「やああああっ!」
 トリスの短剣がメルギトスを貫く。トリスはその短剣を引きぬくと、すばやくメルギトスから離れて横に跳んだ。僅かな時間差で、あたしとネスティ君が同時に放った召還術がメルギトスを直撃する。
 メルギトスは倒れていた。けれど、それもそう長いことではない。倒しても倒しても立ち上がってくる。これで何度戦闘不能にしただろう。三回――いや、四回だ。いいかげんうんざりする。
「……無駄ですよ」
 倒れたままで、メルギトスは言う。まだ起き上がれないようだが、それも時間の問題だろう。
「このサプレスで私を完全に滅ぼすことなど、できないのです。決して」
「くっ……」ネスティ君がうめく。「最初から、僕達をここにおびき寄せてから倒す積もりだったのか……!」
「ここにいる限り、あたしたちに勝ち目はないってこと!?」トリスが言った。
「……そういうことになる」
 ……まずいなぁ。
 あたしはそんな事を考えながら、メルギトスを睨みつけていた。さっきの召還術で、大きいヤツはもうほとんど打ち止め。剣だけで戦うのはさすがにつらい。
「……どうしたらいい、ネス?」
 ネスティ君は、トリスの問いに答えない。答えないで、アメルと視線を交わす。
「……ネスティさん」
「それしか、ないと思うか?」
「……はい」
 ネスティ君とアメルは二人で頷き合うと、あたしとトリスを見る。何かの決意を瞳に宿して。
「ここは僕達が食い止めるから、君達二人は今すぐ戻るんだ。そしてトリス。君は外からこのゲートを閉じろ」






