「止めないと……」
 噛み締めるように呟いた思いは、言葉になって零れていた。
「そうだね」
 ナツミは私の言葉に頷く。そのナツミの横顔が、あのトリスという少女の横顔と重なって見えた。それならば、今ここにいる私は?
 考えるまでも無い、あネスティという青年だ。
 私は知らず知らずのうちに力を込めてしまっていた手を、開いた。
 ――間に合って。
 もっとも近しいものを殺す、などと。
 そんなことをさせるわけにはいかない。
 止めてみせる。
 彼をー―かっての自分を。
 かならず、止めてみせる。
「……お願い、レヴァティーン。――急いで」
 そう。急いで。


 不利な運命に追いつかれてしまう前に。





"長いお別れ" 5th story
『やがて鐘が鳴る』






 ――怖い。
 伸ばした手を空中で止めた。
 目の前にあるのは機械遺跡。あたしの存在そのものが、封印を解く鍵になっているらしい。
 あたしは振り向いた。
 そこには、レイムさんがいる。いつもと変わらない笑顔を浮かべてあたしを見ていた。
「レイム、さん……」
「おや、どうかしましたか、トリスさん?」
「本当、なの。さっき言ったこと」
「私は、嘘は言いませんよ。あなたの本当の名は、クレスメント。呪われし一族の末裔なのですから」
 ずきん、と体の何処かに痛みが走る。
 呪われし一族。
 生まれてこない方が良かった子。
 青の派閥に連れて来られるよりも、前の記憶。曖昧だった記憶が、今ははっきりとあたしの中に再生されていた。
 食べるものも無くて。
 隣りにいてくれる人もいなくて。
 もちろん、帰る場所なんてあるわけが無くて。
「あたし……が」
「私の口から聞くよりも、それに触れればスベテが理解できますよ。そして、納得もできる」
 どうしてあたしはここにいるんだろう、と思った。確か、禁忌の森に向かう途中でレイムさんに会って、真実が知りたくないかって言われて、あたしがクレスメントの血をひくものだって聞かされて。
 あたしは、たった一人でこの人に着いて来てしまった。
 ――怖い。
 何か、ひどく間違ったことをしてしまったのではないか。そんな不安が膨れ上がって、あたしを押しつぶそうとする。
 真実を知るためなんだ。あたしはそう自分に言い聞かせた。そうでもしないと、立っていることさえ辛くなり始めていた。耳鳴りがして、足に力が入らなくなる。
「……ネス」
 口から出た言葉は、そんな、あたしの兄弟子の名前の形をしていた。どうして。どうして黙って一人で来てしまったのだろう。せめて、ネスにくらいは相談してもよかったのに。
 ――いや、そうするべきだったのに。

『いつも言っているだろう。君は考えが足りなさ過ぎる。もっと慎重に――』

 ゴメン、ネス。ネスの言うとおりだ。いつもいつも言ってくれてたのに、あたしは毎回聞き流して。ネスの言いたがってることなんて何一つ理解しようとしてなかった。
 あたしの右手が動いた。それは、まるで糸に操られる人形みたいな動きだった。あたしの自由意思はもうどこにも入りこむ余地はない。

 ――ああ、ゴメン。ネス。あたし、たぶん取り返しのつかないことしようとしてる。

 あたしの手が、遺跡に触れた。
 声紋認識。感情の無い声が、そう告げる。
「――トリス・クレスメント」
 ふわっ、と体が浮き上がるような感覚があった。目の前が何も見えなくなって、知らないシーンがいくつもいくつもあたしを通り過ぎて行く。クレスメント。ライル。アルミネ。メルギトス。ゲイル。遺跡。魔力の供給。ゲート。異界。サプレス――

 あたしは、スベテを理解した。それは思い出すという行為に近かった。

「ネスティ=ライルは、スベテを知っていたのですよ」
 耳元で囁かれる。
 ナニ?
 ソレッテドウイウコト?
「融機人の一族は記憶を継承する。ネスティ=ライルはスベテを知っていたのです。貴方達クレスメントの一族がしたことを。ライルの一族の運命も。天使アルミネをゲイルに作り変えて、異界の友を失ってしまったことも」
 理解できない。
 このヒトは――悪魔メルギトスは、ナニを囁いている?
「ネスティ=ライルが、貴方を殺しにきます」
 その言葉を飲みこむのに、しばらく時間がかかった。

 ネスが、あたしを殺しにくる?

