私の住んでいるところから――つまり、いつもの駅から――三駅。夏休みということでかなり混雑している電車を降りると、私は大きく息をした。頭の芯に何か硬いしこりのようなものがあって、それが内側から頭蓋骨をノックしているような痛みがある。私は軽く頭を振ってそれを忘れようとした。しばらく切っていないせいで結構伸びてしまった髪が軽く頬を叩いた。右手でそれを耳の後ろにかきあげる。
 切符を自動改札に通して、駅から出る。待ち合わせの場所は駅の出入り口だった。
 駅から出ると、空気が違うことに気付く。それはそうだ。私は――こうやって電車を使って出てくることなど、ほとんどないのだから。
 さすがに、人の数は多かった。私はトートバッグを肩にかけたまま、昨夜電話で決めた待ち合わせの場所に立った。左手の腕時計を見る。十分前。少し早かったかもしれない。小さく嘆息。相沢さんは、時間どおりに来ることの方が珍しい。
 特に意識する事もなしに、髪の毛に手をやった。
 私は、流されるタイプだと自分で思っている。人に流されることを前提にしていて、流される中で、それをどのように受け入れていくか。それを自分で選択してきた。そういうことなんだろうと思う。
 つまりそれは、流されることを前提として行動している、ということだ。いいとか悪いとかとは別の所で。
 ただ流されるというのは、とても楽だ。そうやってきたことを言い訳にする積もりはないけれど、流されているからこそ、無駄なエネルギーを使わないで済む。いつか本で読んだけれど、溺れた時は必死に泳ごうとするよりも、意識を手放してそのまま流れに任せた方が助かる可能性が高いという。おそらく、それと同じ。流れに任せた方が傷は浅くて済む。
 私は、昔のことを考える。
 子供の頃、ずっと考えていたことがあった。鏡の向こうで笑う私は本当は鏡に映る私ではなくて、鏡の中の世界で生きる私そっくりの人間なんじゃないかって。きっと鏡の表面はただのガラスで出来ていて、その向こうにはまた別の世界が広がっているのかもしれない、と。 水の表面だってそう。雨の日に地面に出来た水溜りは、きっと地下に広がる別世界の入り口なんじゃないかと、幼い私は考えていた。 そんな訳はないと知っていながらも、鏡や水溜りの水面に映る時、私はちょっとすましてもう一人の私と対面していた。
 私はいつも怖がっていることに気付く。気付かざるを得ない。つまりは、大切だと胸を張って言えるものをなくしてしまったあの時の、あの果てしなく不安定だったあの時期を、繰り返すのが怖いのだ。学校も休んで、部屋に篭って、自分の思考で自分をめちゃめちゃに傷つけていたあの時期に、戻りたくないと思っているのだ。
 あの頃のことは、本当によく憶えていない。修正液をかけて真っ白に塗りつぶしたみたいに、不自然すぎて当然だとすら思えるほどに、変な表現だけれど、はっきりとわかるくらいに抜け落ちている。憶えているのは、母の作ってくれたお粥と、おでん。それから、何故かはっきりと記憶に残っているB'zの「Friends」というアルバム。それ以外の事は、全部後から聞いて憶えたことみたいに、薄っぺらくてぼやけている。きっと、ものすごく心配してくれて、世話を焼いていてくれたんだろう、父や母のことも、あまり思い出せない。今は、少し思い出したいと思っているのに、思い出せない。本当に。
 忘れていくということは、大切なことだと思う。どんなに辛いことだって、時間が経てばだんだんそれは薄れていく。そして、いつか『思い出』という曖昧なものに変わっていく。『思い出』とは、どんなことでもいいことにしてしまえるらしい。けれど、そうするためには、現在がしっかりと確立されていないといけなのではないだろうか。
 思い出したくもない悲しい過去は、包装紙で包んでリボンをかけてしまえばいい。きれいに包装すれば、どんな辛い記憶でも、そのうち中身なんて忘れて甘く切ないものに変わっていく。 けれど、その包装を解いてしまっていはいけない。中身は悲しい思い出であることを忘れてはいけない。あくまで並べて楽しむコレクションにしないと、包装紙の向こうに潜む甘い記憶は辛い現実へと姿を変え、再び私を苦しませることになってしまうだろう。
 あれがあってから、私は忘れることが少し上手くなったような気がする。片っ端から忘れていけば、辛いことや悲しいことと向き合わずに済む。そして――日常を犠牲にしなくてもいい。

 ――日常を、犠牲?

