目を開くと、そこはいつもの場所。


 恐る恐る見渡した景色は、見慣れた公園のものだった。その景色が、しばらく使われなかった記憶回路を揺り動かして、ナツミ――橋本夏美はぱちん、と両側から自分の頬を叩いた。
 夕日はその半分ほどが遠くに見える山の影に姿を消している。赤い。どこまでも世界は赤くて。夏美は自分の手を見下ろした。光の加減で橙色に染まった手は、けれどどこも濡れてはいない。まるで、何も無かったかのように。

 ――帰ってきた。

 それは、確かにずっと望んでいたことのはずなのに。このぽっかりと穴の開いてしまったようなキモチはなんなのだろう? 帰ってきたことを、まったく喜べそうに無い。
 その理由はわかっていた。わからないわけがない。でも、わかりたくない。
 俯くと、伸びた前髪が目を隠した。きっとそれだけが、向こう――リィンバウムで過ごした時間の証。ふらふらと歩いて、ベンチに座る。何ひとつ変わらないこの場所。いったいこの世界ではどうなっているのだろう、と思った。何もかもが、向こうに召喚される前と同じなのか。それとも、向こうで過ごしたぶんだけ時間が過ぎているのか。
 けれど、それもどうでもいいことなのだろう。
 顔を上げると、赤い夕日が滲んで見えた。






"長いお別れ" ―The Long Good‐by―"
『フレンズ・アゲイン』






 自分の家なのにどうして、と思うくらい緊張して帰ってくると、そこは何ひとつ変わってはいなかった。勉強しろという母親の小言。郵便受けの中にあった単身赴任の父親からの手紙。カレンダーの日付は自分が向こうに召喚された日のまま。
 つまり――向こうで過ごした日々は、こちらの世界では何もカウントされていないことになる。それがわかるだけで、なんだか頭が真っ白になった。頼りになるものは記憶だけ。
 けれど。
 そんな記憶というものがいったいどれほどあてになるというのか。
 昨日は何をした?
 一昨日は?
 その前は?
 知っている。絶対に忘れないなんて嘘だ。水が流れていくように、記憶だって同じ所に留まらずに、どこか遠いところへ流されて行ってしまう。
 カーテンを引くと、窓枠に切り取られた空に月が浮かんでいた。それは、とても小さく、そして頼りなく見えた。記憶の中にあるリィンバウムの月は、あんなに大きくはっきりと見えたのに。
 月は、いろんなことを思い出させてくれる。
 真っ暗になった部屋の中、月明かりだけが淡く部屋の輪郭を映し出していた。
 今は、すぐにこうやって思い出せる。ガゼル、リプレ、レイド……フラットのみんなのこと。ラムダのこと。一緒にいた、短かったけど充実した日々のこと。
 それから――クラレットのこと。ずっと一緒だよって交わしたあの約束。
 まだ目をつぶれば思い出せる、手の中にあるバノッサの命の重み。
 忘れたわけじゃない。忘れるわけなんてない。忘れられるわけがない
 ――考えるな。
 けれど、こうしていると疑問ばかりが意識の辺土から泡のように膨れ上がっては、ぱちんと弾けて消えていく。考えないでいようとすればするほど、思考は複雑な場所に入っていこうとする。
 帰ることができなくてもいいと思った。それで、彼の命が助かるなら。
 力なんて全部あげてもいいと思った。それで、彼の心が救われるなら。
 まだ乾いていない髪をぐしゃぐしゃとかきまわすと、夏美はベッドに体を投げ出した。
 でも、結果はどうだ。自分がしてしまったことは。
 カラダの方は眠りたがっているのに、頭はそうは言ってくれない。

 思いたくないんだ。後悔してる、だなんて。

 夏美は自分の髪に手を触れた。明日、髪を切ってこようと思った。髪を切り落とすように、そんなキモチを切り落としてしまえたらいいと。けれど。
 向こうには向こうの生活があって、自分には自分のこっちでの生活がある。そんなのわかってる。わかってる、けど――。
 月がゆっくりと傾いていって、太陽が昇れば、一日が始まる。ずっと帰りたいと願っていたこちらでの一日。
 なのに、どうして。
 こんなにも、空虚なキモチを感じているのだろう――――?

 向こうはいったいどうなった?
 もう二度と会えなくなって、頼りになるのは記憶だけ?
 そして、それも消えてしまう?