「……うそ」
「ではありませんよ。ネスティ=ライルがあなたを排除する。それはつまり、蒼の派閥があなたの抹殺を決定した、そういうことです」
「……うそだ」
「この意味がわかりますか? もう貴方には帰る場所などないのです」
「嘘だっ!」
「それが嘘だったとしても、これを知ったら貴方のお仲間はどう思うでしょうねぇ?」

 ――あ。

 もし、帰ったとして。
 いったいどんな顔をしてネスに、アメルに会ったらいい?
 どんな言葉で謝ったらいい?

 ふっ、と力が抜けた。

「そう、それでいいんです、トリスさん。――わたしが貴方を、受け入れて差し上げますから」

 かちり、と音がした。
 それはきっと、今までなんとか止まっていた運命の歯車がとうとう回り出した音なんだろう。
 薄れていく意識の中で、最後にそんなことを思った。
 止まっていた時計の針を、あたしは動かしてしまったんだ。





「トリスがいなくなった!?」非常に珍しいネスティの大声に、ミニスがびくりと体を竦ませる。「それはどういうことだ!?」
 ミニスに詰め寄ろうとするネスティをやんわりと押し留めたのは、アメルだった。
「ネスティさん、落ち着いてください」
「……僕は、落ち着いている。で、どうしてトリスがいなくなったんだ?」
「わからないの……」叱られた子供のように――そもそもミニスはまだ子供だけれど――ミニスは肩を落とす。「朝起きたら、もういなくなって」
 それを見て、ネスティはため息をつくと、ミニスの肩を軽く叩いた。「すまなかった、声を荒げたりして。少し気が立っていたみたいだ」
 俯いたまま、ミニスが首を振る。
「トリスのことだ、そう心配することはないだろうが……時期的に、嫌なものを感じるな」
「まさか、連れ去られたんじゃ――」アメルが言った。
「それはないだろう」ネスティが即座に否定する。「あの馬鹿が黙って連れ去れるようなタマだと思うか? しかも物音ひとつ立てずに、だ。深夜番も交代でしていたし、そんなことはほぼ不可能だ」
「……でもネスティ、それだと」ケイナが髪を纏めながら、言った「トリスが、自分で出て行った、ってことになっちゃわない?」
 言いにくそうに、ケイナはその言葉を口にする。それを聞いて、ネスティも眉間に皺を刻んだ。
「……逃げた、のかもな」カキン、と音を立てて、レナードはライターを閉める。それから、ふうっ、とたいして美味そうな顔もせずに紫煙を吐き出した。
「トリスが逃げ出す筈が無い!」
「そうか? そう断言できるか?」
 くってかかるネスティに、レナードは余裕の態度を崩さずに、煙草を指先で弄ぶ。
「あいつがどんなこと考えてたか、全部分かってやれるって自身でもあるのかい? 他人の考えてること全部分かってやれるとでも思ってるのか? 思ってるとしたら、そいつぁトンデモナイ傲慢だと思わないか?」
「……っ」
「なんだかんだ言って、あいつはまだ十八のガキなんだぜ? 十八のガキが背負い込む荷物にしちゃ、重過ぎるとは思わないか?」
 まあ、とレナードは表情を苦笑いに変える。「――それを差し引いても、トリスが無責任に逃げ出すタマとは、俺にだって思えないがな」
「そうですよ!」アメルが言った。「とりあえず、このあたりを探しましょう。いなくなったのが昨日の夜の間なら、まだそう遠くまでは行ってないはずです。理由なんてトリスを見つけてからでいいじゃないですか」
「……そうだな、君の言う通りだ」アメルの言葉に、眉間の皺を少しだけ減らしたネスティが、言った「手分けして、トリスを探そう――」

