抜け落ちた夢の中で、どうしても忘れられない一幕がある。
十年前だ。
全ての発端となってしまったあの夜。デスと出会い、デスと戦い、力及ばず倒れ、全てをたまたまそこにいた彼に押しつけるようにして封印した、あの夜。
あの時は、あれしか方法がなかった、という言い訳。けれど、気付く。それは、デスを封印した少年、彼をただの入れ物としてしか見ていなかったということ。
全てがデスの封印のためであり、そのためには他のものなど関係なかった。
膝をつき、祈る。
犯した罪は、どうやったら償えるのでしょうか、と。
炎の中にだって飛び込んでいける
薄暗い闇の中に、幽霊のような自分の影を携えながら、アイギスは進む。コロッセオ・ブルガトリオ。再び足を踏み入れたそこは、先ほどの戦いのことなどもう忘れたように、質量さえも伴っているような闇をその場所に落としている。
半歩後ろに、メティスがいる。特に何かを口にする出もなく、アイギスに従うようにそこにいる。
いや。アイギスは思う。最初から彼女は言っていたはずだ。姉さんのために存在し、姉さんのためならなんでもする、と。その言葉に偽りがなければ、メティスはそこにいるはずだ。いつでも、そこにいるはずなのだ。
僅かな時間光量が増し、アイギスが見ている方向に扉が現れる。その扉を潜って現れたのは、伊織順平と、コロマルだった。一人と一匹は静かに、アイギスとメティスの前に立つ。
「よ、アイちゃん」
先に声をかけてきたのは、順平だった。気負いもなく、焦りや不安も感じさせない、いつもの彼の声だった。壊れてしまいそうな絆を、何度も救ってきた彼の声だった。
「なんだか、お久しぶりのような気がします、順平さん。コロマルさんも」
アイギスの言葉に応えるように、コロマルが一声吠えた。彼らから感じられる日常の欠片に、アイギスは僅かに頬を緩ませる。
「そうだなぁ」順平もアイギスの言葉に同意して、肩を竦める。コロマルが小さく吠える。「こんな状況じゃなきゃ、良かったんだけどな」
順平がその手に携えていたものが、見えていなかったわけではない。けれど、見ようとしていなかったのかもしれない、とアイギスは思う。いつも通りの順平の、いつも通りの自分。そんなものに酔っていたのかもしれない。酔いたかったのかもしれない。ゆらり、と順平の手にした大剣が天を衝く。
「オレの願いは、変わらねぇ。オレの願いは真田さんよりではあるけど――正直、どっちでもいいと思ってる」
「順平、さん?」
どちらでもいい。それは、願いなのか。
「どっちでもいいんだ。でもさ、どっちにするにしたって」順平は小さく唇を噛む。「こんな、バラバラの状態じゃ、ダメだ」
まるで独白のように、順平は続ける。
「こんな状態でオレら、過去に戻ってニュクスなんとかできんのか? こんな状態でオレらは、現在に戻って自分に胸張って生きていけんのか?」
胸を張って生きる。アイギスは考える。胸を張って生きるとは、どういことだろう。いや、そう思えるためには、どうしたらいいのだろう。
「オレにも、わかんねえんだよ」順平は言う。「わかんねけど、このままじゃダメだって思うんだ。なあ、オレら、こんなんじゃなかったろ?」
『オレら』は、どうだっただろう?