「……うう、眠い……」
 結局、ほとんど眠れないまま夜が明けて、夏美は制服に着替えると家を出た。母の料理が懐かしく、けれどリプレの料理が食べたい、と思ってしまった。そう思ってしまったことがひどく申し訳なかった。何がどう、誰に向かって申し訳無いのかわからなかったけれど。
 教科書の詰まった鞄。通学路。同じ制服を着て歩いている人。その中で、何かひとりぽつんと浮いているような感じがする。
 夏美は自分の手を見た。バノッサの血で真っ赤に染まった自分の手がフラッシュバックする。
 『どうして人を殺してはいけないの?』そんな疑問に答えられない大人、というニュースを見たことがある。どうして殺してはいけないか。そんなことは、簡単なことだ。
 通学路も、もうすぐ終わり。学校が視界に入ってくる。校門の前まで来て、夏美は足を止めた。今までは――リィンバウムに召喚される前までは――なにも考えずに通っていた場所。きっと、一日のうちで家にいるよりも長い時間を過ごしている場所。
 立ち止まっている夏美を、同じ制服を着た生徒達が追い越して行く。その中には夏美の見知った顔もある。かけられた挨拶に返事を返しながら、夏美は止まっていた足を前に進めた。
 ここはこんなにもよそよそしい感じの場所だったろうか。そんなことを考えながら。

 どうして人を殺してはいけないのか。簡単なことだ。
 もう……戻れなくなってしまうから

 埋没してみるのは、そんなに難しいことではなかった。考えなければいい。授業を受けて、部活動に顔を出して、たまの部活のない日曜日には友達と遊びに行く。他愛のない話ではしゃいで、笑い合う。そんなことはこっちでも向こうでも、変わらない。
 一週間が経って。
 二週間が過ぎて。
 少しづつ。
 少しづつ。
 魂が抜け落ちて行くように。
 ナニカが、失われて行くような。
 そんな気が、した。
 そして同時に、もう同じようには、リィンバウムに召還される前とは同じようにいられないのだとういうことを、強く自覚させられた。

 乾いた音。ページをめくる音が誰もいない図書室に、不自然なくらいに響いている。夏美は頬杖をついて、ぼんやりと目の前に広げてある本を眺めていた。もともと本なんて活字を見るだけで拒絶反応の出るタイプだったが、リィンバウムから帰ってきてから、こうやって本を読むことが増えた。
 知りたいと思ったから。
 知らなければいけないと思ったから。
 何も知らない。リィンバウムへ行って、それを痛感した。何も考えないで暮らしていた、自分の世界の仕組み。よりよい形を求めて整備されている法律。なのに、どうしてそこに抜け道なんてものがあるのか。いつもそこに在るのがあたりまえだった食べ物が、いったいどうやって、どんなルートを通って自分の前まで流れてくるのか。
 どうして、世界はこんなにも曖昧なのか。
 例えば――醤油の作り方。それだけとっても、夏美にとってはまったく未知のものだった。知らなくても生きていける。今まで学校で学んできたことはいったいなんだったのだろう? クラレットに問われて、何も答えられなかった自分。それは、どれだけ恥ずかしいことだったか。
 夏美は知りたいと思った。
 結局、夏美はリィンバウムから召喚術を奪うことはできなかった。それによってもたらされる混乱を思うと。その選択は正しかったのだろうか?
 今でも、考える。毎日。
 リィンバウムは、変わっていくだろう。そして、その引鉄を引いたのは、紛れもなく自分なのだ。
 帰ってはいけない、と思った。結局、別の世界の人間なのだから。
 帰らなくてはいけない、と思った。これは、自分から始まった変革なのだから。
 でも――――――。

