私にとって予想外の事態が起こったのは、帰りのホームルームが終わって、鞄を手に立ち上がったときだった。
「おーい、天野ー」
 教室の中の喧騒が一瞬止まって、視線が教室後方のドアに集中する。私はそちらを見ないでも、誰なのかわかった。わかってしまった。私の名前を、あんな大声でデリカシーの欠片もなく人前で呼ぶ人は、この学校の男子生徒には一人しかいないからだ。
 最初は彼の存在に、そして次は彼が呼んだ名前に。一瞬静寂となった教室の喧騒がさざなみのように広がっていく。あれ三年の相沢先輩? あの相沢先輩? 天野さん? あの二人ってつきあってるの?
えー。わたし相沢先輩結構タイプだったのにー。なんで天野さん?
 ……大きなお世話だ、と思う。
「迎えに来たぞー。行こうぜ天野ー。デートの時間だー」
 正直なところ、かちんときた。
 これは、ルール違反なんじゃないだろうか?
 私は鞄を掴むと、何か言いたそうにしているクラスメイトの視線を振り切って、彼がいるのと反対側のドアから廊下に出た。明日から教室入りにくくなるじゃないか、と思って。
 相沢さんが悪い、と思った。


 昇降口で靴を履きかえ外に出た。建物の影から日向に出ると、明るさに少しだけ目が眩む。少しだけ目を細めて、頬にかかった髪を手で払う。どんなに気を使ってもくるりと巻いてしまう自分の髪質が、私はあまり好きじゃない。
「待った、待った」
 それが自分に向けられた言葉だとは思わずに――あるいはそうじゃないかと思っていてもあえてそうは思わずに――その声が聞こえてから四歩目を歩いたところで腕を掴まれた。反射的に掴まれた腕を引いて、振り解く。
「……何か、御用ですか?」
 なんて刺々しい声。これが本当に自分の声なのだろうかと思わず疑ってしまう。どうして私はこんな声を出しているのだろう?
 理由みたいな者は不規則で不定形の泡のように浮かんではぱちんと弾けて何も残さずに消えていく。その中のどれかに正解があるのかもしれないけれど、私には捕まえられない。
 どうして、こんなにイライラしないといけないのだろう。相沢さんの行動の一つや二つで。
 ――馬鹿みたいだ。
「……なあ、天野」
 相沢さんは、今はいつも通りに見えた。少なくとも、表面上は。
「鞄と平手、どちらがお好みですか?」
「それはいったいどんな意図があって聞かれた質問だろう」
「どちらとキスしたいですか、という質問です」
 今日の鞄はかなり重い。古語辞典と英和辞典。おまけに英英辞典なんていうものも入っている。辞書は学校に置きっぱなしにしている友達も多かったが(というか、そういうのがほとんどだったが)、私はいつも持ち運びしている。辞書を学校においている人は、英語の課題とか出たらどうしているのだろう?
「鞄か平手?」
「ええ」
「じゃあ天野の手にキスしよう」
 ぬけぬけと言うその言葉に、ぴくん、こめかみが反応する。このまま無茶苦茶に怒鳴りつけてしまいたい衝動を、つま先のあたりを睨みつけてやり過ごした。
 くるりと背中を向ける。沸騰したお湯の中から出てくる泡みたいに幾つも幾つも湧いてくる言葉は、まだ温度が足りないのか――自分では全然そうは思わないけれど――上昇してくる間に冷却され凝縮されて、水面から飛び出る前に消えてしまう。そして、消えてしまってよかった、とも思う。全部吐き出せるわけがない。そんなことをしたら、きっと私というものは、壊れて砕けて消えてしまう。
「わざわざ教室まで迎えにいったのは謝るって」
「わざと誤解を招くような発言をしたことも、じゃないんですか?」
「誤解じゃないし。――俺にとっては」
 何を言っているんだこの人は。私は温度を下げきった視線で相沢さんを睨んでやった。けれど、そんな視線なんてどこ吹く風、とばかりに相沢さんは肩を竦めただけ。ああ、なんて腹立たしいんだろう。こういう感情を下品な言葉で「ムカつく」とでも言ってしまえばいいのだろうか?
「とりあえずさ、行こうぜ。こんなところにいる方がアレだと俺は思うぞ。うん」
 そう言われて、私は周りを見た。学校という建物からまるで吐き出されるように下校する同じ制服を着た人たちが、必ず一度は私――と相沢さん――を見て通り過ぎて行く。居たたまれないというか、場違いな感じというか、その場に井戸くらいの深い穴を掘って埋まってしまいたいような、そんな気分になって、私はもう一回相沢さんの方を見た。相沢さんはもうさっきの場所にいなくて、校門の方に歩いて行ってしまっている。私は慌ててそれを追いかけた。
 相沢さんは私が追いかけてくることを信じて疑わない歩調で、歩いている。なんだかとっても頭にくる。くるけど、このまま校門まで行って相沢さんが歩く方向と反対側に道を変えることは、私にはできないと分かっていた。
 あきらめが悪くて、そして決断力のない私。なくしたものにずるずるとしがみついて、だけど手を離すことができない自分。届きそうで届かない夢を掴もうとして手を伸ばし続けるのは疲れるけれど、諦めて腕を降ろす勇気もない。往生際が悪い私は、疲労によって感覚がなくなってしまった腕を震わせて、それでも手を伸ばし続けている。諦めると後で後悔することが判っているから、腕を降ろすことが出来ないでいる。
 だから私は、腹を立てながら相沢さんの背中を追いかける。
 こんなくだらないことに怒れるほど、今の自分は健全なんだって思いこもうとする。