アイギスは考える。彼と出会った瞬間を考える。再会した意味を考える。共に歩んだ日々を考える。関わりながら、時にはぶつかりながら、過ごしてきた日々を考える。
彼の決断を、考える。
あのころの自分と、今の自分。
「私は、変わってしまったのでしょうか?」
ぽつりと呟いたそれは、眠る前の吐息のような、ささやかな声だった。けれど順平はその声に沈黙し、コロマルは頭を垂れ、メティスは先ほどまでと同じように何も言わない。
「変わることは、いけないことなんでしょうか?」
順平は小さく頭を振る。
「こんな風に変わりたくなんか、ねぇよ。そう思うのは、ダメなのか?」
もう一度。あの頃のように。
「たぶんですけど」アイギスは答える。右腕部に接続されたマガジンが、内部に薬莢を送り込む。「間違っては、ないのでしょう」
「なのに、戦うのか」
「もう、後には引けないんです。私は、真田さんと天田さんの願いを、この身に受けているのだから」
「そっか」
順平は小さく笑う。アイギスもそれに微笑み返す。
銃弾が、二人の間を駆け抜けた。
激しい炎が、視界を埋め尽くす。
倒れた順平の胸から、力無くうなだれるコロマルの胸から、輝く鍵が浮き上がり、それはアイギスの胸に吸い込まれていく。未来を望み、今を望み、そして。
左腕が上手く動かない。アイギスはなんとか動く右手で、鍵の吸い込まれた胸を押さえた。また一つ、自分の中に何かが沈んでいく。
「まいった」順平は倒れたまま言った。「アイちゃん、強えや」
きゅうん、とコロマルがその言葉に同意するように、小さく鳴いた。
「なあ、アイちゃん」
「なんでしょうか」
「真田サン、アイちゃんたちに負けたとき、どんな顔してた?」
アイギスは思い出す。戦い終わった後の真田の顔を。恨まれても仕方ないと思っていた。裏切りと思われても仕方ないと思っていた。自分の身勝手な『願い』のために、戦うことを選んだのだから。けれど、真田はどんな顔をしていただろうか?
「真田さんは」アイギスは思い出す。「笑って、いました」
「そっか」
「願いはなんだ、と。私が秘密です、といったら、可笑しそうに、くつくつと」
「そっか」
「私を、憎まないのでしょうか」
「ハハ、憎むわけないじゃん」
順平は上半身を起こしてアイギスを見た。その表情は、アイギスがよく知っている伊織順平の表情だった。
「ありがとさん。なんか、スカっとしたぜ」
「スカっと、ですか?」
「ああ、逆転ホームランみたいな感じだな」
「ホームラン?」
「野球知らないんだっけ?」
「ルールまでは」
「ありゃ、残念」
そのまま順平は立ち上がろうとして、痛みに顔をしかめ、また座り込む。アイギスが手を貸そうと動くと、順平はそれを手で制し、よろめきながらも彼自身の足で立ち上がる。
「オレ、わかったぜ」
順平と目が合う。その瞳の中に、アイギスは何か、炎のように揺らめく欠片を見たような気がした。一瞬でそれは消え、まるで錯覚だったのかのようにアイギスは思う。けれど、確かに見たのだ、と言い聞かせるように頷いた。
「こうやって仲間同士戦うなんて、ありえないと思った。おかしいって思った。冗談じゃねえよって思った」
頷く。
「けど、今、オレ、アイちゃんの考えてること、なんとなく分かる」
「私も、順平さんの想いが、なんとなくわかります」
「必要なことだったんだ」
「必要」
「選ぶ道なんか、些細なことだったんだ」
「些細な、こと」
「オレらがもう一回、あの頃みたいに、でも、あの頃と違う形で繋がるために、必要なことなんだ」
「私は……」アイギスは、囁くように、言う。「変わった、でしょうか。変われるでしょうか」
「もう、とっくに変わってるさ」
順平は言って、アイギスに背を向ける。コロマルがこちらに向けて一声鳴いてから、その順平の後に続く。
「ゆかりッチには悪いけど」順平は背中を向けたまま、言う。「オレはアイちゃん派だ。負けんなよ」
扉を潜り、順平とコロマルの背中が見えなくなる。アイギスはそれを見送っていた。動くという機能を忘れてしまったように、立ちつくしたままで見送っていた。
どのくらい経っただろうか。不意に、辺りの暗さが増す。同時に、意識が足下から地面に引っ張られているような感覚。どこか懐かしい感覚。
「姉さん!?」