 授業が終わって、部活に行くために靴を履き変えようとしたとき、夏美は昇降口でぼんやりと立っている友人に気付いた。
「あ、深崎じゃん。どしたの、こんなところでぼーっとして」
 頭半分ほど背の高いその男子生徒は、夏美を見て曖昧に微笑った。その手に綺麗な便箋を持っているのを見つけて、夏美は意地悪く――本人にそんな積もりはなかったのだが――笑った。
「――あ、そーゆーコト」
「……うん。そういうこと、みたいだ」
 彼――深崎籐矢はそう言って、苦笑いをして見せた。
「モテるね、深崎」
「そういうこと言わないでよ」
「でも、実際そうじゃん」
 今時下駄箱なんてクラシックだねー、そんなことを言いながら夏美は靴を履き変えた。
「そういう橋本さんだって、結構あるでしょ? こういうの」
 驚いて、振りかえる。
「――はい?」
 結構あるもなにも、今までそういった経験は一切ない。友達と呼べる相手ならたくさんいるが――。
「え? だって、橋本さん好きってヤツ、結構いるからさ」
 夏美は笑って、ひらひらと手を振った。
「それ違うよ。その『好き』ってのはさ、その深崎が手に持ってる手紙書いたコみたいな『好き』とは全然違うって」
 言ってから、ちくりと胸が痛んだ。『好き』の意味。本当に好きな人。
 けれど、一番好きな人には、もう二度と会えない――――。
「それにあたしはさ、そんなん興味ないんだ」
「へえ?」
 軽く手を振って、夏美は歩き出す。
「じゃあね、深崎。試合近いんでしょ? 頑張ってね」
「そっちもね」
「うん」 
 彼と別れると、夏美は帰路につく。
 夕日は、何かを惜しむような赤い色を世界に振り撒いていた。惜しんでいるのは、夏美自身だろうか? 思考にもなりきれない曖昧な塊を無造作にころころと転がしながら、夏美は歩く。
 なんだろう?
 片側が、妙に涼しい。
 考えようとしていた事を、頭を振って追い払う。考えるな。ダメだ。だってもう……逢えないんだから。なんの繋がりもない二人。決して交わる事のない二つの平行線。それが、一瞬でも交わった。
 そう、あたしはクラレットと出逢えた。かけがえのないものを二人で見つけた。それは、きっと一人だけじゃ見つけられないものだ。
 公園が見えて、夏美はなんとなくそこに入っていった。
 学校帰りだろうか、遊んでいる小学生がいる。きっと、明日も同じような朝が来て、同じような、けれどどこか違う日々が繰り返されるだろうことを疑いもしない顔で。そしてそれは、召喚される前の、クラレットと、フラットのみんなと出会う前の自分だ。
 リィンバウムに召喚されるということなど夢にも考えず。
 そして、クラレットと別れなければならないなんて考えたくなくて。

 ねえ、教えてよ。どうしてあたしだったの?
 あたしじゃなくて、他の誰かだったら。こんなに、哀しい想いしなくてよかったのに!
 ふらふらと歩くと、夏美はベンチに腰を下ろした。目に留まるところで、ブランコが揺れている。
 夏美を召喚したクラレット。それまでの彼女には、それ以外の選択肢がなかった。そして、苦しんで、悩んで、二人でともに在ることで、大切な何かを見つけた。
 わかってる。悪いのは誰でもない。
 それでも、考えてしまう。

 どうして、貴方と出会ってしまったの?

 本当なら。
 元の世界に帰るだけが目的なのなら、オルドレイクと戦う必要はなかった。バノッサのことなんて放り出してでも、帰る事ができた。誓約者であるナツミなら、結界を通りぬけることも、たぶん、出来たはずだから。
 どうして、それが出来なかったのか。

 その理由に気付いた瞬間、

 夏美は両手で顔を覆った。もうダメ。限界。どんなに自分を誤魔化したって、誤魔化しきれるもんじゃない。
 顔を覆った指の隙間から、水滴が落ちる。手の甲から、手首まで伝って、それは地面に染みを作る。一番好きな人。特別の意味。そう、もう二度と逢えない――――。
 認めたくない。でも、認めるしかない。

 あたし、後悔してる。リィンバウムに残らなかったことを。

「お姉ちゃん」
 声をかけられて、夏美は顔を上げた。さっき公園に入る時にちらっとみた、遊んでいた子たちの一人が、目の前に立っている。心配そうに自分を見上げているその目に、慌てて夏美は手の甲で目を擦った。
「どこか、いたいの?」
「ううん、そうじゃないよ」
「でも……」少し、間を置いて。女の子は言った。「お姉ちゃん、ないてたよ?」
「……うん。泣いてた」
「どうしたの?」
 少しだけ、夏美は笑った。子供の前で、泣いてなんかいられない。
「どうもしないよ……ちょっと、哀しかっただけ」

 もう、ここは自分の故郷じゃない。
 それは、哀しさを伴う実感だった。

 あたしは、帰りたいとは思っていなかった。



 かつかつ、と黒板の上に白いチョークで文字が書かれていく。ぼんやりと夏美はそれを眺めていた。その黒板の文字を書き写すべきシャープペンシルは、夏美の手の上でくるくると回っている。
 ちく、と頭の裏側を針で刺されているような、痛み。寝不足のせいだろうか。
 あれ以来、熟睡できた日なんてない。いつも同じ夢で目が覚める。
 目蓋が鉛のように重い。本当に……眠い。せめて、夢の中でだけでも彼女と逢えるのなら。それなら、眠ってしまっても構わないのに。

