「マスタぁぁーー!!!」
 そんな大声と一緒に、小さな体が飛びこんでくる。ナツミは倒れないように右足を一歩引いて、彼女の体当たりを受け止める。
 それは。
 とてもよく知っている感触。
「……モナティ?」
 どうして聖王都にいるの? そう聞く前に、幻獣界メイトルパから召喚されてきたレビットという種族の少女はナツミの胸の顔を埋めて大泣きを始める。
「うえっ……ひっく……ますたぁ……ますたぁ〜……」
 ナツミはため息をついて、天井を見上げた。
 泣きじゃくるモナティを抱きとめながら、この子を置いて行ってしまったんだ、という罪悪感を覚えた。
 許して欲しい、なんて傲慢な言葉だけれど。
「……ごめんね、モナティ」
 子供をあやすように軽くモナティの背中を撫でながら、ナツミはそう囁いた。ナツミの胸に顔を埋めたままで、モナティは頷く。何度も、何度も。
「ごめん」
 もう、絶対に一人で何処かにいったりしないから。
 約束。




"長いお別れ" 3rd story
『カラー・ミー・ポップ』





 すでに夜はかなり更けている。それでも、この屋敷にいる者は全員起きて来ているようだった。かなりの人数が寝泊りしているものの、広間は余裕で全員が居ることができる広さがあった。金持ちだなぁ、とどうでもいい感想を抱く。少しでもサイジェントのみんなのところに回して欲しい気さえする。あるところにはあるし、ないところにはない。
 さっきまでずっと泣いていたモナティは泣き疲れたのかナツミの隣で眠っている。部屋まで運んであげたいところではあるけれど、こうしっかりと服の裾を掴まれていてしまっては引き剥がすことなんてできない。
「びっくりした」トリスが言った。「まさかモナティのマスターだったなんて」
「お互い様だよ。まさかあたしもここでモナティと会えるなんて思ってなかったし」
 そう言ってモナティを見る。その寝顔に、知らず知らず、顔が綻んだ。
「でもなんでモナティがここにいるの?」
「二重誓約というのを知っているかい?」
 答えたのは、ギブソンだった。
「二重誓約?」
「その名の通り、誓約に誓約が重ねられることさ。そして、二重にかけられた誓約は魔力の強い方が優先される。おそらく、君はモナティと正式に誓約を交わしてはいないのだろう?」
「あ……!」
 モナティは誓約を交わしてナツミと共にいたのではなかった。はぐれ召喚獣になってしまったところをナツミが保護したわけで――。
 彼女はマスターと呼んでくれているけれど、正式な誓約を結んでいない。
「……そういえば、前にクラレットからそゆことがあったら困るからずっといっしょにいるのならちゃんと誓約をしておいた方がいいって――」クラレットが何か言いたそうな顔をしてナツミを見ていた。あからさまにそれから目を反らす。「――言われたような気が、する」
「効力を失いかけていた以前の誓約とトリスの誓約が重なって、トリスの方の誓約が優先されたというわけだね。キミがきちんと誓約をしていたならこうはならなかったはずだが……」
「う……あはは……」
「つまり」そう言ったのは、トリスの傍にいる眼鏡をかけた長身の青年。たしかネスティという名前だったか。「仮にも召喚師であるトリスよりも、彼女の方が魔力が強いというわけですか? 先輩」
「まあ、そうなるね」答えて、ギブソンは少し苦い顔をした。失言だったか、というような顔。トリスは「仮にもってどういうことよぉ〜」とネスティにつっかかっている。
 アイ・コンタクト。
 ――ギブソン、あたしのこと言ってないのね?
 ――モナティのマスターだという事だけだよ。あのことは言っていない。
 ――そう。
 とりあえず安堵しておくべきかどうなのか。クラレットのことも言ってないようだから安堵しておくべきなのだろう。クラレットはモナティとは反対側のナツミの隣に座って、俯いている。
 見回すと、結構見知った顔がいる。ギブソン、ミモザはもとより、カイナ、エルジン、エスガルド、カザミネ。目が合うと、みんな笑い返してくれた。
 少し、嬉しくなる。
「ナツミ、すごいんだよ! あたしのことぱぱーって助けてくれて!」
 ふわ、と欠伸が洩れる。よくよく考えると、クラレットと再開したのが今日の朝。なんて今日は目まぐるしい一日だろう。頭がごちゃごちゃしてどうかなってしまいそうだ。
 あー、そだよね。帰って来たんだ、リィンバウムに。なかなか実感てわかないもんかも。
「召喚術を使ったのはクラレットさんですか?」と、アメル。
「……はい」
「クラレットさんの召喚術もすごかったよー! あたしなんかよりも全然」
「君はもう少し召喚術を勉強するべきだな。剣ばかり振りまわしていないで」
「むー、ネスぅ?」
「事実だ」
 あー、なんだろ。頭ぼーっとする。ちょっと疲れてんのかな?
