「――おい、はぐれ野郎」
 買い物袋を手に下げたままナツミが振り返ると、そこには不機嫌そうな顔をした――とはいってもいつものことなのだけれど――バノッサがいた。
「バノッサ」
 ナツミが笑いかける。バノッサはさらに仏頂面になって目を逸らした。これが、照れ隠しだってわかっている。わかっているから、ナツミは嬉しくなって、また笑った。
「あ、そうだ」
「ンだよ?」
 ナツミはバノッサの手を引いて、路地の隅に移動する。不満そうにしながらも、バノッサは黙って引っ張られてくれる。段差の在るところに座ると、バノッサにも隣に座るように促す。
「買い物してたら、いいの見つけたんだー」
 買い物袋の中に手を突っ込んで、二つ、パンのような。けれどもっと柔らかい生地の丸い食べ物を取り出す。
「……なんだよ、コレ」
「あたしの世界にもあるんだけどねー。肉まん、っていうの」
「肉?」
「いいから食べてみてよ、美味しいから。ほーら」
「……何してんだよ、こんなところで」
「ナニって、買い物の帰り。肉まん食べてる」
 はぁ、とため息を吐いて、バノッサは肉まんを受け取るとナツミの隣りに座った。
「オレとテメェは敵同士だ。わかってんのか?」
「……わかってる。だけど、今は戦う時じゃないでしょ?」
「わかってねェな」はっ、とバノッサはナツミの言葉を鼻で笑う。「オレとテメェが顔を合わせりゃ、それがいつだって、どんな時だって、それは戦う時なんだよ」
 ぱくり、とナツミは肉まんを齧る。口の中のものを飲みこんで、バノッサを見て、何かを言うとして。けれど結局言葉は何もでてくることはなくて、また肉まんを齧る。その様子を見て、バノッサは肩を竦めると、彼もナツミから手渡された肉まんに口をつけた。
「……そんな言い方しなくたって、いいじゃない」
 ぽつり、とナツミは言った。俯いた顔を上げないままで。
「言い方変えてみたって現実が変わるわけじゃないだろ」バノッサは肉まんを信じられないことに三口ほどで食べてしまう。「違うのか?」
「ちが……わない」
「そうだろう」
 満足げに頷くと、バノッサは手を払う。
「で、何やってんだこんなところで」
「何、って」
 バノッサはあたしを小馬鹿にしたように笑って、肩を竦める。「まさか、気付いてないなんて言わないよな?」
「……何、を」
「ここが、サプレスのエルゴが見せる夢の中だっていうことをだよ」






