ずるずる。
 ずるずる。
 狭い屋台のスペースに、お蕎麦を啜る音が二人分。この屋台『あかなべ』を引いているシオンは、並んで蕎麦を啜る二人を見て、彼と親しい人物でなければわからないくらいに、小さく微笑んだ。
「いやーまさかリィンバウムでお蕎麦が食べられるなんて夢にも思ってなかったー」
「お蕎麦……って言うんですか。美味しいですね」ふーふー息を吹きかけて冷ましながら、クラレットがそう感想を洩らす。
「さっすがシオンさん、お蕎麦まで作れちゃうなんて」
「ありがとうございます」
 二人の賞賛の言葉に、笑顔で答える。ナツミに出したほうは山で取ってきた山菜を使った山菜蕎麦。クラレットが食べているのはシンプルな月見蕎麦。二人が食べ終わった頃を見計らって、シオンは尋ねた。
「さて」その後に続く言葉を予想し、ナツミが顔を上げて、クラレットは居心地悪そうに小さく身じろぎした。それに構わず、シオンは残りの言葉を口にする。
「どうして、お二人がここ――聖王都にいるんです?」





"長いお別れ" 2nd story
『昨日と今日』





「なんて言ったらいいのかなぁ……」
「ええと……」
 ナツミは眉を寄せて頭をかいた。どうしてここにいるのかと問われたなら――。
「なんとなく?」
「ナツミ、それはちょっと……」あんまりといえばあんまりな言葉に、クラレットはそっと嘆息する。なんとなく、の一言で済まされてしまっては納得のいかないものがある。
「だって――」とナツミは言いかけて、あることに気付いた。カウンターの向こう、シオンがこちらに背を向けて小刻みに肩を震わせている。
 どうやら笑っているらしい、と気付いたのはきっかり五秒後だった。
「シオンさん……?」
「いや、失礼」くるりとシオンがこちらに向き直る。その時はもういつもの顔に戻っていた。「――それで、意図せずにこちらに来てしまったと、そういったわけなのですね?」
 目尻に涙が浮かんでいるのをクラレットは見逃さなかったが、あえてそれを追求するような事はしない。シオンをこんな風にウケさせてしまうのは至難のワザだが、さすがはナツミというところか。そんな風に考えて、微笑む。
「ん、まあ、そんなところ。まさかこんなところにでるなんて夢にも思ってなかったし」「それは確かに……」
 クラレットが同意する。二人で思っていたはずだ。帰ると。みんなが待つあの場所に帰るのだと。なのに、遠く離れた場所に降り立ってしまった。
「ところでナツミさん、その服装、似合っていますよ」
「……ホント? ひらひらしたのって絶対似合わないって自信もって言えるんだけど」
 疑問符いっぱいの顔で、ナツミは今自分が着ている服を見下ろした。
 最初にこの世界に出たのは、この街から少し離れた湿原。リィンバウムにちゃんと帰れたのだということはわかった。けれど、サイジェントから遠く離れた場所に出たのだということも、すぐにわかった。クラレットの服はぼろぼろだったし、ナツミの服は目立つということで、とりあえず、服を買ったりなんかした。こちらの通貨を持っていたのはクラレット。彼女らしく、準備がいい。
「いえいえ、最初はどこのお嬢さんかと思いましたよ」
「あ、そう? へへ」
 そう言われてしまえば、ナツミもまんざらではない。さっきまでどこか不満そうだったのに、あっというまに嬉しそうにはにかむような顔に変わる。クラレットはそんなナツミをみてくすくすと笑った。
「で、シオンさん。みんな元気でやってるのかな?」
「サイジェントの方は問題ありません。ですが……実は現在、聖王都はすこし厄介なことになっていまして」
「やっかい?」
 声を上げたのは、クラレット。厄介事。ああ、どうしてナツミの行くところ、厄介事がさあいらっしゃいとばかりに待ち受けているのだろう。ひょっとしたら一生厄介事と縁が切れないのかもしれない。ナツミはそうやって待っている厄介事に――積極的か消極的かはさておいて――自分から巻き込まれに行ってしまうのだから。そんなことを考えて、思わずクラレットは頭を抱えた。
 けれど、ナツミと離れる事など、もう考える事すらできなくて。結局一生ナツミの引き起こすトラブルと付き合っていかなければいけないのだ。クラレットはこっそりとため息をついた。
「……どうかしたの?」
 訝しげにそう尋ねるナツミに、クラレットは「なんでもないです……」と辛うじて答えた。シオンは全て分かっていると言いたげに笑っている。
「それに」シオンは言った。「前回の事も、無関係ではないかもしれないのですよ」
 その言葉で、夜よりも深い緊張の幕が降りた。音もなくナツミの目が細まって、クラレットは身を強張らせている。そんなクラレットに気付いて、ナツミは表情を緩めると、彼女の肩に手を置いた。
「どういうこと?」
 問うナツミの声は、けれど硬い。
「現在リィンバウムでなにかよからぬことが起こっています」
「よからぬこと?