"長いお別れ" -7th story-
『ドルフィン・ソング』






「は……?」
「あたしの聞き間違いだったらいいんだけど」憮然とした顔で、ナツミは言った。「今、なんか二人をここに残してさっさと逃げろ、って聞こえたような気がするわ」
「それで正解だ」
「ちょっとネス! それってどういうことよ!」
「早く行くんだ! メルギトスが行動を再開する前に!」
「ふざけないで!」
「僕は真面目に話している」
 ネスティに詰め寄るトリスを、アメルが抱きかかえるようにして押し留めた。
「トリスさん! このままメルギトスをリィンバウムに行かせるわけにはいかないんです。誰かがこのゲートを閉じてしまわないと、あたしたちがこれまで頑張ってきたことが全部意味の無いものになってしまうんです!」
「ネスとアメルを一緒に封印しちゃえって言うの? そんなのできないよ!」
「やるんだ、トリス」ネスティの声は、優しかった。「ゲートは、クレスメントの記憶を持っている君にしか閉じることができない。だから、君が行くんだ」
「でも、でも……!」
「あたしたちだったら大丈夫ですから」アメルが微笑む。
「迷ってる時間は――」ナツミが言った。両手を突き出して、召還術の構えを取る。
(持つかな……?)
 メルギトスが起き上がる。その後ろに黒い影。きっと、その影がメルギトスの本体なのだろう。実体を持たない、だから、マナが常に流れこむこの場所では死ぬことがないのだ。
「無さそうだよっ!」
 召還術は、発動できた。その光を浴びて、メルギトスが吹き飛ぶ。けれどそれも時間稼ぎに過ぎないこともわかっていた。
 ――まだ、イケる?
 ナツミは自問して、笑い出した膝に手をついて、前を見た。
 自分で限界だと、そう思ってからが勝負。そう言ったのは部活の顧問の先生だったろうか。ナツミはそんなことを考えて、けっこう余裕あるじゃん、と無理矢理笑った。
「トリス、行って!」
「でも……!」
「でもは無し! あーもう、ネスティ君、アメル、引っ張ってさっさと連れてっちゃって!」
「君はどうするんだ!?」
 ナツミは振り向くと、笑った。たぶん、笑えた。
「ほらあたし、誓約者だし?」
「そんなの!」
「ネスティ君、行って」
 ――なんでかなぁ。
 ナツミは考えていた。どうして、こんなことしちゃうんだろうか。痛いのヤだし、疲れるのもヤだ。だったらこんなことに首突っ込まなきゃいいじゃない。
(……無理だよね)
 知っている。
 目の前で大切なものが失われてしまう怖さを。その瞬間の、体を裂かれるような無力感も。
「……すまない」搾り出すように、ネスティが言った。そして、トリスを抱きかかえてくるりと背中を向ける。
「ヤだよ、ネス! こんなのダメだよ――!」
「……ナツミさん」
「ヤだなぁ、別に、ギセイになろうだなんてこれっぽっちも思ってないよ。ただ、ちょっと先に行ってて、って言ってるだけ。ちゃんと勝算はあるんだよ」
 この状態で、どうしてそんな言葉が信じられる?
 ヤだ。
 怖い。
 逃げたい。
 死にたくなんて、ない。
 そんな風に思っているはずなのに、それはまったくナツミの表面に現れない。ただ穏やかに笑って、早く行けと訴えるだけ。
「……信じて、ますから」
「ありがと」
 アメルはくるりと身を翻すと、ネスティを追いかけて走って行く。それを見送ってからナツミはメルギトスに目を向けた。彼はもうそこに立っていて、三人が去って行くのを黙ったままで見送っていた。
「あれ? 追わなくていいの?」
「あなたを目の前にして隙を見せるほど、私は学習能力が無いわけではありませんので」
「そりゃどうも」
「けれど、もう限界でしょう?」
「かもね」
 メルギトスの手に、剣が現れる。それを見て、ナツミは剣を握り直した。
「ナツミさん、もう一度だけ訊きます。私とともにいらっしゃいませんか?」
「魔王じゃなくても?」
「力など関係ありません。あなたという存在の在り方が、私は欲しいと言っているのです」
「わお。大胆」
 メルギトスは苦笑めいたものを表情に出すと、斬りかかってくる。横薙ぎに振われたメルギトスの剣を、ナツミは体の横で剣を立てて受けた。
 ――重い!
 いや、違う。ナツミは思いなおす。メルギトスの斬撃が急に重くなったわけではない。ただ、自分の体力が底を尽きかけているだけだ。
「どうしました? 反応が鈍いですよ?」
 茶化すように、メルギトスが言う。
「うっさい!」
 力を入れて、押し返す――が、動かない。メルギトスが剣を振り切る。ナツミはそれを受け止めきれずに、後ろに飛ばされた。
「いった……」
「先ほどの質問にまだ答えてもらっていませんが?」
「……どんな答えをお望み? 『イヤだ』でも『NO!』でも『お断りよ」』も『寝言は寝てから言いな!』でも、お好きなのをどーぞ!」
 それを聞いて呆気にとられた顔をした後、メルギトスは笑い出した。しばらくの間笑い続ける。
「まったく、あなたは面白い人だ」
 唐突に笑うのを止めると、人間らしい感情をすべて消し去った表情でナツミに近づく。そして、剣を突き付けた。「この状況でそんなことが言えるとは」
「メルギトス」ナツミは言った。「どうして、リィンバウムへ侵攻するの? どうして、リィンバウムで、そのまま人間として生きていけなかったの?」
「可笑しなことを訊きますね。それは私が「悪魔」だからに決まっているでしょう? 悪魔の存在意義は『滅ぼす』こと。ですから、私はそれを実行しているだけです」
「嘘」
「何がです?」
「悪魔だから、なんて。そんなこと、ない」
「どうして人間であるあなたにそんなことが言えます?」
「……どうしても!」
 ナツミは足を跳ね上げると、剣を持っているメルギトスの腕を蹴った。メルギトスが怯んだその隙に、二回転がり起き上がる。
「悪魔だって、天使だって、あたしたちと同じように考えることができる。本能? そんなの嘘っぱちだ! リィンバウムにはいろんな世界から来たみんながいる。その誰もが本能なんてものだけに従って生きているなら――世界はとっくに崩壊してる!」
「……言葉遊びは、終わりにしましょうか。貴方を殺して、ゲートが閉まってしまう前に、トリスさんを殺してしまわないといけませんから」
「素直に殺されてあげると思う?」
「もう体力も残ってないでしょう?」
 メルギトスが斬りかかってくる。ナツミはバックステップしてそれを避けると、腰溜めに剣を構える。
「我が名の元に、汝を銘ず! 闇より出し漆黒の刃よ、我が呼び声に答え、我が敵を貪れ!」
 ナツミの周囲に、五振りの黒い刃が召還される。
「そんな召還術が――」言いかけたメルギトスの言葉が止まる。
 闇の刃――ダークブリンガーはそのままでは放たれず、五本全てがナツミの手にしている剣に吸い込まれて行く。そして、ナツミはダークブリンガーを憑依させて、黒く染まった剣をメルギトスに向かって振り下ろした。
 黒い雷が暴れまわり、メルギトスを吹き飛ばす。
 けれど、そこまでだった。
 ナツミはその場所に、膝を突いた。
 呼吸が荒い。体が自分の物ではないように、重い。
 ナツミは顔を上げた。それだけの行為が、ひどく困難だった。視線の先で、メルギトスがゆっくりと起き上がる。
「まだそんな余力を残していたとは――」
 メルギトスの言葉は最後まで紡がれることはなかった。
 違和感。
 流れが変わる。
 空間の位相がスライドする。
 今までリィンバウムの方へ向かって流れていたマナの流れが塞き止められて、ぐるぐると回り始める。密度が増加し、不快感が増す。吐き気を堪えるように、ナツミは口元に手を遣った。
「……閉じた」
 うめくように、言う。
 これで、勝ちだ。
 ナツミは立ち上がったメルギトスを見上げ、薄く笑った。
「……あたしたちの、勝ちだ」


