図書室の、自習席。土曜日の午後、こんなところを利用している生徒なんて受験生である三年生を除けばほとんどいない。そして、生憎今日は三年生は模試があるので、ここを利用している生徒はほとんどいないことになる。
 今日はその例外が二人ほどいた。私と、もう一人。そのもう一人は少しだけ――控えめに表現して、だけど――意地の悪そうに笑って、私を見ていた。
 青のリボンをつけた彼女は、美坂栞さん。相沢さん繋がりで知り合った一年生の青のリボンを着けている彼女は、けれど同い年だということが後でわかって、仲良くさせてもらっている。
「なんのことです?」
 とりあえず動揺してしまったのが悟られないように、訊き返してみる。
「デート、してたでしょ? 祐一さんと」
 頭を抱えてみる。
 確かにそうみえなくもない、というかそれ以外の見方なんてきっとできないのだろうけど。
 でも、何か違う。そんな気がする。何が違うとはっきり言葉にできないけれど。
 きっと、いろんなものを私たちは排除して、そうやっているのだと思う。お互いに何も望まないで。気が向いた時に、あるいは必要とした時、された時にふらっと会って。今を重ねて、過去を見て。そして未来に何も置かない。そんな風に。
 寂しくなったときに過去を見て、そして現実に戻っていく。それでいいと思っている。
 だから、二人でいるときに感じる寂しさも、きっと仕方のないものだと。
「あれは……そういうものでは」
「ええ? オトコとオンナが二人で出かけたらデートでしょ?」
 ものすごく反論をしたい気がしたが、こういう話題は反論したらしたぶんだけ自分から底無し沼に沈んでいくような気がしたので、あえて黙っておく。
「……デートというものは、『特別』な相手とするものではないかと」
 ――積もりだったのに。思わず。言ってしまってから後悔。
「特別?」
 栞さんは、少し首を傾げると、じっと私をみた。そして、にっ、と――そうとしか表現のしようがない――笑った。そして私を指差す。
「――でしょ?」
 今度こそ、反論は諦めた。

 記憶について。
 それについて考えるとき、私はよく同じ想像に行き着いてしまう。
 ふわり、と浮かびあがって、ものすごい高さから私は落ちていく。地面はすぐにやってきて、私は地面に落ちて、いろんなものを撒き散らしながらばらばらになる。真っ赤に濡れた肉の塊の中から、ほんのひとかけら。ぽろりと零れたそれが、記憶なのだ。
 自分でもよくわからないけれど、きっと私にとってはそうだと思っている。

「平行線の話」
 栞さんは、口に出してそう言った。私は少し喋り過ぎたかもしれない、と思ったが喋ってしまった後でそう思ったところでどうしようもない。私が人と話すことに慣れていないのか、栞さんが人の話を引き出すのが上手いのか。できるなら後者の方だと思いたいような、そんな気がする。
「うん、まあ……そうゆうものだと思うよ。うん」
 頷きながら、栞さんはそう言う。
「交わらない。だから、近付けようとしてアプローチするんだよね」
 うんうん、と栞さんは頷く。きっと、交わらないからこそのアプローチがいいんだよ、と。
 私は机に広げた英語の構文のテキストを見た。明日の小テストの範囲を憶えようとしたが、なかなか頭に入ってこない。
「あのね」
 私の隣に座って、頬杖をついて、顔を斜めに傾けたまま。
「一方的になることって、怖いよね。私だけが嬉しいとか、私だけが楽しいとか。カナシイのは耐えられるのに、ウレシイ感情を一人じめするっていうのは、なんか怖い。なんでだろうね?」
 私は彼女の方を見た。冷房の風が広げられた教科書のページを捲っていったけれど、私はそれには気付かなかった。
「……共有したいと、思うから?」
 うん。彼女は頷いて、微笑った。
「物々交換、じゃなくて心々交換じゃないかな、なんてね。見返りを求めるのってあんまりいい響きじゃないけど、無理だもんね、そんなの」
「そう、でしょうか」
「たぶんね。で、モノとモノの交換ていうのは目に見えるけど、ココロとココロの交換ていうのは目に見えないわけでしょ? つまり、価値を客観化できないから難しいのよね」
「……こういうことをしてもらって嬉しかったから、同じように喜んでもらえるだろう行為を返したけれど、実際相手にとっては喜んでもらえるどころか嫌な思いをさせてしまった、というような?」
「そうそう。まあ、アレよね。不協和音の第一段階。そこから持ちなおせるかどうかはやっぱり愛だよね」
「はあ」
 なんだか変な話をしているな、なんて思いながら曖昧に頷く。
「見た目の割に結構考えてるなって思ったでしょ?」
「え…あ、その」
 言葉に詰まってしまう。そんなことを思ってはいないのに。とっさに言葉がでてこない。「まあ、こう見えてもいろいろあるんだよ」
 いろいろね。そう言って栞さんは小さく嘆息した。いろいろ。――そう、いろいろある。
「全然気にしないコとかもいるから、すごくそういうの助かってるんだけど。やっぱり、留年としてると、ね」
 去年一年間、病気で彼女は休学していた。私が知っているのはそれくらい。
「私、ずっとベッドの上にいたんだけど、その頃のことってものすごく曖昧なんだ。昔のことってすごく漠然としてて、じーっと見つめてると、だんだんピントが合うみたいに形になってくるの」
 もちろん、忘れようったって忘れられないこともあるけどね。そう言って、彼女は手の中でペンをくるりと回した。彼女の前には数学の教科書が広げられている。
 それは確かにそうだ、と私は思う。忘れたいことを簡単に忘れられるというのなら、それはなんて楽で――哀しいことだろう。
「過去も、もちろん未来だって遠いものだし。なんかあったときにすぐに見えなくなっちゃうのが過去と未来で、それを何とかできるのが現実、なのかもね」そこまで言って、彼女は小さく肩を竦めた。「――脱線」

