざした手からは黒い魔力の球体が放たれ、それがナツミの放った召還術を相殺する。
 打ち込んだ剣は、あまりの密度の魔力に絡め取られる。あのときの、魔王と戦ったときと、同じ。あの時はどうやって戦った?
 ナツミは戦いながら、考える。
 あのときは、仲間がいだ。

 でも、今は、一人だ

 一瞬の思考の隙間。その隙間に滑り込んでくるように、キールの腕が伸びてくる。ガード。いや、物理的な防御なんて意味がない。ガードしたところで、キールが帯びている魔力を打ち込まれたら、体力をごっそりと持っていかれる。
 狙いは――下。ガードは間に合わない。召還術だってもちろん間に合わない。ナツミはとっさに、腹部に魔力を集中させた。
 衝撃が来る。景色が後ろに流れる。一瞬、意識がトんだ。胃の中のものを吐き出してしまいそうになるのを堪えて、顔を上げる。キールはもう目の前まで間合いを詰めていた。とっさに、剣を横薙ぎに振るう。
 剣が、キールの二の腕にめり込む。けれど、それだけだった。まるで分厚いゴムを叩いたような手応え。全く切れてはいない。そして、キールは一切の防御態勢をとっていない。ただそこに存在するだけで呼吸するように放出される魔力を、突破することができない。
 それが、魔力の差。力の差。器の差。
 ナツミの攻撃を、何もなかったかのような動作で、キールは手のひらをかざす。
 爆発のような閃光。圧縮された魔力そのものが、指向性を持ってナツミに降り注ぐ。圧倒的な魔力の奔流に押し流されながら、ナツミは思う。

 あたしは、なんて弱いんだろう。





 共に戦った仲間は姿を消し、信じている友人は彼の傍から引き離され、恐怖や嫌悪と共に囁かれる自らの名に嫌悪を覚えました。やがて勇者は国を捨て、名を捨てて、一人旅に出ました。
 勇者は、闇と戦ってきました。どんなに深い闇の中へも、恐れずに突き進んでいきました。それは、その闇を抜けた先には光があると信じていたから。
 けれど、勇者は気付いてしまいました。闇の向こうには、さらに深い闇があるだけだということに。
 それでもまだ、勇者は信じていました。これであとは自分が消えれば、世界は平和なのだと。
 平和に、なるのだと。