「ええ、そうです」シオンももう、笑ってはいない。「はぐれ悪魔――とでもいうのでしょうか。それを見たという人がかなり大勢いるのですよ」
「悪魔、ということはサプレスの」
「ええ」
「でも」ナツミが言う。「そういうのって、まったくいないっていうわけじゃないんでしょ?」
「目撃される、ということが既に異常な事態なのですよ」どこか含みを持たせるように、シオンは言った。「あなた達だから言いますが――私がここにいるのも、ギブソン殿やミモザ殿に調査の協力を頼まれたからなのです」
「ふぅん」とナツミは相槌を打って、頷いた。ギブソン。ミモザ。懐かしい名前だ。
「前のことで、サプレスのマナが大量にこっちに流れちゃったから?」
 ナツミの言葉を、シオンは首肯した。「そう考えるのが、一番自然ではないかと。推測ばかりになってしまいますが、おそらくその影響でゲートが自然発生する頻度が上がっているのではないかと」
「そりゃあタイヘンだ」
「デグレアの侵攻のこともありますしね。むしろ、当面の問題としてそちらの方が重いかもしれませんね」
 はあ、とナツミは大きくため息をつく。どうしてこうも面倒事が起こるのか。そして、間接的にとはいえ、原因はまた自分たちにあるのかもしれないと思うと気が滅入る。
「それで、今現在それを調査して頑張っておられる方たちがいるのですが――」
「……ですが?」
 クラレットが訊き返す。シオンはナツミとクラレットを順番に見た。
「中心にいるのは、青の派閥所属の、まだなりたての召喚師」
 青の派閥、と聞いてクラレットが表情を曇らせた。それを見て、シオンが微笑う。
「その方がまた、なんというか――」
 意味ありげな視線。ナツミは首を傾げて聞き返した。
「なんというか?」
「――あなたに、そっくりなのですよ」
 そういうシオンの目は、まっすぐにナツミを見ていた。
「あたしに?」
「ナツミに?」
 聞き返したのは、同時。そして。
「たいしょー! こんばんわー!」
「こんばんはっ」
 そんな、初めて聞く二つの声が聞こえてきたのも、同時だった。

「――へえ、大将の知り合いなんだ」
 蕎麦を食べながら、トリスは二人を見た。ショートカットで、綺麗というよりは格好いいといった風な印象の人と、髪が長くていかにもこう、守ってあげたくなるような印象の人。髪が長い方の女性はどこかで見たことがあるような気がしたが、きっと気のせいだろう。間違いなく初対面のはずだ。
「そうなんだよ」
 ショートカットの人は、気さくに微笑う。その笑顔を見た瞬間、トリスは彼女のことが一気に好きになった。見ているだけで、楽しくなる。
「大将さんと、どういったお知り合いなんですか?」
 アメルがそう尋ねる。
「うーん……そうだね……『あかなべ』の本店がサイジェントにあるんだけど」ぱち、と彼女は片目を瞑った。「そこの常連客、ってところかな? ところで――」
 と、彼女はシオンの方を向く。
「彼女ら、シオンさんの知り合いなんでしょ? 両方とも知ってるのはシオンさんだけなんだから、ちゃんと紹介してよ」
「ああ、そうでしたね」こほん、とシオンはひとつ咳払いをする。そして、トリスとアメルの知らない二人連れの方を指した。「トリスさんと似ているこの方がナツミさん、そしてこちらの方がクラレットさん」
 名前が出たとき、クラレットと呼ばれた方の表情が強張ったようにトリスには見えた。きょとん、と見返すと、彼女はどこかほっとしたような顔になる。どうしてだろう? そんな風にトリスが考えていると、
「ねえねえシオンさん、さっきあたしと似てるって言ったの、彼女のコト?」