「――その必要はありませんよ」

 全員が一斉に、声のした方向を振り仰いだ。
 その声を発したのは、銀髪の吟遊詩人――
「トリスさんは、遺跡の方にいらっしゃいます」
「貴方は……」
「遺跡で、私のお手伝いをしてくれているのですよ」
「……何を言っている?」ネスティが、眼鏡の下の目を細めて、レイムを睨む。
「あなたなら分かっているでしょう? ネスティ=『ライル』。かっての誓約をトリスさんに再履行していただこうと思いまして」
「な……っ!」
「サプレスとの大掛かりなゲートを開く。これが、かって『私』がクレスメントに魔力を貸し与えることを条件に結んだ誓約ですから」
 ネスティの体が一度振えた。アメルが傍に寄ってネスティの肩に触れる。
「そこで、あなたとアメルさんのお二人を招待しようと思いまして。なにしろ、因縁浅からぬお相手ですから――」
 そう言ってレイムは微笑った。
 冥い、笑顔だった。
「……メルギトス」ネスティが、震える声で呟いた。「悪魔、メルギトス……」
「ご名答です」
 メルギトスが歩を進めた。全員がそれぞれ、武器を手にとって身構える。
「……思い、出した……」
 ぽつり、とアメルが呟いた。その背中には、純白の翼。ほう、とメルギトスが声を上げた。
「召還兵器となって悪魔と戦い、滅びた天使アルミネのタマシイのカケラ……それがあたし……」
「その通りです。ニンゲンの身勝手さに滅ぼされた天使アルミネ。どうですか、アメルさん。私と共にいらっしゃいませんか? ネスティさんも、ニンゲンなどにはほとほと愛想が尽きているでしょう?」
 ネスティが、唇を噛んだ。
 アメルが、俯いた。
 ゲイルに作りかえられた時の苦痛が、恐怖が、憤りが。
 嫌らしく笑いながらトリスを殺せと命令した男の顔が。
 答えられない。そんな事は無い、と言いきれない。メルギトスの言葉に、心の何処かが――継承した記憶が、頷こうとしている。メルギトスの言葉は、するりと入りこんできて、そういった部分を揺さぶっている。
 メルギトスの嘲笑が、響いた。それに重なるように、

「みーつーけーたー!」
 その声は、空から聞こえた。

 メルギトスが剣を抜き放って、頭の上で地面と平行に掲げる。間髪入れずに、その掲げられたその剣に、空から降ってきた誰かが剣を叩きつける。受けとめられたことを悟ると、すばやく間合いを取った。
「足止めにもなりませんでしたか」
「あんたがちょっかい出さなきゃ大人しくしてたのにね。こーいうのを、藪を突ついて蛇を出す、って言うのよ」
「……おっしゃるとおりです、ナツミさん」
 ふわり、とナツミの傍にレヴァティーンが降り立った。その背からクラレットが降りると、やや疲れた様子のレヴァティーンは送還の光の中に消えて行った。
「まったく……あなたは面白い。そして、やはり怖い人だ」
「誉め言葉と思ってイイかしら?」
「ええ、どうぞ」
 軽口を叩きながらも、二人の間の空気は、見えない糸が張り巡らされているかのように緊張している。動けば糸を切ってしまう――そんな風に。

「貴方達は……どうして」
 ネスティに尋ねられて、クラレットは答えた。「ナツミが、トリスさんの身に危険が迫っている、と言ったので。それよりも、ネスティさん?」
「何か?」
「伝言です。『薬の管理はラウル師範の手に』」
「……っ!」
 ネスティが眼を見開く。間に合った、とクラレットは思った。とりあえずは、最悪の事態は回避されたのだと。
「もう貴方を縛るものはありません。ですから――」
 クラレットは言葉を切った。この言葉を言ってもいいのだろうか? 自分の口からこんな言葉を言うことが赦されるのだろうか。
「ですから、迷わないでください」
「迷う……?」
「本当に大切なものはいつだって、すぐそばにありますから……」
「……憶えておくよ」
 そう言うと、ネスティはメルギトスの方へ視線を向けた。
 これで良かったのだろうか。クラレットは自問した。こんな拙い言葉で、伝えることが出来たのだろうか。
「君たちは」クラレットは、ネスティを見た。「君たちは、どうして来たんだ。トリスが危ないからと君は言った。けれど、君たちがその危険に踏みこむ必要なんてないだろう。なのに……どうして来たんだ?」
「ナツミが、トリスさんのことを好きだと言ったから」一瞬の間をも置かず、クラレットは言葉を返した。「私はナツミを手伝う。それだけです」
「……どうして」
「ナツミには、理由はそれだけで十分なんです。好きな人を守りたいから、帰る場所を守りたいから、戦う」そう言って、クラレットはネスティに微笑みかけた。「十分でしょう?」
 ネスティは肩を竦めて苦笑いをすると、サモナイト石を取り出して掲げた。
「……確かに、十分だ。十分過ぎる」
 そう言って、意識を集中させる。サモナイト石が淡く光だし、この世界にあらざるものが実体化する。傍で見ていたクラレットが感嘆の吐息を漏らすほどの、見事な制御だった。
「ネスティ=バスクの名において、命じる――!」
 星空の機神が降臨し、その両腕をメルギトスに向かって叩きつける。メルギトスは僅かによろめいたものの、その攻撃を受けきっていた。
「先ほどの答えだ、メルギトス。僕はオマエと共には行かない。確かに、人間が皆良い心を持っているなんて、お世辞にだって言えない。けれど、僕は、僕の目に届く場所にいる優しい人達を守る。それが僕の答えだ!」
「あたしも、貴方とは行けません」アメルが言った。「あなたの作ろうとしている世界はあたしが望む世界じゃないから。あたしが望む世界は、トリスがいて、リューグがいて、ロッカがいて、みんながいて、そして一緒に笑い合える、そんな世界だから!」
「そうですか」大して落胆した風も無く、メルギトスは答える。「あなたたちの思いは、わかりました。それでは――クラレットさん、あなたはどうです? 無色の派閥の乱、その首謀者のオルドレイク=セルボルト。そのご息女であらせられる、貴方はどうですか。クラレット=セルボルトさん?」