 プラティがその場所に駆け込んだとき、そこには信じられない光景が展開されていた。まず目に付いたのが、長身で、黒い魔力を纏う男。プラティがこれまで見たことのない、恐怖というものを形にしたらこうなるのか、と思ってしまうような、禍々しさ。
 そして、その男から少し離れて、地面に仰向いて倒れている、ナツミ。サイジェントの勇者。プラティは何が起きているのか分からずに、硬直する。
 不意に、男が右腕を一振りした。次の瞬間、その男の腕には剣が現れている。男が剣を手にしたままナツミに向かって一歩目を踏み出したとき、プラティの硬直は解けた。
「プラティさま!」
 走り出そうとした瞬間に、シュガレットの声が飛ぶ。走り出した瞬間に、プラティの頭上から、氷の嵐が男に向かって放たれる。男は五月蠅そうに、腕を振るだけでそれを吹き散らしたが、その間にプラティは男とナツミの間に割り込んでいた。
「……誰だ?」男が言う。
「その剣を、返しなさいっ」
「返す?」男は手にした剣を一瞥すると、プラティに視線を戻す。「これは、君のものなのか?」
「そうよっ」
「そうか」
 なんでもないように、男は言う。そして、剣を持ち上げ、顔の前に持ってきて、頭身を見遣る。その動作に反応して、プラティはとっさに剣を抜きはなって構えていた。
 恐怖、というのは、こういう感情のことなのか。足が震え、まるで真冬に裸で立ちつくしているような寒さを感じ、今すぐにでも回れ右して何もかも放り捨てて逃げ出したくなる。これが恐怖だというのならば、今まで自分が感じたことのある恐怖なん全部嘘っぱちだったと、プラティは思う。
 これが、恐怖なんだ。
 目の前の男こそが、恐怖という概念が具現化したものなんだ、と思う。
「僕が、怖いかい?」男が言う。
 怖くなんかない。そう言おうとした。それなのに、言葉が出ない。それでも何かを言わなければいけないと思ったその時、不意に肩を掴まれて、プラティは振り返った。
「怖くて、いい」
 プラティの肩を掴んでいたのは、ナツミだった。纏っていた外套は既になく、その下の衣服も所々千切れている。何より、全身に走る裂傷と、憔悴した顔。それなのに、瞳だけが燃えさかる太陽のようにギラついている。
 怖い、とプラティは思った。思ってしまった。
「怖くていいんだよ、プラティ」ナツミの声は、ひどく、優しい。「だから、もう、帰りなさい。ね?」
 とん、と肩を押される。まるで、子供を押し遣るかのような優しい力で。がしゃん、と音がした。自らの手が、剣を手放した音だった。
 とても大切なものを、手放してしまった音だった。
 ふらふらと、夢を見ているような足取りで、プラティは後ずさる。耳元で聞き慣れた誰かの声がした。上手く聞き取れない。音が聞こえない。心臓の音が、やけに大きい。
 ぺたん、と。力無く、プラティは尻餅をついた。
 ナツミが、プラティの落とした剣を拾い上げる。借りるね、と彼女は言った。首を横に振ったのか、縦に振ったのか、プラティには分からなかった。彼女は少し困ったような顔でプラティに笑いかけると、背を向けて、男と対峙する。
「第二ラウンド、始めましょう?」
「回復するまで、もう少し待ってもいいが」
「優しいのね、お兄ちゃんは」
 苦笑。
 二人が、動く。
 二人が二人とも、プラティには目で追うのがやっと、という早さだった。縦横無尽に飛び回り、斬り合い、召還術を撃ち合う。その余波で空気が震え、岩壁が砕け、地面が裂ける。互角、のようには、見えなかった。明らかにナツミの方が受けているダメージが大きい。
 ずるずると、座り込んだまま、プラティは後ろに下がる。逃げたかった。ここから遠いところへ行きたかった。
 声も出ない。だけど、目も離せない。
 ナツミが手にしていた、プラティの剣が折れる。武器がなくなると、彼女は素手で男に立ち向かっていた。
 視界が滲む。これが、勇者と呼ばれる人の姿なのか。他を寄せ付けない圧倒的な力と、ただ一人で戦う、小さな背中。誰も隣に並べない。誰も彼女が支えるものを、肩代わりできない。彼女だけが背負い、彼女だけが戦い、彼女だけが、傷つく。
 強さを求めた先に行き着くのが、この場所なのだとしたら。
 それは、なんて、恐怖なんだろう。
 這うようにして後ろに下がるプラティの手に、何かが触れた。反射的にそれを握り、顔の前に持ってくる。掴んだそれは、剣だった。プラティが見たことのない材質で鍛え上げられた、刀身が半ばから折れている、剣。
 魔力の余波が足下に落ちて、プラティは剣を持ったまま転がった。顔を上げると、シュガレットが両手に癒しの光をともして、自分に向けてかざしていた。
「……逃げ、ますか?」
 恐る恐る、といった様子でシュガレットが尋ねる。けれど、プラティは手にした剣を見つめたまま、答えない。シュガレットの声が聞こえない。別の声が、プラティの意識を支配してしまっている。
 声が、聞こえる。
「その、剣、は……?」
 シュガレットにも聞こえたのだろうか。彼女の視線もその剣に。折れた剣に。
「これ……」プラティが呟く。
 呼んでいる。声が聞こえる。
 連れて行け、と。アイツのところに連れて行け、と。
 剣が、叫んでいる。
「分かります」シュガレットが言った。「この剣に、魂が宿っているのが、わかります……」
 宝物を撫でるように、シュガレットの手が剣に触れる。
「プラティさま。解放を……」
「できる?」
「やって、みます」
 うん、と頷くと、プラティはいつも使っている槌を手にする。不思議なことに、それを手にした瞬間、パニックになっていた心が凪いだ湖面のように静かになった。思い出す。鍛冶師たるものの、誓い。振るう剣は、鍛える剣は、すべて――
 怖くない。逃げたくない。強くなりたい。そして、まっすぐな剣になりたい。
「シュガレット」
「はい」
「わたし、ね」
 道具の中から、ありったけのサモナイト石を広げる。五つの色。五つの頂点をもつ魔法円。展開した回路に、シュガレットが魔力を通していく。でも、大切なのは魔力じゃない。剣を鍛える技術は大切だけど、それだけじゃない。
「負けたく、ないよ」
 目を背けるな。何もできないなんて思うな。できることを、やるんだ。自分が正しいと思ったことを、やり通すんだ。
「プラティさまは、負けません」
 シュガレットが微笑む。プラティは彼女に小さく笑い返すと、手にした槌を、思い切り振り下ろした。