 ――ありがとう、クラレット。
   あたしを信じてくれて。


「……やってくれましたね」
「人間サマを舐めてるからよ」
 座りこんだままであたしは言う。今度こそは、本当にもう動けそうに無かった。
 ――ちゃんと帰るって、言ったんだけどな。
 無理かもしれない。そんな考えがあたしを支配し始めている。
「あんたの敗因は、最後まで人間を馬鹿にしてたことよ。リィンバウムで、人間としてしばらくは生きてたんでしょう? もうちょっと、人間のことわかっててもよさそうなもんなのに」
 メルギトスは答えない。ただ黙って、そこに佇んでいる。手を伸ばせばあたしの首に届く。そんな位置で。
「本当に、人間の一面しか知らなかったわけじゃない? 天使でも悪魔でもない人間は、だけど、どっちにだってなれるって、そう言ったのはあたしの世界の昔の詩人だったかな」
「……さしずめ、あなたは天使ですか」
「まさか。あんたが気に食わなかっただけ。人の心を弄んでなんとも思わない、あんたが」
 あたしが天使だなんて、そんなのお笑いだ。あたしは自分が身勝手な人間だって知ってるから。人の命だって奪える人間だって、知ってるから。
「今は道を絶たれてしまいましたが」メルギトスはあたしの首に手を添えた。振り払おうと手首を掴んだけれど、まったく動かない。「……また、新たなゲートを探しましょう。悪魔に寿命というものはない。時間は幾らでもあります。――貴方がた人間と違って」
「また、あたしみたいなおせっかいが、邪魔するわよ」
「それはそれは、楽しみですね」
 メルギトスがあたしを小馬鹿にした顔で、嘲笑う。
「あなたの血識、いただきましょうか」
 メルギトスの顔がゆっくりと近づいてくる。両手を押さえられたまま体重をかけてくるメルギトスに、あたしは嫌悪感しか感じなかった。
「……くっ」
 メルギトスが口を開ける。その口は、あたしの首筋に。
 ――ああ、ホントにここまでかなぁ。帰れない。クラレット、ゴメン……


 死んだら、バノッサと逢えるかな?