「そうですよ」
「へぇ……」
 そういうと、ショートカットの方(ナツミさん、だ)はトリスをじっと見た。その視線を受けとめて、トリスも真っ直ぐにナツミの事を見返した。何故か、目を反らす事ができない。似ている? そうシオンは言った。けれど、違う、とトリスは思った。この人は、違う。何が違うのか分からないけれど。
「――あたしはナツミ。よろしく!」
 そう言って、ナツミは微笑った。トリスも笑い返す。笑い返さずにはいられない、そんな笑顔だった。
 トリスは、シオンのほうを向いた。
「大将もスミに置けないんだね〜」
「本命はどちらの方ですか?」トリスの尻馬に乗って、アメルがそう言った。
「あたしも聞きたいなぁ、シオンさん?」
 頬杖をつき、流し目をくれながらナツミまでもが調子に乗ってそんなことを言う。
 シオンは苦笑いして肩を竦めた。

「……ふぅん?」
 二人がいなくなった屋台で、ナツミは出されたお茶を飲みながらそう呟いた。ずいぶんと長い間話し込んでしまった。送っていってあげたほうがよかっただろうか。
「ナツミ?」
「あの子、かぁ」
「……青の派閥の、召喚師」
 表情の硬いクラレットを和ませるように、ナツミは意識して明るい声を出した。
「そんな顔しない。青の派閥の召喚師だからって、みんながみんな嫌なヤツってわけじゃないでしょ? ギブソンみたいなのもいるわけだし」
「それは……わかってますけど。いきなり名前出されてびっくりしてしまって。青の派閥に所属しているのなら、私の名前を知っていても不思議ではないと思って……」
 あ、とナツミは声を上げた。その可能性を考えていなかった。彼女――トリスが青の派閥の召喚師だというのは一目でわかった。無職の派閥の事件に関してはギブソンが――極力ナツミとクラレットの名前を出さないように配慮してくれているとは思うが――報告書を出しているはずだ。けれど、ギブソンが配慮してくれたとて、その上に立つグラムスは自分たちの名前も顔も知っているのだ。彼女はたまたま、自分たちのことを知らなかったわけだけれど。
 世界の破滅を望んだ無色の派閥の総帥オルドレイクの娘。クラレット・セルボルト。
 誓約者にして、再びリィンバウムに現れたエルゴの王。ナツミ。
 青の派閥の本部があるのこの街だ。目立つ行動は避けるに越した事はない。
「……シオンさん?」
 シオンの姿はカウンターにない。奥の方で何かしているようだ。衣擦れのような音が聞こえる。
「なんですか?」
「どうしてクラレットの名前出したの?」
 シオンがなんの意図もなしにそうしたとは考えにくい。彼は――シノビだから。そういった不用意な事とはかない遠い位置にいるはずだ。弟子のアカネはともかく。
「――どうも、彼女達には肩入れしたくなってしまいましてね」
 そう言って、シオンは奥から姿を表した。その姿を見て、クラレットが息を呑み、ナツミが片方の眉をぴくんと上げる。シオンは戦装束に身を包んでいた。闇に溶け込んでしまいそうな、真っ黒の装束。
「……好きなんだ。トリスのこと」
 シオンは笑顔で、ナツミの言葉に答えた。
「あなたたちと、そっくりですから」
 ナツミは立ち上がると、シオンに向かって手を出した。
「……ナツミさん?」
「武器、貸してくれる?」
 シオンがすぐにナツミに短剣を手渡す。まるで、最初からナツミがそう言うのをわかっていたように。――いや、きっとわかっていたのだろう。ナツミは苦笑してその短剣を受け取る。
 クラレットがしょうがないなぁ、なんて顔をしながら自分を見ていた。その視線を感じながらナツミは、