 丸いグラスの口をなぞるように、私はアイスコーヒーの中にミルクを垂らした。真っ白な線がグラスの中に渦を巻き、ぐにゃぐにゃに歪んで、混ざって、やがて数秒前とは変質したひとつになる。ふとした時に感じる浮遊感。思考のような、渦。渦のように、ぐるぐる回りながら落ちていく思考。けれど、本当の思考というものは渦を巻いていないことを私は知っている。
 神様みたいな曖昧さで、どうしようもなく無造作に散らばっている思考の欠片。だから、拾い集めるのがとても大変。そのひとつひとつはとても微小な値だけれど、その値を無視することも、それを大きく膨らませて見ることもできる。それは全部自分次第。
「――海?」
 うなぎを素手で掴もうとするような、成果の感じられない思索を遮ったのは、海へ行こうという相沢さんの突拍子のない一言だった。
「また唐突な話ですね」
「人生何事も唐突なもんだ」
「相沢さんに関してはそうですね」
 少しだけ相沢さんが不満そうな顔をしたような気がしたが、きっと気のせいだろう。むしろ、そういうことにしておきたい。いちいち付き合っていたらきりがない。
「別に、今すぐってわけじゃない。夏休み入ってからだけど、な」
 ストローをくるん、と回す。グラスの中で氷が音を立てた。私は何かを言いかけて、そしてそれを言葉に乗せないままに、口を閉ざした。
 私は、泣くなら一人で泣きたいと思う。
 勉強をするのなら、一人でやりたい。
 本を読んでいるときは、周りに人がいない方がいい。
 けれど。
 笑うなら、やっぱり誰かと一緒がいいし、楽しいことは、誰か――あんまり認めたくないけれど、例えば相沢さんとか――と共有したい。
 平行線みたいな、矛盾。
 楽しいことだけを共有するのは間違っていると誰かが言ったけれど、プラスとマイナス、両方の感情を投げ合うのが信頼じゃない。まして、全てをさらけ出すことは。
 言いたいことをなんでも言い合うのが正しい関係だと私は思わない。内に貯め込んでしまうことが悪いとは思えない。なんでも腹を割って話し合う必要があるなんて思えない。貯め込むことによって生まれるストレスがあって、吐き出すことによって生まれるストレスがあることも私は知っている。
 交わらない平行線。重ねることはできても、交わることはない。
「平行線って、交わりませんよね」
 は? という顔を相沢さんはした。相沢さんがそんな顔をするのが分かり切っていたので、私は気にせず言葉を続ける。自分がどんなに突拍子もなく、そして同時に意味もないことを言っているのか。それくらいはちゃんとわかっている。
「でも、球体における平行線というのは交わるそうです。本当だと思います?」
 ねえ相沢さん、時々思うんです。
 あなたはそこから逃げ出したいわけでも、どこか高みに行きたいわけでもないんだなって。
 ただ、自分が一体どんな場所にどんな格好で立っているのかを自分の目で見ることが出来ないのが悔しくて、その足許について理解しようともがいてるだけなんじゃないかなって。
 きっと、私とあなたは平行線だと思うんです。
 ううん、私とあなただけじゃない。この世界に存在する、すべての人が。
 でも。
「……天野が言うからには」しばらくの沈黙の後、相沢さんは言った。「きっと、そうなんだろ」


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