『長いお別れ』






 世界の隙間を転がりながら、
 夢から覚めた夢を見る


「バノッサ」
「何だ?」
「どうして、エルゴの中にいるの?」
「知らねェよ」
 カキン、と音がした。あたしがバノッサの方を向くと、バノッサがライターで煙草に火をつけたところだった。抗議の意思を込めて睨んでみたけれど、バノッサは気にした風も無く煙草をふかしている。
「まあ、同化した魔王が滅びる時にオレ様の魂も一緒にサプレスに引き摺りこまれたんだろう。エルゴってヤツは全ての生命の温床らしいからな」
「……煙草、止めようよ」
「お子様はコレだからな」
「誰がお子様だってのよ!」
「オマエ」
 にやにや笑いながらバノッサはあたしを見ている。ムカツクのに、何故か怒る気にはなれなくて、あたしはため息を吐いて力を抜いた。
「……このままずっとここにいるつもりか?」
 ふわり、と紫煙が揺れる。あたしは露骨に嫌な顔をしてぱたぱたと手を振る。そして、バノッサが言った言葉の意味を考えた。それを理解するまでに少しのタイム・ラグがあった。
「……それって、あたしは帰れるって、そういう意味?」
「さぁな」
「ちょっと!」
 詰め寄りかけたあたしに、バノッサは火のついた煙草の先端をあたしに突き付けた。
 バノッサの向こう。あたしのよく知っているサイジェントの路地。ゆらり、と景色が昔テレビか何かで見た蜃気楼みたいに揺らいだ後、メルギトスと戦っていた時のような無色の背景に変わった。
「テメェ次第だよ。――『ナツミ』」
 バノッサは人差し指と中指で弾くように煙草を放り投げる。それは弧を描いて、あたしの前に落ちた。
 帰る――クラレットのところへ。
 残る――バノッサのところに。
「選べって、そういうの?」
 バノッサはまた煙草に火をつける。風の無いこの空間で、先端から上がる煙はまっすぐに上へ昇っていた。あたしはその煙の先頭が何処に行くのか知りたくて見上げてみたけれど、先は遠すぎて見えない。
「……オマエ、なんか履き違えてんじゃねェのか?」
「どういうこと?」
「オレは、もう死んでるんだぜ?」
 あたしは唇を噛んだ。そう、その通りだ。バノッサはもう死んでいる。他の誰でもない、あたしが殺したんだから。
 今更何を願っていたのだろう?
 バノッサを殺してしまったあたしに、こんな風に二人でいられる夢を見る資格なんて、ないのに。
 バノッサが、剣を抜いた。
 それを、あたしの喉に突き付ける。
「抜けよ」
「……やだ」
「一回殺したんだ。一回も二回も変わらないだろ?」
「やだったらヤだ!」
「……ガキ」
「うるさい!」
 脊髄反射的な行動だった。突き付けられたバノッサの剣をかいくぐって、バノッサの襟を引っ掴む。バノッサは少し目を開いて、後ろに倒れた。
「なんで! なんであの時、わざとあたしに殺されたのよ! 殺したくなんて無かった。あたしは、あなたを助けてあげたかった! そりゃ、誰かを救えるだなんてそんなことあたしにできるなんて思ってないけれど、でも、でも――!」
 それ以上は声にならなかった。あたしはバノッサに馬乗りになったままで、彼の胸に顔を押し付けた。きっとぐちゃぐちゃな酷い顔をしているだろうから、見られなくなかった。
「……好きだったんだ。バノッサのこと」
 液体みたいにぐにゃぐにゃして固まっていなかった気持ちが、今の言葉で固体に変わった。言葉が先。それがあたしの口から出た。その事実で、あたしはやっと自分の気持ちに気付いた。
 けれど。
「知ってたよ」
 あっさりと。
 バノッサはそんなことを言う。
「……へ?」
 そんな間抜けな声をだして、あたしは顔を上げた。バノッサはにやにや笑いながらあたしを見ている。
「しし、し……?」
 バノッサの指があたしの頬を撫でる。そうして、あたしの頬を離れたバノッサの指が濡れているのを見て、あたしは自分が泣いていたんだとわかった。
「知ってた、て言ったんだよ。わからねぇとでも思ってたのか? 悪いがオレ様はただ立ってるだけの樹じゃないんでね」
「ううう、うそ……?」
「なわけねェだろ。バレバレじゃねぇか」
 くらり、と世界が歪んだような気がした。
 まさか。
 まさか。
 あたし自身もはっきり自覚できたのは、たった今なのに――。
 そんな事を考えて呆然としてふと気がついたとき、すぐ目の前にバノッサの顔が合った。唇に、何かが押し付けられる。それがなんなのか、考えるまでも無かった。ものすごく動揺していたのに、あたしは、バノッサの瞳の中に映っている自分を眺めて、ずいぶんと間抜けな顔をしているなー、とかそんなことを考えていた。