 会いたいな。帰りたい。リィンバウムに。

 それは、とても大きな違和感だった。深海にも似た無重力の中に一人きりで放り出されるような。ふわふわと漂うような感覚。そして、ゆっくりと沈んでいくような重さ。 上を見たら、光が見える。
 下は、真っ黒。
 どっちがいいかなんて、考えるまでもない。泳ぐように、夏美は手足を動かした。けれど、浮上していく気配はまったくない。ゆっくりと、静かに落ちて行く。それは、緩慢な死だ。光の射さない場所で、人は生きていく事などできない。
 ひとしきりもがいて、疲れて手足が動かなくなると、夏美は力を抜いた。それでも、何も変わらない。急に沈んでいったりしない。でも、落ちていくのが止まるわけでもない。
 じわりじわりと、染み込むように、黒いものが夏美の心を満たしていく。自分の中にある二つの力。世界と世界を繋ぐ、エルゴの王の力。運悪く、夏美の中に流れ込んでしまったサプレスの魔王のカケラ。均衡は破られ、ゆっくりと、それこそ沈んでいくように、天秤は傾いていく。抵抗する気力もなかった。もういい。どうなったっていい。バノッサにはもう会えない。クラレットとはもう会えない。二人のいない世界で生きていくことが、こんなに辛いことだなんて知らなかった。
 バノッサが『特別』だとしたら、クラレットは『半身』だ。いつも傍にあった、50パーセント。
 いつのまにか、こんなにも自分は彼女を求めていた。

 声。

 夏美は目を開いた。声が聞こえた。とても懐かしい声。聞いてしまうだけで、涙を我慢できなくなるような声。
 絶望に侵食された心の中に、ほんのひとかけらだけのこったささやかな瞬き。夏美はそれを力いっぱい握り締めて、叫んだ。リィンバウムから帰ってきて、はじめて口にする名前。

 ―――クラレット!!

 どおん、とドラムセットをすぐ目の前で想いっきり叩かれたような、お腹に響くような音がした。夏美は目を開けた。さっきまでの不思議な感覚はもうない。口に手を当てる。名前を呼んだ。他の誰でもない、彼女の名前を。
 教室がざわめいている。後ろで何かあったのだろうか?
 夏美は後ろを見た。そして、ぽかん、と口を開けた。
 まるで爆発でもあったかのように、机が薙ぎ倒されている。クラスメートはみんな、その中心を、夏美と同じような顔で見ていた。
 ぼろぼろになったローブ。手に持った杖の先についている筈の宝玉は三分のニほどが砕けてなくなっている。爆発のあった場所、その中心に座り込んでいた彼女は何かを求めるように周囲に視線を走らせ――そして、夏美を捉えたところで止まった。

 どくん。

 まるで、心臓がその場所にあるみたいに、こめかみが拍動した。
「……ナツ、ミ……?」
 放心した顔で、それでも彼女は夏美の名前を読んだ。
 笑い出したくなるのを、夏美はなんとか堪えた。可笑しくて可笑しくてしょうがなかった。うじうじうじうじ考えていたことが、馬鹿らしくてしょうがなかった。答えなんて最初からわかっていたんだ。わざと、そこに辿りつかないように、そこを中心に円を描くみたいにぐるぐるぐるぐる回って。
 夏美は鞄を持って立ち上がる。そして、軽やかに言い放った。
「橋本夏美、早退します!」
 そういうや否や、走り出す。クラレットに駆け寄り、その小さな手を引っ掴み、教室から飛び出す。
「ちょ……! ナツミ!?」
 抗議の声は聞こえないふり。クラレットの手を引っ張ったまま学校を飛び出し、行き先も決めずにただ走る。どれだけ走っただろう、クラレットの掴んでいた手が急に重くなる。
 足を止めると、クラレットはその場所にへたり込んだ。夏美は辺りを見渡す。家の近くの小さな路地だ。近くにあった自販機に小銭を突っ込むと、スポーツ飲料のボタンを押す。
 落ちてきたアルミ缶をとって、口をつける。一口目はカラダが求めるままに、一気に。二口目は少し味わうように。半分くらい残ったそれを、クラレットに手渡す。クラレットはおずおずとそれに口をつけて、一口飲んだ後で、夏美を見上げた。
「ふふ……」
「ナツミ?」
「――あははははははははっ!」
 いきなり笑い出した夏美に、クラレットは大きく目を見開く。そんなクラレットを見ながら、夏美はクラレットを抱きしめた。クラレットに抱きついた。徐々に視界がぼやけていって、何も見えなくなる。
「はは、は……」
 笑い声は、だんだんと萎んでいった。そして、笑い声とよくにた、嗚咽に変わる。 こんなつもりじゃなかったのに。哀しいはずなんてないのに。どうして。

 ―――どうして、こんなにも、あたしは泣いてるんだろ?