メティスの声が、遠い。
闇の中に沈み込むように、アイギスの意識は落ちていった。
どこか、心地良い闇。
十年前。
十年前の自分。思い出せない。
目が覚めてから。
彼と出会ったころの自分。おぼろげながら、覚えている。
最後の一ヶ月。
全力で駆け抜けた一ヶ月。覚えている。
あの時の想いを。熱を。喜びを。悲しみを。後悔を。
私は、覚えている。
目を開くと、そこにはメティス。宇宙のような空間に、一人彼女が浮かんでいる。アイギスはどこか落ち着いた気持ちで彼女を見、そして彼女の言葉を待った。
「姉さんは、彼のところに行きたいですか?」
静かな問いかけ。アイギスは胸に手を当てる。メティスの言葉に、頭で考えて答える必要はない。すべて、答えはこの体が持っているはずだ。この心臓が持っているはずだ。
「姉さんは、自分のこと、わかる?」
わからない、とアイギスは答えた。対シャドウ要戦術車両。言葉にしたらそうなのかもしれない。
「機械は、自分では変われない。自分の力で変化していけるのは、いのちのあるものだけ」
いのち。
誰もが、持っているもの。
「いのちには、心が宿る。姉さんに芽生えた心、それは、いのちの証なんです」
そして。
そして、メティス。あなたは。
「私は、姉さんの心の一部分。姉さんの悲しみから生まれた。だから、私は、姉さんの悲しみをなくすために存在したんです」
だから、私は夢を忘れた。
だから、私は悲しみを忘れた。
心を、守るために。
いのちを、なくさないために。
「でも、姉さんは、変わった。あの人たちと戦いながら、『姉さん』という自分をちゃんと構成した。『彼』を失ってバラバラになりかけていたものを、ちゃんともう一回組み上げてみせた」
本当に、そうだろうか。
自分ではわからない。
「だから……メティスの役目は、もうおしまい」
おしまい?
メティスは頷く。表情には微笑み。
「もう、姉さんの中に還っても、いいでしょ?」
だって、とメティスは続ける。
「姉さんは、悲しみと後悔を、自分で受け止められるもの」
認めたくなかった。とっくに、とっくに変わってしまっていることを、認めたくなかったのだ。もう既に、十年前の自分はいなかった。彼と出会ったころの自分はいなかった。最後の一ヶ月にタルタロスを仲間たちと一緒に駆け抜けた自分はいなかったのだ。それを、認めたくなかった。あの頃には戻れない。何かを得るためには失わなければならない。
戻れない時間を悼み。
失ったものに想いを馳せ。
得たはずのものを、必死に探す。
そうやって、新しい自分になっていくことを、認めたくなかったのだ。
「でもね、姉さん。なくなるわけじゃないんだよ?」
メティスの姿が薄れていく。この宇宙に、ゆっくりと溶けていく。この中の、星の一つに、私はなるんだよ。メティスは言う。
「全部、繋がってる。十年前の姉さんも、目覚めた後の姉さんも、『彼』を失ってからの姉さんも、みんな、繋がってる。過去は現在に繋がって、現在は未来へ、未来は――」
聞こえない。
聞こえないよ、メティス。
あなたの声が、聞こえない。
アイギスは目を閉じる。体は宇宙に包まれる。穏やかな、澄んだ流れが体を包む。
未来は――未来は、死へ。いのちあるもの全てが辿り着く終着駅へ。
死ぬために生きるのか。
生きるために死ぬのか。
アイギスは手を伸ばす。
その指先が、こたえに触れる。
「――ス、アイギス!」
自分を呼ぶ声に、アイギスの意識が覚醒する。視界に飛び込んできた景色は、地割れの走る寮のラウンジ。自分の体はソファに座っている。いったいいつ戻ってきたんだろう、とアイギスは思う。
顔を上げて、自分に呼びかけていた人物を見る。山岸風花。ずっと、バックアップという力で自分たちを支えてくれていた少女。
「風花、さん」
「アイギス、よかったぁ……」
アイギスの覚醒を見て、風花は安堵の表情を見せる。けれど、とアイギスは思う。彼女は、コロッセオでの戦闘になった時点で、誰のバックアップもできない、と戦列を外れていたはずだ。
「このままじゃダメだって思ったの。アイギスとみんなの戦いの様子は、見てた。だから、私も何かしなきゃって。アイギスを、助けてあげなきゃって」
「風花さん……」
