おねがい
 一人に、しないで





『さよなら』






 辿りついた場所は、昼間だというのに夜のように暗かった。鬱蒼と繁った、不気味だとさえ言えるそこらに生えている樹の枝の形と、一息吸い込むごとに肺の中に何か不純物でも沈殿していきそうな気がする湿った空気。そして、森を分けるようにしてそこにある、禍禍しい祭壇。そこで、アイツは待っていた。
「――待ってたぜ」
 笑顔さえ浮かべて、バノッサは言う。うん、とあたしは答えた。あたしもきっと、待っていたから。こうやってアナタの前に立つ日を。その日が永遠に来なければいいなんて思いながら、待っていたから。いつか必ずやってくると分かっていて、待っていたから。
「さあ、始めようか。はぐれ野郎」
 少しだけ胸をよぎった淋しさは、きっと名前をちゃんと呼んでくれなかったから。
 バノッサの後ろに、カノンと、大勢の悪魔兵。カノンはバノッサに向かって頷くと、悪魔兵を従えて進んでくる。それは、散開したあたしの仲間達のところへ。
 あたしは剣を抜く。純度の高いサモナイト石の結晶を削り出す事で作られたサモナイトソードが、一瞬だけ光った。
 だけど、悪魔兵はあたしには向かってこない。周囲で戦っている誰かに加勢しようと視線を巡らせた時、あたしはそれに気付いた。
 ゆっくりと、バノッサが祭壇を下りてあたしの方に歩いてくる。あたしとバノッサの間には誰もいなかった。最初からその積もりだったんだ。
「サシだ。わかりやすいだろ?」
「そうだね」
 バノッサは両手に剣を持って。
 あたしはサモナイトソードを両手で構えて。
 だん、と地面を蹴ったのは同時だった。
 がぎっ、とお互いの剣が噛み合った。あたしはその場所に留まらないで、バノッサのおし返す力を使って後ろに下がる。あたしの目の前を、バノッサのもう片方の剣が通り過ぎた。慣性を無理矢理殺してあたしは前に出た。通り過ぎた剣の軌跡の内側に自分の剣を滑り込ませる。バノッサは腕を交差させて、それを受けとめた。あたしは止まらずに、そのままの勢いでバノッサの隣を駆け抜けて間合いを取る。
 右腕に、痺れるような感覚。二の腕の真ん中あたりから、何か暖かいものがゆるゆると落ちてくる。
「……腕を上げたな、はぐれ野郎」
「でしょ。結構頑張ったんだから」
 痛みはあるけど、そんな大した深さの傷じゃない。
 大丈夫。
 大丈夫。
「……全然、平気なんだから」
 そう、平気。
「まだまだ、戦える!」
「そうだな」
 素っ気無く。バノッサはそれだけを答えた。面白くもなさそうに。
 あたしは剣を低く構えて、間合いに飛び込む。斬り上げて、斬り下ろす。突きから横薙ぎ。上をフェイントにして、前蹴り。あたしはレイドとラムダに習った技を思いつく限り繰り出した。
「笑ってるんだな」
 あたしの攻撃を全部捌いて、バノッサは言った。なのに、自分から仕掛けてくることはない。
「そうだね」
 バノッサの腕を蹴り上げる。彼が左腕に持っていた剣が飛んだ。
「あたしってばさ、好戦的だから」
 また、お互いの剣が噛み合う。その噛み合った剣を支点にして、あたしは横に回り込む。
「……ああ、そうなんだろうよ」
 僅かにバノッサが下がる。あたしはそこに剣を振り下ろした。けれど、その剣は誰もいない空間を斬っただけで、あたしに大きな隙を残す。
 なのに。
 その隙にバノッサがとった行動は、後ろに下がって間合いを取る事だった。
 大きく肩が弾む。それが自分の呼吸のせいだと、すぐには気付かなかった。さっきまで自分のイメージ通りに動いてくれた剣は、ひどく重く感じる。笑いそうになる膝を、押さえ込む。
「だって、こうしないと……」
 どんなに願っても。
 どんなに頑張っても。
 どれだけそう在りたいと望んでも。

 こうすることでしか、わかりあえない。

「―――ああああああっ!」
 へたり込みそうになる体を叱咤して、前に進ませる。
 少しでも。
 少しでも長く。
 簡単にかわせるはずのあたしの剣を、けれどバノッサは受けとめた。