 クラレットの肩口に、夏美は顔を押しつけた。おそるおそる、といった風に、クラレットの手が夏美の背中を撫でた。
 何度も空想した。こうやってクラレットが目の前に現れることを。もっと気のきいた言葉とかいえるはずだったのに。
 逢いたかった。
 嗚咽の中で洩らした、言葉にもなっていない言葉を、クラレットは聞き分けてくれた。私も逢いたかった、と。
 その言葉が優しく夏美の耳朶を撫でていった。



 ぼんやりとナツミの部屋を眺めて、クラレットは僅かな微笑を洩らした。素っ気無いようでいて、どこか可愛らしい。本質的な可愛らしさがある、というべきか。この部屋の主人に似て。そんなことを言ったらきっと全力で否定するだろうけど。
 一息つくと、さっきまで頭を支配していた熱が引いていって、少しずつ現状に対する認識ができるようになってくる。
 ――ここが、ナツミの住む世界。
 召喚術のない世界。それとは別の――カガク、とナツミは言っていたか――力によって動いている世界。機界ロレイラルのものと似ているような気がする。ロレイラルの召喚術は専門外であるクラレットには詳しくはわからないが。この世界は、エスガルドのような機兵が世界の秩序を守っているのだろうか?
 クラレットは小さく嘆息した。ここは、あまりにもリィンバウムと違う。違いすぎる。
 出会ったばかりの頃のナツミのことを、想った。この世界からいきなりリィンバウムに放り出されて、彼女はどれほど心細い思いをしただろう?
 まったく見知らぬ、自分の持っている価値観の通用しない世界に、たった一人。
 もしも、時間が戻せるのなら――いつも、クラレットは考える。そうしたら、今度はちゃんと上手く死んでみせるのに。魔王が召喚されても、自分が自分じゃなくなっても、リィンバウムが荒野になってしまっても、ナツミだけは巻き込んでしまわないように!
 ずっと、一緒にいたいと思うのに。
 けれど、それは赦されないことで。
 部屋の端っこの方に、全身が写るくらいの姿見があった。そこには、ベッドに腰掛けている自分の姿が写っている。夏美が貸してくれた服に身を包んだ自分は、まるで別人のように思えた。泣いているような、笑っているような、どちらともつかない顔で、どこかぼんやりとした顔で、こちらを見返している。その目がクラレットを責めていた。どうしてアナタはこんなところにいるの? アナタにはリィンバウムでしなければならないことがあるでしょう? 異世界で、のうのうと――ナツミの優しさに甘えて生きていこうなんて思ってない?
 生きていく。
 そう、この世界は、クラレットにとっては異世界だ。たったひとつの繋がりが、ナツミ。生きていく当てなんてないから、この世界にい続けるということは、当然ナツミに面倒をかけると言うことになる。
 それ以前の問題。この世界は――クラレットがいるべき世界ではない。それは、強く感じる。こうして存在しているだけで、自分がこの世界の在り様を歪めているような、そんな気さえする。
 還るべきなのだ。
 ―――でも、ここにいたい。ナツミの傍にいたい。
 悪寒。クラレットは左の二の腕を、右手でつかんだ。そうでもしないと、体の震えを抑える事ができなかった。ひょっとしたら――自分はここに来るべきではなかったのかもしれない。ただ、どうしようもなくナツミに逢いたくて――それだけを考えていた。そして、ナツミの都合など何も考えてはいなかった。
 ナツミがいなくなった時から、世界はまた色を失ってしまった。彼女がいなくなってからクラレットがこうして世界の壁を越えるまでの三ヶ月で、よくわかった。たった一人がいないだけで、世界はこんなにも形を変えてしまうことに。不慮の事故で不幸にもリィンバウムでの生活を余儀なくされた少女は、振り返ってみればあんなにも短い日々の中で、出会った人達すべての心の真ん中に近いところにするりと滑り込んでしまっていた。
 帰るべきなのかもしれない、とクラレットは思った。ナツミに逢えた。ただそれだけを喜んで、自分はリィンバウムへ帰るべきなのだと。それが自分にとって、ナツミにとって、そしてお互いの世界にとって、最善の方法なのだ。お別れが最善の方法だなんて、とても悲しいことだと心の中で誰かが反論しても。
「クラレット?」
 ドアが開いて、ナツミが顔を出す。両手にカップ。そのうちのひとつをクラレットに手渡した。
 ナツミはそのまま椅子を引っ張ってそれに座ると、カップに口をつけた。それを見て、両手で包み込むようにして持っていた、ナツミがもっているのとおそろいのそのカップに口をつけた。
 ふと顔を上げると、ナツミが微笑っている。
「どうか、しましたか?」
「あ、いや、相変わらずだな、て思って」
 にっ、とナツミが笑った。いつも一番近くで見ていた、クラレットの好きなナツミの笑顔だった。貴方の方こそ相変わらずです。そう思って、クラレットも笑い返した。