「――ナツミ?」
 よくよく考えたら、クラレットとまた会えたのも今日なんだよね。まだ一日経ってないんだ。うん。今日はほんといろいろあったから――


「――ナツミ?」
 クラレットの呼びかけに、けれどナツミは答えない。突然クラレットの肩に頭を預けてきたから何事かと思って呼びかけてみると、そのまま小さな寝息を立てている。クラレットはどうしようか困ってギブソンを見た。彼は穏やかに笑うと立ちあがる。
「空き部屋があるから、ナツミはそこに運ぼう。どうやら疲れているようだし」
 そう言って、ギブソンはナツミを抱き上げた。クラレットはモナティを抱き上げるとそれに続く。小さく軽いモナティも、運ぶとなるとクラレットにはかなりの重労働だった。自覚しないうちに、かなり疲れがきているのかもしれない、と思う。
 階段を昇って奥の部屋。ギブソンに続いて入る。ギブソンがナツミをベッドに寝かせたので、クラレットもその隣にモナティを下ろした。
「ベッドは二つ在るから、君もここを使うといい」
「……ありがとうございます」
「いつ、こっちに帰って来たんだ?」
「今日です」
 すいません、と断ってベッドに腰を下ろす。気を抜くとすぐにでも眠ってしまいそうだった。どっと疲れが押し寄せてくる。
「また会えて嬉しいよ。君にも、ナツミにも」
「ナツミもきっと、そう思っていると思います」
「……いろいろと訊きたい事はあると思うが、詳しい話は明日にでもしよう。今日は休んだ方がいい」
「……はい。ありがとうございます」
 ギブソンはクラレットに笑顔を向けると、部屋を出て行く。ドアが閉まるのを見届けてから、クラレットは体を倒した。これからどうなるのだろう。ナツミの言う通り――成り行き任せ、だろうか。疲れてほとんど頭の回転しない今だとそんな考えに向かって行ってしまう。それではいけない。流されるだけではいけない。無鉄砲な彼女を助けるために。
 ナツミがこうと決めたのなら、それを持てる全ての力を使って支援する。それが自分の役割だ。誰から強制されたわけじゃない。自分で決めた、自分のあるべき場所に立っているために。彼女の隣に立っているために。
 クラレットは目蓋を擦りながら二人が眠るベッドに近付いた。二人の傍に腰を下ろす。何も悩みなんてないように安らかな寝顔。特にモナティは。
 そっと、ナツミの髪を梳いた。
 泥だらけの、穢れたココロ。なのに。彼女の傍に居るだけでそれが綺麗に拭い去られていく。どこまでも沈んでいってしまうココロを、簡単に拾い上げてくれる。
 ナツミとモナティの寝息が聞こえる。それだけで、どうして、と思うくらいに心が安らいで。クラレットはそのままナツミとモナティ、二人に寄り添うようにして倒れ込んだ
 眠りが訪れたのは、すぐだった。


「ミモザ先輩、ナツミのこと知ってるんでしょ? 教えて下さいよ」
 トリスの質問に、ミモザは苦笑いをしながらを足を組み替えた。どこまで話してもいいものやら。言葉を選ぶ。
「一年前の、無色の派閥の魔王召喚の事件のことは知ってるわよね?」
「ええと……青の派閥の魅魔の宝玉を盗み出して、無色の派閥が魔王の召喚をしようとしたのを、先輩達が阻止したんですよね?」
 トリスの言葉に、ミモザはうんうんと二回頷いた。それが、公式な結末ということになっている。ナツミとクラレットの名前を出さないように、とミモザとギブソンが判断したから。無論、グラムスなど上の人間は知っているが、報告書に文句を付けてこなかったということは一応黙認されたということだろう。
 そのせいで、二人は通常任務を外されているわけだが。
(それもそうよね)
 ミモザは思う。『あれ』は、あんな報告書程度で片付けられるような問題ではないのだ。全てを話せば、おそらく大変なことになるだろう。そして間違いなく、ナツミとクラレットの二人は青の派閥に拘束される。派閥は二人を――いや、ナツミを危険だと判断するだろう。
(――危険?)