 もう、これでしか、
 あなたと/オマエとわかりあえない


 微笑っていた。
 あたしも。
 バノッサも。
「忘れちまえ、全部」
「えっ……?」
「おまえは全部、忘れちまえ」

 できるなら。少しでも長く、この瞬間を――――

 ずん、と不気味な手応え。すぐ目の前にバノッサの胸があって。あたしの剣は柄しか見えない。刃の部分は何処へ行ってしまったの?
 手にぬるりとした暖かいものが降ってくる。その上から、バノッサはあたしの手を掴んだ。あたしの手を、バノッサはゆっくりと押し返す。

 消えていたあたしの剣は、バノッサの胸からゆっくりと姿を現した。

 どさり、と音が聞こえて。あたしはそれがバノッサの倒れた音だと気付く。そして、あたしは起こってしまった事を理解した。ぺたん、とその場に座り込む。喘ぐように空気を求めるバノッサの口。その口からも、赤いものが溢れた。
 こんな結末。当然予想してしかるべきだった。仲間を守るために、世界を守るために、戦うと決めたのはあたし自身。自分の意思で、ここにいる。
 だから。こんな結末だって、ある。
 だけど。
 体が動かない。声も出せない。
 リプシーを呼べばいい。
 プラーマを呼べばいい。
 オーロランジェを呼べばいい。
 呼べばいい、のに。なのに、あたしはただだんだんと消えていくバノッサの命を眺めているだけ。まるで、夜の海に浮かぶ船みたいに声もなく横たわるバノッサを。そして音もなく、船が沈んでいくみたいにみたいに。バノッサの命はどこか、あたしの手の届かないところへと沈んでいく。

 ただ、望んでいたのは。
 あたしの居場所が、彼の居場所にもなってくれたらいい。
 そんなことで。

 消えていく命の前で、あたしはなにもできない。矛盾しているとわかっている。戦うことを選んだのはあたしで、戦うということは、きっとどちらかがこうなるということで。そして、それがあたしじゃなくてバノッサだった。そういうことで。
 だけど。

 いつのまにか、辺りは静かになっていた。戦いが終わったんだ、とあたしは思った。
 その時。
 誰かが、祭壇の一番上にオルドレイクがいるのを見つけて、叫んだ。
 遠目で、表情なんて見えない筈なのに。
 あたしには、オルドレイクがとびっきり下司な顔で笑っているのが、確かに見えた。

 バノッサに、魔王が降りた。

 魔王の寄り代になって姿形すら変質したバノッサは立ち上がる。あたしはただ、彼の前に立ち尽くしていた。動く事ができなかった。あたしの体が、体を動かすという機能を全部忘れてしまったみたいだった。あたしの手から赤く濡れたサモナイトソードが落ちた。さっきまで怖いほどに熱かった赤く染まったあたしの手は、今はもう寒気すら感じるほどに冷たい。
 バノッサが右手を上げた。それはまるで、あたしにはスローモーションのように見えて。その手の中に召喚術の光が燈っていくのも、どこか他人事のように眺めていた。
 死ぬのかな?
 そう思った。けれど、それがどういうことなのか、あたしにはわからなかった。
 バノッサの手の中の光が膨れ上がって。
 クラレットがあたしを庇うように、あたしとバノッサとの間に割り込んできて。
 そして。






 光が、弾けた。






「……え?」
 ふわり、と風があたしとクラレットの髪を揺らした。
 あたしは自分のすぐ傍を駆け抜けていった風を、目で追いかけた。そして、魔王召喚の祭壇の上。オルドレイクがゆっくり倒れていく。オルドレイクの胸には大きな穴が開いていた。
「……くっ」
「バノッサ?」
「――黙れェッ!!」
 苦悶の表情で顔を押さえ、バノッサはよろめく。あたしは理解した。ここにいるのは魔王じゃない。バノッサなのだと。バノッサの意思は、魔王に踏みにじられてはいないのだと。
「バノッサ!」
「は……ぐれ、野郎……」
 途切れ途切れの声。けれどそれはまだ、バノッサの声で。
「俺を……俺を殺せェェェェェェッ!!」
 
 もう一度。
 もう一度、命を奪えと貴方は言う。

 あたしの目はバノッサだけを見ていた。なのに、辺りの様子がわかる。ぼろぼろの体で、剣を支えにして立ちあがるレイド。倒れたままであたしを見るガゼル。くないをすべて投げ尽くしてしまって、刀を抜いて悪魔兵と斬り合っているアカネ。倒れたまま動かない誰か。
 バノッサ。
 苦しむように胸に手を当てて、よろめきながら歩いてくる。
 すでに魔力を使い果たしたクラレットがあたしを守るように短剣を構えた。

「おまえが」
 バノッサがいう。変質した声で。でも、バノッサの声で。
「おまえが、俺を殺してくれ」
 二回もあなたを殺せって、そんなことをあたしに言うの?
「……ああ、そうだ」
 バノッサは剣の届くところまで来て、両手を広げて立ち止まった。