 流れるように出てきたそのセンテンスが、私の思考を止めた。日常。犠牲。その意味を考えようとした時になって、私はすぐ傍に人の気配があることに気付いた。
 目を開いているのにまったく見えていなかった景色が、少し意識をシフトさせるだけではっきりと見えるようになる。
 顔を上げる。
 目が合う。
「……よお」
「……こんにちは……」
 ひどく間の抜けた挨拶だと私は思った。相沢さんはなんだか苦笑いしている。
「帰って来たか?」
「いつから……」
 そこに、と訊こうとしたが声にならなかった。
「五分くらいかな。声かけても気付いてくれないしさ」
 私は時計を見た。到着してから二十分経っている。約束した時間から十分。相沢さんが五分くらいということは――。
「五分遅刻です」
「言うことはそれか、おい」
 一生懸命誤魔化そうとしているのに突っ込まないで欲しい。そんな風な気持ちで相沢さんを軽く睨んでみたが、もちろん気付いてくれるわけもない。思っているだけで、伝わるはずなんてない。
「何ぼーっとしてたんだ?」
 ああもう。
 私は肩のバッグの位置を直すと、相沢さんの質問には答えないで歩き出した。明らかに嫌がっているのに、それをわかっていてしつこく訊くのは相沢さんの悪い癖だ。
 三歩歩いたところで、私は重要なことを思い出した。動きを止めて、しばし考える。
 まあ、結局――どうしようもないので、私は振り返った。相沢さんは歩き出そうとしたところで私が突然立ち止まったのに驚いたのか、少し変な格好で私を見ていた。
「ええと、あの――場所はどこでしょう?」
 

 ご注文は以上でよろしいですか。私が頷くと、ウエイターをしている男の人はごゆっくり、と言ってまた別のテーブルへ向かう。相沢さんの顔を見ると何か言いたそうだったので、私は相沢さんが言うであろう言葉を推測して、言った。
「……これだけで、私はいいですから」
 私の前には、レアチーズケーキとコーヒー。相沢さんの前にはバジルソースのパスタ。相沢さんはむ、と少し嫌そうな顔をした。私はその相沢さんの表情を見なかったことにして、ケーキにフォークを入れる。
「いや、でも足りないだろそんだけじゃ」
「もともとあまり食べる方でもありませんし」
「でもなぁ」
 ケーキを一口。中々美味しい。
「ところで、相沢さん」
「ん?」
「面白かったですか? 映画」
「天野はどうなんだ?」
 コーヒーを一口。飲んでから、ミルクを入れ忘れたことに気付く。でも、今から入れるのもなんだか間抜けなので我慢することにする。
 私はゆっくりと言葉を選んでから、言った。
「……映像は、見ごたえがあったかと」
「奇遇だな。俺も同じ意見だ」
「……そうですか」
 まあ、そういう映画だった、ということだろう。
『それでもいいや』なんて思う。そんな言葉で表現できる時間というのは、ひょっとしたらとても楽しい時間なのかもしれない。
 ふと、思う。
 何か、薄い膜が張り巡らされているような、そんな感じ。感覚も熱も、全てが何かを隔てた向こう側にあるような。そんな気がした。
「……天野?」
「あ、はい? なんでしょう……?」
 相沢さんは、少し目を細めた。
「何、考えてた?」
 何か、ひんやりとしたものが私の中を伝って落ちた。心臓の鼓動が少しだけ速くなったように思えた。落ちたものが、私の一番深いところまで到達して、湖面に描くように波紋を立てた。
「……別に、何も」
「嘘つけ」
「嘘だと思いますか?」
「ああ」
 自身たっぷりに、相沢さんは言い切った。その時の顔が、何か知らない人の顔みたいで。私はひどく落ちつかない。けれど、目も反らせない。私は相沢さんの顔を見たままで、今日相沢さんを待っている間に考えていたことの続きを考えていた。
 既に起きてしまったこと。もう戻せない時間。それはもう、既にそこにあるために、動かしようがないもの。じっと見つめていると、苛立つくらいにゆっくりとピントが合って、私の前に姿を現す。
「……そうですね。嘘です。きっと」
 私は、いろんなことを考えていた。今も。そして、もちろんあの頃も。ほとんど憶えていないあの頃だって、きっと私は必死に考えていた。それは、偏っていたり、方向が間違っていたりしたけれど。それでも、色んなことを考えていたんだと思う。
 ぴり、と痛みのようなもの。手足の痺れ。手の先と脚の先がぎゅっと締めつけられるような感覚がして、動悸が早くなるのがわかった。ひどく微妙な痛み。痺れ。
 あの頃のような思いで何かを考えることはもうできない。そして、それを私は拒絶している。
「怖い……のでしょうか」
「怖い?」
 怖い。本当は、すごく怖い。自分と向き合うことが。
「昔のことを、考えていました」
 それだけで、きっと相沢さんには何のことなのかわかるのだろう。相沢さんは、どこか寂しそうな顔をした。きっと、私も似たような表情をしているんだろうと思った。二人して、微妙な顔で微笑みあった。テーブルの上に水滴が落ちた。よくわからないけれど、とりあえず泣いておきたかった。哀しい気分なんて、きっとこれっぽっちもなかった。それでも、重力には逆らえない。ただ、落ちていくだけ。
「言えよ」
 相沢さんは、普段とは違う、とても優しい声でそんなことを言った。
「今度はさ、俺が聞いてやるから」
 ずるいな、と思った。絶対言わないでおこうなんて思っていたのに。そんな、自分に課した制約なんて、あっさりと解かれてしまう。どうして泣いているんだろう、と私は思った。理由なんてわかるはずがない。だって、頭の中は真っ白になってしまっている。
 私は口を開いた。
 涙は熱いものなんだってことを、改めて知った。