 ミモザは薄く笑った。あの子が危険などと、一度でも会ったことのある人間なら言えないはずだ。会ったことがある上で、あの子を危険などと判断できる人間はどうかしている。さっきのナツミの寝顔を思い出す。あんな無防備な顔で眠っているあの子を。
「……ま、そんなところね。で、二人はその時に協力してくれた仲間、ってところかな」 本当は協力どころか彼女たち二人がいろいろな意味で中心であったわけではあるが。それは今話すことではないだろうとミモザは判断した。
「二人とも、すごいですよねー。ナツミさんはすごく強いし、クラレットさんは召喚術をとても上手く使いこなしていましたし」
 ぽん、と手を胸の前で合わせてアメルが言う。
「彼女は、召喚師なのですか?」ネスティがミモザに尋ねる。そのネスティの視線に少々よからぬものを感じながら、
「そうね……そうなるかな」
「そうなる、とは?」
「青の派閥。金の派閥。どちらに所属してるってわけじゃないからね」
 ぴくん、とネスティが眉を上げた。
「いいじゃないネス、そんなこと。それよりも、ナツミたちが一緒に戦ってくれるなら、すっごく心強いよね!」
 トリスの言葉に、けれどミモザは表情を曇らせた。
「正直、あんまりあの子達を関わらせたくないわね……」
「どうしてですか、先輩?」
 ミモザは長いため息を吐く。眼鏡を取って、眼精疲労をほぐすみたいに目蓋の上から目を押さえた。あの時、騒動の真ん中にいたのは何も知らない、事故で巻き込まれただけの一人の異世界の少女で。その少女とともに進む道を見出した、無色の派閥の総帥の娘である少女で。どれだけ悩んで、苦しんで、そして戦ったのか。それを見てきたから――。
 ミモザはトリスを見た。そして、ネスティを。似ている、と思うのはきっと、気のせいではないだろう。
「前の事件で一番辛い思いをしたのは、あの子達だからね……」
 願わくば。
 おそらくこれから待ち受けるであろう困難に、この可愛い二人の後輩達が負けてしまわないことを。悲しんでも、苦しんでも、打ちのめされても。それでもまた立ち上がって前に進んで行けるように。
 そう願わずには、いられない。



 ――翌朝

「ナツミっ!!」
 どごんっ、とまるでなにか破壊がされるような音がして、ドアが開く。けれど、
「……あれ?」
 それで目を覚ますような、神経の細い人間はとりあえずいないようだった。部屋に飛び込んできた少女――ミニスは拍子抜けしたような顔をして、ドアを閉めるのさえ忘れて三人がぐっすりと眠っているベッドに近寄った。
「寝てる……」
 そういえば、と思い出す。短い期間ではあったけれど、サイジェントで一緒にいた日々。彼女はいつも眠そうな顔をして起きてきた。それも誰か――リプレ、あるいはフィズ――に起こされて。
 変わらないな、なんて思って少し嬉しくなる。
「……ん」
 うっすらと。最初に目を空けたのは、ナツミだった。
「おはよ」
「はよ〜……」
 半分眠っている声で返事が返ってくる。くすっ、とミニスは笑った。カーテンを開け放すと、ほとんど真上にある太陽が角度のない光を部屋の中に投げ込んでくる。
「もう昼だよ。いつまで寝てるの!」
「うう〜、もちょっと寝かせてよフィズぅ……」
「フィズじゃないよ。おまけにここサイジェントでもないし」
「……ふえ?」
 もそもそ、とナツミが動く。それに合わせてモナティも起きたようだった。
「……おはようございますですの、ミニスさん〜」
「……ミニス?」
 ごしごし、と目を擦りながらナツミが言う。
「うん」
 がばっ、とナツミが体を起こす。その勢いでモナティがころん、と転がった。「うにゅ〜!」
「ホントにミニス!?」
「本物よ」
 真っ直ぐに。ナツミの視線を受けとめる。
「どうしてミニスが――って、ミニスの実家って聖王都なんだっけ」
「そうよ。トリスとはね」ミニスは微笑った。「トモダチ、なんだ」
「そっか」
「うんっ」
 ミニスは持っていたものをナツミの傍に置く。ナツミがそれを見て、ミニスに尋ねた。「何コレ?」
「ギブソンがね、ナツミとクラレットさんにって」
「ギブソンが?」
「わたしも中身知らないんだけど」
 中身を引っ張り出すと、そこにはよく見なれた服。