『情けねェなぁ』

 バノッサがあたしを嘲笑っていた。

『ああまったく情けねェ。こんなヤツに殺されたんじゃあオレ様も浮かばれねェ』
 な……っ。
『なんにも成長してねェんだなあ、はぐれ野郎』
 うっさい、バカ!
 なんであんたにそんなこと言われなくちゃならないのよ!
『おいおい、恨み言の一つや二つ言う権利はあるだろう?』
 死人の出る幕なんてないのよ!
『どうせ、オマエもすぐに仲間入りだろ? だったらイイじゃねぇか』
 ……。
『どうした? ぐぅの音もでねェか?』
 ……さい。
『ああ? 聞こねェな』
 うる……っさいのよ! 誰が死ぬですって! あたしが死ぬわけないでしょ! あたしは目いっぱい生きて、幸せな人生送って、死んだらそっちであんたに「人生ってこんなにスバラシイものなんだよ」ってイヤって程語り尽くしてやるんだからッ!
『……だったら、生き抜いてみせろよ。人生ってヤツがどんなに素晴らしいものなのか、オレ様に語ってみせろよ』
 当然でしょ!
『はっ! こんなところで諦めてる野郎に何語られたって鼻で笑い飛ばしてやるけどな!』
 この――

「――言いたいことばっかり好き勝手に言いやがってちょっとは黙れこの陰険悪辣美白ストーカー大魔王ーーーーーーーーッ!!」

 あたしは両手でメルギトスの胸を突き上げた。メルギトスの目が驚愕の色に染まっている。よろめきながら、メルギトスがあたしから離れた。ずるり、とメルギトスの胸から何かが抜ける。
 その『何か』はあたしの手の中で、周囲の闇に負けないようにぼんやりと光る、剣の形をしていた。馴染んだ感触。見覚えのある刀身。あたしが使っていた、サモナイトソード。
 あたしは立ち上がる。
 まだ体は重かったけれど、さっきよりは動くのに苦痛を感じなかった。
「……バノッサ」
 夢だったのだろうか。
 ――夢だって、構わない。
 メルギトスが胸を押さえて、うめく。
 あたしはサモナイトソードを握る手に力を入れた。
 まだ、動ける。
 あたしはまだ負けてない!
 バノッサからの、贈り物。
 それは、あたしのただの思い込みなのかもしれない。その確率の方がずっと高いだろう。だけど、そう思いたかった。
 あたしがそう思った。だったら、それで理由は十分。
「……ははっ」
 笑いが漏れる。メルギトスが怪訝そうにあたしを見ていた。きっと気でも触れたのだと思っているのだろう。勝手に思ってろ。あんたなんかにどう思われたって知ったことか!
 ぱん、と空間に穴が開く。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ――。
 ポワソ。タケシー。グリムゥ。リプシー。プチデビル。ルニア。プラーマ。ブラックラック。パラダリオ。天兵。ガルマザリア。エルエル。ツヴァイレライ。レヴァティーン。
 あたしの知っている、ありったけの召還獣を呼んだ。誓約者でも、エルゴの王としてでもなくて、あたしの声で。
「まさか――」
 体の中に、こんこんと涌き出る魔力の泉があるみたいだった。
「メルギトス」ガルマザリアが言った。「サプレスは、リィンバウムへの侵略を望んではいない。引かれよ」
「悪魔が……それを言うのか」
「悪魔とて、エルゴの意思には逆らえぬ。世界はエルゴの作ったものだ。そして、彼女はエルゴの意思の代行者」
 なにより――、とガルマザリアは言った。「世界同士のいさかいはもう終わりにしたい。これは我、ガルマザリア自身の意思でもある」
「ニンゲンがかって何をしたか――」メルギトスが言った。「忘れたわけではあるまい、天使よ!」
「忘れはしません」エルエルが答える。「しかし、いつまでそれを引き摺る積もりですか」
「ニンゲンなど、いつまでたっても変わりはしない。それは良くわかっているはずだ!」
「我もかってはそう思っていた」ガルマザリアが言う。「けれども、今代のエルゴの王が彼女のようなニンゲンであるなら……もう一度信じてみるのも、また一興」
 リプシーがあたしの胸に飛び込んでくる。あたしはそれを受けとめて、抱きかかえた。
「我が主よ」ガルマザリアがあたしを見て、言った。「我等に誓えるか? 過ちを教訓とし、共に手を取り合う未来のために歩んで行けると、我等に誓うことができるか?」
 ぽんぽん、とあたしはリプシーを撫でる。
「難しく考えなくてもいいのです。あなたらしくいられますか、ナツミ?」エルエルが問う。
 そんなの。
 問われるまでも無い。