 数年後。かって勇者だった男は、旅先でひとつの噂を聞きます。
 それは、戦争の果てにひとつの国家が滅亡したこと。そして、それを契機に各地で小競り合いが起こるようになっているということ。
 滅びた国の名は、勇者だった男が生まれ育った国でした。
 彼が命をかけて掴み取った平和は、数年足らずで壊れてしまっていたのです。
 それこそが、真の絶望でした。






 プラーマの紫の光が頭上から降り注ぎ、傷口を癒していく。けれど、蓄積した疲労や失った血液まで補充してくれるわけではない。要は、応急処置にすぎないのだ。
 けれど、動けるならばそれでいい。肩を上下させて呼吸しながら、ナツミは立ち上がる。
「何故」キールは言った。「君は、そうまでして立ち上がるんだ――ナツミ」
「……さあ、ね」ナツミは答える。「そろそろ、楽になりたいなって思ってるのにね」
「楽に……そう、だね」
「キールも、そう思うでしょう?」
 唇を歪めてナツミが言うと、キールも同じような表情をした。
「ふふ……君も、そう、なのか?」
「あはは……さて、ね」
 笑う。二人で、どちらからとなく、笑う。おかしそうに。楽しそうに。まるで、仲の良い親友のように。
 笑い声が同時に止んで。二人は示し合わせたように同時に飛び出した。獲物もない、召還術もない、ただの、殴り合い。獣同士が本能のままに噛み合うような、喉笛を食いちぎることを目的としたような、殺し合い。
 ナツミの殴打がキールのこめかみを割り、キールの振り回した拳がナツミの左腕を砕く。
 止まらない。
 止まれない。
 まるで咆吼しているような声は、自らの喉を焼く声だった。
 たった一人だから、こんなにも弱い。ナツミは思う。強がって、粋がって、傷ついてるような顔をして。拗ねた顔をして、怒ってるみたいに振る舞って、笑いたくもないのに笑ってみたりして。
 自分一人で生きている積もりにでもなっていたのだろうか。
 自分一人が悲しんでいる積もりにでもなっていたのだろうか?
 限界は、とっくに通り越していた。踏み出した足が、体重を支えきれない。よろけた瞬間に伸びたキールの腕がナツミの頭を打ち貫く。
 がん、と音がして、世界がすべて、黒く塗り潰された。

 走る。宿っていた魂が解放された彼女の剣は、まるで制御できない炉心のようだった。どんなものにも抗おうとする、荒々しい炎。七色の剣。シュガレットが剣に憑依して、ギリギリのところで暴走を押さえ込んでいる。
 魔剣。魔刃。
 何のために戦うのか、分からなくても。分からなくなったら、今自分が見ているものを信じよう。今自分が手にしている剣の、強い思いを信じよう。彼女の――ナツミとともに在りたいという、その声を信じよう。
 プラティは走る。まるでスローモーションのように引き延ばされた時間の中で、男が振り向くのが見えた。けれど、遅い。今は自分の方が早い。プラティは逆手に持ったその剣を振り上げて――
 その剣を、投げた。
 剣は光の矢のように、男の顔をかすめる。
 驚愕で歪んだ男の顔をみて、
 ざまあみろ、とプラティは思った。