「あたしもさ、肩入れしたくなっちゃった」
 そう言って、にっ、と笑った。

「……なんか、ちょっと不思議な感じの人でしたね、ナツミさん」
「そうだね」
 日が落ちると、辺りは一歩先さえ見えないくらいの闇。今日は月が出ている分だけ少しマシか、とトリスは思った。柔らかな月の光は、街を曖昧な濃淡だけの世界に作り変えている。あまり夜に出歩いたりしないトリスには、まるでまったく知らない街に迷い込んでしまったかのような気がしていた。
「知らない街みたいだね」
 トリスがそう言うと、そうですね、とアメルが頷いた。まるでまったく別の街みたい、と。
「きっと、あかなべでお蕎麦を食べてた間に街が入れ替わっちゃったんだよ」
「あ、面白いですねそれ!」
「確かね、子供の頃に読んだ絵本にそういう話があったような気がする」
「へぇ……トリスさん、子供の頃そういうの読んでたんですか?」
「少しだけだけどね」そう言うと、トリスはアメルに向かって笑ってみせる。「ホラ、あたしってどっちかって言うと外で遊ぶ方が好きだったからさ」
 くすくす、とアメルが笑う。
「どちらか、というより、そうとしか見えませんよ、トリスさん」
「む」
「それにしても、大将さんのおっしゃった通りでしたね」
「何が?」
「トリスさんと、ナツミさん。よく、似てますよ」
「……そうかなぁ」
 考えてみる。似ている、と言われても自分では全然ぴんとこない。似ているかと言われたら――違う、といいたい。どこが違うのかははっきりとわからないけれど。少なくとも自分はあんな――あんな、何?
 そこまで考えて、ナツミは顔を上げた。
 違和感。
「……アメル」
「はい?」
「なんか、いる」
「何か?」
 ――っちゃあ……やっぱ夜に出歩くんじゃなかったかな。
 と、空気を切り裂いて飛んできたものが、トリスの足元に突き刺さる。立て続けに、三つ。慌ててアメルの腕を掴むと、彼女を引っ張って建物の影に滑り込んだ。
「……投げナイフ!」
「ト、トリスさん……!」
「アメル、ここにいてよ」
 そう言うと、トリスは短剣を抜いて飛び出す。ナイフが飛んできた方向から敵が潜んでいる大体の方向の見当をつけて、そこに向かってまっすぐ走る。
 来るのは分かっている。後はタイミング――。
「アーマーチャンプ! お願いっ!」
 視界に光るものが一瞬だけ見えたその瞬間、トリスは召喚術を発動した。ロレイラルへの扉が開かれ、大きな盾を持った機兵が飛んできたナイフを弾き返す。トリスはナイフを投げてきた相手を目を凝らして見つけ、肉薄した。
 ――シルターンの、鬼!
 低い姿勢で相手の間合いに飛び込むと、腰溜めに構えたショート・ソードを下から上へ、屈伸運動の要領で伸び上がる力を乗せて、斬り上げる。
 ――浅い?
 逆袈裟に斬り上げた一撃は、けれど致命傷にはなっていない。追撃。振り上げた短剣を、そのまま振り下ろす。それで終わり――。
「――きゃあっ!」
 背後から悲鳴。トリスの短剣は狙った軌跡を外れて浅い傷を作ったのみだった。
 目の前の倒しそこねた鬼を突き飛ばし、振り向く。さっきの悲鳴は――アメルの声。
 振り向いた先で、アメルはこちらに背中を向けて地面に座り込んでいた。そのアメルの向こうには異様な装束の男――いや、人間であるのかも疑わしい。そんな禍禍しい雰囲気が、ある。トリスは召還術を使おうとして両手を前に突き出した。
 躊躇。
 手前にアメルがいる。アメルを巻き込まずに召還術を打てるか――答えは、NO。
 トリスはすぐさま地面を蹴った。
 ――間に合わないっ!?