「でも、降りてきたらアイギスが座ったまま眠ってるし、いるはずのメティスはどこにもいないし、もしアイギス目を覚まさなかったらって考えたら……」
「風花、さん」アイギスは言った。「風花さんの鍵を、私にください」
「え……?」
風花は、アイギスの言葉に戸惑った顔を見せた。
「私に、鍵を、ください」
一言一句を噛み締めるように、アイギスは言う。その目は風花を見てはいない。その向こうにある光の漏れる壁も見てはいない。
「うん、わかった」
あっさりと、風花は頷く。その反応に驚いて、アイギスは風花を見た。風花は微笑んでいる。命の誕生を祝福する母のように。
「アイギスになら、預けられる」風花は言った。
「いいの、ですか?」
「アイギスが欲しいって言ったんじゃない」
「そうですけど」
「わかったの、私。アイギスの戦いずっと見てて、わかった。私たちは、もう一回始めないといけないんだって」
「はじ、める」
「アイギスが、もう一度私たちを繋いでくれるんだって。『彼』のように、私たちを繋ぎ合わせてくれるんだって、今なら信じられる」
「私が、『彼』のように……?」アイギスは俯く。「風花さん、それは、無理です。私は彼にはなれません。彼のようにはできません。彼みたいに……強くなれないんです」
「当たり前じゃない」風花は笑う。「私たちを繋いでくれる……『彼』とは違う形で、『彼』にはできなかった形で。アイギスにしかできない形で、私たちを繋げてくれる」
風花は微笑んだまま、自分の胸に手を当てる。そこに小さな光が集まり、その光が鍵の形に固定される。風花はその鍵をそっと前に押し出した。鍵はアイギスの胸の前までゆっくりと進み、そのまま止まらずに、アイギスの胸の中に吸い込まれた。
「私の想い……アイギスに、預けます」
胸の奥に沈んでいく想い。アイギスには、これに答える言葉が見つからなかった。どんな言葉でこの想いに答えられるのだろうか。いくつ言葉を重ねたら、この想いに届くのだろうか。真田さん、あなたは正しい。言葉はいつも不純物だらけで、想いをそのまま伝えることなんてできない。どんな言葉だって、いくつ言葉を重ねたって、口に出した瞬間に、この想いは別のものになってしまうのだろう。
「確かに……預かりました」
アイギスは、答えた。それだけを答えた。風花はいろんなことを呑み込んだように、穏やかに笑った。
「どんな使い方をしても、私は構わない。アイギスの想いを伝えるために、使ってね」
「はい、必ず」
その時になって、アイギスは気付いた。自分の体のどこにも、違和感がない。順平との戦いで破損した左腕も自由に動くし、見た目もどこもおかしくない。破損もない。内部機構のセルフチェックにも引っかかるところがない。
「風花さんが、直してくださったのですか?」
「何を?」きょとん、と風花は聞き返す。
「私の体、破損していたはずなのですが……」
「私がここに降りてきたときから」風花は言う。「アイギスはそこに座ってたよ?」
風花から視線を外して、辺りを見る。いるべきはずの姿はない。けれど、アイギスの座っている場所の隣、見慣れた物がそこに立てかけてあった。
「これ、メティスの……」
アイギスはそれを手に取る。ずしりとくる重さ。メティスが使っていた戦斧。
「メティスは、どこに?」
「あの子は、還りました」
「還った?」
「ええ」アイギスは胸に手を当てる。「あるべき場所へ」
メティスの戦斧を手に、アイギスは立ち上がった。風花に向けて一つ頷く。風花もそれに頷き返す。
いっしょに、いこう。
はい、姉さん。
確かに声は聞こえた。想いは届いた。だから、きっと、もっと先まで届くはずだ。ずっと先へ。ここではないどこかまで。
斧を肩に担ぎ、アイギスは進む。半歩後ろに、風花がついてくる。どれだけでも動けそうな気がした。どんな相手だって負ける気がしなかった。どこまでだって行けそうな気がした。
半歩後ろの足音が。
担いだ斧の重さが。
想いの宿るこの心臓が。
自分が生きていることを信じられる、とアイギスは思った。
それが死に繋がる道のりであったとしても、もう迷わないだろう。地獄の炎の中にだって飛び込んでいけるだろう。
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