「――当然!」

 劇的に。
 辺りの色が切り替わった。

 召還されたみんなが、一斉に攻撃する。
 天使エルエルが、あたしの肩に手を置いた。翼を広げて、あたしを包み込む。
 憑依召還術。
 エルエルが、あたしの体に憑依した。ぼっ、と体が燃えるように熱くなる。
 掲げた剣に、ガルマザリアが憑依した。剣があたしの体の一部になったみたいな、一体感。
 天使の力と、悪魔の力。
 それからあたし――人間の力。
「――メルギトスっ!」
 みんなの集中砲火の中で動けないメルギトスに、あたしは一直線に飛びこんだ。メルギトスの体じゃない。その後ろに見える黒い影に、あたしは刃を根元まで突き立てた。メルギトスが動きを止める。あたしは、突き立てた剣を、まっすぐに、真下に斬り下ろした。

 影が、両断された。

「ぐう……あああああああッ! まさか、まさかこんな……!!」
 あたしは剣を持っていないほう、左手をメルギトスに向かってまっすぐに伸ばした。
「メルギトス。あなたは――人として生きている時に、何も学ばなかったの?」
「……たっぷりと見せてもらいましたよ。ニンゲンの、醜さをねぇ!」
「トリスとアメルは、あなたを信じていた」
「お馬鹿さんですねぇ。お馬鹿さんで、可愛らしいですよ」
「二人を信じることができたら……あなたもきっと、リィンバウムで生きていけたのに」
「……ありえない仮定ですね。私は悪魔で、貴方達は人間です」
 どこまで行っても交わらない平行線。
「それでも、あたしはリィンバウムが好き。そこに住む人達が好き。今ここにいて、あたしを助けてくれるみんなが好き」
 だから。
 あなたを行かせるわけにはいかないの。
 あたしの体に憑依している天使と悪魔の力を媒体にして、もっと強い力が流れこんでくる。あたしはそれが、あたしの中に踏み込んでくることを受け入れた。
 エルゴの力がメルギトスを包み込んだ。周囲のマナを遮断し、メルギトスに再生のための魔力を与えない。
 あたしはゆっくりと、メルギトスに近づく。
「……エルゴの力……まさか、貴方は、自らの体にエルゴを降ろしたと……」
「前に、サプレスのエルゴの力の一部、取り込んだことあるからね。相性は悪くないみたいだよ」
「そんなことをして、貴方の自我が持つはずがない……」
「そうかもしれない」
 メルギトスを完全に消滅させられるだけの力を行使するとして。エルゴの力をそこまで引き出してしまうと、力に支配される――いや、エルゴと同化してしまい、その一部となってしまうかもしれない。橋本夏美という人格は消え失せてしまうかもしれない。
「でも、あたしはそうならない」
 そう、信じたい。
 クラレットが、あたしの帰りを信じて待ってくれているくらいには、自分を信じてあげたい。クラレットが信じてくれるあたしを、もうちょっと信用してあげたいから。
「誰であろうと、そう思うんです。そして、その思いは叶わずに裏切られる」
「信じられない、て哀しいことだよ、メルギトス」
「そんな感情、持ち合わせていませんよ」
「……嘘ばっかり」
 もう、話すことはなかった。
 意思が白熱していく。
 あたしじゃない、何かに。
 内側から溢れるものが、あたしという殻から滲み出る。そして、輪郭も何もかも消えて。
 そこに在るのは。ただ一羽の矢だった。番えられ、引き絞られ、打ち出される。刹那よりも早く、けれどスロー再生のようにゆっくりと、その矢は静止したような時間で空間を駆けて。