 そいつは、アメルにカタナを突き付ける。後は、ただそれを十センチほど前に突き出すだけ。トリスが駆け寄ってアメルを助けるよりも、絶対に速い。
 できない。
 何もできない。
 打つべき手が何もない。
 完全なミス。離れるべきではなかったのだ。単体で襲ってくるはずなんてなかったのだ。あまりに単純な陽動作戦。
 瞬きよりも速く、胸を覆い尽くす絶望感。
 約束したのに。絶対に守ると。そう約束したのに!
 瞬間。

 胸からカタナが生えているその姿を、トリスは見た。

 ずるっ、と。アメルにカタナを突き付けていたそいつは、崩れ落ちるようにして倒れた。トリスはアメルに駆け寄って、傷がないか確かめる。――とりあえず、大きな怪我はなさそうだ。
 ――誰が?
 闇の中に自然に溶け込みながら、けれどその人はそこにいた。チン、とカタナを納める鍔鳴りの音。
「間に合いましたか……お怪我はありませんか?」
 その声には、聞き憶えがあった。けれど、トリスの知っているその声をもつ人物が今目の前にいることが信じられなくて。黒装束に身を包んだその姿からは、トリスの知っているその人物を連想することは困難で。
「……大将……?」
「はい」
 それでも、にっこり微笑うその顔は、紛れもなく彼女の知っているシオンのものだった。その笑顔は、すぐにトリスの見たことのない厳しいものに変わる。
「シノビですか……いるのはわかっています。出てきなさい」
 影が下りてくる。五人。トリスはアメルに頷いてみせると、短剣を握りなおした。が、それをやんわりとシオンが手で制した。
「本来のシノビの心を忘れ、外道に落ちた……そんな者達をまた闇へ還すのも、シノビのつとめ」
「……大将、シノビだったんだ」
「黙っていてすいませんでしたね、お二人とも」
 トリスは横に首を振った。それほど驚いてはいなかった。どこかで、こういうことを考えた事があったかもしれない。ただの蕎麦屋の大将ではないと、わかっていたのかもしれない。
「立てますか?」
「アメルが……足、ちょっと挫いてる」
「……ごめんなさい」
「謝ることはありません。それに」シオンは自分たちを取り囲んでいるシノビのその向こうを見据えながら、言った。「心強い援軍の到着です」
「……援軍?」
 そうトリスが繰り返した瞬間だった。夜を切り裂いて飛んでくる光の直線が、シノビの一人を貫いた。その場にいる全員が呆気に取られている中で、ただ一人それを予測していたシオンは光が着弾すると同時に飛び出して、別のシノビを斬り伏せている。
 包囲していた一角が崩れ、トリスはシオンに促されるままにアメルに肩を貸してそちらに向かう。別のシノビが追い縋ってくるが、それもまた別の召喚術の一撃に吹き飛ばされる。
 思わず足を止めて、トリスは召喚術の放たれた方向を凝視した。シンジラレナイレベルの召喚術だ。威力、標的だけをピンポイントで狙う精度と、範囲の収束性。同じ召喚術を使っても自分ではこうはいかない。彼の兄弟子であるネスティだって敵うかどうか。いや、青の派閥の中にだって、これだけの使い手が果たして何人いるのか――。
「トリスさん! 後ろ!」
 耳元で、アメルが言った。弾かれたように後ろを振り向く。あくまで自分とアメルが標的らしい。シノビがカタナを掲げてこちらに向かってくる。アメルに肩を貸したままで、まともに応戦なんてできない。
 躊躇。
 一度躊躇してしまうと、動けない。
 刃が固まっているトリスにとどくより速く、いきなり飛び込んできた誰かがそのカタナを弾き飛ばした。
「……ごめん」
 そんな、囁くような小さな声をトリスは聞いたような気がした。次の瞬間、飛び込んできた彼女が持っていたショート・ソードはトリスに斬りかかろうとしたシノビを切り裂いていた。
 ――彼女?