 哀しい、と思うことには二通りあって、涙がでる哀しさと、口元が笑ってしまう哀しさがある。
 相沢さんのは、きっと、後者の方だ。


 電車を降りて、いつもの駅前に出る。熱にでも浮かされたように、足元がふわふわする感じがした。何をしゃべったのか、私はよく憶えていなかった。歩きながら、言葉を交わす。なんだか、とても心が軽かった。そんなことは、はっきりと自覚できた。自分を縛っていたものが、少し解けた気がした。そして、縛っているロープの先を持っていたのが私自身だということも、今なら分かる。
 私は、相沢さんの手を取った。
「お、おい?」
 相沢さんを慌てさせることができたのが、少し嬉しい。その三倍くらい恥ずかしかったけれど、きっと脳内麻薬やなんやらがいい感じに出ていたのだろう。
 触れた手。私はゆっくりゆっくり、力を入れていく。少しだけ、怖い。

 ――お願い、すり抜けて行ってしまわないで。

 繋いだ手は、離れなった。戸惑っていた相沢さんは、それでも握り返してくれた。それで、私は自分がどんなに恥ずかしいことをしているのか実感できたが、今更手を離すなんてできない。
 言葉が温かいものだと、思い出して。
 冷めない温度を確かめて。
 嬉しくて触って。
 また温度を確かめて。
 繋いだ手の、触れている指先から伝わる体温だけが、あなたと私の存在を確認できる唯一のものだった。他には何も必要なかった。
 それだけでは何も残らないと、分かっていた。そんなものはすぐに消えてしまって、私に何も残してはくれないとわかっていた。だけど、それだけで充分だった。充分だ、って私は思った。
 大切だから。何も求めてはいけないと思っていた。居心地の良さだけを共有して、言葉も約束も求めてはいけないと思っていた。
 でも、そうするだけじゃとどかないものが、ある。
 意識しない笑み。自分が笑っているということに気付いた。そんなことができるなんて、今まで思ったこともなかった。
 私はずるい、と思った。まったく、相沢さんのことは言えない。
 私だけがすっきりしてしまっている?
 そんな気持ちが、ある。けれど。
「……どうかしたか?」
「なんでも、ないですよ」
 きっと、今まで以上に私は笑えるようになるから。笑っているようにするから。だから。
 ねえ、相沢さん?
 その哀しい笑い方がだんだん減って、意識しない笑顔がだんだん増えていって。
 平行線のような、私達。あまりに食い違う、別々の視点を持っている私達。そのズレを、埋めようとするんじゃなくて、別々の視点でも、これから出会う新しいものを、できるだけ近くを、見ていけたら、いいのに――――。


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