 けれど、ナツミの顔はすぐに真剣なものへと変わった。クラレットも表情を引き締める。
「ねえ、クラレット」
「はい」
「聞いても、いい?」
「構いません」
 ナツミはぐいっとカップの中身を飲み干すと、椅子を回転させてクラレットに向き直る。ナツミの真剣な顔に、クラレットは何故か冷たいものが背中を駆け上がってくるような感じがした。まるで、抜き身の剣を、ちょうど心臓の位置に突き付けられているように。
「――リィンバウムは、どうなったの?」
 サイジェントは変わった、とクラレットは言った。騎士団が再編されて、その副団長にはイリアスの強い要請でレイドが就任した。金の派閥による召喚したちの専制状態も、少しずつ和らいでいる。
「マーン家のお三方が、騎士団や街の皆さんを尊重してくれるようになりましたし」
「へぇ……キムランはともかく、あのイムランがねぇ」
「ラムダさんも騎士団に戻って欲しいとイリアスさんはお願いしていたんですが、固辞されて」
 アキュートの面々を連れて、サイジェントを離れて旅立ってしまったのだという。それにはナツミも残念そうな顔をした。
 少しずつではあるけれど、サイジェントはよりよい方向に向かっている。そしてその変革は――まぎれもなくナツミから始まったものだ。
「……みんな、は?」
 恐る恐る、といった感じで、ナツミは言った。後ろめたさがその言葉の影に見え隠れする。
「相変わらずです。……貴方がいなくなったことを除けば」
「そっ……かぁ」
「そんな顔、しないでください。ナツミは自分のあるべき世界へ帰っただけなのだから」
 嘘。自分で口にしてこれほど白々しい言葉もない。本当にそう思っているなら、モナティが毎晩ナツミを探したりするだろうか。リプレがあんなに淋しそうな顔をするだろうか。アルバも。フィズも。ラミも。そして何より――自分が。こんな場所まで追いかけてきたりするわけない。
「カイナさんやエルジンさんたち、エルゴの守護者のみなさんは、近いうちに旅立たれるそうです。今回のことでリィンバウムに起こった影響を調査しに行かれるとおっしゃってました」
「……そう」
 ナツミが視線を落とす。
「そんな顔、しないでください」
 そんな顔をさせるために、リィンバウムの話をしたわけじゃない。
 ナツミのそんな顔を見るために、次元の壁を越えてきたわけじゃない。世界は少しずつ、望んだ方向へ変わりつつあるのだから。ナツミの行動は正しかったと。それを証明するために、ここにいるのだから。
「……みんな、元気にやってるんだ」
「はい」
 ナツミのいなくなった隙間は埋めようがないけれど。クラレットはその言葉を飲み込んだ。
「無職の派閥は?」
「オルドレイク……がいなくなったことで、おそらく自然消滅していくだろうと思います――けど」
「けど?」
「外道召喚師になって旅人を襲い始めるかもしれない」
「……そうね」
 ――ああ、どうして。私は来てしまったのだろう?
 ただ会いたい。そう思っただけ。けれど、自分の存在は中途半端にリィンバウムを思い起こさせるだけなのではないか。ここはナツミのあるべき場所。ナツミはここで平穏に暮らしていって欲しい。
 だから。ナツミはこれ以上リィンバウムに煩わされるべきではない。ここから先は、リィンバウムに住む人間の仕事なのだ。ナツミが救った世界。それを守らなければならない。
「……逢いたかった」
「え?」
「あんまりに逢いたくて、逢ったあとどうするかなんて全然考えてなかった」
「……クラレット?」
 ふわり、とクラレットは微笑った。
「どうしても逢いたくて、いろいろ無茶をやったんですよ?」
「あ、そういえば、なんで服ボロボロで杖も壊れてたの?」
「色んな所、行ったんです。ナツミと初めて逢ったところ。ナツミと別れた場所――」
「ちょっと、それって一人で? アブナイじゃん!」
「ええ、まあ」クラレットは苦笑いして、カップを置いた。「時々貴方に剣の扱いを習ったりしたけれど、それでも戦うなんてとても。ああ、それでも結構上達したんですよ」
「……危ない、じゃない……」
「どうしても、逢いたくって」
 そう言われてしまえば、ナツミには返す言葉がない。強い想いは力になる。リィンバウムでの日々で学んだこと。
「逢えて嬉しかった」
「……クラレット?」
 上手く笑え。クラレットは自分に言い聞かせた。ナツミが笑って送り出してくれるように。なんの不安も抱かせないように。逢えて嬉しかった。その言葉に、嘘など微塵も含まれてはいないのだから。
「戻ります」
 ずぶり、と。心臓の位置に突きつけられた冷たい刃が肋骨の隙間を縫うようにカラダに潜り込む。そんな感覚に背筋が粟立つ。それに耐えながら、クラレットは言葉を紡いだ。
「――リィンバウムへ」