 ずっと、掴まえていたモノ。解けない。解かない。そう思っていた指の先。手放してしまわないように力を込めて握ったら、あっさりと指の隙間をすり抜けていった。

「まあ、なんて言うか」
 栞さんは、さっきから一ページも進んでいない数学の教科書をしまうと、鞄を肩に引っ掛けて立ち上がる。
「結局、相手の考えてることなんて理解することはできないわけだし。だから、そこにあるものを共有したいって思うのかな? 理解できなくても、そこにあるものを一緒に眺めるくらいはできるんじゃないかって、そんな気がするから。そう思いたいだけかもしれないけどね」そう言うと、どこか照れくさそうに笑って、言った。「――以上、美坂栞、人生相談のコーナーでしたっ」



「祐一さんがね」彼女は言った。「あんまり元気ないから。ない、って言ったらずっとないんだけど。初めて会った時はもうちょっと――ね」
 別れ際に、言われたこと。
「だからさ、なんかあったのかな、なんてね。余計なお世話だったらゴメンナサイ、なんだけど」



 つまりまあ、彼女までもがそう思っているのだったら、きっと私達を知っている人のほとんどはそう思っているのだということなのだろう。そんなことを考えて、私は肺の中にあった空気をとりあえず全部吐き出した。
 とりあえず、スタート地点がわからない。そんな感じ。
 いろいろなこと。栞さんの見に起こったいろいろなこと。私の見に起こったいろいろなこと。それは、私――私達の中にしっかりと根を張って、お互いがお互いに寄りかかり過ぎない、そんな風に私達を調整している。
 よくよく考えると――いつも何か、『不安』のようなものを抱えているような気がする。今の『不安』が消えてしまうと、そのすぐ向こうで次の『不安』がコンニチワと囁く。ひょっとしたら。私は思う。『不安』がないという状況が私にとっての『不安』なのではないか。そんな風に。できれば違うと思いたいけれど。
 電話の音。五回目のコールを聞いたところで、母が買い物に出かけているということを思い出した。子機を手にとって、耳に当てる。
「もしもし? 天野ですが」
『もしもし、相沢です――天野か?』
「はい」
 確認するように、相沢さんは言う。前はあまりそういうことはしなかったのだけれど、一度母と私を間違えてからは絶対に一度確認をする。間違える相沢さんも相沢さんだけれど、相沢さんが気付くまでの約五分をそのまま話しつづけた母もどうかと思う。
 それはさておき。
『よう』
「こんばんは」
 ちら、と私は窓を見た。外は薄闇。夕方と夜の境目くらい。
『明日さ、暇か?』
「とりあえず、予定のようなものは入ってはいませんが」
『そっか』
 それだけ言って、相沢さんは黙ってしまった。なにかを探しているような、そんな沈黙。
 言葉?
 それとも、もっと他の何か?
 そのままの姿勢で、私はばらばらに散らばった思考のカケラをひとつひとつ拾い集める。今のもの。昨日のもの。あるいは、ずっとずっと昔のもの。

 沈黙の時間は、実際のところ大した長さではなかったのだろう。
『ならさ、明日映画行かないか?』
「映画、ですか?」
 相沢さんが言ったのは、私の知らない映画のタイトルだった。
『試写会のチケット、秋子さんからもらったから、さ』
 どういったルートであの人がそれを手にしたのか少し気になった。けれど、気にしないことにする。触れない方がいいことが世の中にはあるのだ。原材料不明の黄色いジャムのこととか。
「わかりました。場所はどこですか?」
『ええと、場所は――――』


 場所を確認した後、それほど長くはない雑談を少しして、電話を切った。
 手の中に残っている小さな温度。それはきっと、言葉の温度。でも言葉は隙間だらけで、一番大事なことがよく抜け落ちてしまう。
 なら、それを補うのは何?
 ただ寄り添うだけ。何も求めてはいけない。そんな風に思っていた。
 思っていた――のに。

 ころころころころ転がって行く。私は思わずそれを追いかけた。アトランダムに散らばった思いのカケラ。私から逃げるように転がって行くそれを。わたしはそれを追いかけて、掴まえて、拾い上げて、持ち上げた。
 ――ごめんなさい。
 聞いてくれる人など誰もいないのに、私はそう口に出して呟いていた。聞いてくれる人はいない。誰に向けたのかも分からない。

 たったひとつだけでいい。欲しい言葉がある。
 そんなことに、気付いてしまった。

 ひとつだけの欲しい言葉。気付いてしまった気持ちを、私は胸の中のずっと奥に仕舞っておこうと思った。
 恋じゃない。もちろん愛でもない。でも、言って欲しい言葉。
 けれど、これを吐き出してしまって困らせてしまうのなら、そんなものは表に出さなければいい。困らせてしまうのが一番嫌だから。
 だから、私は黙る。


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