 自分に向かって飛んでくる光を、とっさにナツミは掴んだ。馴染んだ感触。馴染んだ剣の柄。
 その剣を手にして、ナツミは立ち上がる。
 なぜ、も。
 どうして、も。
 まったく必要なかった。疑問は何も感じない。在るべきものが、在るべき場所に戻ってきただけだ。
「……違う、ね」
 戻ってきたのではない。初めから、そこにあったものだ。
「ごめんね」
 ずっと、気付かなくて。気付かないでいて。耳を塞いでいて。辛かったんだ。苦しかったんだ。
「ありがとう」
 わかってるよ、そんなに怒らないで。何言いたいかはわかるけど、アンタに言われるといまいち素直に聞けないじゃない。
 顔を上げる。
 キール・セルボルト。
 クラレットの兄。
 ――――の、きょうだい。
 体の前で、剣を横に一振り。何も意図のない、力を込めた積もりもないその一振りは、けれど、キールの体を後ろへ吹き飛ばす。
 軽い。剣も、体も、今までが嘘のように軽い。わかってるんだろ? 誰かが囁く。分かってるよ、とナツミは答える。
「聞かせて、キール」彼の表情が、変わる。驚愕から、微笑みに。「最後の、話を。あの話の、結末を」
「ああ」キールは頷く。「喜んで」






 さらに年月が過ぎて。
 朽ち果てたようにひっそりとたたずむ古城の、かっては玉座だった場所に、一人の男が座っていました。魔物達と共に静かに暮らしていた男の前に、やがて一人の少年が現れます。
 魔王よ、お前を倒して世界に平和を取り戻す。少年は言いました。魔王と呼ばれた男は唇を歪めると、立ち上がります。
 はじめまして。ようこそ、勇者よ。男は言いました。

 ようこそ、勇者よ。過去にして、未来の俺よ――






「暗い話ね」
「そうだね」
 ナツミは一つ頷く。
「一つだけ、聞かせて」腰を落とし、ナツミは尋ねる。「その話を聞かされた、妹さんの感想は?」
「妹は二人いたんだ。下の妹は、気に食わなかったらしく、拗ねてしまったよ」
「上の、妹さんは?」
「泣いていた」キールが表情を歪める。歪ではあったが、彼は間違いなく笑っていた。「勇者さまがかわいそうだ、勇者さまを一人にした人間達が信じられない、って。赦せないって。泣きながら、怒っていたよ」
「……そう」
 もう、話すことはなにもなかった。
 自分にできることなんてもう何もないと、ナツミは分かっていた。
 自分に何かできることがあるなんて自惚れるのは傲慢だ。もし、キールを救うことができるなんて本気で思っているのなら馬鹿だ。誰かを救うことができる人間だと自分のことを思っているのだとしたら、もう救いようがない。
 それでも、とナツミは思う。一瞬のフラッシュバック。狂気の描かれた祭壇と、目の前で人としての形を失っていく彼。殺してくれ、の声。あの瞬間、初めて、彼がした『お願い』。
 それでも、助けたいと思った。

 それって、間違いなのかなぁ?
 あたしは、間違ってたのかなぁ?
 助けたいと思うことすら、罪なのかなぁ?

「もう一回、訊いても、いい?」ナツミが言う。
「質問は、一つだけなんだろう?」キールは言った。
「そう、ね」

 こんなことが救いなのだとしたら。
 こんなことが救いなのだとしても。

「……さようなら、キール」
 前に放り投げた足の裏が、地面を叩く。同時に突き込まれた剣の切っ先は、たいした手応えもなくキールの胸を貫き、彼に憑依したものを打ち砕き、霧散させた。後に残るのは、人間の体。心臓を打ち貫かれた、他よりも少し召還術に精通した、ただの人間の体。
 キールの口が動く。吐血とともに吐き出された、名前。
 一つ。聞き取れない。
 二つ目。聞き取れない。
 三つ目。
 クラレット、と聞こえた気がした。




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