 太陽は、ゆっくりと沈んでいこうとしていた。地面に近いところで大きく、丸く。遠くに見える山にその足を掛けたところで、世界を淡い濃淡だけの赤色に染めている。夕焼けの世界というものはどこも変わらないな、とクラレットは思った。こちらの世界も、リィンバウムも。
 斜めの光に、長く伸びた影を後ろに付き従えて、二人は歩いていく。
「……変わらないですね」そうクラレットが言うと、
「そうだね」とナツミが言った。
 外を歩こう。そう提案したのはナツミだった。クラレットは、ナツミから借りた服ではなく、ここに来たときに着ていた服に着替えていた。この格好がこの世界ではどんなに奇異に見えるのかということはなんとなくわかっていた。けれど、このままクラレットは帰る積もりだった。長く居たら、その時間が長くなるほど別れ辛くなる。ナツミの傍に居たくなる。
 今ならまだ――帰ることができる。きっと。
 ナツミの横顔を見る。ナツミは真っ直ぐに前を見て歩いていた。
 ちくり。胸に棘が生えて、それが柔らかい部分を突つき回す。
 怒ってしまっただろうか?
 嫌われてしまっただろうか?
 やがて、ナツミは公園に入っていった。ついて来るクラレットを振り返りもせずに、どんどん先に歩いていく。そして、公園の端まで歩き、柵の前で立ち止まった。クラレットもそれに習う。
 ナツミの向こう側には、街を見下ろした風景が広がっていた。高台にあるこの公園からは街が見下ろせるんだ、とナツミが言った。誰に聞かせるでもない語調で。
 クラレットも、ナツミに並んで町を見下ろした。これがナツミの世界。彼女の住む世界。人の数だけ家があって、家の数だけ家庭がある。こんなに平和な世界。明日の食べ物に困ることもなければ、外敵からの恐怖に怯えることもない。
「この世界は……素敵ですね」
「そお?」
「ええ。とても」
 ここなら、貴方は安全です。そうでかかった言葉を、クラレットは飲み込んだ。
「私は、戻ります」
 もう一度。誰よりも自分に言い聞かせるように。そうしないとくじけてしまうから。真っ直ぐにナツミの目を見られないから。
「できるなら、ずっと貴方の傍にいたい。でも、きっとそう思っているのは私だけじゃないし、何より私は……オルドレイクの娘として、それ以上に、フラットの一員として、リィンバウムでしないといけないことがたくさんあります」
 そこまでだった。真っ直ぐにナツミの視線を受け止める事ができたのは。
「……私一人が、こんなに幸せでいるなんて、赦されない」
 罪人。すべての引鉄を引いたものの責任として。無関係な人間を巻き込んでしまった責任。
 それでも、僅かな時間でもナツミに会えた。それ以上を、どうして望む?
「……帰れるの?」
「来ることができたんです。帰れない道理はないでしょう?」
 何より。クラレットは言った。来る時にはいなかったナツミがここにいる。誓約者と護界召喚師。
「そっか」
 ナツミの言葉は素っ気無くて。何故か泣きそうになったけれど、今はその素っ気無さがありがたいと思った。
「また、きっと会えます」
 会いたいと思えば。
 会いたいと、そう思ってくれるなら。自分がずっと思っていたその想いの、何百分の一でいい。ナツミがそう想ってくれるなら。それだけできっと、赦される。生きていける。
「じゃ、行こっか」
「……は?」
「帰るんでしょ? リィンバウムに」
「え、ええ」
「それなら早く行こうよ」
 まったく予想の範疇外にあった言葉を聞いて、ぽかん、と。クラレットは「あ」の形に口を開けたままで立ち尽くした。ナツミの言葉がわからない。言っている言葉はわかっても、その言葉の意味がわからない。音が頭の中で意味と結合してくれない。
 『行け』ではなく。『行こう』。
 ――行こう?
 何かシンジラレナイ言葉を聞いたような気がする。ナツミといるといつだってこうだ。シンジラレナイことばかり。彼女の行動も、それによって起こる結果も。
「あのね」
 ナツミは腕を組むと、柵に背中をくっつけて体を傾けた。
「いちおう言っとくけど、あたし怒ってんだからね?」
 口唇を尖らせるナツミの顔は、怒っているというより、どちらかと言えば拗ねているような顔のようだとクラレットは思った。
「まあったく、一人でうじうじ悩んでくれちゃって。しかも、自分一人が逢いたかったー、みたいな顔してくれるんだから」
 今だってそうだ。クラレットは思った。シンジラレナイことが今現在、目の前で起きているのだ。
「もーいぢけちゃうよ、あたし」
 言葉のないようとは裏腹に、ナツミはクラレットの目の前で笑った。それは、クラレットのよく知っている笑顔だった。
 誰もが目を離せなくなる。
 誰もが笑い返さずにはいられなくなる。