 しん、と辺りが静まり返った。無色の派閥の乱。ここ最近のものでは、もっとも大きな反乱――ということになる。蒼の派閥から魅魔の宝玉を盗み出し、サプレスの魔王をリィンバウムに召還しようとした、その事実を。
 断片的にとはいえ、誰もが知っていた。
 クラレットは口に手を当てて、顔色を蒼白にして呆然と立っている。
 だから、あたしはレイム――じゃなくて、悪魔メルギトスに向き直った。
「……ずいぶんと、詳しいじゃない?」
「血識というものをご存知ですか? 人間の血液に溶けて体中を流れるそれを吸い上げることによって、私はその人がもつ知識をそのままいただくことができるのです」
「悪趣味」
「蒼の派閥の召還師さんからいただいた血識の中にクラレットさんのことがありましたよ。そして、ナツミさん――貴方のことも」
「で、なんて?」
 メルギトスは顔を歪めて微笑った。それは、今まで繕っていた人間としてあるべきものを脱ぎ捨てた笑みだった。見てるだけで吐き気がする、そんな笑い方。
「魔王召還の儀式の失敗によって、魔王の力のカケラを宿してこの世界に召還された不完全な魔王。それが貴方です」
「魔王!?」ネスティが声を上げた。「まさか、彼女が!?」
「違います! ナツミさんは魔王なんかじゃない!」アメルが叫んだ。
 あたしは軽く肩を竦めると、言った。「魔王だったら、どうするの?」
「それこそ、私と貴方にどれほどの違いがあるというのです? 悪魔が世界を蹂躙するのに何か理由が必要なのですか? まして魔王とそれに傅く無色の派閥の召還師。私のようなものよりも、よっぽどこの世界の脅威となるのではないのですか?」
「違います! ナツミは魔王なんかじゃない!」クラレットが叫んだ。あたしの傍に来て、メルギトスを睨みつける。
「ナツミが魔王のわけないじゃない! ナツミが魔王だっていうのなら、お母様なんて大魔王だわ!」ミニスが言って、あたしに並んだ。
「本来ならば、あなたが私に命じていた立場だったのではないのですか?――この世界を滅ぼせ、と」
 動揺する気配。
 ――そりゃ、確かにそうだ。普通は動揺する。
 メルギトスはその動揺を感じて、愉悦にその表情を歪ませている。疑心暗鬼。そういった負の感情は悪魔の好むところだから。
 あたしはそのミニスの頭をぽんぽんと撫でると、メルギトスに一歩近づく。
「ネスティ君」
「な、何か?」
「できれば、蒼の派閥には内緒でね?」
 わけがわからない、といった顔をしているネスティ君にちょっと笑いかけて、あたしはメルギトスに向き直った。
「トリスは、どこ?」
「今ごろは、機械遺跡の中でサプレスへのゲートを開く準備をしてくださっていますよ。この世界とサプレスがゲートで繋がれ、行き来が自由になる。悪魔たちも来放題、ということです」」
「それは、トリスの意思?」
「もちろんです。まあ、ちょっとだけ介入させていただきましたが」
 機械遺跡は、もうすぐそこ。
 だったら、はやく行かなくちゃ。
「そう。じゃあ、早く迎えに行ってあげないとね」
 あたしはクラレットからサモナイト石を受け取る。霊、機、鬼、獣、四色のサモナイト石。
「召還術で私をどうにかできるとでも?」
 あたしはそれを無視した。無視して、サモナイト石に呼びかける。
 囁くように。
 祈るように。
「……お願い、力を貸して」