 バノッサの顔がゆっくりと離れていく。
「オレも、オマエのことが好きだぜ」そう言って、バノッサは笑った。あたしの知らない、すごく魅力的な笑い方だった。「……もっとも、それに気付いたのは死んでからだったけどな」
 バノッサの笑った顔と、その顔で言ったバノッサの言葉があたしにはひどく切なくて。いろんな感情が一度に押し寄せてきて、あたしはまた泣いた。
 情けないな。
 泣いてばっかりだ。
「……みっともないね」
「何がだ?」
「あたし、泣いてばっかり」
「そうだな」
 あたしは軽くバノッサの頭を小突く。「……こういうときは、そんなことないよ、って言うの!」
「知るか」
 そう言って、バノッサはそっぽを向く。その時になってやっと、あたしは仰向けに倒れたバノッサに上に馬乗りになっているままだということを思い出して、ちょっと慌ててバノッサから降りた。
 あたしが離れて、バノッサが面倒くさそうに起き上がる。
「もう行け」バノッサが言った。
「……うん」あたしは答えた。
「バカみたいだね」いつもの声で言おうとしたけれど、その声は何故か震えていた。「どうして、もっと早く気付けなかったんだろう」
「バカみたいだな」バノッサは言う。「もうちょっとだけ早く気付けてたら、たぶん別の道があったろうにな」
 そう言って、あたしたちは二人で微笑みあった。
「でもね、バノッサ。そのおかげであたしはあたしの新しい友達を助けることができた。あたし達みたいな、こんな想いをさせずに済んだ」
「たぶん」バノッサは肩を竦めて、言った。「オマエのそういうところが、オレは好きだったんだろうな」
「たぶん」あたしは手を伸ばして、バノッサの頬に触れた。「そんなバノッサの後ろ向きなところも、あたしは好きだったんだと思う。あたしが、無理矢理前を向かせてやりたかった」
「向いたよ」バノッサが言った。「最後の最後で、な」
「……うん」
「もういけ。お迎えが来てるぜ」
「うん」
「……エルゴの力はもう使うな」
「え?」
「魅魔の宝玉は魔王の力に直接アクセスして、その力を引き出す道具だった。魔王の力もエルゴの力も、強大だということでは変わらないだろう。短い期間とはいえそれを使っていたオレだから分かる。あの力は、命を削る」
「命……やっぱり?」
「わかってたのか」
「なんとなくね」
「でかい力には代償がある。自分で身につけたものじゃないならなおさらだ。長生きしたけりゃ、大人しくしてるんだな」
「長生き……したいのかな、あたし」
 バノッサのいない世界で。その言葉が口から出てくる前に、バノッサは言った。
「当分てめぇの顔なんざ見たくねぇからな。せいぜい長生きしろ」
 にやり、とバノッサは笑う。どうしてだか、あたしは泣きたくなった。そんなバノッサの笑い方は今まで一度も見たことがなかった。そして、たぶん、これからもう二度と見られないのだ。
 あたしは、右手を持ち上げた。
 バノッサが右手を持ち上げる。
「じゃあね」
「ああ」
 あたしとバノッサは笑って、思いきり手を打ち合わせた。ぱぁん、と乾いた音が響く。あたしはそのままバノッサの脇をすり抜けて、歩き出した。どんどん離れていくバノッサの気配を背中で感じながら、あたしは、思った。

 ――ああ、これが本当のお別れなんだ。
   やっとあたしは、バノッサにさよならを言えたんだ。

 本当のさよならは、こんなにも哀しくて、苦しい。でも、これを告げないとあたしは前に進めないから。いつまでも同じ場所に留まっていることはできないから。止まらない涙は、今はそれでいいのだという気がした。
 滲んだ光が、あたしの歩いていく方向に燈った。
 あたしを呼ぶ声が、はっきりと聞こえた。
 手の甲で、ごしごしと涙を拭った。あたしを呼んでくれている人の名前を呼びながら、走り出す。
 後ろは振り向かなかった。
 白い手があたしの前に差し出された。
 彼女の名前を呼んで。

 ――どーして一人で無茶ばっかりするんですかそんなに私のことが信用できないですかいつもいつも待たされる方の身にもなってくださいっ!
 うん。ごめん。
 ――あなたが傷つけば、私も傷つくんです。わかってますか?
 わかってる。……わかってる、よ。
 ――なら、もう少し自分を大切にしてください
 ……うん。

 クラレットは怒ってて。
 あたしは両手を上げて降参のポーズをして。
 でも、二人で笑い合って。
 あたしは、彼女の手を取った。






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