「――あたしの?」
「マスターの服ですの!」
「……へぇ。後でギブソンにお礼言っとかないとね」
 ミニスがナツミの抱えた服に触れる。「しかも、これサイジェントのキルカ織よ。高そう〜」
「サイジェントの、か」ギブソンの気遣いが、嬉しい。
「あ、まだご飯あると思うから、それに着替えたら下りておいでよ」
「わかった。ありがとミニス」
「うん」ミニスは微笑った「じゃね」

 寝起きで食欲がない、というクラレットを部屋に残して、ナツミはモナティを連れて部屋を出た。クラレットがあまり元気ないのが少し気にかかる。疲れているだけなのならいいけれど。
「マスター」
「何?」
「ますたぁ〜〜〜」
 ぶら下がるようにナツミの腕にしがみついたモナティが、嬉しそうにナツミを呼ぶ。そんな顔を見せられてしまうと、重いから、と離れてもらうわけにもいかない。置いて行ってしまったのは、ナツミの方なのだから。
「ごめんね、モナティ」
「気にしないでくださいの。今マスターが居てくれるだけで、モナティは幸せですの!」「……ありがと」
 昨日の広間には、すでにこの家に厄介になっているメンバーの大半がそろっていた。そして、道具や武器のチェックをしていたりする。
「……モナティ」
「なんですの、マスター」
「どっか、出かけるの?」
「あ、はいですの」
 と、ナツミとその腕にしがみついたモナティの二人とすれ違うようにして、長身の青年が部屋から出ていく。
「おはよ」
 青年――たしか、ネスティだったか――は立ち止まり、ナツミを見た。眼鏡の奥の瞳が細まる。お世辞にも親愛の情を示しているとは言い難い――むしろ、敵視さえされている。そんな気がする。
 よくわからないぴりぴりした空気に、モナティが体を縮めた。
「……失礼」
 それだけ言うと、ネスティは何かに追われるような足取りで歩み去っていく。ナツミはドアに寄りかかって息を吐いた。
「ずいぶんぴりぴりしてるわねぇ、彼」
「うにゅう〜……」
「ねえモナティ、あたし、なんか良くないことしたかしら」
「そんなことないですのっ。マスターがそんなことするわけ無いですの!」
「だとすると、どうして嫌われてるのかなぁ」
 そもそも始めて顔を合わせたのがつい先日だというのに。
 さっぱりわからない。
 ――まあ、それもそうか。
 状況がまださっぱりつかめていないのだ。あれこれ考えても、情報量が圧倒的に不足している。
 ――でも、ちょっと気になるな。何が気になるのかまだはっきりしないけど……。
「それじゃあ――」
 誰に聞いたらいいか。みんなが出かけるというのなら、帰ってきてからでも構わないのだけど。
 居間のの中には、知っている人と知らない人が半々くらいの割合でいた。
 その中で、知っている部類に入るトリスが、ナツミを見つけて近寄ってくる。
「ナツミ!」
「おはよ」
「着替えたんだ?」
 そう言われて、ナツミは自分の体を見下ろす。昨日着ていたのよりも、遥かにしっくりくる。
「うん」
「そっちの方が、似合ってる」
「ありがと」
 トリスは両腕に篭手のような防具。それから、腰の後ろに短剣。
「戦いに行くみたいだね、それ」ナツミが言うと、トリスは少し沈んだ顔で頷いた。
「トリスさん……」
 モナティが心配顔で声をかけると、トリスはモナティに笑顔を返した。その笑顔が無理をしているようにしか見えなくて、ナツミは小さく肩を竦めた。
 ――まったく。どうしてこう、何でも溜め込みがちなのばっかりなのか。人のことは言えないかもしれないけど。
「……怖いんです」
「怖い?」
「今日あたしたちが行くところは、禁忌の森――」
「禁忌の、森」
「そこに、きっと、答えがあるんです。デグレアが攻めてきた理由。アメルのこと。ネスのこと。あたしのこと――」
 そこまで言って、トリスは俯いた。
「……ネス、ってあの眼鏡のオニイサンのことだよね?」
「そう、ですけど」
「ヤケにトンガってたけど、いつもあんな感じなの?」
「……違います」
 トリスは首を振った。どこか、弱弱しく。そして、何かを言いかけて、口篭もる。
「トリス」
「はい」