 ――我が名はナツミ。
   誓約者にして、四界を統べるエルゴの王。

 メルギトスの顔が、驚愕に歪んだ。

 ――輪廻の輪を巡りし四つの世界よ。世界を統べるエルゴよ。

「……そんな。まさか――」ネスティが、掠れた声でつぶやいた。

 ――我が名において、願う。

 クラレットが隣りに並んで、あたしと声を揃える。
 あたしが左手を、クラレットが右手を空に掲げた。
 力を行使する時の、まるで体が浮き上がるような高揚感と、まるで何でもできるような気がする恍惚感。それは、とても怖い感情だとあたしは思う。
 でも、今は。
 言い訳に使ってるだけかもしれない。でも、例えそうだとしても。
 世界を守るだなんて大それたこと、あたしは言わない。
 今は、トリスを助けるために。
 ――目の前の悪魔を倒すために。

「メルギトス。蒼の派閥の人達の知識は、間違っているんです。それは、ギブソンさんとミモザさんが本当のことを報告しなかったから。新たな誓約者が、エルゴの王が誕生しただなんて、おいそれと公開できるはずがなかったから」
 クラレットは言った。
「私は、間違っていた。何が本当に大切なものか気付かないまま、大切なものをこの手ですべて消してしまうところだった。でも、ナツミが教えてくれたから。本当に大切なものは何か、私の在るべき場所はどこなのか、ナツミが教えてくれたから。――だから」
「クラレットは、あたしの相棒」ナツミが言う。クラレットの肩に手を回して。「世界の綻びを繕う、護界召還師」
 神龍レヴァティーン。
 鬼龍ミカヅチ。
 魔龍エイビス。
 機龍ゼルゼノン。
 四つの世界の最高位召還獣が、今一度にこの場に揃った。
「誓約者……まさか、そんなことが」
「サプレスの悪魔引き連れてリィンバウムに侵攻しようだなんて、そんなこと見過ごせるわけないでしょ?」
 誓約者。
 エルゴの意思と力を代行し、世界を守るもの。
「……誓約者……エルゴの王なんて、御伽噺でしか」
 アメルがぽつりと呟いた。それに答えるように、カイナが降臨した召還獣を遠くを見るような目で眺めながら、誰に、というわけでもなくつぶやく。
「御伽噺は、真実なのです。あの方こそが、新たにエルゴの意思に選ばれた、エルゴの王……」
 巫女が神託を継げるように、カイナは言った。けれど、その言葉も、今目の前にある光景には、何の効力も持っていないようだった。どんな言葉よりも、どんな丁寧な説明よりも、その光景が何よりの説得力を持っていた。
 絵画のような風景の中で。
 四界の最高位の召還獣を従えた伝説の当事者、ナツミは静かにメルギトスを見返していた。

「……例え魔王で無くとも」メルギトスは言った。「その力こそが世界の脅威になると、あなたこそが世界の敵にならないと、何故言いきれます?」
 ナツミは微笑った。
「信じてるから」
「何を信じると言うのです?」
「クラレットを」
 驚いたクラレットが顔を上げる。
「あたしが間違ったら、クラレットが止めてくれる。あたしはそう信じてるから」
「……当然です。そして、私が間違っていたら、必ずナツミが止めてくれる」
「うん」
 すっ、とナツミは手を伸ばした。その手の先には、メルギトスがいる。クラレットが、その手に彼女自身の手を添えた。
 その動作に合わせて、召還獣たちが攻撃体勢をとった。