 そう、彼女、だ。
 彼女は視線を辺りに走らせて、もう敵がいないのを確認してから、剣を鞘に収めた。
 そして、トリスに向き直るとぬけぬけとこう言い放った。
「や。こんなところで奇遇だね〜」
 先ほど初めて出会ったばかりの彼女。ナツミはそう言って、さっきあかなべの屋台で見せた笑顔そのままをトリスに向けた。後ろでクラレットが「それはいくらなんでもないでしょう……」とため息をついている。
「あ、そおですね……あはは……」
 そんな間抜けな言葉しか、咄嗟にでてこなかった。

「……ナツミ」
 背後から聞こえた声に、げ、とナツミが肩を竦めた。静かな、けれど確かに非難を込めたクラレットの声。ナツミがもっとも苦手なもののひとつだ。
「あなたは、どうしてそう無茶なことばかりするんですか」
 振り向いて、クラレットの勢いに押されたように一歩下がる。ナツミが一歩下がると、クラレットが一歩前に出る。
「ま、まあ、いいじゃん? 結果おーらいで」
 どうにもならない感情を押さえようとするみたいに、クラレットはこめかみを押さえた。
「いつもいつもそう上手くいくとは限らないでしょう? こっちの寿命が縮むようなことはしないでください。もう少しであなたを巻き込んで召喚術を撃ってしまうところだったじゃないですか」
 声を荒げないところが逆に怖い。淡々とお説教をするクラレットをなんとか宥めて、ナツミはまだ呆然と二人を見ているトリスを見た。
「大丈夫? 怪我とか、ない?」
「あ――はい」
 とりあえず――とトリスは思った。わからないことだらけだが、助けてもらったことはとりあえず確かだ。
「あの……ありがとうございました」
「どういたしまして――って、そっちのコ、怪我してる?」
 と、ナツミは足を引き摺っているアメルを見た。
「あ、いえ、大丈夫……です」
「大丈夫じゃないでしょ。そう言う人に限って無茶するんだよねぇ」
 ナツミの後ろで、クラレットがとても何か言いたそうにしていた。――あなたの言えたことではないでしょう?
「サモナイト石持ってる? サプレスの」
「あ、はい」
「久しぶりだから……上手くいくかな?」
 トリスから紫のサモナイト石を受け取ると、ナツミは意識を集中させる。自分の中をぐるぐる回っている力が、握っている手を通してサモナイト石に伝わって行く、そんなイメージ。
 久しぶりとはいえ、思っていたよりずっと簡単だった。ふたつでひとつ。どちらかが欠けても機能しない、いつでも自分の傍にあるもの――。
「……リプシー、おいで」
 ボールに大きな耳と尻尾がついたような、愛らしい生き物が召喚される。これでもれっきとしたサプレスの妖精ではあるのだが。
 ふわり、と柔かい暖かな光がアメルの挫いた足に降りかかる。
「ひさしぶり」
 ナツミはふわふわ浮かんでいるリプシーを抱き寄せると、頬を寄せた。
「ありがと。またヨロシクね」
 リプシーが嬉しそうに耳――羽根かもしれない――を揺らす。そして、送還の光の中に消えて行った。
「あ……ありがとうございます」
 自分の足で立つと、アメルはナツミに向かってぺこんと頭を下げた。
「どういたしまして」と、ナツミはシオンに向き直る。「で、どうするのシオンの大将?」
 悪戯っぽく、笑って言う。シオンは苦笑いのような微妙な顔をすると、
「私は、お二人を送っていこうと思っているのですが。あなた達はどうします?」
 どうする、と訊かれてナツミはクラレットと顔を見合わせた。
 どうしよう?