 もう、決めていた。きっと、たぶん、この子と最初に会ったときから。だから、ナツミは彼女に笑いかけると、その言葉を口にした。
「あたしもさ、手伝ったげる」
「……え? それ、本当ですか?」
「うん」
「ますたぁ……!」
 モナティが顔を綻ばせて、ナツミの腰に抱き着いてくる。ナツミは苦笑いしながら、ぽんぽん、とモナティの頭を撫でた。
「モナティも、ずいぶんお世話になったみたいだしね」
「お世話になりましたのぉ!」
 トリスは嬉しそうな顔を見せて、けれど、すぐに表情を曇らせる。
「でも」
「でもは言いっこなし。それに――」
 モナティの体を引き剥がすと、ナツミは腰の後ろに帯びていたショート・ソードに後ろ手で触れた。サモナイトソードは今、手の中には無い。日本に帰ったときはもう持ってはいなかった。あの送還術のさなかで失われてしまったのか。それとも、サイジェントにいるみんなが回収してくれているのか。無いものねだりをしても仕方が無いのはわかっているが。
 あの戦いの余波が、今もまだリィンバウムを蝕んでいるのだとしたら。
「それに、あたしにもまったく関係がないわけでもないし、ね」
 トリスが首を傾げる。それについて追求しようと口を開きかけた彼女を、ナツミは笑顔で遮った。
「それについてはまあ、おいおいね」
「――なんの話してんだい?」
 そう言って割り込んできたのは、いかにも冒険者といった格好をした、大柄な男だった。
「フォルテ! いきなり失礼でしょ!」
 黒い髪をヘアバンドでまとめて、シルターンの巫女服に身を包んだ女性が、フォルテと呼ばれた大男の耳を引っ張って引き戻す。
「ってぇなあ! 何すんだよ!」
「あんたが、あんまりにも礼儀知らずだからでしょ!」
 どん、と彼女はフォルテの足を思いきり踏みつける。言葉も出せずに悶絶する彼を一瞥することもなく、彼女はナツミの前に歩み出てきた。
「はじめまして。トリスの友人で、ケイナです。よろしくね」
「あ、こちらこそ」
 あっけにとられて見ていたナツミだったが、慌てて差し出された手をとった。トリスはいつものことだ、なんて顔をして笑いをこらえている。
「――ナツミです。ギブソンとミモザさんの友人――ってことで」
「カイナとも知り合いなのでしょう?」
「知り合いっていうか、なんていうか……」あはは、と曖昧に笑って言葉を濁す。「ところで、ケイナさんてひょっとしてカイナさんの――」
「ええ、姉です。――でも、その記憶がないんだけど」
「そうだったんですか」
 そういえば、と彼女を見る。服装は共通したものがあるし、顔立ちなどは良く似ている。
 ナツミは部屋の中をぐるりを見まわした。どこか、懐かしい空気を感じる。
「ねえ、ナツミ」
「何? トリス」
「あの……クラレットさんは?」
 あ、そうか、とナツミは頭を掻いた。クラレットのあの調子では今日一緒に出発することなど無理だろう。かといって、クラレットをここに残して自分だけトリス達についていくのもクラレットの心情を考えたらできない。
「……っちゃぁ。まいったなぁ」
「ナツミ?」トリスがいぶかしげに見返してくる。どうしようかしばし悩んだ後で、ナツミはトリスに向き直って、ぱん、と勢い良く両手を合わせた。
 ごめんなさい、のポーズ。
「ゴメン、トリス。クラレットちょっと疲れで具合悪そうなんだ。さっき力になる、とか言っといてこんなこと言うのもアレだけど……」
 トリスはそんなナツミの様子に、にっこりと笑った。
「ナツミは、ここに残っててください。その代わり――」
「代わりに?」
「聖王都で何かあった場合は、ナツミに任せちゃうね?」
 にっ、とトリスは笑う。ナツミもそれに笑い返して、右手の親指を立てて持ち上げた。「おーけぃ。任せといて」



 トリス達が出発した後、人がいなくなってやけに静かに感じる広間で、ナツミはソファに座っていた。クラレットは軽く食事をとって、今は眠っている。少し熱があるみたいだった。
 コトリ、と小さな音が聞こえて顔を上げると、目の前のテーブルにお茶が置かれたところだった。
「どうぞ」お茶を置いたギブソンは、穏やかな表情でそう言った。
「ありがと」
 そう言って、カップに口をつける。が、顔をしかめてすぐにそれを置いた。
「……どうかしたのかい?」