 その場に満ちた光は、真昼の太陽光線よりも眩しかった。

 閃光が過ぎ去った後で。
「か……はっ……」
 誰もがその眼を疑った。メルギトスは、五体満足とは行かなかったものの、あの津波のような攻撃に耐えきって、そこにいた。
「まさか……あれだけの攻撃を受けて、倒れないなんて」ネスティが動揺を隠せずに、言った。それは、全員の思いを代弁したものだったかもしれない。クラレットが唇を噛んで、ナツミですらも表情から余裕が抜け落ちていた。
「さすが……ですね。少々侮っていたかもしれません。ゲートが開いて、魔力が流れこんでいなければ、かなり危なかった」
「……もう、ゲートは開いている?」
「まもなく、開きます。魔力の流入はもう始まっていますが……」
 ちっ、と舌打ちして、リューグが駆け出した。「今のうちに、キサマさえ倒しちまえば――!」
 それを契機に、数人が飛び出した。リューグの斧がメルギトスの左腕を斬り飛ばす。フォルテの剣が右腕を肘の下から寸断し、ケイナの放った矢が左肩を貫く。そして、カザミネのカタナが脇腹を斬り裂いた。
 がくり、とメルギトスは膝をつく。
 凄惨な光景から目を背けていた(というか、アメルに横を向かされていた)ミニスは、恐る恐るその光景に目を向けて、そして、
 そこにある光景に、目を見開いた。
 ――血が、流れていない。
 傷つけば血液が流れ出すのは当たり前なのに、それがまったくない。斬り飛ばされた腕も、まるで現実感が無く、作り物みたいだ、とミニスは思った。そして、恐怖に体を竦ませた。
 その光景が、恐ろしかった。ようやくにして、今相手にしているのは悪魔だという実感が湧いてくる。
「……私を止めたとしても、もう止まりませんよ。そして、私もこのまま滅びるつもりもない―――!」
 小さな爆発。
 眼くらましの煙。
 そして、それが張れた時――メルギトスはもうそこにはいなかった。
「……逃げた?」
「遺跡だ……!」
 ネスティが叫んで、駆け出した。全員がその後に続く。
 ナツミも走り出そうとして――足がもつれた。転びそうになったところを、クラレットに支えられる。
「ナツミ!」
「……だいじょぶ。行こう。もうちょっと、だから」
 そう、もう少し。
 だから、走れ。
 ナツミは自分に言い聞かせた。
「……はい」
 クラレットは頷く。自分だってフラフラなくせに、とナツミは思った、フラフラなくせに、それをおくびにも出そうとしない。
 顔を上げると、カイナやカザミネ、シオンらがそこにいた。心配して待っていてくれたのだろう、彼らに頷くと、ナツミはクラレットの手を離れて走り出した。
 目の前には、深い森。
 この森の奥深く――かって、クレスメントの一族がサプレスとのゲートを塞ぐために、そして悪魔の報復を恐れて侵攻に立ち向かうために召還兵器ゲイルの研究を進めていた、機械遺跡へと向かうために。
「ナツミ」
 クラレットが何か言いたそうにナツミを見ている。
「何?」
「無理は……しないでくださいね」
「その言葉、そのままクラレットに返すよ」
 クラレットはどこか哀しそうに俯く。「そういう意味では、なくて……」
「どういう意味?」
 聞き返す。クラレットは困った顔で、首を振った。釈然としないものを感じながらナツミは走り出す。
 運命の足音はすぐ後ろにまで迫ってきていること。その足音に、急かされるように。
 振り向くと、クラレットがついてきている。
 そんなことに、少し安心した。



「……来た」
 ぽつり、とトリスは呟いた。
 機械遺跡は、もはやもとの姿の面影は何処にも無かった。遺跡の在った場所には、黒い、禍禍しい色をした大きな穴が、すべてを飲みこもうとその口を開いている。そして、その穴は徐々に、大きくなっている。
 その前に、トリスは立っていた。
 さまざまな悪魔が、その穴から姿を現している。今はまだ、大した悪魔は召還されてはいないが、このままこの霊界サプレスとこのリィンバウムとを繋ぐゲートが開ききってしまえば、メルギトス、否、魔王クラスの悪魔だって自由にリィンバウムとの行き来が可能になるだろう。
 それがいったいどういった現象をこのリィンバウムにもたらすか。
 今のトリスには、そんなことどうでもよかった。どうせ、もうこの世界に自分の存在することのできる場所などないのだから。
「来ちゃったんだ、ネス」
 足音が聞こえる。
 もう少しで、あの人はここにやってくる。
「……あたしを」
 トリスは、アヴィスという銘の付いた、メルギトスが置いて行った短剣を握り直した。
 ――あたしを、コロすために。
 


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