 と言ってみたところで、聖王都に知りあいなどいない。シオンと偶然出会えたことがもう既に幸運なのだ。そして、もう辺りは夜。いまから宿を探すのは流石に無理そうだ。
「当てがないのでしたら一緒に如何です? 今トリスさんとアメルさんが滞在している場所は――」そこで言葉切って、意味ありげにシオンは笑う。「ギブソン殿とミモザ殿のお屋敷なんですよ」
 げ、と声を洩らしたのは、果たしてどちらだったか。

「よかったのかなぁ……」
 数歩先を歩くトリス、アメル、シオンの三人の背中を眺めながら、ナツミは呟いた。
「何がです?」
 隣を歩くクラレットが訊き返してくる。
「あのコたちのお世話になっちゃって」
「……後悔、してるんですか?」クラレットはナツミに笑いかける。「首をつっこんだこと」
 ナツミは苦笑して空を見上げた。銀砂を散りばめたような星空に、蒼くすら見える月が浮かんでいる。月はリィンバウムに来る前に見たものよりも、ずっと大きく綺麗だった。 時折ちらちらとこちらを振りかえるトリスに軽く手を振ってみせる。
「……どうかな。ま、なるようになるでしょ。ギブソンやミモザさんならそう悪いことにはならないと思うし」
 だた、青の派閥にできることなら関わりたくないというのは本音ではある。ナツミは頭の後ろで腕を組んだ。自分が、じゃなくて、クラレットのために。
 まだ、クラレットはどこかで自分を責め続けている。
 後悔。
 後悔をするとしたら、クラレットも一緒に巻き込んでしまうこと。まだ過去のことを忘れさせてあげられないこと。
 いや。
(……人のことは、言えないか)
 ナツミは顔にかかった髪をかきあげた。人のことなんて言えない。自分だって、まだ後悔している。後悔なんてものは、そう簡単に消えるものじゃない。
「……ホントは、サイジェントでゆっくりしたかったんだ」
 もうしばらくの間は。戦うことじゃなくて、街の復興に、作り上げることに協力しながら。
「わかってますよ、ナツミ」
 全部分かっている。そう言いたげに、クラレットは目を細めた。
「……うん」
 それでも。台風のようにぐるぐる渦を巻きながら大きくなっていく感情をナツミは自覚した。もうそっとしておいてくれてもいいじゃないか。彼女は罪の意識に苛まれながらも、本当に大事なことは間違えなかったのだ。もう十分過ぎるほど代償は支払ったはずだ。
 まだ見ぬ敵の影が視界にちらつく。それが、かつての魔王の姿になって、そしてその魔王に取り込まれたバノッサに変わった。胸の奥がじくじくと痛む。もう二度と――誰も、あんな思いをして欲しくないから。何かが良くないことが起ころうとしているのなら、首を突っ込まないわけにはいくものか。バノッサを助けられなかったあの時のような思いは、もうしたくないから。誰にもあんな思いは味わって欲しくないから。
 ナツミは顔を上げた。トリスとアメルが振り向いてこっちに手を振っていた。こっちですよー、と。その向こうに、大きなお屋敷。
 バノッサ。不意に思い出して、ナツミはため息をついた。彼がいい人だったなんてお世辞にだって言えないけれど。
 自分を見ているクラレットの目が、不安で揺れていた。ナツミは考え事のタネをまた土の中に埋めて、笑顔を作った。ぽんとクラレットの肩を叩くと、足を進める。
 月は相変わらず大きく、蒼い。

 そして。
 クラレットは一番最後に、個人が所有するにはあまりに大きな建物――ギブソンとミモザの屋敷だ、とトリスは言っていた――の門をくぐった。
 それは、予感ではなく、確信だった。
 また、何かが起こる。渦はもうかき消しようが無いほど大きく育ってしまっている。そして、自分とナツミはその渦の真っ只中に飛び込んでしまったのだ。――積極的か、消極的かはさておいて。
 やるしかない。飲み込まれ、流され、どこに辿り着くのかはわからない。
 もしも、その渦がナツミに、ナツミが守ろうとしているものに牙を向こうとするのなら。
 ――私は、彼女を守る盾になる。



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