「――ナツミ」

 あたしは落としていたサモナイトソードを拾い上げた。拾う時に刀身の方を握ったから、手のひらに刃が食い込んで、バノッサの血の上にあたしの血が重なった。

 ずるいよ。
 ずるいな。
 こんな時に、ちゃんとあたしの名前を呼ぶなんて。
 初めて、名前で呼んでくれたのに。

「うん」
 あたしは剣を握りなおした。そして、バノッサに一歩近づく。もしも彼がさっきみたいな力を行使したなら、あたしには避けることなんてできない。そして、そんな気もなかった。
 吐息さえも感じられる、その距離が。
 世界と世界を隔てる距離よりも、遥かに遠い。

 握ったヒトゴロシの道具は、今度こそあたしの意思でバノッサに胸に深く突き刺さった。

 あたしはずっとバノッサを見ていた。決して忘れないように。
 どんな些細なことも。
 この手に残る、吐き気のするような感触も
 バノッサの声も。顔も。表情も。
 あたしがしたことも。
 決して、忘れないように
 ねえ、望んだのは、こんな結末だった?
 そうじゃないよ。
 ずっと考えてた。
 そばにいたかった。あたしの居場所が、あなたの居場所になってくれたらいいなって、そんなことを考えてた。
 些細なことで、馬鹿みたいに笑い合えたらいいって、そんなことを考えてた。
 そばにいたいよ。
 ふれていたいよ。
 声を聞きたいよ。
 真っ赤に染まったサモナイトソードを握ったままで、ずっとそんなことを考えてた。





 そして、光が降りてきた。





 静かになったこの場所に、穏やかな空気が溢れていた。みんなが、よろけながら、肩を支え合いながら、あたしに笑いかける。
 ああ、終わったんだ。
 あたしは座りこんだままぼんやりと考えた。
 ゆっくりと、雪のように光が降ってくる。その光はバノッサの体をあっという間に消してしまった。
 光る雪よう。。まるで、音の無い鎮魂歌。バノッサの、今回のことで命を、大切なものを失ってしまった人を悼む、静かな歌。
 カラン、と乾いた音がした。短剣が転がっている。クラレットの持っていた短剣。
 クラレットが、あたしを見下ろしている。

「ねえ、あたし、頑張ったよね」
 自分にできることを、あたしは精一杯やった。でも、結末は望んだものじゃなかった。それは、あたしの努力が足りなかった。そういうこと?

 違うんだ。違う。助けられなかった。ただそれだけ。
 それだけが、事実で、真実。
 あたしに残ったもの。

「……ああ、それだけなんだ」
 そう呟いた言葉は、渦を描くようにしてあたしの周りに集まり始めている光の中に溶けていった。送還術の光。クラレットは黙ったまま、あたしを見下ろしている。
「ねえ、なんか言ってよ」
 あたしはクラレットにそう言った。なんでもいいから。
 ばか、でも。
 ご苦労様、でも。

 さようなら、でもいいから。

「バノッサのこと……好きだったんですか?」
 あたしはクラレットを見上げて、笑った。笑った積もりだった。そして、クラレットと目が合って、ふと気付いた。
「ああ、そっか」
「……ナツミ?」
「似てたんだ」
 その目が。表情が。
「いつもいつも、そうなんだ」
 あたしを見る優しくて、強くて、だけど寂しげな。
「自分のこと、大事にしないで。それを回りの人がどんな風に見てるのかなんてちっとも気にしてなくて」
 他人を傷つけないで生きていく方法は、自分が傷つくことで。
 それで傷つく人がいるってことを、知らなくて。

 ホントに、バカなんだから。

 だって、そう。何も持っていないなんて、そんなの嘘。貴方の欲しがっていたものは、いつだってすぐ傍にあったのに。ちょっと立ち止まって振り向けば、いつでも手が届くところにあったのに。

 それでも。
 何も無いって思うなら、せめて、唯一の自分自身だけは、大切にしてほしかったのに。

 守りたかった。あたしの力で救いたかった。
 こんな終わり方なんて、望んでなかった。
 お願い。
 誓約者の力なんていらない。元の世界になんて帰れなくたっていい。
 だから。
 どうか。
 あたしの傍に、彼を還して。
 もう、すぐ傍にいるはずのクラレットの姿すら見えないほど、光が溢れていた。あたしの目の中に入りこんできて、ちかちかと瞬く。
 その光が。
 バノッサの形になって。

 彼が、ばーか、って言ってあたしの一度も見たことの無い顔で笑った気がした。



 ねえお願い。
 一人に、しないで。



 あたしも、連れて行って





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