 そしてメルギトスの胸に突き立った。

 光が爆発して。
 その光の中でメルギトスが完全に消滅するのを見届けてから。
 ――あたしは、意識を手放した。




 先ほどまで口をあけていたサプレスへのゲートは、今はもう綺麗さっぱり消えて、もとの地面が見えている。
 トリスはその場所に膝を突いた。両手が重い。これはきっと、後悔の重さだ、と彼女は思った。自分を助けてくれたナツミを引き換えにしてしまった、後悔の重さ。
 涙が滲んだ。
 ――こんな終わり方って、ない。
 誰もが声を発しなかった。これでリィンバウムは落ち着きを取り戻すだろう。けれど、それが一人の命と引き換えだという現実に、素直に喜べるわけが無い。
「……トリス」
 ネスティの声も、ひどく遠い。声だけじゃない、周囲の全てが、薄い膜で覆われてしまったみたいにぼんやりしている。
「トリスさん……」
 アメル。ねえ、教えて。本当にこれでよかったの? こんな終わり方でよかったの? こんな結末のために、今まで頑張ってきたの?
 誰かを犠牲にして終わる。そんな結末を選ぶために?
「トリスさん」
 肩を優しく叩いたのは、クラレットだった。トリスが顔を上げると、クラレットは微笑っていた。それが精一杯の強がりの笑顔だとわかって、トリスの目から大粒の涙が零れ落ちた。
「ナツミは帰ってきます。絶対に」
 そうでなければ赦しません。そう言って、クラレットが顔を上げる。その視線は、つい今しがたまでゲートの開いていた方を見つめていた。
「……ナツミ」
 けれど、その声に答えるものは無く。

 誰も、その場を離れようとしなかった。もちろん、クラレットには離れるつもりなどなかった。何日だって、何年だって、待ちつづける積もりだった。ナツミは帰ってくると言った。だから。
 神頼み。
 ナツミたちの国にはそんな風習があると、以前聞いた。
 ナツミの世界の神でもいい。エルゴ達でも。ナツミを還してくれるのなら、悪魔の囁く声にだって耳を貸そう。
(……あなたは……)
 訊こうとして、訊けなかったこと。クラレットは唇を噛んだ。どうして行かせてしまったのだろう。ナツミがなんと言おうと、付いて行くべきだった。
 リィンバウムに帰ってきて。
 何度か戦いがあって。
 その度に飛び出して行く彼女を見て。
 ふと、心に湧いた疑念。

 ――もしかして、ナツミ。あなたは。
   自分の価値を、見誤っていませんか?

 世界にたった一人の、かけがえのない人。
 クラレットは祈るように、胸の前で両手を合わせた。
 ふと、声が聞こえたような気がした。
 クラレットは顔を上げる。
「……ナツミ?」
 その声は、他の誰の声よりも、心から聞きたいと願う声――。
 瞬間、クラレットは脳がそうしようと命令を下すよりも早く、行動を開始していた。荷物をひっくり返し、一冊持ってきていたノートを捲る。該当のページを広げたままに固定すると、専用の魔術的な要素が付加された染料を使用して地面に魔法円を描いていく。
 ナツミがいる『名も無き世界』と『リィンバウム』を繋げようとした、それの応用だ。
 できるはずだ。
 今度は、まったく未知の『名も無き世界』ではなく、ある意味もっともよく知っているサプレスなのだから。
 いったん閉じたゲートをこじ開ける。トリスやネスティ、ミニスなど召還術を学んでいるものにはクラレットがしようとしていることが理解できた。
 理解できて、けれど。
 誰も何も言えない。
 そして、しようとしていることだけは理解できても、彼女が今刻んでいる呪の内容を理解することはできない。それは、送還術という今では失われてしまったものであり、蒼の派閥でも封印指定を受けている、秘匿された書物の中にしか存在しないものだったから。
 ゲートが開く。
 人一人分の、小さなゲート。

 クラレットは、迷わずそこに飛びこんだ。




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