 ――つまり。

「ナツミも……一緒に……?」
「もう。今日は鈍いなぁクラレット。あんまりあたしに言わせないでよ?」
 鈍くもなる。いつもいつもナツミは突拍子もないことばかりするから。
 いつもいつも、本当に欲しいと思っている言葉だけを、正確にちょうどいいところに放り投げてくれるから。
「約束、したじゃない。自分だけで抱え込まないで。あたしは――クラレットの力になりたいんだって」
「ダメです!」
 今すぐ、この場所で泣き崩れてしまいたいほど嬉しい。けれど、それはダメなのだ。
「ナツミは、この世界いないと。ここが、ナツミの世界なのだから」
「あたしの世界がどこかなんて」ナツミは微笑った。「あたしが決めるよ」
「でも!」
「うん。クラレットの言いたいことはわかる」
 そう言うと、ナツミはクラレットから視線を外して、眼下に見える街を見下ろした。赤い光に染まった街は、普段見せない顔で囁きかけてくる。
「後悔するかもしれない……ううん、きっと、どっかで絶対に後悔すると思う」
「なら――」
「どっちを選んでも、それは一緒。だったら、あたしは自分のしたいようにする」
 後悔のない道を選んで進んでいけるほど、器用にはなれないから。なりたくないから。
「……したい、ように……?」
「あーもう!」ナツミは髪の毛をくしゃくしゃとかきまわした。何か言おうとして、でもそれが言葉にならずにため息になる。質量を持った、どこか重いため息。
「アレだ、今日のクラレットはいつにない鈍さだね」
「そうですか?」
「そーよっ」
 ナツミが笑って、クラレットがやっと笑った。
「リィンバウムへ行きたい。これは、あたしの意思」
 ナツミが、手を伸ばした。クラレットは彼女とその手を見比べて、そして、おそるおそるその手を取った。
「できたらさ。これは、あたしの希望なんだけど――」

 すっ、とクラレットの頬に涙が落ちた。

「――後悔、させないでほしいな?」
 泣いている。クラレットにはそれがわかった。どうしてだろう? 嬉しいのに。悲しいことなんてどこにも見当たらないのに。どうしてこんなに、涙が止まらないんだろう――?
 空は次第に、赤から深い青へグラデーションを描いていた。足元の影は、もうちょっと背中を押してやれば夜の中に沈んでいきそうなほどに、輪郭を失いかけている。
「行こう」
 クラレットは頷いた。明日も、明後日も、この赤い光をナツミと一緒に眺めることができるのなら。呆れるほどの繰り返しの日々を、一緒に歩いていけるのなら。――こんなに素晴らしいことが、他にある?
 顔を上げる。滲んだ夕日の赤い色は、けれど、きっとこれまで生きてきた中で一番美しいものだと思った。
「――帰りましょう」
「うん」

 懐かしいあの場所へ。二人が二人でいられる、あの場所へ

 ゆっくり、ゆっくりと視界が白く染まっていく。何も見えなくなっても、お互いの姿が見えなくても、繋いだ手の感触だけは確かにある。クラレットは微笑んだ。まぶしい光の向こうで、きっとナツミも微笑っている。それだけでよかった。
 帰ったら、みんなになんて言おうか――そんなことを考えながら。
 クラレットは目を閉じた。


 ひかりのなかで、誰かの声を聞いた気がした。




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