 ギブソンの方は自分の分のお茶を飲んで、ほう、と息を吐いたりしている。
「ねぇギブソン」
「なんだい?」
「そのお茶と、このお茶」自分のカップとギブソンの持っているカップを順番に指差して、ナツミは尋ねてみる。「――中身、一緒?」
「そうだが、どうかしたかい?」
 平然と答えるギブソンをまるで珍獣でも眺めるかのような視線で見て、ナツミはもう一度自分の前にあるカップを持ち上げて口をつけてみる。そして、すぐに離した。さっきと同じだ。気のせいなんかじゃない。けれど、ギブソンはこれをさも美味しそうに飲んでいる。
「……ねえ、なんでゲロ甘なの?」
 ギブソンは首を傾げて一口飲んだ後、そうかい? なんて聞き返してくる。文句を言うのを諦めて、ナツミはため息をついた。天然だ。
「あらあら、ギブソンのお茶飲んでるの?」
 そう言ってやってきたのは、ミモザだった。手にはカップ。きっと自分で煎れたのだろう。こうだとわかっていたらお茶くらい自分で煎れたのに。ナツミは思いっきり後悔して天井を仰いだ。ミモザがそれを見て可笑しそうに笑う。ギブソンはいまだによくわかっていないようで、首を捻っている。
「ところで」咳払いをひとつして、ギブソンが言った。「そろそろ、聞かせてくれないか。どうして聖王都に来たのか」
 ミモザがうんうん、と頷いている。ナツミは人差し指をこめかみに当てると、眉間に皺を作った。
「不可抗力なんですよ」
「不可抗力、とは?」
「たまたまここに出ちゃっただけなんです」
 ゆっくりと、ナツミはこれまでのことを話した。それほど語ることが多かったわけではないけれど。あの戦いの後、気がつくと元の世界に帰ってきていたこと。そこへ、クラレットが自分を追いかけてきたこと。決意。そして、リィンバウムへの帰還――。
「……てっきり、サイジェントに帰るもんだと思いこんでて。他のところに出るなんて想像してなかったんだ」
「……なるほど」「ね」
 二人が頷く。
「ナツミ。こういうことを頼むのは正直気が引けるのだけど――」
「いいよ」
 唖然とした顔をするギブソンに、ナツミは笑いかける。
「な……」
「トリスを手伝ってやってくれ、って言いたいんでしょ? 全然OK。やるよ。シオンさんからも聞いたけど、無関係です〜みたいな顔してるわけにもいかないしね」
 ギブソンはそんなナツミをしばらく見ていた後、穏やかに笑って頭を下げた。
「ありがとう」
「お礼なんていいって!」
「それでも、ありがとう」
 ナツミはそんなギブソンに笑いかけた。「……大事なんだね。トリスのこと」
「可愛い後輩だからね」
「可愛い後輩……ねぇ」
 意味ありげにナツミが復唱する。ギブソンは「おいおい」と苦笑し、ミモザは声を立てて笑っている。
「ねえ?」
「なんだい?」
「ちょっと聖王都の中、歩いてきてもいいかなぁ?」
「構わないが……」
「んじゃ」勢いをつけて、ナツミは立ち上がった。「ちょっと、ぶらぶらしてくるね」
 街の中で襲われることなどないとは思うけれど、万が一ということはある。ナツミは剣を持って、腰の後ろにベルトで留めた。
「気をつけるんだよ。キミにいう台詞ではないと思うのだけれど……」
「わかってる」
 ひらひらと手を振って、ナツミは部屋を後にした。


 導きの庭園と呼ばれる場所の噴水の縁に座って、ナツミは空を仰いだ。聖王都はなかなか悪くない。けれど、サイジェントほどはしっくりこない。ぼんやりしながら、ナツミはクラレットから聞いた聖王都のことを思い返していた。
「……初代エルゴの王を祖とする、かぁ」
 つまりは、エルゴの王の後継者たることをこの王家は自称しているというわけで。
「本物のエルゴの王はここにいますよ、ってね」
 まさかそんなことを大声で宣伝するわけにもいかないし、そんな気も無いけれど。
 ふと、竪琴の音が聞こえた。
 どこからだろう。そう思って視線を巡らせてみると、少し離れた場所に銀髪の男。
 うわ、ありゃ美形だわ。
 ナツミがそう思ってその男を見ていると、いきなりそいつは振り返って、目が合った。


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